ヴァロットン展
─冷たい炎の画家─
 

2014年7月11日(金) 三菱一号館美術館

未だ梅雨明けには至らないものの、梅雨末期のめりはりのある一方の極、ということで真夏を先取りしたような猛暑となった日、都心でのセミナーのあと金曜日は美術館も時間延長しているのだろうと、東京駅近くという場所がらのせいもあり、寄ってきました。

このヴァロットンという画家のことは、私は知りませんでした。ただ、展覧会のパンフレットの絵がどこか変な感じがするのと“冷たい炎の画家”というキャプションに興味を持ったので、行ってみました。今回の展覧会は、このヴァロットンという画家を紹介するということが主な趣旨であると思うので、その切り口とか、そういうことはあまり考えないで、どのような絵を描いているのか、それをまず見るということなのでしょう。それで、主催者の挨拶も画家の概要をかいつまんで紹介するという体のもので、以下に引用します。

“ヴァロットンの名は未だに一般の人々には広く知られていませんし、パリでもこの数十年の間、この画家についての重要な展覧会は開催されていません。今こそこの忘却が埋め合わされる時です。1865年にスイス、ローザンヌに生まれ、1925年にパリで没したヴァロットンは、二つの国の間で、世紀を跨いで活動した画家です。ヴァロットンは、ボナール、ヴュイヤールやドニとともに活動し、同時代のポスト印象主義画家であるゴーガン、ゴッホ、セザンヌ、さらにフォヴィスムキュビスムの芸術家たちとも交流を深めました。しかし、唯一参加した芸術家集団「ナビ派」でも「外国人のナビ」と呼ばれたように、前衛芸術の渦中にいながらも独自の道を辿りました。この風変わりな画家の様式は、滑らかで冷ややかな外観が特徴です。洗練された色彩表現、モティーフを浮かび上がらせる鋭い視線、大胆なフレーミング、日本の浮世絵や写真に着想を得た平坦な面を有しています。ヴァロットンは、欲望と禁欲の間の葛藤を強迫観念的な正確さで描き、男女間の果てなき諍いに神話的なスケールを与えています。その鋭い観察眼に裏打ちされた繊細さによって、気が滅入る程の凡庸さを脱し、謎めいた力強さを表現しました。ヴァロットンが描く風変わりなイメージは、その率直さと情熱、そして知性によって今日も我々を魅了してやみません。”

と、これだけでは、どんな絵を描いていたか分かりませんね。一応、ウィキペディアとか新聞の死亡記事に載っているような概要にはなっているので、その程度でいいかもというところです。主催者による紹介が、このように力が入っていないで揚げ足を取られないようにしているような無気力さに溢れているものだったので、最初、少し後悔しました。でも、この最初の落胆ほど展示されていた作品は、まあまあ見ることができた、というものでした。たとえば、展覧会パンフレットのもうひとつの作品、裸婦像(右図)を見てみましょう。身をくねらせて扇情的なポーズをとっていて、一応それらしく見えるように描かれていますが、官能性とか肉感のようなものは微塵も感じられないものになっています。かといって、色彩とか敬称とか量感とか何かを抽出して美とか真実とかを主張しようというものでもない。まったく時代が違いますが、私はこれを見ていて似ていると思い出したのは、ルネ・マグリットの作品(左図)でした。シュルレアリスムのマグリットとこのヴァロットンの間に美術史上の接点は多分ないのでしょうけれど、人物を写生的に描いているようで、その人物にリアリティがなく、ペッチャンコでノッペリしているところに共通のものを感じます。それは、人物を描くということは目的ではなく、ひとつの手段であるかのようなのです。実際には、そこに描かれた人物に何らかの細工が加えられ、それによってあるものを伝えようとか、ある雰囲気を作り出そうとか、そういうものになっている。とくに、ヴァロットンにしてもマグリットにしても、センスとかウィットとか皮肉のようなことが画面に加えられる作為の根底にあって、それが隠された趣意ともいえるもので、そのためには人物を描くにしてもリアルでないほうがいい、リアルであれば存在感に作為が負けてしまって、隠れた趣旨が伝わらなくなる。その反面、画面での描写手法では過激なことをやってしまうと、そこに見るものの注意が集中してしまって、これも隠された趣意を汲み取ってもらえない。そこで、一見すると、現代でいうイラストのような見易い描き方を意図して採っている、という印象です。だか、あくまでも主流になれないで、主流に対して傍流にいて主流に対して皮肉な視線を送るという位置にいるべき作品という気がします。歴史に残る傑作などというのとは無縁な、時流のなかで皮肉とウイットで分かる人がニヤッとする、そういった類の画家ではなかったのか、それだけに、同時代の一部の好事家から支持されるというような位置づけで、むしろ、パブリックなミュージアムで回顧展などとご大層なこととは本来向いていない、そういう意味では浮世絵の画家たちとも通じるところがある、そういう印象です。だから、この画家には、作品を見て、分かる人がニヤッと唇の片端をニヤけてみせるというのが最大の賛辞なのではないか、と思わせるのではないかと思います。とはいっても、私には、そういう意味で展示されていた作品について、ニヤッと笑えるほど分かった作品は多くありませんでした。また、そのニヤの内実を説明するのは野暮の骨頂になりますが、それをあえてしようというのが、ここで私が今までやってきていることなので、これから具体的な作品をみていこうと思います。展示の章立てに従って見ていきたいと思います。 


 1.線の純粋さと理想主義

「20歳の自画像」(左図)という作品です。展示室で最初に目に入るのが、この作品だったのですが、実は、私には出会い頭ということもあったのでしょうか、この作品の印象が一番強く残ることになってしまいました。その印象は上手いということで、もとより、私は自分で絵筆をとって描くことはしないで、もっぱら見るだけの人なので、描く際の巧拙は具体的には分かりません。しかし、出来上がりの完成度の高さとか、全体のバランスのきちっと整っていること、そして、これが一番大きな要素だったのですが、デッサンが完璧といいたいほど上手い印象を与えていたということでした。まるで古典を見ているような感じを与えるものでした。かといって、それがこじんまりとまとまってしまっているのではなくて、その真に迫ったような描写が迫力をもって見る側に訴えかけてくるところもある、生き生きとしたものでした。だから、この展覧会のサブタイトルの“冷たい炎の画家”というのと何やらそぐわない感想を持ったのも事実です。

それが2年後の「帽子を持つフェリックス・ヤシンスキ」(左図)になると完璧だったバランスが崩れていきます。まず、顔の左右のバランスが崩れて古典的な均衡からくる整った感じがなくなり違和感が生まれ、写実的という感じがしなくなってきています。しかし、ここにあるのはモデルこそ描かれた当時の同時代の姿をしていますが、その体裁は数百年昔の、ルネサンスのころの昔の構図のような枠に無理に当て嵌めていて、そこに写真の対比が感じるような現代的な写実との間に生まれるわずかな齟齬をあえて感じさせるように描いているように、私には感じられました。いうなれば、そのような違和感を見るものに湧き起こさせることをヴァロットンが操作して意識的にやろうとしているように、わたしには感じられました。

その10年後に制作された「タデ・ナタンソン」(右図)という作品では、人物の顔と身体と、そして背景がちぐはぐです。しかし、全体の構成としては、中世からルネサンスのころの古典的な肖像画の体裁に収まってしまっています。だから、なんとなく違和感を感じるのだけれど、それが全面的に露になってはこないで、仄めかすようにして、見る人は、どこか違うと感じつつも、その原因がどこにあるのか、はたして変なのかはっきりしないという宙ぶらりんの感じを作品から受け取ることになります。

多分、私の個人的な感想でしょうけれど、ヴァロットンは意図的にこのような画面を作っているように思えてなりません。最初の「20歳の自画像」の完成度の高い作品は、その後の見る者に違和感を感じさせるためには、その前にまったく違和感の生ずる余地の無いものを作っておく必要があったから制作したとも勘繰りたくなるような作品です。非常識をするためには常識を弁えていなければならない、とでもいいたげなようなのです。私には、そこのズレの絶妙さがヴァロットンの作品の生命線といえるのではないかと思えました。

しかし、ヴァロットンはなぜ、このような変なことを、わざわざ手間をかけてまで行ったのでしょうか。そこに、私にはヴァロットンという画家の特異性があるように思えてなりません。彼が活動を開始したころのパリの画壇は、アカデミーの画家がいる一方で印象派の画家たちが活躍していたと思われます。印象派の画家たちは、光とか色彩を重視して描こうとしていたし、その中で模索していたセザンヌはこのころから独自に存在を画面に定着させようとユニークな作品を描き始めていた、そういう時期だったと思います。そのような動きは実は多彩で十把一絡げにしてしまうのは乱暴だと言われそうですが、そこをあえて強引に言うと、これらの動きは総じて、目の前に真実があるということになんら疑いをもたずに、それをいかにキャンバスに写すかということで様々な試みをしていたと言えるものです。ところが、目の間にあるものが真実なのか、あるいは、今目の前にあるように見えるのが、本当に存在するのか、それに疑いをもってしまったら、そういう試みはすべて意味を為さなくなります。しかし、それを正面から否定しまえば、それは逆に目の前には偽があるということで、結局同じ穴の狢ということになってしまいます。それは、例えば幻想世界とか精神世界を描くような象徴主義の絵画がそういう世界観に近いものだったと思います。その中で、真実に疑いを持ち続けるためには、全面否定への誘惑に負けず、それに対してシニカルに接していくほかありません。一種のアイロニーの姿勢です。それを、ヴァロットンという人は、現実に対して、どこかシニカルに接し、現実の綻びを執拗に見つけ出し、仄めかすという戦略で作品を制作し続けたのではないか、と私には思えました。

ヴァロットン本人は感覚として、そういう違和感を持ち続けた人だったのではないか。その感覚が絵を描くことによって、当初は本人ですら気がつかなかったのが、描く作品に表れてしまったのを、本人が後から気づくことで、絵を描くことによってヴァロットン自身もその感覚を研ぎ澄ましていったのではないか、と私は想像します。つまり、ヴァロットンにとって絵を描くという作業は、現実世界の存在とか真実に対する違和感を察知し、その感覚を育てていくものだったのではないかと思われるのです。

ヴァロットンの肖像画は、そういう画家が自身の感覚を自覚し、それを制作に反映させていく軌跡がよく表われているように思えます。それは、対象との距離感の変化で、時代が下るにつれて対象との距離感がだんだんと開いていって、「タデ・ナタンソン」では、対象を突き放すかのように、人間的な感情とか息吹が感じられなくなり、マネキン人形のようになっていきました。

そのように冷たい人物表現が端的に感じられたのが女性ヌードを題材とした作品です。正直に申せば、官能性を感じることがまったく無いのです。「休息」(右上図)という作品に描かれた女性は、美人の範疇に入るでしょうし、肢体も豊満で、扇情的なポーズをとっていますが、生々しさとか肉感性がないのです。マネキン人形を見ているようなのです。これは、女性の顔に個性がなく、ポーズの顔の位置と大きさの不自然さに目が行ってしまうのです。「トルコ風呂」(左図)は大作で、オーギュスト・アングルの「トルコ風呂」(右図)の影響を受けたと解説されていましたが、両者を見た限りでは似た感じはしません。ただ、アングルの描く裸婦は絵画上の見栄えのために現実では不可能なような無理なポーズになっていることがあって、描かれるものよりも描いたものを優先するところがあり、その姿勢をヴァロットンが範としたのかもしれないと思いました。

 

 2.平坦な空間表現

前回の展示で、ヴァロットンの作品の印象が目の前にあるものが本当に存在しているのかという真実性にたいして違和感を抱いてしまったがゆえに、真実をキャンバスに描くというこということに対して懐疑的になっていく姿が作品から見えてくる、ということを述べました。それは、リアルにみえる写実的な表現を少しずつずらしていくことで、作品を見るものにちょっとした違和感をもたせることを意図的にやっていたように見えるということでした。これは、綱渡りのような危うい均衡の上を行くようなものです。開き直って、目の前にあるものは真実ではないと言い切ることはできないのです。現実の生活は、そういう真実に対する信頼の上に成り立っているのですから。もし真実でないということになってしまえば、何ものかを描くという絵画というものに意味はなくなってしまいます。

しかし、この真実に対する懐疑を抱いてしまった人は自分ひとりだけではないはずです。そういう人々は、たとえそのようなことを感じてはいても、それをおくびにも出さず、まるで何事もなかったかのように毎日を過ごしているはずです。つまり、そういう人は表面上を取り繕って、もっといえば、嘘をついて生きていることになるわけです。要は、それが嘘であるとしても、嘘をつかれたひとが嘘と思わなければよいわけです。そうであれば、絵画であっても、真実かどうか分からないものを、そのことを表わそうなどという手間のかかることをするのではなく、見る人にとってそれらしく見える嘘をつけばいいわけです。そのために、ヴァロットンは作品の画面のらしさを追求して行ったのが、ここで展示されている作品ということができると思います。

「ボール」(左図)という、この展覧会のチラシやポスターでメインに使われた作品です。この作品については、様々なところで解説がなされているので、いまさらと思いますが、簡単に述べてきます。一見、ボールを無邪気に追いかける少女を詩情豊かに描いた作品ですが、どこか落ち着きません。全体をよく見通してみると、緑色の大きな影のあちらとこちらとでは明らかに視点が違っています。手前の少女は上から見下ろしているのに、奥の二人の女性は横から見ています。気づかなければ、通り過ぎてしまうものが、いったん気付いてしまうと無視できなくなります。エドガー・ポーの「群集の人」のような印象です。そんな不条理な不気味さをいうのは不似合いですが、ここでヴァロットンがやっているのは、だまし絵のようなものです。それを可能にするためには、前回のように写実に描き込んだ様式では不可能で、画面を単純化させて、作品を見る人がシンプルに見ることができることが必要です。そしても画面に操作を加えることになるのですから、単純化、見もっと言えば図案化したほうが操作を加えやすくなります。図案化されれば、見るものはそれなりに想像力を働かせて、それを見る人なりに、というよりはパターンに従って現実に当て嵌めて見るようになります。だから、この展示の章立てのタイトルである平坦な空間表現というは、そのために格好の手段となってくるわけです。

したがって、ヴァロットンに対しては印象派とかいうゆう表現技法とか様式によって結果として出来上がった作品の特徴が出来上がったというような分類にはそぐわないタイプなのではないかと、私は思います。必ずしも、理念先行で主題が重要だというタイプの画家ではありませんが、技法とか様式というものはあくまでも絵を描く手段であることをわきまえているひとであると思います。そこにヴァロットンという画家のユニークさがあると思います。

「ワルツ」(右図)という作品では、今で言うイラストに近い仕上がりものになっているのではないでしょうか。ダンスする人々の動きを瞬間を捉えて筋肉の動き等を活写するのではなく、足の描写などは流れるように不断に動いているのだからと描くことをやめてしまっています。これなど、まんがの表現技法につかい発想です。まるで人々は空間に浮遊しているようです。でも、これは実際に踊っている人々の感じている状態というのは、このようなものではないか。それを周囲で傍観している人と、ダンスの渦中にいる人では感じている感じ方が異なってくるので、その違いを表わそうとすると、傍観者が見たように描くいわゆる写実的表現とは違ったものになってきます。表現の仕方としては、浮世絵の風景の雨の描き方に似通っている感じもしますが。これは、それでらしく見えます。 

 

3.抑圧と嘘

ヴァロットンの作品が目の前に見えている現実の存在が、はたして真実そうなのかという懐疑が底流にあって、リアルにみえる写実的な表現を少しずつずらしていくことで、作品を見るものにちょっとした違和感をもたせることを意図的にやっていたように見えるということに結果としてなっていくことがある。しかし、現実の生活では、そのような懐疑を、たとえ抱いていたとしても、人というのは、人々の関係やら、その総体である社会やらの中で、真実であるということが常識となっているのであれば、それに従うことで社会生活を滞りなく行っている。それは、たとえ真実でなくても、あたかも真実であるかのように虚構的に振舞うことができる。絵画においても、真実らしく見えることで、たとえ描かれているのが真実でなくても、それは真実を描いていることになってしまう。そのようなズレを意識して、いわば作品のなかに虚構を持ち込むことを意図的にやろうとした。それが前回まで見てきたヴァロットンの作品でした。

ここでは、そのような真実と虚構(うそ)のすり替えをするというのは人間ならではのことです。人間は嘘をつく存在である。真実かどうかを疑うなどということは、嘘ということが可能であるからです。疑うことを知らなければ、真実に疑いをさしはさむなどということは起こりえないことです。ということは、目の前にあるものが真実存在しているかという懐疑は、人が嘘をつくからこそ生まれるものだ。そんなことをヴァロットンがうだうだと考えていたとは、思えませんが、方向性としては虚構(みせかけ)の真実らしさということに行き着いたことから、その根源である人というものを描こうとしても、おかしくはないでしょう。

「ポーカー」(上図)という作品です。ポーカーの卓を囲む人々は類型化され、表情を細かく描きこまれていません。しかし、ポーカーというゲームは相手に対して嘘をついて虚々実々の駆け引きを楽しむゲームです。ヴァロットンは古今の美術史上の作品をよく勉強していた人のようなので意識していたかも知れませんが、私には、バロック時代の画家ジョルジュ・ラ・トゥールの「いかさま師」(右図)という作品を想い出してしまいます。ラ・トゥールの場合にはカードの駆け引きでの人々の表情を風刺的に強調して描いていますが、ヴァロットンの場合はむしろその伝統を踏まえて、あえて人々を無表情に描くことによって、見るものの想像力を掻き立て、それとともにこの人々が無表情でいることで、表情の下に隠された水面下でのやりとり(嘘)が却って強調される、無表情に隠れているだけに嘘の執拗さが表されていると言えます。また、ラ・トゥールの作品のようにカードに興じる人々を中心にするのではなく、ヴァロットンはポーカーの卓を囲む人々を遠景にして、わざと遠ざけて、しかも部屋の奥の片隅に卑屈なほど押し込めてしまって、前景中央に意味を感じられない大きなテーブルをわざわざ描いていることで、そのようなことに対するヴァロットン自身の距離感を表しています。そのことは、実は真実に対する懐疑を抱いている自身は、おそらく嘘をつく人々に入っているはずなのに、その象徴であるポーカーに興ずる人々を距離感を作り出しているところに、この絵にあるヴァロットンの距離感というのか、彼自身のスタンスの微妙さ、自分自身を肯定できていないジレンマのようなものが画面に表われていると思います。

「貞淑なシュザンヌ」(左図)という作品は、反対に人の表情を強調した作品です。3人の人物が画面にはいますが、うち2人は男性で作品を見る者に対して背を向けているため、見る者が表情を見ることのできるのは、こちらを向いている中央の女性だけです。シュザンヌというのは旧約聖書「ダニエル書」に登場する女性で、夫の留守の間に長老たちから貞操を汚されそうになり、拒絶したところ、逆に姦通の冤罪を帰せられたが、最後には無実が証明されるという人物です。そういう含みが作品タイトルにあって、それを先入観として作品をみると、俄然深みのある作品のように見えてきます。さきほど、ラ・トゥールの作品を参考として紹介しましたが、このラ・トゥールの作品の真ん中でいかさまをしている女性の表情の描き方は、このヴァロットンの描くシュザンヌとおぼしき女性とよく似ています。意味深な作品タイトルがなければ、そういう見方で見てしまうのです。そして、さらに人は表情というのは必ず他人に向けて送るものです。孤独でいる人は表情を作りません。だから表情作る人がいれば、それを受ける人がいてはじめて完成するのです。しかし、この作品では、女性が表情を浮かべていますが、それに向かって座っている二人の男性はあえて表情がうかがい知れないように描かれています。そのために女性の表情が宙ぶらりんになってしまっています。そのため、彼女の浮かべている表情があいまいで、どのようなことを表しているのか、作品を見る者の想像にませるようなことになっています。これは、嘘というのが、実は人と人との関係から嘘から出たまことではないですが、関係の中で決まってくるからです。だからこそ、本来であれば、この作品主人公で中心人物である女性が画面中心に描かれていてもいいはずなのに、わざと左側に寄ってしまって、右側は余白の空間を空けているのは、そこに想像の余地が大きいことをシンボライズしているのではないでしょうか。

この二つの作品の画面構成を見ていると、かつてのハリウッド映画の演出の空間構成とか動線の作り方とよく似たものを感じるのですが、時代から見て、映画のほうが後です。 

 

5.冷たいエロティシズム
  ここでは、ヴァロットンの描いた裸婦像を集めての展示です。ここでの裸婦像は、かつてのように神話や物語に借りた理想の美をあらわすものというものや、アングルらのオリエンタル趣味の舞台でヨーロッパの人間とは違うものとしてヌード画像を表わす、というものではありません。印象派による、そのものずばりのストレートなヌード画像です。しかも、ヴァロットンのヌードは、室内で(ということは娼家)、描かれている女性は娼婦です。そのポーズはかなり扇情的に身をくねらせて、挑発的ですらあります。現代の男性雑誌のヌード・グラビアによく似ています。しかし、それが官能的とか、肉感的とか、そういう印象を見るものに抱かせるということはないと思います。いわゆるワイセツという感じははしません。もっとも、ワイセツかどうかというのは、かなり主観的な基準になるので、私だから感じなかったということもあるかもしれません。しかし、そういう場合には性的なリアリティーらしさ、生々しさのようなものがあってしかるべきですが、ヴァロットンの場合には、そういう要素がほとんど感じられません。ヴァロットンの場合は、女性ヌードを描いても、それが生身の女性というよりもマネキン人形のように見えてしまうのです。では、ヴァロットンは形態とか陰影とか色彩とかそういう要素にむしろ興味があって、そのためにヌードを描いたのか、というと、それもないようです。というのも、そういう場合であれば、不自然なほどに身体をくねらせた扇情的なポーズをとらせたり、形態を歪ませたりはしないはずです。また、ヌードの身体の肌の描き方が妙にツルツルな滑らかさで人の柔らかさからはほど遠いものにはしないはずです。

「オウムと女性」(左図)という作品です。マネの「オランピア」(右図)とよく似た作品です。もっとも、このような作品の女性のポーズはティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」以来のヌード画像の代表的なポーズです。これをマネは堂々と娼婦を、そのポーズで描くことで、発表当時にはスキャンダルになったといいます。それが、ヴァロットンの制作した1900年代初頭には、もう衝撃は薄れていたのでしょうか。「オランピア」で描かれているのは少女といってもいい女性であるのに対して、ヴァロットンの描いているのは成熟した女性です。しかし、どちらに肉体の生々しさを感じるかというとマネの方です。ヴァロットンの場合は身体には陰影が描き加えられているので、身体の凹凸は分かりますが、輪郭線がはっきりしていて書割のような感じで、しかも女性の身体の外側の輪郭のカーヴがベッドのシーツの皴と同じ形になっていて、いわば、女性の身体の線がシーツに波紋のように広がっているかのようです。このように様式化されてしまっています。まるで、これでワイセツに感じるなら感じてみろ、と挑発しているかのようです。

「赤い絨毯に横たわる裸婦」(左下図)という作品です。アングルの「グランド・オダリスク」(右下図)を裏返しにしたようなポーズの女性です。窮屈なほどに腰をくねらせて、尻をこちらにむけさせて強調しているのは、アングルのポーズを真似たものではないかと思います。ヴァロットンの作品では、背景もなくただヌードの身体が画面中央にあるだけ、という構成としては抽象化されたものですが、その昇天の集まるヌードについては筆跡は粗く、塗りにはムラがあるように見えます。そして女性の顔はまるでデッサン学習のための角張った石膏の顔を写しているような柔らかさのない、それゆえ表情が見えないものとなっています。それだけに、生身の身体という感じがしないでいます。

このようなヌード画像をヴァロットンは少なくない数を描いたようですが、そういう注文が多かったということなのでしょうか。何ゆえに、このようなものを多く描いたのでしょうか。ひとつ考えられるのは、他者、つまり作品を見るものをヴァロットンがあらためて認識したということなのではないか、と私は想像しています。というのも、ヴァロットンの作品には、目の前にあるものが、はたして真実存在しているのだろうかという懐疑が底流にあるのではないか、という印象を最初に述べました。それは、その後のヴァロットンの画業の展開に従って、その懐疑も展開するというストーリーを進めことができました。とはいっても、今まで述べてきたヴァロットンの懐疑というのは、あくまでも作品を制作しているヴァロットンが描く対象であるものにたいして感じていたことで、その枠を出るものではありませんでした。しかし、ヴァロットンが感じているのであれば、他にも同じように感じている人もいるはずです。それは、ヴァロットンも気づいていましたが、そう人が自分以外に存在するということを前提にして作品を制作するまでには至っていなかった、と言えます。あくまでもヴァロットンの認識の中でのことだったわけです。しかし、ここにきて、他者の存在、端的に言えば、ヴァロットンの作品を見る人が、ヴァロットンと似たような懐疑を抱いていたとすれば、彼の作品をストレートに鑑賞するなどということが果たしてできるのでしょうか。それに気づいた時に、ヴァロットンは、ヌードという意識下のレベルでストレートに反応しやすい題材をとりあげて、そこでリアルとのズレを意図的に生じさせる効果を生むような作品を提供したと考えられないでしょうか。その際に、過去の名作をパクるという一種のパロディという仕掛けを施すことによって、ズラしという仕掛けの跡をあからさまにして見せてしまう。そのことで、あえて言えば、作品を通してヴァロットンは懐疑の共有、とまではいかないまでも、ある種の共感を求める、ということを試みたのではないか。そこに、改めて他者としての作品を見る者の発見が、これらのヌード作品にはあったではないか、と私は独断と偏見で想像しています。 それでらしく見えます。 

 

6.マティエールの豊かさ

展示フロアが変わって、この美術館は古い建物を無理に美術館に改造したものであるために、展示室が小さくて空間が不十分であるために窮屈な場合が多いのと、展示室の間を歩かされ、その間セキュリティのためか何度も自動ドアを開けるという甚だ不興なところがあるのですが、このときは、それが却って歩かされている間に、場面が劇的に変わるという体験をさせてもらいました。禍転じて…ということにしておきましょう。展示室の自動ドアを通って出くわしたのが「アフリカの女性」(左図)という作品です。まずは、描かれた女性の圧倒的な存在感と見るものに迫ってくるような生き生きとした生命感に圧倒されました。これまで見てきたシニカルな画風とは共通点が見出せないほどでした。同じ画家の描いたものなのだろうか、と疑問に思ったほどです。

でも、最初に見た「20歳の自画像」が、この作品に通じるものではなかったか、と思い出されてくるのです。この自画像から実に30年以上経って、ヴァロットンはヌード画像で、このような生々しい迫力ある作品を制作したわけです。この作品をみて、ヴァロットンという人が深い懐疑にとらわれていながら、絵筆を棄てることなく、執拗に作品を描いていた理由が分かるような気がしました。ヴァロットンが、このような作品を描きたかったというのではありません。それはおそらく、真実を真摯に求めているがゆえに、ちょっとした疑いも放置しておくことができなかったということではないでしょうか。その疑いを追及していくうちに、泥濘にはまるように懐疑にとらわれてしまった。彼の描く作品を見ていても、仕上げに手を抜くということがなく、生真面目な性格であることが分かりますが、それが禍いして中途半端なところで追及をうやむやにして誤魔化してしまうということができなかったのかもしれません。決して、緻密に描きこんだり、滑らかな仕上げを施しているわけではありませんが、この女性の黒い肌に輝き、頭に巻いた布と腰に巻いた布の質感違い、その間の肌に柔らかくて滑らかな感じ、肉体のどっしりとしたような豊かな量感。そして、何よりもその表情の描き方にヴァロットンの思い入れが感じられるほどです。

小品ですが「臀部の習作」(右図)という作品は、タイトルの通り習作なのでしょう。臀部のかたち、前に見たヌード作品のような形態が整えられているものでなく、右側に体重がかけられて歪んだかたちになっていますが、それにともなって多少筋肉がタブつくように垂れ下がる動きが荒い筆致のなかで精緻に表現されています。まるで、画家の目の前に立っているモデルの尻を愚直に描いただけとも見えなくはないのに、今まで見てきたヴァロットンの作品には見られない存在感と迫力の主張がありました。

「赤い服を着たルーマニア女性」(左図)という作品。おそらく「アフリカの女性」はモデルを前にして即興的に手早く描かれたのであろうと想像できるのに対して、こちらは後で仕上げの手を入れているのだろうと想像できます。仕上げの処理が為されていることにより、表面が磨かれたように滑らかになり、肌の感触のゴツゴツした感じが薄くなってしまっていますが、それを補って余りあるのが、描かれた女性のストレートな表情です。これまで見てきたヴァロットンの人物画の仮面のような表情に比べて、なんとストレート、というよりもあからさまです。

ヴァロットンという人は、おそらく生真面目であるとともに、幾分シャイな性格で屈折したところもあるような、決して感情を面に表わすような人ではなかったのではないか、これらの作品を見ていて、そう思いました。それは、ヴァロットンが活躍した時代は、印象派に始まる変革期のような時代であらたな運動が次々と起こり、一方で写真の発明によって、従来の手法の絵画を若い画家が素直に描くというのは難しかったかもしれません。画家といえども生活をかけた商売です。絵が売れることがまず必要です。そのためには時代の流行や人々の嗜好に沿ったことをしなければなりません。それと、ヴァロットンの持ってしまったシニカルな性格です。それらが相俟って、これまで見てきたようなスタイルを作り上げたのでしょう。しかし、ヴァロットンは、それだけでなく、そのスタイルの陰で違った方向性のスタイルも彼自身の作り出したものとして持っていたということでしょう。ヴァロットンという画家の多面性、しかもそれらの面が別々の方向を向いているのではいなく、相互に関連しあいながら、補い合うように彼の画業の展開を推し進めてきたといえるのかもしれません。

 

7.神話と戦争

リアルな質感の、幾分、対象への感情移入すら感じられる作品群に次いで、展示されていたのは、まさに正反対ともいえるパロディに近い、思いっきり対象を突き放したような作品群でした。ヴァロットンという人は、バランス感覚というのか、ある種シニカルな屈折を常に抱え込んでいたのは、このあたりの中途半端な距離感の取り方に原因があるように思えてきました。そもそも、シニカルな斜に構えた姿勢と言うのは、自分の立場を全面否定するようなものではありえないのです。対象を真実信じることができないのであれば、そもそも画家等にならなくてもいいはずです。そういうことに直面しなくても済む仕事なら、いくらでもあるはずです。しかし、ヴァロットンは画家という拘らなくてはならないものを職とした。それなら、それで思い切って、開き直ってしまえばいいものを、それもできなかった。つまり、画家にしがみつきながらも、そのことに対して懐疑し続けた人ではなかったかと思います。それは中途半端のどっちつかずです。そういうところは、彼の制作する作品にも、よく言えばバランス感覚、悪く言えば、中途半端なところでうろうろして、へんに屈折した細工を施して、さも何かありそうなものになっている。しかし、バカの一念のように愚直に一つのことを追求して突出して最終的にひとつの潮流を作り出すような迫力がない。多分、ヴァロットン自身も、そういう煮え切らない自分に気付いていたのではないか、と思います。

「引き裂かれるオルフェウス」(左図)と言う作品。ギリシャ神話のオルフェウスがエウリデーチェを追って冥界へ赴き、そこから戻った後、秘儀を伝えなかったため女性たちに八つ裂きされてしまうという場面を描いたものです。殺戮の生々しさはなく、背景の風景等は牧歌的ですらあります。全体的な淡い基調の色彩や動きの少ない静止したポーズのような人物で、表情が見えないところなどは、今年はじめに見た、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの冷たい(退屈な)壁画(右図)によく似た印象を受けました。まるで、「アフリカの女性」のようなストレートな作品を描いてしまったことを恥じるかのように、クールな作品を仕上げでみせ、それだけでは単なる退屈なだけだから、題材にひねりを入れたものを採り上げて奇を衒ったというように見えます。こういう作品を見ていると、技量的には若いころから、ほぼ出来上がっている人なので、進歩とか成長とか、成熟というような愚直な一本道を突き進む人でもなかったので、堂々巡りのように同じところを行ったり来たりして、時折、そのプロセスの中で時代の流れとうまくシンクロして効果の上がるような作品を提供した、という人だったのではないかと思います。だからこそ、死後急速に忘れられていったのも納得できます。 

 
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