オルセーのナビ派展
美の預言者たち─ささやきとざわめき |
2017年2月14日(火) 三菱一号館美術館
さて、ナビ派というのは、あまり紹介されていなかったので、私も知識がないまま見てきました。そこで展覧会チラシに簡単な紹介があるので引用します。“19世紀末のパリで、前衛的な活動を行った若き芸術家のグループ「ナビ派」。ボナール、ヴュイヤール、ドニ、セリュジエ、ヴァロットンらを中心とするナビ派の画家たちは、ゴーガンから影響を受け、自らを「ナビ(預言者)」と呼んで、新たな芸術表現を模索しました。近代都市生活の諸相を平坦な色の面で表わす装飾性と、目に見えないものを描く内面性─日常と神秘をあわせ持つナビ派の芸術は、一見控えめで洗練された画面のうちに、20世紀美術を予兆する静かな革新性を秘めています。”ということです。ただし、そういうコンセプトで展覧会を企画したという一方で、オルセー美術館のコレクションから借りてきましたというので、ナビ派をこの展示で全貌を見ることができるかどうか、私には、知識がないので何ともいえません。いつもは引用する主催者あいさつは、オルセー美術館から借りてきましたという内容なので、コンセプトは明らかにされていませんが(もともと、なかったのかもしれませんが)オルセー美術館の関係者が、カタログのなかで“アンティミスムと言われる親密さ、そして彼らの作品から漂う雰囲気にまず、惹かれました。それだけでなく、小さな画面いっぱいに様々な色彩が押し込められているかのような絵画空間を生み出した発想にも魅力を感じています。”と述べられているので、そういう見方で捉えられているということでしょうか。そして、同じカタログで学芸員が、ナビ派をカウンター・カルチャー、サブ・カルチャーとして捉えるという視点で意義付けをしています。それは、西洋の絵画がルネサンスの時代にレオナルド・ダ=ヴィンチが絵画を「すべての芸術に勝る至高の業」と定義して、神の業務に準ずる仕事として、二次元の平面に三次元の空間をイリュージョンとしてつくりあげ、それを支える観念の体系や知の蓄積を、鑑賞者に提示するもの、つまりハイ・カルチャーとして作り上げられていったといいます。そのような偉大で形而上学的なものは理想かもしれませんが、ありがたすぎて親しみ難いものになってしまいます。それに対して、身近な自然の光景や日常の暮らしの情景などを軽妙で簡潔に表現しようとしたのがナビ派という捉え方です。それは、現代の日本において1970年代に権威であった教養としての芸術に対して、身の回りの等身大の日常を「かわいい」として共感の視線で表現することを見出したサブ・カルチャーに重ねてみることができる、という捉え方です。それは、西洋絵画の歴史を顧みると類例のないユニークなものだということになるといいます。 このようなことを手掛かりに、これから作品を見ていきたいと思います。ただし、一言、ここでサブ・カルチャーを引き合いに出していることについて、それは対照的に取り出しすのは、権威であるハイ・カルチャーからの上から目線での見方で、その視点でみれば意義があるということになるでしょうが、そうではなくて、サブ・カルチャーからの視点でみればナンセンス、伝統的な絵画の権威が息切れして、自力回復ができないから、辺境であるサブカルのおいしいところをパクッてきた、ということでしかありません。たとえば、日常というのはキレイごとだけではなく猥雑で惨めなものもあるわけですが、そういうことから目を背けるならば、都合のよいとこ取りにすぎないということになります。私の作品を見た印象では、そういうところは否定できないと思います。それは、例えば、18世紀のドイツでロマン主義の理想を追い求めるところを個人に強いるところが負担になって、日常の暮らしに逃避するように閉じこもり自足していくビーダーマイヤーと称される小市民的な風潮が見られると思います。それは、引き合いに出されていた、日本のサブカルチャーが当初は60年代後半から70年代初頭にかけての反体制的な、政治・社会運動の挫折をスタートのひとつとしている点もわすれるべきではないということです。
1.ゴーガンの革命
私の偏向した嗜好なのかもしれませんが、ゴーギャンの作品に絵画的センスが感じられないのです。要するに下手、絵画になっていない。つまらない、というのが正直な感想です。それが、サマセット・モームの小説のモデルになったような、金融関係の仕事や家族、つまりはブルジョワ的な安定した生活を投げ出して、画家になったとか、哲学の箴言のような思わせぶりに作品タイトルが独り歩きして、描かれた作品だけは、それらに比べてあまり見られないのは、どこかで作品がつまらないことを認められている証拠ではないかと思っています。つまらない理由を説明することほど馬鹿馬鹿しいことはないのでやめておきますが、展示されている作品は、この展示構成では必要ということなのでしょうが、当然素通りしました。ですから、ナビ派の作品に対して、ゴーギャンの影響とか、上で解説されている面は、私はほとんど気にしていません。
エミール・ベルナールの「炻器瓶とりんご」(左上図)という作品です。並べて展示されているゴーギャンの「扇のある静物」(右図)と比べて見ると、影響関係は認められません。別に、展覧会の解説に異を唱えるつもりはありませんが、ゴーギャンは薄塗りで水彩画のようでもあるのに対して、ベルナールは厚塗りで絵の具を盛ったように置いていて、むしろセザンヌ(右下図)に近い印象を受けます。左側に配される陶器、画面中央の壷、そして前方と右側の果物はどれも太く明確な輪郭線で囲まれ、線の内側は立体感や質感を殆ど感じさせない色の面で、全て(静物単体が)最も収まりの良い視点で描かれています。これは、セザンヌの静物画で形相よりも実体の存在感を優先させたことではないと思います。そして、絵の具が厚く重ねられて重量感というのか、どっしりとした存在感をまず、画面に定着させようとしているように見えます。さらに画面の
おそらく、このような作品の展示が続くのであれば、私が、ここに感想を残すことはなかったと思います。
2.庭の女性たち
このコーナーで最後に取り上げたいのは、アリスティード・マイヨールの「女性の横顔」(左図)という作品です。マイヨールは彫刻家としてオーギュスト・ロダンと並び称されるほどのビッグ・ネームですが、この作品は精細な印象の佳品だと思います。 3.親密さの詩情 最初のところで、ナビ派の特徴として日常的なことを主題としたという特徴が説明されていたのを引用しましたが、そのまさに日常生活の風景を親密さというキーワードで作品としたものが展示されているということでした。 ピエール・ボナールの「ベッドでまどろむ女(ものうげな女)」(右図)という作品です。タイトル名や女性のポーズからみて情事の後の情景ということなのでしょうし、その女性のポーズが扇情的なのでしょうけれど、まるで、シーツのしわと同じように見えます。裸の女性が恥ずかしげもなく両足をひろげて、恥毛をあらわにするというポーズは、かなり扇情的で、それなりの意図や覚悟でもなければ、当時では描くようなものではない者ではないかと思います。しかし、この女性の上方のシーツのしわでつくりだされる模様と右方の毛布の形と、女性のポーズはよく似ていて、とくに女性が浮き立たせるようには描かれていないので、それらが色違いの模様のように見えます。ここにあるのは、たしかに日常の情景かもしれませんが、それを冷たく観察していて、描いている対象の女性に対して、シーツや毛布と同じように分子レベルで観察しているような、親密さの感情など微塵も感じられない機械のセンサのような情報処理です。
4.心のうちの言葉
おそらく、現代のイラスト等で問われているクリエイターのセンスというのが、このナビ派の人たちの作品あたりから、前面に表われてきたのではないのか、と私には思いました。それまでも画家の個性ということはあったと思いますが、それ以前に技量の差とか、画面を作る上での教養とか、そういったことによって、画面を隙なく仕上げていくことが、画家の土台としてあったと思います。しかし、とくにボナールの作品などを見ていると、画面を完璧に仕上げることよりも、画家が独自の視点で、風景や人物のある一点を取り上げて、それを今までになかったり、他の人ではやっていなかったように表わしてみせる。その手際が鮮やかであるとか、その表わし方に視覚的な快さを生んでいるとか、現代の言い方でセンスを感じるとしか言いようのないこと、そういう従来にない刹那的な感覚の心地好さを作り出している。これは、絵画の購買者が王族、貴族や教会から市民階級あるいは産業化による経 ボナールに比べるとモーリス・ドニの作品は、絵画になっていて(変な言い方ですが)、上手いという印象です。自身の婚約者をモデルに描いた作品「マレーヌ姫のメヌエット」(左図)では人物がちゃんと肖像画として様になるように描かれています。しかし、色白を通り越した蒼白に近い肌は人の温もりが感じられず、目は虚ろな感じで、顔に表情がなくて、不気味な印象を受けます。顔たちが整っているだけに、その不気味さに底知れないものを感じさせます。そして、ピアノの背後の、壁であるだろう背景が点描によって、現実にない背景になっています。それが、ドニが意識することなく、モデルの女性に見ていたものが、画面に表われてしまっている。おそらく、モデルは婚約者ということですから、親密で愛情溢れるような作品にするのが自然でしょう。本人も、そうしたかったのではないかと思うのですが、このような底意地の悪いような不気味な作品にはしたくなかったと思います。それが、そうなってしまったのは、画家が意識することなく描いていて、そうなってしまったとしか考えられません。そうであれば、画家の目が、この女性に対して、そう見えてしまったとしか考えられません。しかし、同じ年に制作された、キャンバスにバステルで描かれた「婚約者マルト」(右上図)では、バステルの淡い味わいを生かした、親密で可愛らしい作品になっていると思います。
それと、ついででもないのですが、このような画家たちと比べるとヴァロットンの肖像画は次元が違うというのか、まるで写真のような迫真の描写で、しかも、写真にならず絵画の写真にない匂いのようなものを、あざといほど強調するように描いていて、この画家の単に技量にはしることをしない賢さ、というよりも屈折した姿勢に感心してしまうのでした。
5.子ども時代
これに対して、モーリス・ドニの「メルリオ一家」(左下図)という作品です。これも上手い作品であると思います。しかし、ヴァロットンにあるような作為的な仕掛けはなくて、視覚的な楽しさに溢れています。背景をグリーンの色調で、その淡い明るさを様々な段階の濃淡で描き分ける、その色遣いの巧みさ。そして、草や葉を点描のように描いて、その点の大きさや並べ方、密度の使い分けで画面にリズムを作り出している、まるで音楽が聞こえてくるような様子。これに対して、人物の中心は3人の子どもたちで、背景の淡いグリーンに対して淡いブルーの衣装を着ていて、グリーンとブルーの対照でもない、同系列でもないが、落ち着いて、静かな印象をつくりだしていて、子供たちのきているものがシマの柄になっていて、その身体のポーズに合わせて波打つように屈曲しているのが、背景の点描とは別のリズムを作り出し、それは他方で母親と子供たちの金髪の髪の毛のウェーブ(波)と呼応しています。 6.裏側の世界 “ナビ派の美学的理想を育んだのは、哲学や秘教、宗教についての読書であり、かれらは「神殿」とよびならわされたランソンのアトリエで週ごとに行われる会合において、それらについて議論を交わしていた。彼らは芸術家を可視の世界と不可視の世界の仲介者とみなし、夢や、詩や、象徴と関係した主題に熱中した。”と解説されていました。それで、このようなコーナーが設けられているわけです。しかし、画家たちが哲学や宗教を論じようと、不可視のと可視の狭間に立とうと、結局は、作品として画面に画像として表わしたときにどのようなものになるのか、で見る者は作品と接しているのであって、その背後で、画家たちが議論しているとか、そういうことは背景にすぎません。要は、表わされた画面から、見る者が、そういうことに想いを至らさせることができるかどうか、で私は見ているので、そういう作品なのか、というと、これまでの他のコーナーの展示も併せて、ナビ派の作品世界は表層に終始している点に、独自性とか魅力があるので、背後のものは、むしろノイズで、付加価値にもならないのではないか、というのが私の思っているところです。
これまでの感想の中でも述べましたが、こうして通してみてみると、ナビ派の特徴は展覧会でも説明されていましたが、私なりにまとめてみると、一般市民に消費される商品として絵画が売られる状況に対応して、画家はパトロンの注文に応じてじっくり作品を仕上げで出来栄えを評価してもらうことから、画廊や展示会に並べて趣向やセンスで購買者の目をひいて購入してもらうということが制作のめざすところになったことに、いち早く対応した人々のひとつがナビ派ではないか、と思います。そのひと目をひくために採ったのが、ナビ派の特徴として説明でも触れられているスタイルだった。だから、徹頭徹尾表層的で、見た目の効果にこだわるというところが、私としては、この展覧会を見ていて強く印象に残りました。 |