西洋絵画どこから見るか?
─ルネサンスから印象派まで
サンディエゴ美術館vs国立西洋美術館
 

 

2025年3月26日(水)国立西洋美術館

期末が迫って、年度内に有給休暇を消化しなければいけないということで、今日はお休み。その休みを利用して、興味のあった美術展に出かけることにした。平日の午前中にもかかわらず、上野駅の公園口の改札前の広場は、人でいっぱい。会期は始まったばかりで、しかも平日の午前だから空いているだろうと高を括っていたが、西洋美術館のチケット販売窓口は行列ができていて、館内はけっこう混んでいる。入場制限には至らないものの、展示されている各作品には、常に数年がいるという混雑で、落ち着いて作品を見るのにはギリギリ耐えられるという程度。中で目立つのは外国人(観光客?)と親子連れあるいは子供(学校が春休み?)。展覧会のタイトルがくだけた表示だったのと、展示にはマンガのフキダシのようなキャプションが付けられたりして、これまでの例なら、「サンディエゴ美術館展」という味もそっけもないタイトルになるのでしょうか。それは、主催者あいさつにも現われていると思います。以前なら展覧会チラシにあいさつが文章で載せられていたのが、今回はキャッチコピーのような語が画像に付けられているのみです。会場でも、展示室に入る前に脇にあって、気づかなければ素通りするような扱いになっていました。あいさつも簡単になっているように思います。“本展は、米国のサンディエゴ美術館との共同企画により、同館と国立西洋美術館の所蔵する作品計88点を組み合わせ、それらの対話を通じてルネサンスから19世紀に至る幅広い西洋美術の魅力とその流れを紹介する展覧会です。...両館の所蔵する作品をペアや小グループからなる36の小テーマに分けて展示、比較に基づく作品の対話を通じ、ルネサンスから印象派に至る西洋美術史の魅力を分かりやすく紹介することを目指します。また両館は非ヨーロッパ圏においてヨーロッパ美術を収集した点においても共通します。その点に着目し、両館の持つ傑作を比較対照させながら、それぞれ西洋絵画がどのような目的や理想に基づいて収集されていったのかについても、紹介する予定です。なお本展開催中、サンディエゴ美術館所蔵作品よりさらに5点の絵画を西洋美術館常設展で展示し、さらなるコレクションの対話を試みます。これらを含むサンディエゴ美術館からの出品作49点は、すべて日本初公開となります。”

まあ、展示にはたくさんのキャプションや説明が付けられ、煩いほどで、しかも、ほとんど全部の展示が撮影可となっているので、落ち着かないのですが、このようなことはできだけ気にせずに、好きな作品を好きなように見てきました。

第1章 ルネサンス

.ゴシックからルネサンスへ

フラ・アンジェリコです。あの「受胎告知」の…日本では作品を見ることがありません。「聖母子と聖人たち」という作品。会場の説明では、聖人をそれぞれ数枚の両側のパネルに個別に描くのではなく、1枚のパネルにすべての人物を描いたまとまりのある空間を作り、天蓋のアーチの上に、墓の中の死んだキリストの横に、福音記者聖ヨハネと悲嘆に暮れる聖母が並んでいるという空間の構成が、当時としては斬新だったと解説されていたと思います。でもそういうのは、当時の一般的なものと並べて比較してみないと分からないと思います。たとえ、並べてみても、現代人の目からは同じように古臭いと見えてしまうかもしれません。この作品では、空間(奥行)を描いているといわれても、「どこが?」と声を発して、平板にみえてしまう。親切に説明しているようでいて、中止半端な説明は、混乱を招くのではないかと思いました。それよりも、この作品を見ていて魅かれるのは、金箔を背景にして薄い青とピンク色の鮮やかさです。このような薄青とピンクは他の作品ではついぞ見られないものでした。その配置の見事さです。色と人物の配置から生じるコントラストが、見る者の視線を画像から画像へと連続的でスムーズに動くように導き、最終的に中央の聖母子像に到達させるようになっています。また、それぞれの人物の顔の陰影の深さは、同じコーナーで展示されている作品のパターン的な表現に比べて彫の深いものに見えます。となりに展示されているルカ・シニョレッリの「聖母戴冠」と比べて見ると、分かるかもしれません。こっちは平面的で、人物の顔ものっぺりしています。

ベルナルディーノ・ルイーニの「マグダラのマリアの回心」(右側)を見ていると、左側の人物が人差し指を伸ばして上を指している形が、レオナルド・ダ=ヴィンチの「洗礼者市ヨハネ」(左側)そっくりで、右側の女性の高い鼻梁や細長い目そして意味不明に口角を上げて微笑んでいるかのように見せるところがレオナルド・ダ=ヴィンチの描く女性そっくりであると気がつくのです。しかもスフマート。このスフマートだけで、このコーナーに展示している他の作品と区別できます。しかし、どこか間の抜けた感じがある。それは右側の女性に比べて左側の人物が人形のようだったり、中心がはっきりしないとかあるのでしょうが、これも、レオナルドの作品と並べて比べると分かるのではないかと思います。

でも、個人的には、このような革新的なものより、当時の形式的なものも好きなんですが、それは、このあと常設展で堪能できました。

.ヴェネツィアの盛期ルネサンス

ヴェネツィアの画家の特徴は、フィレンツェの画家に比べて色彩豊かで豪華絢爛ということだった思うのですが、ここで展示されていたのは、そういう感じはしませんでした。

パオロ・ヴェロネーゼの「聖カタリナの神秘の結婚」は、この展覧会でこの題材を扱った作品が、この後いくつもあるので、その最初です。他の作品と比べると描き方がそれぞれ違うので面白いです。この作品では、赤ん坊のイエスから右側の女性の聖カタリナが指輪を受け取ることで結婚が成立するという場面だそうです。それぞれの人物のポーズが演劇的というが大仰でわざとらしい。そのわりに、前のコーナーで見たルイーニの作品ほどには人物に表情がない。スフマートも見られない。その表情がない分を身体の仕草、つまりポーズで補っている。それを引き立たせるには、輪郭の明確な形態と衣服などが目を引くほうがいい。そこで鮮やかな色を用いる。人の肌の色も艶々していて肉感的で目を惹きます。表層的な表現とでもいいましょうか。内面は気にせず、外面として表われているものがすべてという発想でしょうか。リアリズムとは違う表現です。

ジョルジョーネの「男性の肖像」はリアリズムでした。この男性は演技をしている様子はなく、飾り気のない素面のように見えます。それをそのまま描いているように見えます。それもまた表層的です。

.北方ルネサンス

フランクフルトの画家の「アレクサンドリアの聖カタリナの神秘の結婚」は、前のコーナーでヴェロネーゼの同じ題材の作品があったのと比べると面白いです。こちらの方は演劇的なわざとらしいポーズはとっておらず、型にはまったような人物で、肉感的なところどころか生き生きとしたところはありません。しかし、描写は細かい。衣服の質感や刺繍。背景の木々の葉や両脇の天使の羽根の一枚一枚が精緻に描き込まれています。ファンアイクやデューラーなどを生んだ北方ルネサンスの特徴といえるかもしれません。ヨース・ファン・クレーフェ「三連祭壇画:キリスト磔刑」も細かく描き込まれています。人物の着ている衣服の織り目が分かってしまうほどの細密描写や背景となっている風景の建築物が緻密に描き込まれ木々の葉の一枚一枚が明確で描き分けられているので、類型的な人物はおいて細部の描写を堪能することができます。

 

第2章 バロック

.スペイン

この美術展で一番見たかったスペイン・バロック、とくにボデゴンです。静物画、とくに野菜や食器などの厨房にある日常的なものを題材にしているのが特徴的です。

ファン・サンチェス・コターンの「マルメロ、キャベツ、メロンとキュウリのある静物」はボデゴンというと真っ先に取り上げられる代名詞ともいえる作品です。この現物を直接、目にすることができました。ただし、わたしの個人的な好みはスルバランの白く冷たい陶器の並んだ作品なのですが。この作品でも、黒の闇を背景に描かれた野菜や狩りの獲物には強い光が当たり、強い明暗対比と厳粛さを生み出しています。その厳粛さと静けさは宗教画の祭壇に似た印象を残します。でもよく見ると不思議な絵でもあります。そもそも、この描かれている空間はどこなのでしょうか。マルメロとキャベツは紐で吊り下げられているのですが、その紐はどこから下げられているのでしょうか。

フランシスコ・デ・スルバランの「神の仔羊」も見たかった作品。プラド美術館にあるバージョンとは違って、この作品はサイズが小さく、羊の頭上には光輪が描かれています。それだけ宗教的な厳粛さが増しているように思います。この仔羊はイエス・キリストを人間の罪に対する贖いとして、イエスが生贄の役割を果たすという意味合いで指しているのを、より示している。か弱き子羊の達観したような表情、舞台でそこにだけスポットライトが照射されているような劇的な明暗表現と相俟って、構図はたんなる動物画でありながら、迫真の作品に仕上がっています。仔羊の毛皮の質感など描写は細密で、生えている毛の割れ目や皮膚が弛んでいる部分なども、触感がそのまま閉じ込められているかのようです。単純に羊を描いているだけなのに、静謐で敬虔な味わいが深い作品です。この2作品が並んで展示されていたのを、いつまでも眺めていたくなって、しばらく近くのベンチに座っていたのですが、混雑の人混みが邪魔をしてベンチからは作品が思うようには見られず、次の作品へと移りました。

スルバランはボデコだけでなく肖像画も数点展示されていていました。聖人や聖職者を描いて「修道僧の画家」と呼ばれているのだそうです。「聖ドミニクス」は、まるで彫像と見まがうほどの立体的な実在感のあるリアルな人物像。脇の犬は松明を咥えており、その端に火が灯っていることは、聖人の背後に仄かな光の広がることから確認できます。画面の左右と下辺には後代の手によりカンヴァスが追加されていますが、漆黒の背景から静かに人物が浮かび上がる、瞑想性に満ちた雰囲気は、この画家に独特のものです。「聖ヒエロニムス」(右側)は豊かな農家のおじさんみたいで、カラバッジョが聖ヒエロニムス(左側)を暗闇で蝋燭に照らし出される髑髏と対峙する裸体の姿で描いたのとは全く違います。二人とも明暗のコントラストを効果的に用いているのですが、カラバッジョは明暗のコントラストで劇的な場面を作り出すダイナミックな使い方をするのに対して、スルバランは人物や静物に焦点をあててその存在を浮かびか上がらせる静的な使い方をする点で、いわば正反対の方向性にあると思います。スルバランの肖像画で描かれているのは実在の人物のようにリアルで、それを暗闇の中で光を当てて浮かび上がらせることで、その人物を輝かせていると言えます。

同じスルバランの「聖母子と聖ヨハネ」(左側)です。この展覧会では聖母子像は他にも数点が展示されていますが、それらと比べると、この作品も聖母マリアはもっとも庶民的です。大工のヨハネさんちのマリアさんという感じです。濃い青や淡いピンクを特徴とする色調の衣服がマリアであることを示していますが、やわらかい雰囲気の光を浴びた姿は、聖人を描いた肖像画と似た効果を上げていると思います。

スルバランは「無原罪の御宿り」も有名ですが、同じ聖母像で彼を追い落としたのがムリーリョで、そのムリーリョ「悔悛するマグダラのマリア」(中央)が展示されていました。これも見逃すことはできない作品です。スルバランの「聖母子と聖ヨハネ」の聖母マリアと比べると、ムリーリョのマグダラのマリアは実在の人のようなリアルさと、その上に美しい。それも理想化された女性美というのではなく、どこかにいそうなきれいな女の人なのです。同じ題名でティツィアーノの優位な作品がありますが、ムリーリョのこの作品と同じマグダラのマリアがポーズをとっていますが、ティツィアーノの作品では肉感的であるのに対して、ムリーリョの方は優しいおねえさんの感じで親しみ易い。しかし、スルバランと同じように暗闇の中から光るように浮き上がってきて神々しい。

.イタリア、フランス

ジュリオ・チェザーレ・プロカッチーニの「悔悛するマグダラのマリア」(右側)です。ムリーリョと同じ題材ですが、髑髏を抱えて物思いにふけるという、ちょっと不気味な感じがします。あまり神々しさか感じられず、変な人、アブナイ人といった印象です。シモン・ヴーエの「アレクサンドリアの聖カタリナ」は、前のところで「聖カタリナの神秘の結婚」で見ましたが、この作品は聖カタリナひとりで、しかも当時の普通の女性の肖像画に見えます。分かる人が見れば、聖カタリナのアトリビュートがあるので、それと分かるのですが、今で言えば、コスプレ写真といえるような作品です。ここに、神々しさとか、宗教的な雰囲気といったものは、あまり必要とされていないようにも見えます。

Ⅲフランドル、オランダ

フランドル地方のバロックといえばルーベンスです。「永遠の寓意」。バロック絵画はカラバッジョ以来、明暗のコントラストといって、暗い画面の一部に光を当てて、そこを強調するような作品が多く、どうも全体として暗くなってしまう。それが、ルーベンスはバロックといっても、全体に明るい。パッと夜が明けて、昼間になったような印象を受ける。惜しむらくは代表的な作品が教会の壁にある大画面の作品が多く、現地に行かないと直接見ることができない。ルーベンスの作品のイメージは、私の個人的なものだがポジティブであることを全面的に表出することの圧倒的な迫力だと思う。ここで展示されている作品は小品なので、圧倒されるようなスケール感をなかなか味わうことができない。それはとても残念。

スペインのボデコンほどではありませんが「花環の中の聖母子」(左側)は黒の背景に花環がスポットライトを当てられてように映えています。花環の中には聖母子像が描かれて宗教性が打ち出されています。花環にはおそらく聖母に対しての献花といった意味が込められていたらしいとのことですが、花をダニエル・セーへルスが、聖母子をコルネリス・スフートが描いた共作だそうです。ただ、基本的には花の絵とみなされていたそうです。たしかに中央の聖母子像よりも黒い背景に照らし出された花は、スペインのボデゴンで描かれた野菜におとらず存在感があります。また、花の白やピンクや黄色が映えて、とても印象的です。

オランダの画家に移って、ラーヘル・ライスの「花卉」(右側)は、ダニエル・セーヘルスと比べて見ると、こちらは宗教性を感じることはありません。その代わり、こちらは美化するというより、リアルに細密に描かれています。ひまわりの花はしおれかかっていますし、枯れた葉も描かれていて、セーヘルスのように美化されていません。全部の花が背景から浮かびあがるのではなく、淡い光が上から差しています。そして、中央にはトンボが、上方には蝶がいて、図鑑を見ているようです。

オランダの画家が続いて、コルネリス・デ・ヘームの「果物籠のある静物」は、スペインのボデゴンに比べて宗教的な厳粛さは、あまりなくて、その代わりに日常の風景から切り取った美という作品です。コターンのボデゴンがシンプルで直線的な構成で背景が真っ暗で日常でない空間であるのに対して、デ・ヘームの作品は緑の布がかけられた木製のテーブルが、背景の濃い緑の壁と平行に置かれています。テーブルの左端は、左から右に走る対角線を形成しています。この対角線が構図の基礎となり、ブドウ、桃、アプリコット、サクランボ、プラムといった果物が、同じ対角線方向で左上に傾けられたバスケットから溢れ出しています。2個のクルミが左側に置かれ、皮をむいたレモン、ブドウの房、ブドウの葉とともに対角線を形成しています。このようにさりげなさを、かなり考えて演出している。ここで描かれている果物は、瑞々しくて食べたくなるような感じです。

ちょっと気になったのが、ヤコーブス・フレルという画家の「座る女性のいる室内」という作品。これは、ほとんどフェルメールじゃないですか。しかも、制作年代を見るとフェルメールよりも40年ほど前に描かれていることが分かります。丸っこい人物の姿がフェルメールよりも親しみ易さや優しい印象を受けます。こういう画家を発見できただけでも、この展示を見に来た成果です。

 

第3章 18世紀

美術史では、18世紀にはロココと称されるが、そのロココという様式は、その前の世紀のバロックがヨーロッパ全体に比がったのに対して、フランスという一部の地域に限られたと言います。たしかに、いままで見てきた作品に比べて、このコーナーの作品は、私には、訴えるとこがあまりないように思います。小手先というか、せいぜいのところお洒落な風俗画といったところでしょうか。これは、あくまでも私の好みなので、そうでない人も多くいらっしゃると思いますので、念のため。

 

第4章 19世紀

19世紀以降の、いわゆる近代絵画も、私は印象派があまり好きではないため、ここでの展示は、17世紀以前の展示に比べて、あまり面白いものはなかったように思います。今回の見どころは、私にとっては、スペイン、フランドルやオランダのバロックでした。

とはいっても…、ウィリアム=アドルフ・ブーグローの「羊飼いの少女」。プーグローの「小川のほとり」は昨年の「もうひとつの19世紀─ブーグロー、ミレイとアカデミーの画家たち」で見て、とても印象に残ったので覚えていました。19世紀イギリスの唯美主義的でもあり、この作品はノスタルジックなテイストも愛らしい少女です。

そのほか、ホアキン・ソローリャの「ラ・グランハのマリア」という作品。若い女性の地方の衣装に映る豊かな光の遊びが、まばゆいばかりの反射と大胆に変化する色彩で再現されています。印象派とは違う、降りそそぐ太陽の強い光の表現が印象的です。人物よりも木漏れ日を描いたといってもいい。

 

おまけ 常設展

企画展のチケットと常設展も見ることができるので、時間もあったので見てきました。中で印象に残った作品をいくつか。

カルロ・ドルチの「悲しみの聖母」(左側)という1655年頃の作品。暗い背景に淡い光背に包まれて、深みのあるラピスラズリの青のマントを身にまとった聖母マリアの美しくも悲痛な表情は観者の心に深く訴えかけるものがあります。とにかく、深い青が目を惹きます。そして、うつむきかげんの聖母の憂いを含んだ横顔です。

フィリップ・ド・シャンパーニュの「マグダラのマリア」(右側)です。これも両手を合わせて祈る女性を横から描いたものです。企画展ではムリーリョなど数点のマグダラのマリアが展示されていましたが、この作品は横顔であるところが特徴的です。一心に祈りを唱えるかのように口を半ば開き、その敬虔なまなざしは天に向けられている。魅惑的な存在感をあふれさせる聖女の姿が暗い画面の上に浮彫にされています。今日みてきた同じ題材の他の作品に比べて、上品というか、穏やかさのある作品で印象に残りました。

ヴィクトリア・デュブールの「花」です。企画展でも花を描いた作品が数点ありましたが、この作品は、それらに比べて突出したところがなく、普通に部屋に飾られている花を自然に描いたという印象です。いつまで見ていても疲れないというか、安心して穏やかに見ていることができます。描かれている花は、それぞれ美しいのは言うまでもありません。花瓶に生けられたさまざまな花が、繊細な色彩で描かれており、花に寄せる画家の深い愛情が感じられます。

最後に年代が飛んで20世紀の作品、アクセリ・ガッレン=カッレラ「ケイテレ湖」です。この人はフィンランドの国民的画家ということです。何よりも、凍結したようなほど静かで透明な湖面が印象的です。その湖面に直線的に斜めに波が起こっています。水平線と並行に山々と木々が茂る小島が並び、そこに波が生む斜線が入ってきます。このような波はフィンランドの湖では特定の気温のときに風が吹くとおこる気象現象なのだそうです。どこか神秘的な感じがします。

企画展し常設展を、それほどじっくり見た覚えはなかったのですが、結果的に4時間近くかかってしまいました。その間、少しだけ休憩しましたが、ほとんど立ち通しでした。昼前に美術館に着いて鑑賞を始めたので、昼食を摂っていませんでした。疲れました。腹も減りました。常設展は混んでいませんでした。美術館を出たら、午後になっていましたが、チケット売り場の行列はずっと長くなっていました。

 

 
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