オルセーのナビ派展
美の預言者たち─ささやきとざわめき
 

 

2017年2月14日(火) 三菱一号館美術館

出張で出先の仕事が順調に進み、思ったより早く終わったので、少し無理して都心に出た。ちょうど三菱一号美術館は、閉館の時間が遅めだったので、他の美術館と違うので、間に合うことができた。また、この2月中頃の時期は、年末年始にかかっていた企画展がちょうど終わって、春の時期の新たな企画展に入れ替わる端境期にあたって、真空時間のような時期で、この展覧会は、一歩早めに始まったものだったので、普段であれば、積極的にわざわざ行くようなタイプのものではないが、行ったということだった。新鮮さもあったが、違和感もあった。以前に、ここでヴァロットン展を見た時にナビ派に触れられていたが、とくに意識するまで行かなかった。それが、この展覧会で、はじめて意識したというしだい。

さて、ナビ派というのは、あまり紹介されていなかったので、私も知識がないまま見てきました。そこで展覧会チラシに簡単な紹介があるので引用します。“19世紀末のパリで、前衛的な活動を行った若き芸術家のグループ「ナビ派」。ボナール、ヴュイヤール、ドニ、セリュジエ、ヴァロットンらを中心とするナビ派の画家たちは、ゴーガンから影響を受け、自らを「ナビ(預言者)」と呼んで、新たな芸術表現を模索しました。近代都市生活の諸相を平坦な色の面で表わす装飾性と、目に見えないものを描く内面性─日常と神秘をあわせ持つナビ派の芸術は、一見控えめで洗練された画面のうちに、20世紀美術を予兆する静かな革新性を秘めています。”ということです。ただし、そういうコンセプトで展覧会を企画したという一方で、オルセー美術館のコレクションから借りてきましたというので、ナビ派をこの展示で全貌を見ることができるかどうか、私には、知識がないので何ともいえません。いつもは引用する主催者あいさつは、オルセー美術館から借りてきましたという内容なので、コンセプトは明らかにされていませんが(もともと、なかったのかもしれませんが)オルセー美術館の関係者が、カタログのなかで“アンティミスムと言われる親密さ、そして彼らの作品から漂う雰囲気にまず、惹かれました。それだけでなく、小さな画面いっぱいに様々な色彩が押し込められているかのような絵画空間を生み出した発想にも魅力を感じています。”と述べられているので、そういう見方で捉えられているということでしょうか。そして、同じカタログで学芸員が、ナビ派をカウンター・カルチャー、サブ・カルチャーとして捉えるという視点で意義付けをしています。それは、西洋の絵画がルネサンスの時代にレオナルド・ダ=ヴィンチが絵画を「すべての芸術に勝る至高の業」と定義して、神の業務に準ずる仕事として、二次元の平面に三次元の空間をイリュージョンとしてつくりあげ、それを支える観念の体系や知の蓄積を、鑑賞者に提示するもの、つまりハイ・カルチャーとして作り上げられていったといいます。そのような偉大で形而上学的なものは理想かもしれませんが、ありがたすぎて親しみ難いものになってしまいます。それに対して、身近な自然の光景や日常の暮らしの情景などを軽妙で簡潔に表現しようとしたのがナビ派という捉え方です。それは、現代の日本において1970年代に権威であった教養としての芸術に対して、身の回りの等身大の日常を「かわいい」として共感の視線で表現することを見出したサブ・カルチャーに重ねてみることができる、という捉え方です。それは、西洋絵画の歴史を顧みると類例のないユニークなものだということになるといいます。

このようなことを手掛かりに、これから作品を見ていきたいと思います。ただし、一言、ここでサブ・カルチャーを引き合いに出していることについて、それは対照的に取り出しすのは、権威であるハイ・カルチャーからの上から目線での見方で、その視点でみれば意義があるということになるでしょうが、そうではなくて、サブ・カルチャーからの視点でみればナンセンス、伝統的な絵画の権威が息切れして、自力回復ができないから、辺境であるサブカルのおいしいところをパクッてきた、ということでしかありません。たとえば、日常というのはキレイごとだけではなく猥雑で惨めなものもあるわけですが、そういうことから目を背けるならば、都合のよいとこ取りにすぎないということになります。私の作品を見た印象では、そういうところは否定できないと思います。それは、例えば、18世紀のドイツでロマン主義の理想を追い求めるところを個人に強いるところが負担になって、日常の暮らしに逃避するように閉じこもり自足していくビーダーマイヤーと称される小市民的な風潮が見られると思います。それは、引き合いに出されていた、日本のサブカルチャーが当初は60年代後半から70年代初頭にかけての反体制的な、政治・社会運動の挫折をスタートのひとつとしている点もわすれるべきではないということです。

 

1.ゴーガンの革命

ポール・ゴーギャン(ゴーガンではすわりが悪いので、慣れたゴーギャンという呼び方にします。)は、“イリュージョニズムの絶対的な影響力に対抗し、芸術とは気質、思想、切実なる内面性を表現すべきものであって、自然を模倣するものではないと断言している。観察と想像力をないまぜにした彼の作品は、単一の空間の中に様々に異なった要素からなる世界を共存させる。”ことによって、ナビ派の画家たちに影響を与えたといいます。“象徴主義への道を歩んでいたナビ派の芸術家たちを勇気付け、彼らを夢や、神秘や、幼少期の恐怖感や、実存的な苦悩といったものの表現へと向かわせた。記号のようなものにまで省略された形態は、やがて純粋に絵画的な一つの論理としてまとめられた。”という解説が加えられていますが、そこに、ナビ派というのが、描くということよりも、むしろ理念、つまり、頭で考えて言葉をこねくり回したものからスタートしたものであることを、端的に表わしていると思います。

私の偏向した嗜好なのかもしれませんが、ゴーギャンの作品に絵画的センスが感じられないのです。要するに下手、絵画になっていない。つまらない、というのが正直な感想です。それが、サマセット・モームの小説のモデルになったような、金融関係の仕事や家族、つまりはブルジョワ的な安定した生活を投げ出して、画家になったとか、哲学の箴言のような思わせぶりに作品タイトルが独り歩きして、描かれた作品だけは、それらに比べてあまり見られないのは、どこかで作品がつまらないことを認められている証拠ではないかと思っています。つまらない理由を説明することほど馬鹿馬鹿しいことはないのでやめておきますが、展示されている作品は、この展示構成では必要ということなのでしょうが、当然素通りしました。ですから、ナビ派の作品に対して、ゴーギャンの影響とか、上で解説されている面は、私はほとんど気にしていません。

ゴーギャンに恨みはないのですが、例えば遠近法を無視した平面的な画面で見る者のものの見方を変えさせる作品として、高野文子を取り出して比べて見たいと思います。高野文子は現代日本のまんが家ですが、彼女の「田辺のつる」という作品の最後のページを見て下さい。上段真ん中のコマは少女が階段を降りるところですが、手前の階段の踊り場が水平ではなくて斜めになっていて、遠くの階段の先が遠近法では消失点に収斂していくのと反対に広がっていくわけです。となりの左側のコマで少女が降りていく途中の場面では先が収斂していく遠近法っぽい空間の描き方をしていますが、左右のバランスが歪んでいます。そして、下段のコマで少女を正面から、階段の下から見上げる場面は、階段の遠近法が極端での先の二階と、階段の先の廊下の奥との関係が歪んでいます。これは、遠近法という立体を平面にさせるイリュージョンを換骨奪胎して、空間を歪ませ、そのはこの場面に出ている少女から見た空間で、それが歪んでいるのは、少女の存在の不安定性が現れているというところ。さらに、その存在の不安定さは、少女の実存の先に死がリアルに見えてきて、それは、この画面を見ている人に、自然に入り込んでくるわけです。ゴーギャンのギミックのようなタイトルで、わざと言葉で見る者に意識させるのは、画面で表現できないという自身の力量の不足を自覚しているからやっているというフェイクに思えてくるのです。画面で勝負するとゴーギャンは、絶対的な力量で高野文子に負けている。この展覧会には縁のない話への脱線が長くなりました。だからゴーギャンには触れません。展覧会に戻りましょう。

エミール・ベルナールの「b器瓶とりんご」という作品です。並べて展示されているゴーギャンの「扇のある静物」と比べて見ると、影響関係は認められません。別に、展覧会の解説に異を唱えるつもりはありませんが、ゴーギャンは薄塗りで水彩画のようでもあるのに対して、ベルナールは厚塗りで絵の具を盛ったように置いていて、むしろセザンヌに近い印象を受けます。左側に配される陶器、画面中央の壷、そして前方と右側の果物はどれも太く明確な輪郭線で囲まれ、線の内側は立体感や質感を殆ど感じさせない色の面で、全て(静物単体が)最も収まりの良い視点で描かれています。これは、セザンヌの静物画で形相よりも実体の存在感を優先させたことではないと思います。そして、絵の具が厚く重ねられて重量感というのか、どっしりとした存在感をまず、画面に定着させようとしているように見えます。さらに画面の背景となる上下の水平線上に区切られた黄色と緑色の色面は単純であるがゆえに、静物の存在感をより際立たせる効果を発揮しています。そうしてみると、重量感が稀薄で、平面に模様のようになっているゴーギャンの作品と、どこに通じるところがあるのか、私には理解できません。

同じベルナールの作品で「収穫」という作品です。彼はブルターニュ地方の民族衣装をまとった人々を、ある時期、集中的に描いていますが、この作品もその一つです。上記の静物画と同じ手法で描かれています。ブルターニュ地方の民族的な白と黒の衣服に身を包んだ女性や背後の白いシャツで刈り取りに勤しむ人物たちは、太く明確な輪郭線と立体感を全く感じさせない色面のみによって表現されているのは静物と同じです。刈り入れをしている畑は、遠近法による空間の広がりが表現されていないで、一面に黄色く塗られています。これは、例えばヴァロットンの「ボール」の公園の風景を連想させる単純化と言えるでしょうか。面白いのは、人物の外形の輪郭は太い線でくっきりと描かれているのに、その顔は描きこみがなくて、色の濃淡でざっと描かれていることです。ベルナールの作品は、このコーナーの数点だけで、展示されている作品だけでは、他の画家たちとの共通性は、平面性ということだけです。しかし、その平面性ということで、何か他のナビ派の画家たちとは異質な感じがして、ここでは、私には分かりませんでした。その分からないというのは、ベルナールの視点ということです。おそらく、彼に見えていた世界を画面に表現したと思うのですが、展示されていた作品を見ているかぎりでは、私には、その世界が見えてきませんでした。ただ、ナビ派というグループということでなく、一人の画家としてでないと見えてこない人ではないかと、想像できます。ただし、私には、それを見たいと切望するタイプの画家では、どうやらなさそうです。

ポール・セリュジェの「タリスマン(護符)、愛の森を流れるアヴェン川」という作品です。左上の木々、画面をななめに横切る道、川沿いの並木、右奥の水車小屋などあって、水面に映る対称的な姿、そのような風景の諸要素が、レモンイエローとオレンジ色そして青のベタ塗りの色斑になっていて、まるで抽象画のように映ります。まるで、初期の抽象画に本格的に移行する前のカンディンスキーの作品を想わせるところがあります。この作品は、タイトルの「護符」のようなナビ派の画家たちの方向性を指し示すマニュフェストのように位置づけられモーリス・ドニが所持し続けたということです。今回の展覧会で、セリュジエの作品の展示はこの一作のみで、ベルナールと同様に、この画家もよく分からないまま、消化不良を起こしそうです。

おそらく、このような作品の展示が続くのであれば、私が、ここに感想を残すことはなかったと思います。

 

2.庭の女性たち

ここでは最初の部屋に、カタログでは、もっと後のコーナーで展示されることになっているはずのモーリス・ドニの「磔刑像の奉納」という小さな作品に目が行きました。それによって、この展覧会に惹き入れられたと思います。この展覧会では、このドニの作品が最も多く展示されていたのではないかと思います(ものぐさなので作品数を数えたわけではありませんが)。彼は「美しきイコンのナビ」とあだ名されたといいますが、この作品を見れば分かります。磔刑にされたキリスト(磔刑像なのかもしれません)の下に駆け寄るにように集まる人々を黒い服の影にして。その群集の影の形態が波のような形となって層をなして、様々な色彩で画面いっぱいに広がっていっています。黒、赤、クリーム色といった色彩の階層は輪郭線でくっきりと縁取りされています。この波型の階層は、人々のオーラのようです。それはまた、キリストの姿からのピンク色の雲につながっているように。見えます。それは、信者のオーラとキリストから発せられるものとが、精神的な波が呼応するするように見える。おそらく、ナビ派というグループがどうかというより、モーリス・ドニという人には、それが見えていたのではないかと、私は想像します。それは、彼が霊能者とかそういうことではなくて、カメラで撮ったような一般的なリアルな視点では切り捨てられたところ。おそらく、そういうカメラのような視線(それは、いわゆるリアリズムというのがそれではあると思いますが)では見えなくなっている、見ないことになっているもの。ドニという人は、それを見えたのか、見ようとした。そして、その見ようとしたものを描くために、このような描き方になっていたのではないかと、私は想像したくなります。

「テラスの陽光」という、同じドニの「磔刑像の奉納」と同じ頃の作品です。画面右端の縦茶色は樹の並びで上方の緑は、その木々の葉でその下の画面真ん中上の薄い緑は、その間からのぞく空。空の下の赤は遠景はるかな背景はタイトルの陽光に映えているということでしょうか、その手前、つまり画面の真ん中の縦のオレンジの入った赤は人影で風景を前にして佇む人でしょうか。その人影のまわりは木漏れ日が注いでいるのか赤くなっています。そして、それ以外の地面はオレンジ色。それぞれ色の面に塗り分けられている。これは、前のコーナーで見たポール・セリュジェの「タリスマン(護符)、愛の森を流れるアヴェン川」に似たベタ塗りの色斑のような平面的な画面に見えるので、ナビ派という括りにしたのでしょうか。しかし、私には、ドニは、セリジュの作品を見て、そのような描き方があるということ、つまり描き方の選択肢を教わったという影響で、どうして、そのような描き方をするのかという点で、異なるのではないかと思えるのです。それは、ドニの「テラスの陽光」という作品は、セリュジェの作品よりもサーモグラフィの画面に似ている、と私にはみえるのです。ご存知のように、サーモグラフィは表面温度を検知して、その温度によって色がかわって画面に映し出されるものです。ドニの「テラスの陽光」の画面は、陽光が当たっているところは赤かったりオレンジになっています。そういう視覚では検知できないこと、この作品では温かさです。その基準でこの風景を映すと、この作品のようになるのではないでしょうか。その場合に、目で見る視覚で捉えていないので、空間とか遠近感は関係ないわけです。むしろ、皮膚感覚で温かさを色に置き換えて、視覚化させた場合、この作品の画面はリアリズムになりえます。ドニは、ここでは温かさを視覚で感覚しようとしている、というわけです。先に見た「磔刑像の奉納」もそうですが、ドニという人は、従来の視覚偏重の感覚とか世界への接し方に対して、感覚というの視覚だけではないということ、例えば音楽を視覚で感覚することはできない、そういう視覚だけでいると感じられないものを描こうとしたのではないかと、思えるのです。それを描くということであれば、視覚偏重の絵画技法は、あくまで視覚のためのものなので、音楽を描くとか温かさを描くとかオーラを描くとかいったことには使えません。また、音楽や温かさはそうですが、くっきりとした輪郭をもって外形がはっきり分かるように白黒の区別が明確なように存在しているわけではありません。どちらかというと曖昧で、茫洋として広がっているという存在のしかたでしょうか。あえて言えば、雲が近いかもしれませんが、そのようなイメージでドニは描こうとしたのではないか。だから、これらの作品は、あるがままを描いた写実的な作品なのです。その意味で、似ているように見えるセリュジェの作品とは、異質な作品ではないかと思えるのです。

かわって、ケル=グザヴィエ・ルーセルの「人生の季節」という作品です。何か展覧会のチラシなどで紹介されているナビ派の特徴を洩れなく、薄味ですが備えていて、見やすい作品になっているように思います。私には塗りが雑に見えて、それが目についてしまいました。

ピエール・ボナールの「庭の女性たち」という連作です。“この4点の連作は、四季を象徴しています。庭に居る女性たちが、色彩の斑点によって装飾的に表現され、服の柄と植物模様、ならびに色彩の調和が特徴的な作品です。女性の服は、まるで画面に張り付いているかのように平面的に描かれています。”と解説されて、そして、この縦長の画面は日本の掛け軸や浮世絵の影響ということらししいです。点描。というより、粗いドットでかたちづくった画像です。かなり粗い目のドットですが、それはスーラなどの光を微分するような精緻な目で捉えようというのではなくて、モザイクのような画像です。しかも、ボナールの作品はドットで画面をつくるだけでなく、ドットのセンサで情報を取り込んで、それをそのまま画面にドット単位で転写しているようなのです。視点という統合的な情報処理がなくて、各ドットで得られた情報がそのまま処理されているような感じです。したがって、全体としてのパースペクティブがなくて、当然空間の把握はなく、各ドットに色が塗られていて、それが組み合わさると結果として人の形になっていますが、結果としてそう見えるのであって、人体の立体感とか存在感とは関係なく、その点での色という情報が転写されているので、まるで文様のようになっている。しかし、人間というのは、そこにあるがままの情報を単に受け取るということはできないシステムになっています。つまり、センサでキャッチした情報を選り分けて、何らかの意味づけをして、その基準によって統合してはじめて視覚として認識されるわけです。一方、ボナールの作品は、そのままでは統合された意味づけがないので、人はそれを処理できないことになります。そこで象徴とか、何らかの名目、あるいは文様として捉えるということになると思います。その意味で、ボナールの作品は見る者が象徴とか意味を付加して絵画として鑑賞するか、文様のような飾り物としてインテリアのような機能をもたるものとして扱うことになると思います。ドニにしろ、このボナールにしろ、表層の感覚によって得られた情報を画面に転写するという点では、共通しています。つまり、二人とも、感情とか、メッセージとかいった、いわゆる内面的な要素はなくて、表層の情報処理に徹している。それがナビ派の特徴と言えるかもしれません。ドニもボナールも、この後の展示コーナーでもでてくるので、そのことを検証してみたいと思います。

このコーナーで最後に取り上げたいのは、アリスティード・マイヨールの「女性の横顔」という作品です。マイヨールは彫刻家としてオーギュスト・ロダンと並び称されるほどのビッグ・ネームですが、この作品は精細な印象の佳品だと思います。 

 

3.親密さの詩情

最初のところで、ナビ派の特徴として日常的なことを主題としたという特徴が説明されていたのを引用しましたが、そのまさに日常生活の風景を親密さというキーワードで作品としたものが展示されているということでした。

ピエール・ボナールの「ベッドでまどろむ女(ものうげな女)」という作品です。タイトル名や女性のポーズからみて情事の後の情景ということなのでしょうし、その女性のポーズが扇情的なのでしょうけれど、まるで、シーツのしわと同じように見えます。裸の女性が恥ずかしげもなく両足をひろげて、恥毛をあらわにするというポーズは、かなり扇情的で、それなりの意図や覚悟でもなければ、当時では描くようなものではない者ではないかと思います。しかし、この女性の上方のシーツのしわでつくりだされる模様と右方の毛布の形と、女性のポーズはよく似ていて、とくに女性が浮き立たせるようには描かれていないので、それらが色違いの模様のように見えます。ここにあるのは、たしかに日常の情景かもしれませんが、それを冷たく観察していて、描いている対象の女性に対して、シーツや毛布と同じように分子レベルで観察しているような、親密さの感情など微塵も感じられない機械のセンサのような情報処理です。

フェリックス・ヴァロットンの「化粧台の前のミシア」という作品です。ヴァロットンは2年以上前に、同じ美術館での回顧展で見ましたが、このようにして他の画家たちに比べると、その時に見えてこなかった特徴が際立つように思いました。その時には、フラットな画面に見えていたのが、いま、ドニやボナールの作品の平面性と比べると、はるかに立体的で、空間を感じさせる画面になっているのが分かります。しかも、二人に比べると見た目の形が明確です。化粧台、女性、背後の箪笥の位置関係とそれぞれの輪郭がハッキリしています。しかし、ヴァロットンの特徴としては、それがハッキリしすぎている点ではないかと思います。実際に目で見て、これほどまで書き割りのようにくっきりしていると、むしろあざとく映ってきます。そのあざとく映っているところでは、リアルのある部分をスッパリと切り捨てている。むしろ、切り捨てすぎているところに、冷淡に映るところがあるかもしれません。例えば、化粧台や箪笥、あるいは壁に建て付けられた棚は定規で直線をひいた図面のようですし、化粧台に置かれたブラシや櫛のような小物は、見る者がそれと分かるような明確な形で表わされていて、リアルな写生とは異なるものです。端的に表われているのが人物。化粧台の前にいる女性です。この女性は外形の情報を、画家なりの処理により、そのまま画面に転写したというのではなくて、実際に情報を取得しているのではなくて、女性らしき形を入れているように見えます。書き割りのような装置のなかで、いかにもそれらしいポーズ(かたち)の女性がレイアウトされている。それは、現実の日常生活の情景というよりも、演劇の舞台に設定されたホームドラマの風景のようです。ここで展示されているドニやボナールがセンサで情報を取得したままを描こうしていたのに対して、ヴァロットンは見る者の立場に立って描いているように見えます。多分、ブルジョワの小市民の生活なのでしょうが、それを伝統的な歴史画や宗教画の重厚な描き方で描くと、壮大で重苦しいものになって、わざとらしく窮屈になってしまいます。それを等身大で(この展覧会でいうと親密さ、ということになるだろう)描こうとして、このようなスタイルになっている、そういうように描いている。そこにヴァロットンという人の屈折というのか、一筋縄ではいかないところがあると思います。それは、同時に展示されているエドゥアール・ヴュイヤールの「エッセル家旧蔵の昼食」の家庭風景と比べてみると、特徴が際立つと思います。

 

4.心のうちの言葉

前のコーナーでヴァロットンとの比較で素通りしたヴュイヤールの「八角形の自画像」という作品です。ちょっとゴッホの晩年の自画像を想わせるところもあるのでしょうが、絵の具をベタ塗りして塗り絵のようになっているところなど似ているのですが、ヴュイヤールの方はゴッホの作品のような重量感は、あまり感じられないものとなっています。ゴッホに比べて色彩の鮮やかさをアピールしているところが、ヴュイヤールの特徴だと思います。“自身の自然な顔色を単純化した色彩に置き換えている。ブロンドの髪は黄色に、赤毛の顎ひげはオレンジ色に、肌の色はピンク色に、その色調を仕上げているのは、ジャケットの群青色である。”と説明されていますが、塗り絵のように色の対象になっています。顔の左半分が影がかかっていますが、それが陰影となって顔を立体的に見せているのではなくて、茶色の塗られた色の面というよに、この作品では、色の塗られた区画で、その区画が人の顔の形になっています。とは言っても、前のコーナーで見た「エッセル家旧蔵の昼食」では、色の使い方や色の面だけに還元したような描き方をしていないので、ヴュイヤールは、この作品では、このように描いているというのだろうと思います。むしろ、「エッセル家旧蔵の昼食」と共通している思えるのは背景の木の枝に実がついているような赤と青の点が散りばめられたような描き方と、色の塗り方が筆触を勢いとして残しているところです。それは、ゴッホのようにその筆触が文様のように残って、呪術的な強い存在感を主張しているのではないですが、これによって、一様にベタッと塗られていないところが、模様のような装飾性を感じさせます。それは、肖像画といっても、王や貴族のような偉い人が、その偉さや偉大さをアピールさせるものとか、あるいは、人物の性格や人間性がにじみ出てくるようにして往時をしのばせるといったものではなくなっています。表面的な見てくれだけが描かれている。ヴュイヤールの場合には、ヴァロットンとは少し違いますが、演劇の舞台のような作為が見え隠れします。演劇の舞台では、不特定多数に観衆に向けて、本来のひとりの人間の複雑な感情や思考の微妙な綾や陰影、あるいは伏線を示すことはできないので、ストーリーに関係するところ単純化して強調、あるいは誇張して示します。それが演技ということになるわけですが。観衆に分かってもらうためには、すべてが明確に分かり易く表われ出ていなければならい。したがって、顔を、このように描くことができる。絵画において、ヴュイヤールは、そういう見方しかできないというのか、表面しか見ようとしていないので、人の内面に隠された心といったものではなくて、かたちとしてあらわれた仕草とかいった明確なものをピックアップして描いている。だから感情がうかがわれる微妙な表情のニュアンスを読み取るといったことがない。この「八角形の自画像」では、広い額は、以前の肖像画であれば、年齢を重ねた落ち着きとか沈着さといった意味づけができるようなところですが、ここでは、単に額が広いという顔の特徴として見る事ができます。つまり、個性ではなくて、特徴が表わされているのです。人物を描くときに、目に表情が表わされること一般的ですが、ここでは、そのような意味づけがされずに、目という顔の部分の形が、人物独特の形の特徴を捉えて描かれています。目に表情を読み取りたい人には、空虚にしてか見えないかもしれませんが。それで、この人物の特徴を捉えることはできます。独特の色使いは、そのような特徴を捉え易くする工夫と考えることもできると思います。形、つまり、特徴がはっきりするのです。それは、他方では人物画の見られ方の変化も関係していると思います。おそらく、ヴュイヤールに作品を注文したり購入するのはブルジョワといった市民階級で、その住居、パリであればアバルトメントの居間とか寝室といったプライベートな空間に飾られるものだろうと思います。それは、以前の王族や貴族が宮殿や城といった公の広間や廊下などで、自身の権威をアピールする手段として立派な姿に描かせるのとは、ニーズの方向が異なっていたはずです。日常の生活をする場で、せいぜいが親しい友人や親類を招く程度の空間で、ご立派な姿を描いた肖像画があっても、場違いでしょう。それよりも、部屋の一部として納まっていたり、部屋を飾ったりといった機能が望まれていたのではないかと思います。その場合、表面的で、明るく綺麗な色であったほうがいいわけです。そういう綺麗な色が映えるには、グラデーションを効かせて立体的に描かれるよりも、平面的でもベタッと塗られているほうがいいわけです。そういう方向で人物を描いていくと、ちょうど、この作品のようになるのではないでしょうか。

ピエール・ボナールの「格子柄のブラウス」という作品です。展覧会チラシのタイトルバックに使われている作品ですから、今回の展覧会の目玉ということなのでしょう。前のところで、同じ画家の「庭の女性たち」という作品はモザイクのようだと述べましたが、この作品では女性の着ている服の格子柄が四角いモザイクの組合せそのものです。そして、背後の壁やテーブルの上の食器や女性の手の部分などもモザイク模様のように描かれていて、作品全体が模様のようになっています。とくに、この作品では、そういうモザイクの模様のように描くという手法が優先されているというべきなのが、人物を含め立体の影が描かれていなくて、模様の平面さが意図的であるのが分かります。こうして見ると、ボナールという画家は表現手法、あるいは対象を感覚する手法を優先する人であったように思います。ヴュイヤール以上に、物体の表層をなぞることを徹底しているようです。この作品でも人物の表情を表わすよりも、模様のように人物を描くことが優先されていて、ボナールという人は、人物も事物も単に絵筆を動かす対象としては同じで、いうなれば「ミソもクソも一緒」、単なる光の反射にフラット化されているようです。そういう冷めた視線はナビ派の画家たちに共通しているのですが、とくにボナールにその傾向が強いのが、この作品に端的に表われていると思います。

おそらく、現代のイラスト等で問われているクリエイターのセンスというのが、このナビ派の人たちの作品あたりから、前面に表われてきたのではないのか、と私には思いました。それまでも画家の個性ということはあったと思いますが、それ以前に技量の差とか、画面を作る上での教養とか、そういったことによって、画面を隙なく仕上げていくことが、画家の土台としてあったと思います。しかし、とくにボナールの作品などを見ていると、画面を完璧に仕上げることよりも、画家が独自の視点で、風景や人物のある一点を取り上げて、それを今までになかったり、他の人ではやっていなかったように表わしてみせる。その手際が鮮やかであるとか、その表わし方に視覚的な快さを生んでいるとか、現代の言い方でセンスを感じるとしか言いようのないこと、そういう従来にない刹那的な感覚の心地好さを作り出している。これは、絵画の購買者が王族、貴族や教会から市民階級あるいは産業化による経済社会の進展によって産業家や振興のブルジョワに変化していったことと、消費社会が生まれたことによる変化も影響していると思います。何やら難しげなことを述べていますが、かつては貴族などが画家のパトロンになって、作品を注文して描かせていたため、主題などの仕様が規制されていたものの、身分は保障され、じっくりと作品を描くことができたわけです。しかし、購買者が変わると、貴族から庇護を受けることはできなくなって、作品を仕上げて、それを販売するようなことに変化します。その作品というのは、画郎という小売店や展覧会に展示して、そこで目についたものが売れるというもので。そこでは、制作からじっくりと作品を見続け、作品を見る教養が備わっている貴族の場合とはちがって、ぱっと一見の印象で気に入って買っていく、あるいは画商のセールストークに乗って買っていくという刹那的な、衝動買いに近いような売られ方でしょう。そこで、売れるためには、他の作品よりも目立つことが第一です。そこで、このナビ派のように、伝統的な教養とか、長い時間で培われる絵画をみる目などがなくても、パッと目について、心地好く感じる要素だったのでないでしょうか。そう考えると、ナビ派の特徴というのが、時代の要請に応える必然性があったということが分かる気がします。そして、現在の感覚で、好き嫌いでみることが、ここで展示されている作品については、あながち的外れではないのではないか、と思うのです。特に、ボナールの作品を見ていると“藝術”というよりは“アート”というイメージが似合っているようで、それは少し前の世代の印象派と、大きく違う点だと思います。

ボナールに比べるとモーリス・ドニの作品は、絵画になっていて(変な言い方ですが)、上手いという印象です。自身の婚約者をモデルに描いた作品「マレーヌ姫のメヌエット」では人物がちゃんと肖像画として様になるように描かれています。しかし、色白を通り越した蒼白に近い肌は人の温もりが感じられず、目は虚ろな感じで、顔に表情がなくて、不気味な印象を受けます。顔たちが整っているだけに、その不気味さに底知れないものを感じさせます。そして、ピアノの背後の、壁であるだろう背景が点描によって、現実にない背景になっています。それが、ドニが意識することなく、モデルの女性に見ていたものが、画面に表われてしまっている。おそらく、モデルは婚約者ということですから、親密で愛情溢れるような作品にするのが自然でしょう。本人も、そうしたかったのではないかと思うのですが、このような底意地の悪いような不気味な作品にはしたくなかったと思います。それが、そうなってしまったのは、画家が意識することなく描いていて、そうなってしまったとしか考えられません。そうであれば、画家の目が、この女性に対して、そう見えてしまったとしか考えられません。しかし、同じ年に制作された、キャンバスにバステルで描かれた「婚約者マルト」では、バステルの淡い味わいを生かした、親密で可愛らしい作品になっていると思います。

ドニの「婚約者マルト」を突き詰めて追求したような作品が、ヨージェフ・リップル=ヨーナイの「花を持つ女性」という作品です。これは、今回の展覧会でも、私にとって収穫とも言える作品で、朧に霞んだような画面に、ぼんやりと浮かんでいるような女性の姿と、手に持っている花の赤が鮮やかで、その幻想的な画面に魅入られるようでした。

それと、ついででもないのですが、このような画家たちと比べるとヴァロットンの肖像画は次元が違うというのか、まるで写真のような迫真の描写で、しかも、写真にならず絵画の写真にない匂いのようなものを、あざといほど強調するように描いていて、この画家の単に技量にはしることをしない賢さ、というよりも屈折した姿勢に感心してしまうのでした。

 

5.子ども時代

ヴァロットンの「ボール」は、数年前のヴァロットン展以来2度目でした。私は、あまり、画面の深読みをしない人なのですが、解説で説明されているような何重にも張り巡らされたという伏線がなくて、一見牧歌的な画面が、一筋縄ではいかない雰囲気があるのは分かります。ヴァロットンという人の悪意ともいうべき、屈折した作為というのは、他の展示されているナビ派の画家たちとは一線を画していて、それが、ヴァロットンという画家の特徴を際立たれていました。

これに対して、モーリス・ドニの「メルリオ一家」という作品です。これも上手い作品であると思います。しかし、ヴァロットンにあるような作為的な仕掛けはなくて、視覚的な楽しさに溢れています。背景をグリーンの色調で、その淡い明るさを様々な段階の濃淡で描き分ける、その色遣いの巧みさ。そして、草や葉を点描のように描いて、その点の大きさや並べ方、密度の使い分けで画面にリズムを作り出している、まるで音楽が聞こえてくるような様子。これに対して、人物の中心は3人の子どもたちで、背景の淡いグリーンに対して淡いブルーの衣装を着ていて、グリーンとブルーの対照でもない、同系列でもないが、落ち着いて、静かな印象をつくりだしていて、子供たちのきているものがシマの柄になっていて、その身体のポーズに合わせて波打つように屈曲しているのが、背景の点描とは別のリズムを作り出し、それは他方で母親と子供たちの金髪の髪の毛のウェーブ(波)と呼応しています。

 

6.裏側の世界

“ナビ派の美学的理想を育んだのは、哲学や秘教、宗教についての読書であり、かれらは「神殿」とよびならわされたランソンのアトリエで週ごとに行われる会合において、それらについて議論を交わしていた。彼らは芸術家を可視の世界と不可視の世界の仲介者とみなし、夢や、詩や、象徴と関係した主題に熱中した。”と解説されていました。それで、このようなコーナーが設けられているわけです。しかし、画家たちが哲学や宗教を論じようと、不可視のと可視の狭間に立とうと、結局は、作品として画面に画像として表わしたときにどのようなものになるのか、で見る者は作品と接しているのであって、その背後で、画家たちが議論しているとか、そういうことは背景にすぎません。要は、表わされた画面から、見る者が、そういうことに想いを至らさせることができるかどうか、で私は見ているので、そういう作品なのか、というと、これまでの他のコーナーの展示も併せて、ナビ派の作品世界は表層に終始している点に、独自性とか魅力があるので、背後のものは、むしろノイズで、付加価値にもならないのではないか、というのが私の思っているところです。

モーリス・ドニの「ミューズたち」という作品です。“マロニエの木々の間に女性が集い、それぞれに過ごしています。椅子に座っている者、立っている者、書を広げている者、踊ったり、語り合ったりしているような姿もあります。真ん中の女性は、スケッチブックを膝に広げ、鉛筆を削っているかのような仕草をしています。描かれているのは、古代ギリシャ神話に登場する技芸の女神(ミューズ)たちですが、同時代の衣装をまとい、現代の物語として描かれています。”という説明がなされています。ここで、この解説に反論するつもりはないですし、タイトルがそうなので、画家はギリシャ神話を主題にして描いたつもりなのでしょう。しかし、これを見る側が、わざわざギリシャ神話の女神を描いていて象徴として見ていくような作品なのでしょうか。私には古典の教養がないからでしょうか、「ミューズたち」という作品タイトル以外にギリシャ神話に関係するものが何もないのです。全体の雰囲気がそうなのかもしれませんが、だから象徴を感じようもないのです。それよりも、構成の面白さのほうが、この作品の魅力なのではないか思えるのです。ルネ・マグリットの「白紙委任状」を想わせるような構成は、マロニエの木の幹と、背景の人物たちが立ち姿であるのが画面のなかで垂直のタテの線となってリズムを作り出していて、その垂直で仕切られた部分がそれぞれのシーンをつくっていて、樹の幹を区切りとして場面転換をするようにシーンが移っていく要素があります。また、木々の枝に繁る葉や地面の落ち葉が模様のような正面の姿の葉の形で、木の幹で仕切られたタテをまたぐようにあって、それぞれのシーンのつなぎの役割を果たしているように見えます。そして、前景の3人の人物のうち2人の女性の着ている衣装の模様とも繋がっているように見えます。また、視点を変えると人物や椅子、木々は、それぞれ太く明確な輪郭線で描かれて、平面のようで、しかる、それぞれが類型的な外形になっています。それらはタペスリーやステンドグラスのデザインのようにパターン化されています。例えば人物はすべて横顔になっているとか、それに対して木の葉は正面の角度ど描かれている。しかし、人物の横顔の輪郭の内側は陰影がつけられて、陰影がつけられ立体的に、割合に写実的で、それぞれの人物の個性が描き分けられています。それだけが、画面の他の部分と異質になっています。そういう視覚的効果が、この作品の特徴ではないかと思います。そして、おそらく、ドニという画家には、この世界が、そういう秩序のように見えていたのではないかとおもえるのです。以前にも、この人は単に目で見ている、いわゆる写実とは違うものを見ていたと、のべましたが、この作品も、そういうところがあって、ドニというひとはには、実際に認識したものを描いたのではないかと思えます。このコーナーは裏側の世界ということになっていますが、私には、ドニという人は表も裏もなくて、ただ表層だけという作品として見ていました。このコーナーは、もっともらしいタイトルなのですが、こじ付けで無理して集めたような感じで、こんな無理してコーナーにしないて、素直に見たほうがいいと思える作品ばかりでした(他のコーナーに比べて、たいしたことはないとは言いませんが)。

これまでの感想の中でも述べましたが、こうして通してみてみると、ナビ派の特徴は展覧会でも説明されていましたが、私なりにまとめてみると、一般市民に消費される商品として絵画が売られる状況に対応して、画家はパトロンの注文に応じてじっくり作品を仕上げで出来栄えを評価してもらうことから、画廊や展示会に並べて趣向やセンスで購買者の目をひいて購入してもらうということが制作のめざすところになったことに、いち早く対応した人々のひとつがナビ派ではないか、と思います。そのひと目をひくために採ったのが、ナビ派の特徴として説明でも触れられているスタイルだった。だから、徹頭徹尾表層的で、見た目の効果にこだわるというところが、私としては、この展覧会を見ていて強く印象に残りました。

 
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