没後50年 高島野十郎展
 

 

2025年8月13日(水)千葉県立美術館

連日続いた猛暑が一息ついたと思ったら、三連休は扇状降水帯の発生で大雨。三連休が終わった今日は、天気も回復したので出かけることにした。JR中央線から千葉方面には何通りかある。中央線で東京駅まで行って、京葉線に乗り換えが一番早く着くのだが、乗り換えの歩く距離が長いのと、東京ディズニーランドに行く人が乗るので混雑しそうと考えて、多少時間はかかるが、御茶ノ水で総武線の各駅停車に乗り換えて千葉駅へ。そこからモノレールで千葉みなとへ。このモノレールが立川や羽田空港のモノレールとちがって懸垂式という、レールの上を走るのではなく、レールからぶら下がる方式で、珍しい。ビルの間を縫うように走るのが、とても面白かった。モノレールの駅を降りて、JRの改札の方に向かって駅を出る。

千葉県立美術館は千葉みなとの駅から港の方に歩いて10分ほど。駅前に地図があって、そのとおりに大通りをいけばいい。道は分かりやすい。ただ、入口が分かりにくい。地図には場所と道順は書かれているが、入口はちゃんと書かれていない。駐車場の案内と歩行者用入口の案内の矢印を見つけることができるので、それに従う。駐車場と歩行者用は方向が違うが、結局、どっちに行っても入場できる。駐車場の方が正面入り口のようだ。美術館の建物は広い、そして展示室の天井が高いので、都心の美術館に比べてとても広い、開放的な雰囲気。多少の来館者がいても、展示のコセコセしていないので、個々の展示作品の間が広く取られているので、気にならない。

ただ、昼過ぎに現地について、さっそく展示を見始め、展示点数も多く、会場も広かったせいもあるが、何よりも、展示作品を見ていて時間を忘れてしまい、昼食をとる機会を失い、腹がへったが、レストランが閉店してしまった。周囲に飲食店を見つけられず、結局、駅まで行ってようやく、おそい昼食をとることができた。

また、展示作品を見ながら、感想や気づいたことを手帳にメモしていたら、係員が親切に声をかけてくれて、鉛筆とA4サイズの画板を貸してくれるという。こちらから何も言わないのに、気がついて声をかけてくれたのは、うれしい。

主催者あいさつを次の通り引用します。“島野十郎(1890〜1975)は、福岡県出身で、福岡や東京、千葉にアトリエを構えて活動した洋画家です。生前には、ほとんど知られることはありませんでしたが、没後になって評価が高まり、昭和61(1986)年に福岡県立美術館で初の回顧展が開催されて以降、各地で展覧会が開催され、近年では全国的にもよく知られる存在となりました。

旧制第八高等学校(現・名古屋大学)を経て東京帝国大学農学部水産学科を首席で卒業しながら、周囲の期待に反して画家の道を選びます。独学で絵を学び、特定の美術団体に属さずに、流行や時代の趨勢におもねることなく、自らの理想と信念にひたすら忠実であろうとしたストイックな生き方は、出口の見えない混沌の時代を生きる私たちにも魅力的に映るのではないでしょうか。

没後50年の節目を機に開催する本展は、これまでに開催されてきた島野十郎展を超える最大規模の回顧展です。代表作はもちろんのこと、彼の芸術が形成されたルーツを遡り、生涯にわたり自身のよりどころとしてきた仏教的思想を読み解きつつ、青年期や滞欧期の作品など、従来の展覧会では大きく取り上げられることがなかった部分にも焦点を当てます。

また、福岡県立美術館所属の野十郎や関係者による書簡や日記、メモ等の資料をもとに、彼がひとりの人間としてどのように生き、周囲とどのような関係を築き、画家としての歩みを進めたかという部分にも注目し、野十郎の人間像にも改めて迫ります。さらには、その芸術観の背景にある美術界や時代の動きを探ることで、美術史のなかに野十郎の画業を位置付けることをめざします。

本展が、野十郎作品の魅力をより広く伝えるとともに、「孤高の画家」と呼ばれてきた従来の野十郎像を見つめ直す機会となりましたら幸いです。”

高島野十郎については、2016年に目黒区美術館の「没後40年 高島野十郎展」を見て、その作品に魅かれた思い出があります。今回、また没後50年で回顧展が開催されるということで、作品に再会できることを楽しみにしていた。10年前の目黒区美術館と展示の区分は同じようです。個々の作品の配置は少し違いますが、10年前と、私の見方が変わっているかどうかを確かめながら、展示を見ていくことができました。

それでは、具板的に見ていきましょう。

 

プロローグ 野十郎とは誰か

高島野十郎の概要を紹介するコーナーで、これから展示される各章からひとつずつ作品をピックアップして、こういう作品だというような紹介です。各章をさらに節に細分化して展示されています。

青年期

「絡子をかけたる自画像」という1920年の高島29歳のときの作品。北方ルネサンスのアルブレヒト・デューラーの影響を受けていたと説明されていましたが、たしかにデューラーの自画像を模したように、正面を向いた姿で自分をとらえていて、まっすぐにこちらを見つめるまなざしの強さ、そして固く結ばれた口もとは、とても印象に残ります。絡子は、禅宗で用いられる法衣の一種で、デューラーの自画像ではガウンを羽織っていたのを模して、使用したのでしょうか。20世紀の様々な絵画運動が起こったなかで、高島は終生、緻密な写実から離れませんでした。とは言っても、理念とか方針として写生とかリアリズムを堅持したというより、絵を始めたときにお手本にした画家が写実的な画風だったことから、そうだったというのではないかと思います。というのも、後で、高島の作品を見ていくと気がつくと思いますが、たしかに写生なんでしょうが、その写生する対象の見方がリアリズムというより、独特の絵画的なものになっているのです。そのひとつの要素が、デューラーの細密な描写をしながら「メランコリア」のような神秘主義的な作品になってしまうようなところがあると思います。展覧会チラシにある“月ではなく、闇を描きたかった。闇を描くために、月を描いたのです。”という言葉にあるように、単に見えるものを描いただけでなく、見えないものを描くという要素です。それは、見えるものを描いていても、そこに見えないものが反映している。そういう写実です。この自画像の高島の強い視線は、見えないものに向けられているのかもしれません。

高島は「蝋燭」を多数描いていますが、これは最も古いとされる作品。10年前の目黒区美術館の展示では、ひとつの部屋に蝋燭の絵ばかり数十点を集めて、展示されていたので、迫力はすごかったのですが、同じような作品がズラッと並んでいたので、ひとつひとつの作品を見る意欲が失せてしまったことがありました。今回の展示はそうではなく、ひとつ展示されていたので、落ち着いて見ることができました。小さな画面の中心に1本の蝋燭のみが描かれているのみです。その“炎はうねりながら天に向かって上昇する。暗い色調のなかに浮かび上がるように描かれた揺らめく炎、周囲の陽炎が強調される光と闇の対比がドラマティックに表現されている”とキュプションで説明されていました。蝋燭とその炎は見えるものですが、闇は見えません。その見えない闇を描くために、光を描いて、その光から生じる陰を描くことができた、というものでしよう。

「壺とりんご」は1923年の静物画です。 高島は多数の静物画を描きました。「絡子をかけたる自画像」がデューラーの影響なら、この作品はファン・ゴッホの影響が見られる作品です。背景の壁には、炎が燃え上がるようなくねくねした線が無数に引かれていて、ゴッホの晩年の南フランスの風景を描いた際の生き生きとして、線自体が何かを表現しているような線を模しているような感じを受けます。また、りんごのゴツゴツしたところや壺の縁が歪んでいるところなど、ゴッホの模しているところが窺えます。これは想像ですが、九州のそれも都会ではないところで少年時代を過ごし、東京に出てきても大学農学部で学んだということから、西洋の画家の触れるチャンスは少なかったのではないか。そのような中で、出会えることができた画家がゴッホでありデューラーであったりで、たまたま、彼らの作品と出会った高島は、それが絵画というものだというものを植え付けられてしまった。その後、高島はヨーロッパに留学したりもするが、その時にはある程度の年齢になって、絵画観は固まっていて揺るがなかったというのではないか。

滞欧期。戦前期

「ノートルダムとモンターニュ通り」は1932年、高島42歳の時の作品です。多くの日本人画家は20代の若いうちに留学して、多大な影響を受けるのでしょうが、高島の場合のような40代では固まってしまっているのではないか。それほど画風の目だった変化は見られません。このころのパリには、20世紀絵画の代表的な画家が集まっていて、最先端の芸術がひしめいていたと思われるのに、です。この作品では、パリの都市の建築物がきっちりと描かれていて、画面の左下にゼラニウムの赤い花が建築の直線的な描写と対照的に、ゴッホ的なうねうねした線で生命感が溢れるような描き方がされて、そこが印象的でした。

「からすうり」は1933年の作品で、高島は植物を描いた静物画を多く描いていて、そのうちの一枚です。また「からすうり」は何点かあり、これは、そのうちの一点です。高島は大学農学部で研究者として過ごしたわけですが、当時の理科系の研究者は観察の記録を残すためにスケッチの技術が求められていたはずです。今みたいにカメラが一般的で性能が高くなかったので、実験や観察したもの、例えば顕微鏡で見たものを、写真に代わって精確な記録にのこすためにスケッチをしていたはずで、高島の写実的な画風の基礎はそういうところにあったのではないかと、個人的に想像します。それだから、形を精確にはっきり分かるように書く必要がありますが、高島が植物を描く際に、茎などの輪郭の線が目立つほどくっきりと描いているのは、そういう事情が原因しているのではないか。しかも、標本のように形態を揃える操作が為されているように見えます。この作品では、中心線を決めて、画面の上部から紡錘型に枝がひろがるように垂れ下がる構図で安定感を作り出しています。

戦後期・柏時代

戦争中、高島は故郷の福岡県に疎開し、九州の風景を描くと、それから日本国中を旅して、風景画を描き始めます。「春の海」(右側)は1952年に有明海を描いた作品です。潮と泥が綾をなして広がる有明海の干潟の景観を、春霞に煙る雲仙のシルエットを背景にして描いています。警官の広がりと遥かに雲仙をのぞむ奥行とのコントラスト。この作品は、10年前の目黒区美術館でも展示されていて記憶に残っています。その時は、ドイツ・ロマン派のフリードリヒの「ドレスデン近郊の大狩猟場」(左側)という作品に似ていると思いました。このフリードリヒの作品をてがかりに見ていくと、画面は手前の湿原(高島の「春の海」は干潟)と遠景の空の間には境界線のように木々の黒い影があって、その境界線をはさんで対立的な構図になっていて、視線は奥行きよりも水平線の方向、つまり湿原の広がりに導かれます。その行き着く先は、画面に描かれていない、画面という枠を超えた外側の広がりです。高島の「春の海」にも、明らかに同じような視線の方向があると思います。しかし、フリードリヒの作品のような対立的な要素は控えめになり、その分、緊張感は緩和され、視線を導く力は弱まります。その視線は、どこへ行くのかというと、手前の、春の新緑の海岸の草の細密な描写です。いわば、和歌でいう本歌取りのような手法で、風景の広がり、そこに点在する春の息吹に見る者の視線を導いていると言えます。

「すいれんの池」(右側)は1949年の作品で、新宿御苑の池を描いたという、60号サイズの大作です。そのサイズにもかかわらず、びっしりと細密に描きこまれた濃密な作品です。蓮の池を描いた絵画作品としてはモネ(左側)が晩年に多数の作品を描いたことは有名で、日本では愛好者が多数いると思いますが、モネの描き方と比べると、高島は几帳面なほど蓮の花や葉、あるいは池の周囲に茂る草や樹林の輪郭をくっきりと描いています。どこまでもくっきりしていて、それは結果として、空気遠近法の遠くになるに従って霞んでいくという描き方をとっていません。そのために、画面の空間に奥行きが感じられず、平面な図面とか図案のように見えます。具体的に言うと、画面手前左の突き出た土手に下草が繁茂しているところが前景で、池の中央に山か建物か分かりませんが影か映っているのをへて右手にこんもりとした樹木の茂みがあるところが中景、そして正面の池の奥と背後の樹林を後景として、三つの場面がそれぞれあって、それを池の水面がつなぎ目の役割を果たして、三つの景色が同じ空間にあるかのような構成になっています。油絵で西洋絵画の風景画の体裁をとっているので、あまり、そんな風には見えないかも知れませんが、この「すいれんの池」という作品は、前景、中景、後景と、それらをつなぐ池の水面という4つの平面から構成された作品であると思います。だから、例えば、江戸時代中期の琳派の思い切りデフォルメされたデザイン画のような屏風絵、例えばカキツバタの屏風と本質的にはかなり近いところにある作品といえるのではないかと思います。それは、画面空間が実は平面の組み合わせであること以外に、細密に描きこまれている池に浮かぶ睡蓮の花や葉が明確な輪郭で、まるで植物図鑑の図のように描かれていることが、現実的な存在感、リアリティをむしろ減退させて、図案のように見えてくるのです。睡蓮の白い花が池に浮かんでいますが、その花は、まるでコピー・アンド・ペーストしたように、個々の花に個性がないのです。この点でも琳派の屏風のカキツバタのデザイン図のような、一種の記号のように描かれているのと、手法の本質的なところは共通点が多いのではないか、と思います。初期の習作的な作品を見ている限りでは、高島という人は手先のところ、つまり細部から描き始め、その結果が全体を決めるという行き方をとっているように見えます。そのため画面全体が複雑な構成をとっている作品はありませんでした。高島本人にも、そのことに対する自覚はあったのかもしれません。その証拠というわけではありませんが、高島が渡欧した1930年代のヨーロッパではセザンヌに端緒とする新たな造形を試行する画家たちが活躍していた時代でもあったわけで、ピカソやブラックは言うに及ばず、エコール・ド・パリのムーブメントや抽象も現われていたのを、高島は無視するように、その影響のかけらも見られません。想像ですが、高島には、そういう新しい造形に必要とされていた構想力のようなものを自身欠いていたという自覚があって、そういうものに手出しできなかったのではないか、と思える。というよりも、渡欧したことで、高島自身、そのことに否応もなく気がつかされたのではないかと思えるのです。これは、私の妄想かもしれませんが、ここで展示されている高島の風景画を見ていると、題材とか、その題材の取り上げ方ということにはユニークさがなくて、むしろ凡庸ですらあるのです。端的に言えば、高島の風景画は絵葉書的なのです。しかし、高島の真骨頂はそこから先にあります。この「すいれんの池」では、コピー・アンド・ペーストされたような白い睡蓮の花のレイアウトで、その白をアクセントにした、一見地味な風景の中で様々な色彩が万華鏡のように点描の細かなボットで交錯しあう複雑さにあります。それは、変な比喩かもしれませんが、琳派の大胆なデザイン的な屏風を顕微鏡で描きなおしたようなものです。この作品から16年後の1965年の「睡蓮」という作品では、1949年の点描のような細部の描写が多少過剰とも言えるほどだったのに対して、日本画のようにスッキリとした画面で、生命感に溢れるというより静謐な感じがします。細密な描写は相変わらずですが、描写は整えられていて、数個描かれている睡蓮の花は植物図鑑の図のような正確に整えられています。そういう睡蓮の花が秩序だっているのは仏画のように見えてきます。

「睡蓮」と並んで展示されていたのが1967年の「けし」という作品です。静謐で天上の景色のような「睡蓮」とは対照的で、何本ものけしの花が整列して並んでいます。花を支えるすべての細い茎に輪郭線がはっきりと施されているため、茎の縦方向が強調され。まるでけしの花が上へ伸び上がろうとしているかのような不思議な印象を与えます。はっきりとした輪郭線が茎や葉のすべてに施され、まるで線描のような画面は、平面的にみえて(実はけしの茎と茎の間から奥方の山村の風景がうかがえて、奥行きがある)、画面を線で覆い尽くすくらいの印象は、ちょっと作風が違うのですが、アンリ・ルソーの熱帯風の繁茂するジャングルを描いた画面を彷彿とさせます。

「境内の桜」は1955年の作品です。満開の桜の花のひとつひとつまで精緻に描き込まれているのですが、全体の風景は絵葉書的といってもよく、悪く言えば陳腐です。それが、細かい桜の花の描き込みと、3人の子供たちが満開の桜を気に留める様子もなく遊びに興じている様子は、桜の木の大きさと子供の小ささとの対照も相まって、絵葉書的な陳腐さをぶち壊しています。

「御苑の春」(右側)は1948年頃の作品で、中心に描かれているのは新宿御苑のモミジバスズカケノキの大樹だそうです。周囲を圧して巨大で、枝を広く張り出し、その枝が屈曲する様子は溢れ出るような生命感があります。「すいれんの池」と同じようにフリードリッヒの「朝日の当たる村の風景(孤独な樹)」(左側)を思い出すことができます。中央に大木が1本だけ垂直に屹立する構図と、枝がくねくねとひろがるように伸びている様子がよく似ているように思えます。フリードリヒの「朝日の当たる村の風景(孤独な樹)」では、草原の中央にポツンと立つ一本の老いたオークの木が描かれていて、背景には山が広がり、空には曇り空が広がっています。中央の老木は風雨に耐えながら長年生きてきた存在であり、時間の流れと生命の儚さを同時に示しています。これに対して、周囲の風景は移ろいゆくもので、老木はそれに対して静かに立ち続ける。ここで、老木は孤独、内省、精神的探求を象徴し、個人が自然や神と向き合うシンボルと言えます。これに対して高島の「御苑の春」のモミジバスズカケノキの大樹は、背景に若木の林が控えるように茂っています。高島の「御苑の春」のモミジバスズカケノキの大樹は、フリードリヒのオークの老木と同じように風雨に耐えながら長年生きてきた存在ですが、背景の若木は移ろいゆくものというのではなく、これから風雪に耐えて大樹となっていく可能性の存在です。そこで強調されるのは大樹の孤高さではなく、長年の風雪に耐えながらも枝を繁茂させる生命力であり、自然の大きさ、そして、若木が背景に控える自然の大きさであり、若木と対比される時間が込められているというものです。それらは、さらに大樹の根元の奥には3人の人の姿が小さく描かれていて、自然の大きさと人の小ささが対比的に描かれています。フリードリヒにはなかった人の姿があるわけです。それゆえというわけではありませんが、高島には、フリードリヒのような超越的な見えないものを画面に中に描く志向はなかったのだろうと思います。

「ティーポットのある静物」(右側)は1948年頃の作品で、高島の静物画は食器や果物の配置を慎重に考えて配置による画面が構成されています。そこには、写実といっても、自然のありのまま、カオスよりコスモスとして捉えようとする高島の志向が根本にあると思います。この作品でも、一見バラバラに見えて、リンゴはV字に並べられ、Vの要となる中央のリンゴとグラスを画面の中心線上に配置して安定させています。そして、格子柄のクロースと豊かな模様のドレープが左右に、釉薬が光沢を放つ花瓶と白い磁器のポットの真ん中に透明なガラスという、シンメトリー的に対比をつくる構成になっています。安定した秩序を作り出していると思います。そして、1966年の「こぶしとリンゴ」(左側)は、「ティーポットのある静物」が画面の手前からの強い光でものの質感や実在感を描こうとしているのに対して、この作品では穏やかな光の演出が施されています。すりガラス越しにやわらかな逆光が差し込み、たおやかなこぶしの花が活けられている壺の側面にはリンゴが反射して映り込み、その背景には屋外の花木が透けて見えています。淡い桃色が多用された画面は、全体的に柔らかく穏やかな雰囲気となっていますが、黒い壺とリンゴの赤が画面を引き締めています。

月と蝋燭 光と闇

「月」は1962年の作品です。月夜の風景を描いた作品は少ないが、月のみを描いた作品というのは類例がないと説明されていました。展覧会チラシの惹句にあった“月ではなく、闇を描きたかった。闇を描くために、月を描いたのです。”という高島の言葉は、この作品を指したものではないでしょうか。闇の中の満月が描かれていますが、描きたかったのはその対極の闇だったという。最近は、花火大会は賑やかに花火を連発するものになりますが、もともと、花火を盆の時期に行うのは、夜の闇に煌めく花火を花開かせて、それに目が眩んだあとで、花火が消えた後の闇がより深く感じられるからで。その闇をいつもより強く感じることで死者を悼むものです。つまり、闇をより感じるために光が必要だということは、昔から知られていたことで、高島は盆の花火の代わりに満月を描いた。

「太陽」(左側)は1961年の作品です。「月」が闇を描こうとしたのに対して、この作品は光そのものを描こうとしたと思います。太陽は、光の塊を表わすかのように絵具を重ねて盛り上げ描かれ、そこから放射状に色の点描を置くことによって、光のひろがりを表現しています。光を受けた前景の樹木は影となって、黒く塗られています。そのコントラストが、溢れんばかりの太陽の光のまぶしさを強調しています。同じ「太陽」(右側)というタイトルで高島と同じように絵具を盛り上げて塊とすることで陽光のまぶしさ、光の強さを表現した画家を思い出しました。それは、ムンクです。あの「叫び」のムンクです。ムンクは高島のように写実の画家ではなかったので、高島よりさらに光の塊を強調しました。しかし、ムンクが描こうとした太陽は、ただの天体ではなく、生命とエネルギーの源泉であり、画面を埋め尽くす太陽の放射線は、強烈な生命力の象徴として、自然界の一部としての人間の存在を示唆している。そこで、使用されている色彩には、暖色と寒色が混在しており、太陽の強烈な熱を表現するとともに、宇宙との神秘的なつながりを暗示していると言えます。太陽から放出される光線が四方八方に伸び、それによって形成される風景は、太陽のエネルギーによって構築されているかのような印象を与えます。また、山並み、水面、空の色彩が太陽の周囲で変化している様子は、太陽が自然界に与える影響を視覚的に表現しています。つまり、ムンクの描いた太陽は創造、希望、生命の象徴なのです。フリードリヒの比較のところでも述べましたが、高島には超越的なものをシンボライズするという志向は見られず、ムンクと違って、光を描いた。この後、高島は見えないものを描こうとしたということが言われるのですが、高島にとって見えないものとは、超越的なシンボルではなくて、闇とか光といったものだろうと思います。

 

第1章 時代とともに

高島が画風を確立させていく時期の作品です。

ゴッホへの憧憬

ヴァン・ゴッホは明治末から日本に紹介され、結構人気があったらしい。今も昔も、ゴッホは日本で受けていたようです。地方出身者で、しかも独学で絵を勉強していた高島が得られる西洋の画家の情報など限られていただろうから、辛うじて知ることができたのがゴッホだったということでしょうか。私はゴッホの絵を見ても、単に下手くそとしか思えないので、高島は、ゴッホの他に選択肢がなかったのには、同情を禁じ得ません。

「梨の花」(右側)は1930年頃の、ゴッホの作品の影響が強い作品です。ここでは、細かく輪郭をはっきりさせる表現は影を潜め、素早い筆致で大雑把に描かれています。例えば、ゴッホの「鳥のいる麦畑」(左側)の真ん中の曲がりくねるような道や畑の描き方など、よく似ています。あるいは、暖かな春陽で立ち上った陽炎のように空にうねるような筆致が施されているのもゴッホに通じるところがあります。このうねるような線は、これまでも「けし」や「御苑の春」などにもうねうねとうねる線が目立ちますが、高島の作品には特徴的なものです。これは、ゴッホの影響によるものと言えそうです。

写実への覚醒

「椿とリンゴ」(右側)は1918年の制作、高島28歳の時の作品です。画家としてのスタートが遅かった高島の習作期とも言える時期に描かれたこの作品は、岸田劉生の「林檎三個」(左側)とほぼよく似ています。ほぼ同時期の両作品。林檎三個を等間隔に一直線に並べるという意図的な配置は、高島が岸田に倣ったと考えてよいのではないかとおもいます。それだけでなく、細部まで執拗に描き込む写実的な描き方は共通していて、高島は岸田を手本にしていたのが分かります。そういえば、岸田劉生は、アルブレヒト・デューラーを通して古典的な写実に目覚めたとのことですが、高島がデューラーの影響を受けた自画像を描いていたのは、岸田を通してのことかもしれません。

「鉢と茶碗」という1922年の作品です。器が3つ横並びの、一見何の変哲もない静物画です。しかし、並んでいる3つの鉢と茶碗が歪んでいるように見えます。3つとも左上に引っ張られるように歪んでいます。画家の視線が斜めからといえば、手前のテーブルの縁は水平です。それと、3つの器の歪みの程度が違うようなのです。画面向かって右の茶碗が一番左上に引っ張られているように見えます。そして、3つの器の歪みの程度に器の模様が関連しているのではないか。一番歪んでいる茶碗は唐草模様でくねくねの蔓が延びています。真ん中の鉢は線の模様がくねっている。これに対して一番左の鉢は緑色に彩色されて模様がハッキリしない。その右側の鉢が歪みが少ない。それに加えて、背景となっている壁が汚れのせいでしょうか、まるで、それぞれの器から煙が湧き出ているような形態になっています。また、3つの器は陶器なのでしょうが、陶器の冷たく硬い肌触りのような描かれ方ではなく、歪みがあるためか、柔らかな感じになっています。それらのことから、この3つの器が静物の固定したものではなく、生き物のような柔らか味と動きの可能性を潜在しているように見えてきます。これは、見たままを描くというのではなく、見えないものを描こうとする岸田劉生の影響を受け、高島が自身の写実としていったことが表われた作品と言えるのではないかと思います。

写実の広がり

「りんごを手にした自画像」は、1923年の作品です。ここに至ると、主観的な意図に沿うために、写実的な技法にとどまりきれないところに至ったように見えます。すでに見た、3年前の「絡子をかけたる自画像」と同じように画家は僧形に扮しています。それよりも目を惹くのは僧衣の描き方で、全体としてくねくねと波打つように屈曲した線で統一されたように描かれているところです。そうして、さらによく見れば、顔の輪郭も波打っているように見えます。青いりんごを持つ手の指も関節が変に曲がり、これも波打っているように見えなくもありません。このくねくねした曲線で支配されたような画面は、明らかに意図的に描かれたものでしょう。その意図は、かりに伝記的なエピソードからであれば、いくらでも、ものがたりをつくることができるでしょう。あるいは、岸田劉生や後期印象派のファン・ゴッホの影響と言うこともできるかもしれません。岸田劉生は写実を追求した芸術家ですが、写実を通して対象物がもつ「存在の神秘性」を引き出すことを狙って描いたとされています。対象物をリアルに再現するだけではなく自身の内面から呼び起こされた「内なる美」をその作品に投影している。その表われとして、先ほど見ました「林檎三個」の不自然な配置であり、デフォルメされた描写です。それを高島は岸田よりもあからさまに、意識的に行っているように見えます。それは、岸田が存在の神秘性を表わす手段としていたのを、目的に寄らせたように思えます。そういうデフォルメ、あるいは、歪みを見たことから生じる違和感を効果として考えていたと思えるふしがある。それは、写実といっても写真のような枠組みではなく、絵画として成立するという枠組みを前提としていると思えるのです。

 

第2章 人とともに

最初に引用した主催者あいさつの中で、“彼がひとりの人間としてどのように生き、 周囲とどのような関係を築き、画家としての歩みを進めたかという部分にも注目し、野十郎の人間像にも改めて迫ります。さらには、その芸術観の背景にある美術界や時代の動きを探ることで、美術史のなかに野十郎の画業を位置付けることをめざします。”として、以前の“孤高の画家”という高島のイメージを改めるという意図が、この展覧会にあるようで、それを主に取り上げているのが、この章の展示と言えます。ただ、私は高島の作品が見たいのであって、高島という人物そのものには関心がありません。ここに作品とは別の資料がいろいろと展示され、説明がいろいろとありましたが、素通りでした。高島が孤高かそうでないかで作品の見え方が変わるのでしょうか。変わらないのだったら、それは邪魔な雑音でしかありません。それゆえ、この章で展示されていた作品のことを書くことにします。

郷土の人たち

「筑後川遠望」という1949年の作品です。春霞がたなびいてぼんやりかすんでいる山並みをバックに、中景の悠々と流れる筑後川をはさんで、満開の桜の枝が浮かび上がる作品です。点描的な細かさは、この作品では満開の桜の花です。粒子のような桜の花のピンクが強い印象となって、目に飛び込んできます。ここでは、アングルは素人の写真愛好家が好むような月並みなものですが、この一部が暴走するような一点豪華主義の突出があります。福岡県出身の高島にとって故郷の風景であるわけですが、ここには、故郷への愛情のような思い入れはなく、旅人のような第三者が冷静というか、冷たい視線があります。それは絵葉書的なところがそうで、高島の個人的な視線が入り込むということは見られません。

時代を超えたつながり

「傷を負った自画像」は傷を受けた首と脛からは血を流し、眉間に深く皺を寄せ、目は虚ろで、口は放心したように開けられて、正気ではないような表情です。自画像ということですから、画家が実際にこんな顔をしながら自分を描いているわけはないので、ここに作為があるのは明らかです。そのように、ある意味極端とは言いませんが自分を演じている(まったく関係ありませんが、この作品のポーズと表情は能條純一というまんが家がよく使うヒーローのポーズにそっくりです)のです。そこには、何らかの思いとか主張ということを、本人は明確に意識しているのでないでしょうが、そこに込めてしまう画家としての姿勢が、そこにはあると思います。その意味で、画風は全く異なるのですが牧野邦夫という画家の自画像と似ていると思うのです。牧野は写生といいながら画家自身の幻想的な想像を具現化したような世界をスーパーリアリズムの手法で執拗に描き続けた画家です。牧野は生涯にわたり数多くの自画像を描いていますが、まるでコスプレのように様々な扮装をさせた自身の姿を描いています。ここでの高島は扮装こそしていませんが、自身を主人公にしたものがたりの主人公にように描いています。孤高の画家といった伝記的なものがたりが好きな人であれば、帝国大学在学中に描かれたというこの作品について、絵画を学びたいという自身の希望に反して、周囲の期待から農学部で水産について学んでいる不本意さに懊悩する姿を仮託していると想像を逞しくすることも可能で、一面では高島の作品には、そういうものがたりに媚びる性質もあるようです。牧野とは違って、高島は初期においては自画像を描いていますが、それ以降には、自画像を全く描かなくなります。そのことは、高島という人の描くことへの姿勢が変化したことによるものなのか、単に他に描きたいものが出てきたためなのか、分かりません。

「ベニスの港」(右側)は1930年の欧州留学中の作品です。帆船の帆をたたんだマストが垂直の線として屹立する、後年の高島の風景画の構図によく表われる先駆と言えるかもしれません。これは、ドイツ・ロマン派のカスパー・ダヴィッド・フリードリヒの「港の眺望」(左側)のやはり帆船のマストを垂直の屹立した線として捉えた構図とよく似ています。前に「御苑の春」がフリードリッヒの「朝日の当たる村の風景(孤独な樹)」に似ているのをお話ししました。ここで、私の妄想ストーリーを少し挿入します。個人的な独断なので、飛ばして次の作品に移っていただいてもけっこうですので、ご自由に願います。さて、ここで高島の作品とよく似た作品を残した二人の画家に共通しているところを考えてみたいと思います。言うなれば、フリードリヒは風景画家であり、ゴッホはアルルの農村風景を好んで描いた画家でもあり、二人は風景をよく描いたということに共通点を見出すことができますが、それ以上に、二人は“見えないもの”を描くというということを公言した画家という点で共通していると思います。“見えないもの”とは二人の画家で全く同じとは言えず、ニュアンスは異なりますが、二人とも目で見えるのは表層の現象に過ぎず、その背後にある何ものか、それは神秘主義的であったり、ちょっと哲学っぽいことを考えていたりしていたようですが。ふたりとも、言葉で説明する概念とか思想とかその類のものが目で見えるものの背後にあって、それを作品に描き込もうという志向性を持っていた画家といえます。だから、彼らは決して見たままを描いているわけではありません。目に見える風景は“見えないもの”を表わすためのものなので、“見えないもの”を表わすためには目に見える風景に手を加えることを厭わなかった人たちです。だから、彼らの構図やタッチといった描き方には、意図的なものがあるはずなのです。だから、そういう画家の構図や描き方を取り入れようとした高島は、二人の画家の“見えないもの”を描こうとした姿勢を、当然理解していたと思います。それは、初期の作品を見ている限りでは、高島は写実的な描き方はしていますが、決して見たままを描いてはいません。そこに、ゴッホやフリードリヒのような“見えないもの”を描くことへの志向があったかは分かりませんが、渡欧して、彼らの作品に実際に触れたのかもしれません。そこで、“見えないもの”を描くというあり方があるということ、それまで自分が見たままを描いていないことに対して、それを後付でも理論づけるような画家たちに出会ったということが、考えられなくもないのです。それは、単に言葉によって説明されるという間接的なものではなくて、直接作品によって身体感覚として具体的に実感できたという深い体験だったのではないかと想像するのです。たしかに、ゴッホもフリードリヒも、どちらかといえばアカデミーとか芸術運動というような衆になじまず孤独に近い画家であったと思います。それが高島の帰国後の生き方に影響を与えたとは言いませんが、描くという姿勢については、その描き方の影響を通じて、何らかの得たものがあったのではないかと想像します。ただ、次のコーナーの展示作品を見ると、その影響のようなものが、すぐ見てわかるほどに表われていません。だから、ここで述べたことは、まったくの見当はずれで出鱈目である可能性も高いのです。これは、ふくまでも私の妄想です。

「けし」は1925年の作品です。これはもう、罌粟の花の毒々しいほどの赤い花を見ると同時に、くねくねと屈曲した茎の異様な姿(現実にはありえないし、こんなに屈曲して、立っていられるはずがない)を見るべき作品であると思います。これは、誇張した表現ではあるのは明白で、高島が単純な写実の画家でないことは、この作品をみても分かります。それにしても、不健康さ、あるいは毒々しさ、もっというと禍々しさが画面から溢れんばかりの印象は、このくねくねの屈曲した曲線から来ているのは、間違いないと思います。そのくねくねの屈曲が全体を支配してしまっていて、ギザギザの葉が丸まったり波打ったりしている描写や、花についても満開でスッキリ開花しているのではなくて、真ん中の花はシンメトリーを崩してくしゃくしゃな様子にしているし、左後方のつぼみから開きかけている花は丸形ではなくて歪んだ形にしています。多分、高島は、この作品を茎から描き始めたのではないかと想像します。それは、茎がか細く、くねくねと屈曲しているのに、まるで鋼のように同じ太さで硬い姿で描かれているからです。つまり、くねくねと屈曲した姿に柔らかさはなく、その恰好で固まっているようなのです。その強固な茎に葉や花があとから附加されて、罌粟の姿になっている。それでは、これは、くねくねの屈曲を採用したから、作品がこうなったというものがたりにはなりますが、肝心のどうして、こんなくねくねした屈曲を、画面がわざとらしくなるにもかかわらず敢えて採用したかには答えていません。これは、私の勝手な想像ですが、ひとつは形状ではないかと思います。もうひとつは、このようなくねくねの姿に動きの要素が内包されているように感じられるからです。こじ付けかもしれませんが、高島という人は、秩序のある静止した姿、例えば西洋絵画の構成でよく言われる黄金比のバランスとか、には興味を示さず、かといってダイナミックな躍動感を活写した作品もありません。風景画でよく描かれるのは川の風景で水の流れる様子であったり、草原や樹木で枝や葉が風に吹かれて揺れる様子(展示されていた作品で「断崖の下」(という作品がまさにそうで、断崖にへばりつくように生えている樹木の枝が、まるで強風に煽られているように屈曲しているのです。これをみると、後で考えてみますがドイツ・ロマン派のフリードリッヒの世界に通じるところがあるように思えます。(たとえば「オークの森の修道院」))、蝋燭の絵では炎が揺れる様子です。つまり、流れるとか、揺れるといった、決してダイナミックではないけれど、つつましく、滑らかな動きを、よく採り上げているように思えるのです。そのような動きを線で追いかけると、くねくねと屈曲した曲線に近い軌跡を描くのです。画面は、この屈曲を入れることで静止した状態が、かすかな動きを与えられることになります。「りんごを手にした自画像」においても、服の襟や裾が揺れる様子を描こうとして、くねくねになってしまったと考えられないでしょうか。そして、他の作品でもそうですが。この「けし」でも細部の描写の力の入れ方といったら。例えば花については花びらの脈まで細かく描きこまれ、顕微鏡で見ているような気分にさせられます。人が普通に花を見る場合には、そこまでは見ないし、花を描く時も、そこまで描くことはしないと思います。しかし、高島は描いてしまう。描かずにはいられない、そういう画家なのではないかと思います。

「カンナとコスモス」という1954年の作品です。「けし」から30年経過し、画面は明るくなり、描かれる植物の種類が違いますが、茎がまっすぐになり、くねくね線は影を潜めます。同じ題名の第1章で見た1967年の「けし」では茎がまっすぐになっています。この「カンナとコスモス」は1967年の「けし」に寄った作品で、この間に高島の画風に変化があったのではないかと思います。1967年の「けし」のところで、アンリ・ルソーに触れたところで、ルソーの描く植物は写実とはちがってデフォルメされた姿になっていますが、植物の生命力が写実的なものよりも強調されて迫ってくるところがあります。高島の描く植物には、その生命力ある姿が、過剰となってグロテスク一歩手前の不気味な毒々しさに迫るところがあると思います。それがよく分かる作品です。ただし、1925年の「けし」とは違いますが、高島がルソーと違うのは、ルソーのようなデフォルメをほとんど施していない点です。この作品で描かれているコスモスやカンナの花は細密に写実的に描かれています。しかし、その細密すぎる描写は、普通に人が植物を見る際に目に移る姿とはいささか違うようなのです。細密すぎるようなその姿は、普段は見ないか、見たくないような不気味さ、毒々しさの印象です。さらに画面全体を侵食するような、見る側に繁茂してくるような迫力があります。その植物の姿に見え隠れするのは、くねくねと屈曲する線なのです。それはコスモスの茎であったり、カンナの花弁であったり、その線が動きを与えているのです。それに加えて細密なスーパーリアルな植物が画面に充満し溢れてきそうな過剰なところが、迫力を増しているといえます。おそらく、アンリ・ルソーは画面構成を計算して制作しているので、画面を植物が覆いつくしていますが渾沌とした迫力はそれほどでもありませんが、高島の作品では構成を細部の個々の花や葉の描写が描いているうちに過剰に暴走しているようで、計算を凌駕してしまうように渾沌とした迫力を生んでいます。それが一種不気味さを見る者に印象づけていると思います。

似たような「秋の花々」は1953年の作品です。雲仙岳と有明海の干潟のぼんやりとした風景をバックにハゲイトウやカンナ、コスモスなどの秋を彩る花々が咲くのを、眩しいほど鮮やかな色彩で、くっきりとした輪郭で細密に描き込まれています。ぼんやりとしたバックとのコントラストが絶妙です。

「萌え出づる森」(左側)は1963年の作品。早春の森の風景を若葉の一枚一枚、下草のひとつひとつまで点描のように細密に描き込まれた作品です。その一つ一つが明確な輪郭で細かく描き込まれているので、かえって全体が平面的に映ってしまっています。そして、現実の森というのは、これほどまでにスッキリしていないで、もっと雑然としているものだろうと思います。この作品の画面の森の木々はきれいに上に伸びていて、折れていたり、節になっていたりというのは見られません。つまり、描かれているものは整理された風景、つまりは絵画として映えるように整理されている。これらのようなことから、この作品の風景には実在感というのが稀薄で、どこか浮いたような、非現実的な感じがします。ルネ・マグリットの「白紙委任状」(右側)で描かれた森のギミックな感じに印象が近いものとなっていると思います。

 

第3章 風とともに

高島は、欧州留学中に欧州の風景を描き、帰国して戦後になると日本全国を旅して風景を描いたと言います。

水のある風景

「春雨」は1933年頃の作品。題名は「春雨」ですが、画面では雨が降ってはいません。冬が終わって春の雨が降った後の、あたり一面を覆っていた雪が解け、わずかに雪が残ったあたり一面を覆っていた雪が解け、情景を描いています。つまり、この作品では見えない春雨を描こうとしているというわけです。高島の描こうとした見えないものというのは、内面とか精神などといった抽象的なものではなく、このようなものだということです。

「朝霧」は1941年の作品です。 “どこにでもあるような平凡な風景。それだけに朝霧で濡れた枯草の湿った状態や霧に隠れる木立の様子、そして湿気をたっぷり含んだ冷気の感覚がストレートに感じられる。枯草や黒土が細かく描写されているので、朝の山の空気や雰囲気が立ち上ってくる。形として現われてこないものを表現しようとしている。”と説明されていました。これも、空気とか雰囲気とか、どこにでもあるような平凡な風景。それだけに朝霧で濡れた枯草の湿った状態や霧に隠れる木立の様子、そして湿気をたっぷり含んだ冷気の感覚がストレートに感じられる。枯草や黒土が細かく描写されているので、朝の山の空気や雰囲気が立ち上ってくる。形として現われてこないものを表現しようとしている。「春雨」と同じように、見えないものを描こうとしている作品です。

道のある風景

「初夏の野路」は1955年の作品。「春雨」や「朝霧」と同じように、名所とか絶景のような風景ではなく、平凡などこにでもありそうな風景です。道といっても、そこを歩く人の姿もなく、野原の真ん中に道があるというだけの作品。これは、岸田劉生の「道路と土手と塀(切通写生)」の影響があるように思います。岸田にとって写生への開眼となったと言われる作品を、愚直に追いかけ続ける、というのはいかにも高島という人に似つかわしく思えるのですが。

四季の風景

「ひまわり」という1954年の作品です。“真夏の晴天の下、空へ向かって身を高くするひまわりが描かれている。花びらは一枚一枚精緻に描かれ、葉や茎には独特の陰影表現が施されながらも、画面はまったく影を感じさせないほど明るい光に満ち、大地に根差して立つひまわり生命感あふれる姿が強調されている。ひまわりの茎の部分には、縦に伸びる輪郭線が明瞭に引かれているが、このような独特の輪郭線の表現は、野十郎の絵画の特徴である「上昇性」を強調する効果をもたらしている。”と展示の説明がされていました。たしかに、この作品以外にも高島の作品には上へ上へと向かって上昇していく雰囲気のあるものが、木々のある風景や植物を描いたものを中心に、よく見られます。すでに見た「御苑の春」のように画面の中心に直立する樹木をシンメトリーらしく描くものや、「けし」や「ベニスの海」あるいは「蝋燭」の諸作など、花の茎、船の帆、蝋燭の炎が、ゆらゆらとうねりながら上に向かって伸びるように描かれているのも、そうです。そして、この「ひまわり」もそうです。そして、独特の輪郭線使い方が、それをいっそう強調していると思います。例えば、ひまわりの直立する茎には明確な輪郭線が、よく見ると茎を描くのと独立したように引かれています。それは縦の線だけで、枝分かれして横に伸びた茎には引かれていません。それは意図的なものではないかと思います。それによって上昇性が強調されることで、上に向かって伸びていこうとするひまわりの生き生きとした生命感が強調されることになっていると思います。そして、明確に引かれた輪郭線がそれと分かることで、画面全体がくっきりとして、どこまでも明確に、とくに「ひまわり」では、画面の隅々まで光が当たっているような、映画でいうとパンフォーカスのような印象を与えるものとなっています。それは反面では、陰影を失わせることにもなって、これほどまでに明確に描き込まれ、どこまでも明確なのに、全体としてはのっぺりとした印象となっています。現実的過ぎて、かえって非現実てきになってしまっているといえるのです。

「雪の村」(左側)は1958年の作品。絵葉書的といっていい風景です。まるで向井潤吉のノスタルジックな民家の風景画(右側)を見ているかのようです。

「積る」(右側)という1948年頃の作品です。画像で見る分には、雪のこんこんと降り積もる情景を描いた作品に見えます。一面に雪の降り積もる銀世界のなか一軒の民家と防雪林が、その雪に霞むように映っている。まるでしんしんと雪の降り積もる音だけが聞こえてくる静寂に支配された叙情的な世界、そんな感じでしょうか。しかし、これを実際に会場でみると、この振る雪や積もった雪が大きさや形を変えて点描でひとつひとつが描かれているのです。その異様な迫力、そのひとつひとつを画家が丁寧に筆で描いている姿を想像して、その執念のようなものが恐ろしくなるようです。画面全体が白一色の世界で、その白の点描がそれと分かるというのもすごい技巧と思いますが、それによって白の微妙で多彩なバリエーションが用いられ、この白い世界で陰影がうまれているのです。それには、高島が欧州から帰国してから点描の手法を用いることが多いと思いますが、その点描について考えてみたいと思います。この高島の点描の手法のルーツを求めると印象派に、そのひとつの源があるように思います。印象派は、光を表現しようとしたといいます。その印象派の特徴的な技法として色彩分割というものがあります。普段私たちは何気なく自然光の中でものを見ていますが、その光は単一ではなく、様々な波長の光に分割できるのです。とくに可視光線は分かり易くすれば三原色に分割できます。プリズムに光を通すとそれが現われます。それは、青・赤・緑の三色。 それに比して色(絵の具)の三原色は、青・赤・黄となります。カクテル光線と言われるように、光は三原色が混ざれば白く輝きますが、絵の具は三原色が混ざればグレーに濁って、暗い色になってしまいます。光は混ぜれば混ぜるほど明るく輝きますが、絵の具は暗く沈んでしまうのです。西洋では特にルネサンス以来、空間表現のために遠近法を駆使したり、さまざまな絵の具を考案したりと、技術的な追求には余念がなかったわけです。しかし、この光と絵の具の三原色の特質に違いは如何ともしがたく、現在に至るも未解決のままなのです。色彩分割とは、絵の具を混ぜて中間色を作ろうとするとどうしても濁ってしまうので、絵の具を混ぜずに澄んだ色のままキャンバスに乗せ、隣接する部分に本来混ぜようとする色を乗せ・・・とすることで、あくまでも塗る色自体は澄んだ色・・・ 一筆ごとに澄んだ色を乗せることで、画面全体としては明るく澄んだ色の集合体とするのです。そうしてそこから発せられる光を観る者の目が捉えるときに、観る者の目の中で混ぜて、本来画家が表現したいと考えた色に合成して観てもらおうというものです。(だから印象派の絵は、数メートル、時には10メートル以上離れて観ると、実に深い味わいになります)その原理そのものは印象派を待たずともすでに確立されていたのですが、しかしながらそうした描法は、光から影への、色から色への、滑らかな移行という課題には適せず、絵がはっきりした一筆々々の集合体であることが強調されてしまう・・・そうした欠点を嫌われて、一般的には採用されなかったものだったのです。だから、印象派の画面を見ると原色の絵の具が盛り上げられて置かれたようになっているように見えるところがあります。近寄ってみると粗い感じがしますが、色彩分割の効果を考えて、絵の具の盛り上げ方によって光のニュアンスが変わってくるからなのです。しかし、それではどうしても全体として粗いものとなって大雑把になりがちです。それをもっと細かいところまで表現できるように突き詰めたのが点描(例えばスーラ「グランド・ジャット島の日曜日の午後」(左側))なのです。分割した光の粒子を点にすることによって粗かった光の表現を細かいものにしていきました。ということは、この点描の点を細かくしていけば、それに従って光の微妙な表現が可能になってくるというのが理屈です。しかし、それには画家の労力は大変なものになっていきます。一筆で塗れてしまうところを数十、数百、数千の点をしかも色を変えながら点描するわけですから、労力は数十倍、数百倍、数千倍になるわけです。だから、印象派から、その発展系といえる新印象派の画家たちでも点描を積極的にやったのはスーラくらいではなかったでしょうか。それを高島は、部分的に、あるいはこの「積る」では、ほぼ全面的に点描を行なったといえるのです。そこには、印象派のような絵の具の混濁を避けるということよりも、光をも分解してしまうというような、高島のもともともっていた視線、あるいは細かいところを執拗に描いてしまう志向性が光を粒子に分解してしまうことに行き着いたのではないかと思えるのです。そういうことを考えると、この「積る」という作品は、高島の志向性が凝縮していると、私には思えてくるのです。本当に、この白は凄いです。

 

第4章 仏の心とともに

神社仏閣を描く

「寧楽の春」という1953年の作品。奈良県にある有名な薬師寺の東塔です。三層の屋根の下に裳階があって六重の塔に見える独特にシルエットを、そのまま描いているアングルは、いかにも「皆さんご存知」とでもいえるステレオタイプ、絵葉書的です。東塔は、まるでビルの工事現場にあるような完成予想図のような、正確だが図式的な描き方です。しかし、高島は薬師寺の写真を見てお分かりと思いますが、「寧楽の春」は写真のように薬師寺の風景をそのまま描いているわけではなく、実際の塔がある伽藍には「寧楽の春」の画面のように草木は生えていません。だから、「寧楽の春」は高島が薬師寺東塔を使ってつくりだした架空の風景です。あえて薬師寺東塔に、現実にはない草木を描き加えたのは、高島は描きたかったからということでしょう。それは画面を見れば納得できるのではないかと思います。画面の前面に出ていて印象的なのは、まるで塔を隠すように満開に花開く枝垂桜であり、その下の印象的な赤のつつじの花です。そして、枝垂桜の左側には、高島の初期作品で御馴染みの“くねくね”が裸の若い松の木で登場しています。塔はバックの背景で、この姿がなかったとたら、前景の枝垂桜やつつじがあって松の木やその枝の繁茂が画面の外枠のようになっていて、全体に草木に覆いつくされているのです。これは、私の偏見かもしれませんが、高島の筆は建築に対しては、直線で堅固に構成された構築物を描くのに、何かしら居心地の悪さのようなものがあって、それが崩壊した姿とか古民家のような人の生活のなかで手を加えられてそのプロポーションの均整が崩れたようなものを好んで描いていたように思えます。ここでも、東塔をシンメトリーには描かず、均整のとれたプロポーションを前面に出さず、草木の後景にして、一部を隠してしまいます。均整のとれた安定した姿は、それで止まってしまって、そこから動きは生まれてこないでしょう。そこに高島は躊躇させるところがあったところがあったのかもしれません。高島は、この他にも法隆寺の五重塔を描いたりしていますが、塔よりも雨が印象的だったりと、私には、あまりパッとしないように見えます。この「寧楽の春」でも、点描のような枝垂桜のピンク色の小さな花のひとつひとつが際立っているところです。

仏のかたち・神のかたち

「菊の花」(左側)という1956年の、花瓶に活けた菊の花を描いた作品です。とにかく、菊の花の一輪一輪の花びらの一枚一枚を丁寧に描いている執拗さに圧倒される作品です。画家が細筆を握って、一枚の花びらの小さなところの一部に絵の具を何度も塗り重ねていく姿を想像すると、戦慄さえ覚えます。しかし、そのように一輪の花の、一枚の花びらをも疎かにしないで、すべてにあまねく丁寧に行き渡るように描かれた結果として、平板な印象となっていることは否定できません。メリハリがないのです。だからノッペリとして日本画の花鳥画を見ているような印象です。この作品を見ていると、高島は菊の花の生命感を迫力をもって描こうとしたのではなく、菊の花を題材に迫力のある画面を作ろうとしていたことが分かります。たとえば、ヤン・ブリューゲルは静物画の中でも細密な花を描くので定評のある画家ですが、その「花卉」(右側)という作品と比べてみると、陰影を強調した画面の中で、花の生死が象徴的に描かれていると言われています。傾向の異なる画家なので、単に並べるだけで優劣を問うつもりはありませんが、ブリューゲルは花の諸相を象徴的に描き分けていますが、高島の描いている菊の花は、ひとつひとつはブリューゲル以上に丁寧なのでしょうが、それぞれに個性がなくて、この一輪という唯一さがないのです。コンピュータの画面でいえば、コピー・アンド・ペーストしたように一様なのです。だから、ここで高島の作品から感じられる迫力というのは、そういう労力を厭わずにやり遂げた画家の労力によるものです。以前にも、少し述べましたが、高島は描くというプロセス、つまり自分が行為するということ、もっと言えば、自分が創造主となって宇宙を創造することが重要であって、出来上がったものに対しては、手出しをしない。それは、聖書に書かれているキリスト教の神が人をはじめ万物を創造したあと、人々が様々な試練を受けて、神に対して救いを求め、問いかけを真摯に行なっても、一切答えないのと、よく似ています。

「菜の花」は1965年の作品。「菊の花」は花瓶に活けられた花という小品でしたが、この作品は一面に咲く菜の花の風景という規模の大きな作品で、それに「菊の花」にも負けないほどの執拗さで一花一花、それだけてなく茎も葉も細密に描き込まれています。その迫力がすごい。“柔らかな太陽の光をうけて輝くように咲く無数の菜の花が、「菊の花」と同様に、こちらを向き、絵を見る者を逆に見つめるように対峙している。ごくありふれた春の光景でありながら、日常を超越した何ものかを我々に感じさせる。”と説明されています。この作品は、「菊の花」に加えて「ひまわり」でみた垂直の輪郭線による上昇性も見られます。無数に咲き乱れた菜の花の茎のひとつひとつに、縦に伸びる輪郭線が濃く引かれています。画面では霞がかった春空、黄色い菜の花、緑色の葉や茎、そして褐色の地面というように、色の差異によって水平的な帯状の色面が作り出されて、そこに菜の花の茎の縦に伸びる輪郭線が対比され、水平性と垂直性が重なり合うことで画面に絶妙な安定感が生まれています。

「流」は1957年の作品です。岸辺に立って来る日も来る日も渓流を眺めていると、いつしか川の水が止まり、今にも周囲の巌が動き出すように見えた経験を表現したと説明されています。それだからでしょうか、画面での水の流れはどこか無機的で、かえって赤茶けた川岸の岩の方が艶めかしく動き出しそうに見えてきます。

光と闇 太陽と月、蝋燭

“「月ではなく闇を描きたかった。闇を描くために月を描いた。月は闇を描くために開けた穴です」と野十郎は述べる。月は闇を際立たせるためのアクセントと考えられるが、そう単純なことではないと思われる。闇に穿たれた穴だからだ。ここに野十郎の宇宙観が現われている。月が闇に穿たれた穴だとすれば、闇は光に包まれていることになる。光と闇は入れ子の構造をなしている。この光とは何だろうか。ひとつ言えることは闇以前に光があったということだ。遍照する光の中に闇が内包されている。宇宙空間が闇であるとするならばその果てには光の世界があるのではないかという思念に駆られる。宇宙の果てから到来する光、これが月として観照されている。宇宙の埒外の、いわば時空のない宇宙開闢は以前の光であり、闇を生み出した本源である。よって見る者に名状しがたい懐かしさを抱かせるのかもしれない。ではなぜ闇が生まれたのだろうか。闇は物質を発生させる要因ではないだろうか。ものには絶えず影が寄り添う。光自体に寄り添う究極の影が闇であるとするならば、闇によって光はものへと変換される。万物はすべて光と影の配合で決まるのではないか。野十郎は「花一つを、砂一粒を人間と同物に見る事…」と述べる。彼は花一つ、砂粒一つにも神を見出している。ものみなすべてに光が宿っているのだ。野十郎の作品はカンバスの隅々まで光が均等に渡っている。それは闇もまた偏在していることにほかならない。光をはらんだ闇は形をなし対象として描かれる。それらは超越的な光を宿すものとして自ら輝いているかのように見える。対象はたしかに日の光に照らされて視野に訴えかけるが、野十郎の場合、太陽光ではなく月光に象徴された宇宙に穿たれた穴より到来する光に依拠して描いている。それは内在する光であるため自ら輝いているのである。外部から照らされその姿が顕わになるのではなく、それ自体が「発光体」なのだ。その最たるものが太陽であり、野十郎にとっては描かざるを得ない対象であったはずだ。直視しがたい太陽をモティーフとすること自体、画家として特異である。(江尻潔「距離零の遠い光」)”という想像力をものすごく働かせた解釈がありますが、これでは実際に作品を見る事から離れて、言葉が独り歩きしてしまっていて、具体的にどこがこうなのか?と問われると、行き詰まってしまいそうなので、ただ、高島の太陽や月や蝋燭を描いた作品は、このような事態を招き易いところがあると思います。

「満月」という1963年の作品。高野は同じタイトルの作品を何点も描いているようですが、これはその中の一点です。夜空に満月が浮かんでいるという非常にシンプルなものですが、満月の光が夜空の波及するようにひろがっていくさまは、とくに月のまわりの光の反映するさまなどは非常に細かく、それこそ光の粒子を一粒ずつ描くように描いています。おそらく昼の太陽を描いても光が強すぎて、光が徐々にひろがり、それとともに徐々に弱まっていく段階のようなものは描くことができないでしょう。夜の暗い影が基調となっていることで、コントラストをつけ易いという都合のよさがあったと思います。それでは、もっと月を大きくえがいて、光と影のコントラストを大きな月をベースにもっと精緻に描くこともできたであろうに、高野はそうしていません。むしろ、影となった木の葉を挿入して月の光と影の描写を邪魔するようなことを敢えて行なっています。たぶん、この作品の構図とか構成は日本画でよくとられる月を題材としたものでは一般的といえるものです。それが、高野のこの作品では違和感を覚えるのです。

これに対して「月」という1963年の作品は、夜空の月だけを取り上げた作品です。「満月」よりさらにシンプルです。「満月」もそうなのですが、そのような一見シンプルで、日本画でも一般的となっているような構成で、わびさびとか光と影とかいった風情とは別のところに、高野作品の特徴があらわれていると思います。それは、月明かりの風景にシンボライズするように何らかの風情とか味わいを仮託して表現しようとすることではなくて、もっと過剰なもの、夜の闇の世界もキャンバスのなかで自らが創造してしまおうという野心のようなものです。

月に対して太陽です。「太陽」という題名の1975年の作品。すでに見た1961年の「太陽」は、中心部は絵の具を塊のように盛って、そこから四方へ無数の細い線を放射状に描き重ねています。それが、光の源から、周辺にむけて光が行き渡る様を象徴的に描いているようで、太陽なのでしようが、それは光が爆発的に全体を照らしている様です。そこで、高島はその行き渡る光を細い線になぞらえて、その一本一本を精緻に、まるでそれぞれが独立しているかのように描いていきます。その一本一本の線は、中心から周辺に行くに従って光は徐々に弱まっていきます。その変化を色彩を塗り分けて一本の線として、それぞれの線に変化をつけて描いています。その一本一本の線は、中心から周辺に行くに従って光は徐々に弱まっていきます。その変化を色彩を塗り分けて一本の線として、それぞれの線に変化をつけて描いています。それは、以前に高島が風景画において点描の手法で光が物体に届いた点を色彩が混ざらないように猫点を重ねることで描き分けていたことを、光の源では混ざらない線で描いている、ということだろうと思います。とくに、この光の線が、画面下の松の木に降り注ぐように届いて、木の葉を透っていく様子、木の葉が照らされる様子が細かに描かれていました。これに対して、この1975年の「太陽」は、光源である太陽の色彩の多彩さの点では後退し、1961年の「太陽」では、プリズムで見るように多くの色がそこに含まれていたのに対して、こちらの作品では中心を白にして、黄色の広がりというシンプルなものに転換しています。その代わりに、太陽の光が松の木に届いた末端のところの描写が、1961年の作品に比べて重きを置いているように見えます。つまり、太陽の光よりは、太陽の光によって生じる闇を描こうとしたと言えないでしょうか。

1967年の「無題」は、太陽も月もなくなって光だけになった作品。様々な色の点によって構成されている、瑛九の抽象画のような作品。“太陽という絶対的な光を見つめたのちに目を閉じて、その残光や残像を感じ、それを描いた”ものと説明されていました。光と闇を描くのなら、たしかに光源も要らないはずですね。たしかに理屈です。それを自身の内に輝く光などというもっともらしい理屈をこねたりしないで、太陽の光を見て目をつぶった網膜に映ったものを描いたと、写実であるしているところが、高島らしいと思います。これは、抽象っぽく見えますが、あくまでも写実的な作品というわけです。

「蝋燭」という一群の作品は高島野十郎という画家のトレードマークともいえると、10年前の目黒区美術館での展覧会では、数十点の「蝋燭」が一室に集められ並べられていました。それは圧巻でしたが、同時に、ひとつひとつの作品をじっくり見る気が起こらなくなってしまいました。しかし、今回は、適当に分けて展示されていたので、構えることなく、作品を見ることができました。さて、蝋燭という題材はヨーロッパでもバロックの光と影の対比を巧みに描いた画家たちも良く取り上げています。例えばカラヴァッジョの影響を受けた画家たちやジョルジョ・ラ=トゥール、あるいはレンブラントなどもそうでしょう。しかし、このような画家たちは蝋燭を作品の中の一部として、中心は蝋燭ではなくて蝋燭によって照らし出された人物だったりするのです。これに対して、高島の場合には蝋燭そのものを、しかもそれ以外ものは画面から排除されているという点でユニークです。それは、ここまで縷々述べてきたように、そもそもバロック絵画の光と影のドラマとは違う発想で描かれているからです。このような高島の作品に対しては、見る側にはものがたりを増幅させた衣装を被ることになりがちです。例えば、“蝋燭が一体何を照らしているのか、絵の中では明示されていないがゆえに、作品は象徴性を帯び、その神秘的で宗教的な雰囲気と相俟って、見る者の心を揺さぶるのである。また我々の心から、喜びや悲しみなど様々な感情を引き出し、穏やかな灯を点してくれるような浄化作用さえあると言える。言うまでもなく「蝋燭」こそは、交錯する光と闇の表現を探求し続けた野十郎の真骨頂である。(高山百合「高島野十郎《蝋燭》の知られざる光」)”という具合です。おそらく、高島自身も、そのようなことを自身で信じていたのかもしれません。私は高島という人が実際どうだったのかには、あまり興味がありませんが、そういうファナティックな性格はあったかもしれないということは、容易に想像がつきます。だから、見る者がそれに引きずられることには、とくに否定するつもりはありません。しかし、それは画面を見ているのかといえば、画面を見ていて、そこに見えていないものを敢えて見ようとしているのではないかと思います。画面の上に見えているのは蝋燭です。一連の「蝋燭」のほとんどサムホールという25×16pサイズの小さな画面で、中心に一本の火の灯された蝋燭が描かれているだけというきわめてシンプルな作品です。そこで描かれているのは、蝋燭の炎の凄まじいばかりの微細な描きこみです。炎の中心から先端に向かっての光→画面上では色彩のミクロ単位の変化、しかもその光をスペクトル分析するように一様でない要素も交えて描きこまれています。そして、その炎が燃えている空気と炎の光がその空気に映って光が周囲に伝播する空気の変化、それは光だけでなく、蝋燭の炎によって熱が発生し空気の対流が起こり、空気が動き出すのを光の伝播への影響で表わしている。それを実際に見えている以上に、ということは当然画家のつくりごととしてフィクショナルに創造している。それは多分、写実であれば微細すぎて気がつかないことを顕微鏡で拡大して可視化するように、いわば針小棒大な誇張を施して造っているといえます。そこでは照らし出されたものを描かなかったがゆえに象徴性を帯びるというのではなくて、照らしている光をただ描いていたという見方があってもいのではないか、ということです。そのために余計なものを削ぎ落として、他の作品、例えば「月」なら月以外のものは画面から排除して、さらに月すらも穴のようにしてしまう、のと同じように、炎のとその光のために光源である蝋燭は描かなければならないが、それ以外は排除してしまう。それにはサムホールという小さな画面が都合がいいでしょう。そして、蝋燭は排除できないものの、最低限、つまり、定型化に近い描き方にして、炎とその光を強調する。すると、見る者は炎に視線を集中せざるを得なくなります。実際、私は若い頃、登山が好きで、山の上でテントを張って寝て、山脈を縦走したこともあります。その際、テントには電器などありませんから、夜は蝋燭に火をともして灯りとするわけです。テントの夜、蝋燭の火を見ていると、自然に視線が吸い寄せられるようで、しばらく眺めていて時間が経ってしまうこともしばしばで、そこでいろいろなことを考えてしまうことに誘われるのです。現物の蝋燭の火にはそういうところがあります。高島の「蝋燭」は図らずもなのか、意図してなのか、分かりませんが、そういう現物の蝋燭に準じるものが用意されていると思います。

 

エピローグ

プロローグは高島という画家はこういう作品を描くという概要の紹介でしたが、エピローグは何でしょうが。本編で紹介しきれなかった落穂ひろいのようなものでしょうか。そういえば、これまで静物画の展示は、あまりなかったように思います。

 「百合とヴァイオリン」という1920年頃の作品。一見、落ち着いた色調の静物画のようでもあれますが、奇妙な作品です。百合の切花、ヴァイオリン、弓のそれぞれが歪んでいて、それぞれが違う空間に浮かんでいるように見えます。例えばヴァイオリンの手前部分の、本体の底の演奏の際に肩に当たる部分が突き出すような曲線を描いています。ヴァイオリンは奥のネックの方向に行くと、ちょうど百合の花が横切るところで二つ折りになったように屈曲しています。そして黒いネックが不自然に短く、テールピースの黒い部分が小さすぎます。一方弓を見ると、弦(毛)の部分はピンと張られていないといけないのに、くねくねと屈曲しています。だからといって、ダランとして張っていない状態でもない。だから、本来ありえない形になっています。そして、百合の花は、あえて言うまでもなく、茎が不自然なほどくねくねと屈曲しています。そして、さらに、百合とヴァイオリンの位置関係を見ると、百合はヴァイオリンの上に乗っていません。両者の接触部分がないのです。もし、百合の花がヴァイオリンの上に乗っていれば、その接触部分は百合の重さがかかってベタッと変形するはずですが、それがありません。つまり、百合の花は宙に浮いているのです。これらのことから、この「百合とヴァイオン」は、「鉢と茶碗」や「けし」といった作品と同じように、現実にあるものを、そのままに見て、描いた作品ではないということです。とはいっても高島が想像上の光景を描いたのではなく、実際に、目前にヴァイオリンと百合の花を置いて、それを見て描いてはいたのだと思います。“一見写実的に描かれた静物画のように見えて、実は絵作りの要請に従って随所に意図的な歪みが与えられたものであることがわかる。対象と画面、二つの表面を執拗に追う野十郎は、描かれる対象と描いた絵画を外から統合的には眺めない。空間とそのなかに置かれた事物を、理解と計画に従い絵画に表現するのではなく、その方法は微分的で、絵画の表面の生成につれてそこに事物も新たに生成される。建築物のように設計図に従って直線が予め予定された位置実現されるのではなく、細胞が隣の細胞との関係性で次々に生成されるように、線分もまた連続して生成され蛇行する。そのルールは、絵画上のグラフィカルな関係性と一体の野十郎の視覚=触覚=手技を統合した「思考」による。そこに野十郎の絵画の方法の端緒がある。野十郎の「写実」は蝋燭にしても風景にしても、優れて「主観的」で「抽象的」なのだ。(山田敦雄「《百合とヴァイオリン》または蛇行する直線」)”という指摘は、そうだろうと思います。

「桃とすもも」という1961年の作品です。“みずみずしく、艶めかしくもある桃とスモモが、画面の中でいくつものV字を構成しながら配置されている。本作をはじめ、ものの配置や明暗が周到に計画されている野十郎の静物画は、息詰まるほどの緊張感に溢れている。桃には思わずふれてみたくなるようなやわらかな質感が与えられ、表面に生えた毛までが克明に描かれている。一方スモモは硬く、光沢感のある様子が生き生きととらえられている。複雑な模様を持つ机上の布や皿など、あらゆる面に野十郎の画力が光っている。背景に意味ありげなぶら下がった緑色の玉が目を引く。”と説明されていましたが、壁を背景にしたテーブルの上に果物が配置され、その果物や布が細密に均等に表現されている。仏教の「慈悲」にあたるような遍く視線をそれらに注ぎ、それぞれを微細なところにも疎かにせず表現している。そういうようなことが言えると思いますが、作品を見ていると、それはそれで、ここの桃やスモモを見ていると分かるのですが、作品としてみると、どこかチグハグな印象を受けます。しかも、リアルな感じがしないで、画面に描かれた桃やスモモに存在感がないのです。それは、フル・コンピュータ・グラフィックスの精緻な画面をみて、精確に描写されているにも関わらず実写とは全く違った画面になっていてリアルな感じを持てなかったことに似ています。例えば、画面手前中央の2つの桃と4つのスモモはそれぞれ細かく丁寧に描かれています。しかし、テーブルの上に乗って在るようには見えません。また、真ん中向かって左側の桃とその右手前の緑色のスモモは接触しているのか、接触せずに離れて置かれているのか分かりません。つまり、テーブルとその上の6つの果物はバラバラでそれぞれの関係が描写されていないのです。どういうことかと言うと、些細なことなのかもしれませんが、柔らかく厚手の布の上に桃が置かれていれば、そのところが微妙に凹んだり皺がよったりするものです。また、丸形の果物が転がらずに、手前の緑色のスモモなどは安定のいいはずの下のヘタで支えるように置かれずに横向きに置かれています。そうであれば、転がってしまわないように後ろの桃に寄りかかるようになっているはずです。そのときに、柔らかい桃は、スモモの重さを預かることになるので、微妙な変化が起こるはずです。それだけでなく、それによって影も変化するはずです。しかし、画面を見ていると、布、桃、スモモは独立した完璧なほど精緻な描写で描かれていますが、それが別々に画面の配置された場所にはめ込まれているようなのです。同じように画面中央上の皿の3つの桃は、皿に載っているように見えず、そこで宙に浮いているようなのです。それらが、画面を全体としてみると“平面的”な感じがするのです。つまり、高島の作品に対して、私が平面的と言っているのは、二次元的というだけでなく、画面のなかにあるものとものとの関係が描かれていないということなのです。空間の中に、実体のある物体が在れば、それはその空間を独占するだけでなく、光を遮ったり、そこに空気は存在できない空気の流れが変わったり、その重量が接触する他の物体に影響を与えたり、と周囲となんらかの関係を構築しているはずなのです。絵画の遠近法は、その関係の一部を描写しようとした技法とも言うことができると思います。その関係のすべてではないにしても、ある程度以上表わすことができているのを、人は立体的と見ることがあると言えるのではないかと思います。奥行きというのは、その手近な感じ方ではないでしょうか。しかし、高島の作品、風景画も静物画もそうですが、を見ていると、そのような関係が考慮されていないように見えます。とくに、静物画は対象とする領域が狭く絞られているので、その特徴がハッキリ現われています。

「すもも」という1948年の作品は、簡素と言うほどシンプルで、白い布と11個のスモモしか描かれていません。しかも、それぞれが細密に描写され、白い布のシワやのおりなす陰影が描きこまれています。しかし、その布と11個のスモモは浮いているのです。この場合、平面の布を敷いて、その上にスモモを置いて斜め上から見ているので、奥行きが生じることはないのですが、だからといって「桃とすもも」のように平面的に見えてしまうのです。それは、高島が風景画では制約があってできなかったことを静物画では、その制約が少ないために実行したことによるのではないかと思います。何かもったいぶった言い方をしていますが、高島の静物画を見ていると、風景画では感じることの少なかった作為を見てしまうのです。作為があることの善し悪しをここで殊更に論じたてるつもりはありませんが、高島の静物画は精緻でリアルに描いているようで、全体としてはつくりごとの薄っぺらさを感じてしまうのは、そのせいではないかと思います。そして、誤解を恐れずに、敢えて附言すれば、高島が後半生で人物画をほとんど描かなかったのは、そのせいではないかと想像してしまいます。人というのは、関係性の存在だからです。むき出しの裸の単独な存在としては生きていけないもので、必ず他者との関係から自らをつくっていくものです。サルトルの即自存在と対自存在の概念を持ち出すまでもないことです。しかるに、高島の作品には、関係という要素が抜け落ちています。高島は即自的な物体を描くことはできても、対自的な人を描くことはできないという自覚があったのではないか、と想像するのです。

さて、話が飛躍してしまったので元に戻しましょう。高島は静物画では作為を施していると述べました。それは、どういうことかというと、端的に言って“つくっている”ということです。静物画では誰でもやっている、当然のことという声も聞こえてきそうです。たしかに、描くためにちょうどいい配置とか組み合わせを考えて対象を作ることは一般的です。例えばジョルジョ・モランディの静物画は、そういったパターンを何通りもつくって、それぞれを描いて、まるで静物画の配置の実験をしているようでした。高島の場合は、モランディのようなあそび感覚はなくて、あたかも自らを創造主としてひとつの宇宙を創ろうとしているように見えます。その際に恰好な手段として静物画があったのではないか、と思えるのです。それが象徴的に現われているのが、引用した説明で触れられている「慈悲」という言葉です。高島が万能の神であるからこそ、あらゆるものに遍く視線を注いで細密な描写ができるというわけです。というのも、細密に描写されているのは高島に見えるところで、見えないけれど存在しているはずのところは無視されているわけです。その視線の限界の自覚は作品を見ている限り感じられません。そこに高島の視野の狭さまで議論をひろげることもできなくもありません。しかし、そこに私が感じたのは、そういう並外れた執念というのでしょうか。少し譲って強烈な妄念と言ってもいいでしょう。それが尋常でないということです。高島の作品に漲っている迫力、画面から溢れてしまいそうに感じられるそういったものなのです。それは、私にはキレイゴトで済まされるような、展覧会の解説や評伝に説明されているような建前ではなく、もっと何か、本人にも制御できないような、どうしようもない、そんなものに突き動かされてしまうようなもの、そんなものを感じてしまうのです。すごくロマンチックな見方ですが、衆に甘んじることなく、というよりも、普通の人として生活していくことを憚らせるような異常なもの、そんなのがあるように思えるのです。

実際の静物画が描かれている場面を想像してみて下さい。テーブルの上にすももが置かれている。それを画家が見て描いているわけです。この時、画家はすべてを見ているでしょうか。というより、見えているでしょうか。例えば、画家が見ているすももは立体です。当然、画家が見えている反対側は見えていません。だから、存在しているものを見ようと凝視していれば、見えていない部分があることに気づくはずです。通常の、何の気なしに眺めているのであれば、見えていないところは、見えているところと同じように、見えているところと連続しているだろうと、多分、そこまで考えることもせずに、疑問を抱くこともないでしょう。しかし、見えているところを凝視するように注意深く見ていれば、見えているところだけでも、そこにユニーさが見て取れるわけで、見えていないところが同じようにあるなどとは安易に考える等というとはできないはずです。高島が見えているものだけを忠実に写し取る画家であれば、それで十分なのでしょうが、「慈悲」ということを言い出したり、静物画で宇宙を自分が創造主になったかのように創ることを志向しているひとであれば、その見えていないところを見ようとする、そして見えてきたら描こうとする。そういう志向があるのは当然に思えます。それを、理論で強引に試みようとしたのがキュビスムであったり、セザンヌの複数の視点だったりするのですが、高島はそういうことには見向きもしませんでした。スタイルとしての写実から離れることをしませんでした。そこでは、高島は自身の視線を絶対化していたのではないか、端的に言えば、自身を神と同一視していたのではないかという、私はそういう妄想を抑えることはできません。根拠のない妄想で嗤っていただいて結構ですが、そうでなければ、私には、高島の作品にあるファナティックなまでの迫力を説明する理屈が見つからないのです。

さて、「すもも」についてはもう少し。このような私の高島の静物画に対する見方は、多少の偏見もあるでしょうが、そういう見方からすると、「すもも」の形を見ていると、京都の竜安寺の有名な石庭に似ているように思えてきます。白砂の上に数個の石が置かれている。何かを象徴しているのか、よく分かりませんが、それを単に砂と石という物体そのものでしかないと見ると、この庭の価値はなくなってしまうといえるでしょう。そこに何かあると付加価値をつけて見る事を、ここに来た人は強制されるというシステムです。私が「すもも」に竜安寺との類似を見たのは、この作品にリアルを感じさせないことが意図的ではないかと考えたからです。リアルに見えてしまえば、石庭のように象徴的な見方をできなくなります。そこに妄想(想像力といってもいいでしょう)を働かせるように、それを促すことが意図されていたのではないか、ということです。

これは、静物画という形式だからこそ、高島という画家の特徴が現われやすかったのではないかと思います。高島の他の作品、例えば月をモチーフにして光と闇を描いた作品については、月の光の粒子を一粒ずつ点描するかのように、その光の一粒を画面の中で創造しようとするように見えるのです。それなら、月と月光だけをクローズアップして描けばよいのに、敢えてそうしていないのは、夜の闇を照らし出し、そこに見えるように現われるという世界を隅々まで、自らが創造してしまおうとしてのことではないかと思われるのです。

 

 
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