村井正誠 あそびのアトリエ
 

  

202025日() 世田谷美術館

以前から予約していた人間ドックの受診が早めにおわったので、1日の休みを取っていた時間があいてしまった。だからと言って、すぐに帰宅する気にもなれないので、普段は足を運びにくい世田谷美術館に行ってみることにした。新型コロナウイルスが世界的に猖獗を極めているという状況で、日本でも不要な外出は自粛するように、政府からお願いが出されていて、東京の主要な美術館も感染の場所となるおそれがあるということから休館しているところが多い。その中で、世田谷美術館は開館しているということだった。それで、出かけてみた。美術館は世田谷区の砧公園のなかにある。用賀の駅を降りて歩いていると、外出の自粛という緊張感はなく、歩いている人は多い(私も、不要の外出をしているので、そんなこと言える資格はないのだが)。砧公園は、園内の桜が咲き始めている時期で、天気の良かったので、子供連れで混雑するほど人出が多かった。ニュースで映し出される欧米の大都市のゴーストタウンのような光景とは別世界のようだった。美術館に入るときに、まずアルコールで消毒、係員はマスクをしている。もともと美術館ではおしゃべりを憚るような空間なのだが、いっそう静かな感じがした。平日で、抽象画の展覧会で、しかも外出自粛の状況にもかかわらず、けっこう人の姿はあった。閑散としているかと思ったら、そこそこの数の鑑賞者の姿。他の美術館が軒並みに休館状態なので、美術鑑賞の趣味の人が、開館している美術館に吸い寄せられるように来ている、という感じでしょうか(当然、私も、その中の一人ということになるのでしょうが)。

まずは、いつものように展覧会の主催者あいさつを引用します。“洋画家村井正誠(1905〜1999)は、戦前は新時代洋画展や自由美術協会、戦後はモダンアート協会の創立メンバーとして、画壇に新風を送り続けた抽象絵画のパイオニアです。岐阜県大垣市に生まれ、和歌山県新宮市で少年期に過ごした村井は、文化学院の大学部美術科第一期生として学んだ後。1929年に渡仏し当時最先端の美術潮流に刺激を受けます。1939年にからは世田谷区中町に自宅兼アトリエを構え、終生この地で創作を続けました。村井の絵画は一貫して「人」をテーマとし、おおらかであたたかな独特の雰囲気を纏っています。また、様々な素材によるオブジェ制作にも取り組み、絵画に劣らない豊かな造形はかわいらしさやユーモアに溢れています。そして、自作品が民芸品など愛着の品々とともに並んだアトリエは、それ自体が造形世界を凝縮したかのようです。そのアトリエは現在、建築家隈研吾の設計により、画室をそのまま内部に保存した美術館となっています。本展では村井の画業をたどるとともに、版画やオブジェ、素描など多彩な創作活動と、作品が生み出されたアトリエをご紹介し、村井の造形にひそむ「あそび」の精神を探ります。”まあ、画家が世田谷区の住人だったということと、展示されている作品のほとんどが美術館の所蔵作品であるようなので、在庫棚卸という感じで展示しているのでしょうか。そういうこともあって、このご時世で、何かの事態が発生すれば、すぐに展示をやめることができるような臨機の対応ができるだろうから、企画展を開き続けることができている、と思いました。

なお、いつも展示を見ながら、感想や思ったことを展示品リストに簡単にメモしているのですが、貸してくれる鉛筆は書きにくく、しかも展示品リストはペラペラの紙なので、字を書くのに苦労していたのですが、それを見ていた係員の人が書く台になるような板状の段ボールを貸してくれました。これには重宝しました。ちょっとした思いつきなんでしょうが、係員の人の親切さは、とてもありがたかったです。

まず、長い廊下を通って広間になっているところに、「Holly Mather and Infant Christ」という比較的大きなサイズの絵画作品。太い線でヘタウマのほのぼの系のマンガのような省略が多くて記号のようになった人の輪郭のような抽象と原色にちかい鮮やかな色の板のような平面が画面配置されている、というような絵画と、木材でつくられたオブジェが展示されていました。オブジェは気の積み木を組んで人の顔や身体を連想させるような、一見素朴で単純な形のものです。まずは、村井の作品はこういうものだと、見る者に提示してくれているのでしょう。これって、例えば、絵画は、幼稚園で12色程度の基本色のクレヨンで、幼児がお絵かきをしたものを、洗練させたというイメージだし、オブジェは積み木遊びを固定させた、というようなイメージというと、作品の画像がなくても、こんな作品というイメージが伝わるのではないかと思います。そのほかにも、「顔」を題材にして、太線のマルをキャンバスにひいた作品もありました。

展示は、「人」とか「顔」とか「幾何学的抽象と都市」といいような、テーマ別にまとめられていました。一方、後で買い求めた図録では、年代順の作品記載となっていて、展示と異なる順番になっていました。それでもなのか、展示作品リストは、基本的に展示順になっていて、備考欄を設けて、図録の掲載番号を附記して参照できるようになっていました。展示作品を見るのに展示とは異なる視点を提示している。試みと受け取っておきましょう。

では、展示に沿って作品を見ていきましょう。

村井正誠の「はじまり

村井の初期作品で、主に渡仏した修行時代の作品です。その前の作品の展示はないので、渡欧前にどのような作品を描いていたかは分かりませんが、ここに並んでいる作品は、当時のヨーロッパの画家たち、マティス、ミロ、その他の人たちに倣ったのが一目瞭然のように、マティス風とか、ミロ風とすぐに気づいてしまうような作品です。

まず、「不詳(静物)」(左図)という1932年頃の作品。器や瓶らしき形が塗り絵のように色を塗られて、まるで宙に浮いているかのように画面に並んでいます。平面的とかという以前に、そもそも空間とか位置とかがない。単に画面にその形らしきものを入れたというのか。その形らしきという言い方は変かもしれませんが、器とか瓶を対象に、その形をつき詰めて抽象化したとかそういう感じはなくて、それらしい形を描いたという印象です。そのことは作品タイトルが「不詳(静物)」となっていて「静物」ではないのは、そういう意味に思えてくるのです。不詳とは、詳しきない、つまり、よく分からない。画家本人の何を描いたのかは詳しくは分からない。そして「(静物)」と括弧書きで静物と付け加えているのは、よく分からないけれど、何か静物みたいだ、程度のものと思えてきます。そういう、よく言えば曖昧さ、突き詰めないでどっちつかずの中途半端な狭間にいる、それが村井という人のスタンスで、傍からはそれが「あそび」に見えるように思えます。

これは個人的な妄想で根拠はありません。村井の作品から受けた印象からのことですが、数か月前に別の会場で見た坂田一男と比べてみたくなるのです。村井と坂田は、坂田の方が15年ほど早く生まれ、渡欧した時期も年上の坂田の方が10年ほど早いという時期的なズレがあります。それは別にして、渡欧して抽象画に目覚めたという点で二人には共通したところがあります。しかし、坂田は禁欲的というのか、つきつめようとする生真面目さが息苦しく感じられるような作品を残しました。それは、私には彼は抽象画の抽象するという方法を厳格に学び、その方法で対象にぶつかり、余計なものを削ぎ落し、本質的な核心をとりだそうとした、それが坂田の抽象であるように思います。村井の作品には、坂田のそういうところは感じられません。村田の場合は、渡欧先で抽象画を発見したというのではないか。こういう作品もあり、という発見から視野が開かれて、それを見よう見まねで、それ風のものを自分で描き始めてしまった。そこには、真面目に方法を勉強して習得して抽象しようというのとは違って、作品として出来上がった抽象画を発見して、そういうのがあるから、そういう作品を作ろうとして、対象とか方法とかよりも、そういう作品を描き始めてしまった。それゆえに、この「不詳(静物)」のように稚拙さとも受け取れるような作品も許してしまう。おそらく、坂田であれば、下書きやデッサンの時点で却下され、作品として仕上げられることはなかったと思います。そういう、坂田なら切り捨ててしまうようなところ、それが村井の「あそび」と呼ぶことができるのではないか、と私には思えました。

「不詳(バンチュール)」(左図)という1929年頃の作品です。バンチェールは耳慣れない言葉ですが、英語読みにすればベンチャーです。それで何となく挑戦的というような意味合いになっていることが窺えると思います。しかし、出来上がった作品を、当時の事情を知る由もない後世の私の目には、静けさすら感じられるような落ち着いた画面となっていると思います。むしろオシャレな感じというのか、この作品に限らず、村井の作品には共通して、色の組み合わせ方(この作品では、紫とか黒といった和風の落ち着いた色を組み合わせて、まるで歌舞伎や寄席の幕のような粋な感じに見せているところ)とか、ディテールとか、配置のちょっとしたところ(この作品では、画面中央の二つの白い形態の配置)などに洗練と言いたいセンスのよさがあると思います。先ほど比較した坂田の作品は、ゴツゴツしたような、どこか厳めしいような見る者を身構えさせるようなところがありますが、村井の作品は、逆に、スマートで目に入りやすいところがあります。それは、村井という人の持って生まれたセンスのようなもので、具体的に言葉にできないのですが、そのオシャレな感じは、この作品でも、未だこなれてはいませんが、部屋のインテリアとして飾ってもおかしくない、環境に抵抗なく受け容れられてしまうようなところがあると思います。話を戻しますが、村井がバンチュールという作品タイトルにしたのは、本人の挑戦的な姿勢がこの作品にあるからということでしょうか。それは、画面の背景が縦に分割されて色分けされているのを、複数の平面が重なっているようにも受け取れることもできます。解説では、この時の村井は俵屋宗達の屏風絵に関心を持っていたそうですが、この作品は折り畳みの屏風の面を色分けして、画面に平面的に並べたようにも見えます。また、マティスの「川辺の娘たち」(右上図)の画面を縦線をひいてそれぞれの面の色を塗り分けて、異なる空間を一つの平面に並べているのを連想させるという指摘もあったといいます。後の村井の作品には、あまり見られないのですが、複数の平面を画面において、複数の平面の構成を試みたのか、私には、そういう空間を感じることはできませんでしたし、視点を複数にするということもない。それは、村井の作品では、そういうように平面を複数にしても、この作品の核心であめと思われる白い形態が、そういう平面とは関係なく、それらを横断するかのように、位置しているからです。そのため、複数の平面というよりは、背景を太い縦線の模様のように見えてくる。

だから、この作品をそっくり引用するようにして、はめ絵のようにして周囲を額のように四角い枠を設けて、全体に花びらを散らして、まるで着物の花柄の模様のようにしてしまった同じ題名の「不詳(バンチュール)」(右図)の1931年頃の作品。これは、引用などという方法論ではなく、「あそび」のひとつとして見る方がいいと思います。何か、欧州ではジャポニスムを感じさせる作品ということになるのでしょうか。そういうのを村井は、おそらく意識的にやっている。そうでなくては、自身の作品をそのまま引用するなどということはしないでしょう。それゆえ、村井の作品の「あそび」というのは、彼が意識的にそうみえるようにやっているものではないか、ということがこの作品から分かるような気がします。

村井正誠の「幾何学的抽象と都市」

おおよそ1930年代後半から40年代の作品で、矩形などの幾何学的な形で画面を構成するような作品、例えば、モンドリアンのような図形のような作品が集められています。

「四つのパンチュール」という1940年頃の作品です。二作品が同じタイトルで並んで置かれています。この二つの作品は欲にいると思いました。実際の両作品は、形はコピペしたようにほとんど同じ形、同じ構成ですが、色遣いが違って、「四つのバンチュールbP」(右図)の方は、黒地をバックにして白い形態がくっきりと浮かび上がっている。基本的に白と黒の二色で、モノトーンの静かな緊張があるのに対して、もう一つの「四つのバンチュール」(右下図)は青系列の地に黒い方形が図となり、その黒い方形を地としてそのなかで白や黄色などの様々な色の方形が配置されるという、多層性を感じさせる画面になっています。画面の中ではすべての線が水平と垂直な直線だけで構成されているところはモンドリアンの幾何学的な抽象画に似ているところがあります。方形という単一の要素のみで画面を構成させるのはマレーヴィチを連想させるかもしれません。しかし、モンドリアンにしろマレーヴィチにしろ、抽象という名の通り、本質的な核心と考えるもの以外を削ぎ落してしまって、結果として残ったのが幾何学的で抽象的なかたちの構成による画面です。したがって、余計なもの、例えば情緒的な要素(優しい印象とか)あるいは「あそび」のような楽しさといったものは、切り捨てられたものとなって、見る人によっては、冷たいとか取っ付きにくいとかいうものになっています。これに対して、似ているはずの村井の作品は、私の見え方では、モンドリアンやマレーヴィチのような理念とか方法論というものよりも先に、彼らの幾何学的で抽象的な作品がまずあって、「そういうの、いいね!」とかいう感じで、そういう作品を制作してしまった。そして、出来上がった作品を自分の感覚に沿うようにあれこれいじっていった挙句に、こういう作品になった。そういうように見えます。そのいじっているというプロセスが「あそび」で、たとえば図形や線のかすかな歪みだとか、絵の具の塗り方がぞんざいなほど粗くて、筆の跡があからさまに残っていたり、その跡には規則性がなくて画面の幾何学的な厳密さの印象を妨げてしまうほどになっている。例えば、色面の境界となっている線が一部で乱れたり、ぼけたりしている。多分、村井は意図的にやっているのではなくて、感覚的なところで、画面が厳格になってしまうのを無意識のうちに避けているのではないかと思います。

「百霊廟」(左図)という1938年の作品です。展示作品を見る限りでは、村井の作品は幾何学的といっても、上記の「四つのバンチュール」のように直線という単一の要素で緊密に構成された作品は、むしろ例外で、この作品のように曲線も交えた、ゆるい構成の作品です。「百霊廟」というのは中国の内モンゴル自治区にある土地の名前で、村井は制作にあたり航空写真を参考にしたということです。つまり、集落の建物や柵などの配置図のようなものです。上記の個人的妄想を補強することになるかもしれませんが、これも、抽象的な作品を描くにあたって、身の回りの現実で抽象的なものを探していて、建築に行き当たった。航空写真の上から見た集落の配置をそのまま平面にした。その際に「四つのバンチュール」でもそうだったのですが、幾何学的な画像とすることで、画面がシャープになってオシャレの感じとなり、村井のセンスのよい色遣いもあって、洗練された図案のように見ることのできるものとなっています。こういうオシャレさは、この後も村井の作品に共通して備わった特徴となったと思います。

村井正誠の「顔」

展示されている作品の中でも、顔を題材とした作品が最も多く、村井の画家としてのキャリアの中でも、初期から晩年まで、ずっと通して取り上げ続けた題材のようです。それだけに、村井のスタイルの変遷を追いかけるのに適した題材ともいえると思います。

「アラブの女」(右図)という1930年の作品です。お面のような顔ですが、単純化されてはいても顔の形をしています。暗い中に色黒の肌の顔を白いヒジャブを顔の周りに巻いて、それがアクセントになって、顔の形が分かるようになっています。人の顔というより、仮面を浮き上がらせたような印象の作品です。これってパターンですよね。こういうパターンとして顔を描く、しかも縦長の顔というと、モディリアーニの描く細長い顔の女性を連想してしまいます。センスの良さも共通しています。しかし、モディリアーニの女性のような存在感とか、美しさを感じさせるといった作品にはなっていません。また、同じ頃に村井は「不詳(バンチュール)」のような作品も描いていました。そういう点から、こういう傾向にとどまって追求していくことはできなかったのでしょう。

「女の顔」(左図)という1951年の作品です。顔というより顔の記号です。私が子供の頃に落書きした「へのへのもへじ」をおもわせるような顔です。ギャグマンガの脇役の女性キャラもこんな書き方をしていますが、まさにそんな顔です。黒く太い均一の線を引いた円を輪郭とする、平面的な顔の、この作品が、展示されている中で最も古いもののひとつなので、このころが村井の特徴的な顔の作品の始まりで、初期的な作品ということになると思います。パウロ・クレーの描く顔(右下図)にも似たように簡略化したものがあります。しかし、クレーの場合は原始的(プリミティブ)ふるいは土俗的なものへ回帰するような志向があって、それゆえに、顔を描く線は、村井の作品の線のように輪郭の明確な一様で統一された線ではありません。そういう機能的な線ではなく、曖昧で、その代わりに、今生まれてきたかのような生々しさに溢れています。言ってみれば、クレーの描く顔は顔の形にとどまらず、色々なものを生んでいます。見る者に想像させてしまうのです。これに対して、村井の描く顔を、もっと機能的です。村井は顔を描くに際して、人の個性とか表情というようなもの、人によっては顔の本質的な要素と捉えるようなものはすべて切り捨てられていて、そこには顔を描くということよりも、描かれた顔の形が面白くて、顔を描くというのではなくて、描かれた顔をいじって遊ぶという要素が強いように、私には見えます。例えば、参考の画像として、「あそびあそばせ」(右下図)というマンガの登場人物の顔ですが、これらの顔はすべて一人の人物の顔で、これらの顔に共通しているは、目と鼻と口というパーツがあるということと髪形くらいです。それを、マンガの読者はお約束で、これが同一人物で顔がものがたりの場面に応じて変化するのを楽しんでいるのです。そには、人格的な個性とか、自己同一性(アイデンテティ)が顔に表われるとかいうようなことはありません。人の顔であることが分かればいい。あとは、それが読者の予想を裏切るように変化するのを面白がっている。

「少年」(左図)という1952年の作品では、顔を描いているのでしょうが、もはや顔であることが分かるのは、太い線で引かれた円形が顔の輪郭であると、かろうじてわかるからです。その円形の内部で、線が屈曲して交錯しているさまを、目や鼻や口であると見なすことは困難です。他の作品でも、円形の輪郭の内部に小さい円形が数個並べられている顔や、円形の輪郭の中に彩色された四角形が並べられている顔もありました。これらは、通常の現実的な感覚では顔と呼ぶことはできません。先ほどのマンガの場合には、同じ人の顔の変化であることが前提としてあります。そうでなければ、物語が成立しないし、同じ人の顔が、ここまで元の顔を離れるほど変わってしまうという落差が面白さとなっているので、元の顔との同一性というたががはめられています。それに対して、村井の場合は、そのタガを外して遊んでいる。基本的には、村井の描いた顔は白い地に黒い線を引くということがベースになって、黒い線が自由に形を作っていく、そこに遊びのかんじがあって、それが魅力的な特徴になっていると思います。そういう黒い線が自由に動くという点では長谷川三郎の作品と共通しているところがあると思います。均一で機能的な黒い線というところも、長谷川と共通しています。ただ、長谷川の場合は、線が作りだす面が多層的にかかわっていたりするような、線自体というよりは、線がつくりだすものに主眼が置かれていたり、前衛書道のように線自体を変化させる方向に傾いたりして、線を手段として扱っているところがあると思います。それに対して、村井の場合は、画面構成はシンプルさにとどまっていて多層的のような複雑になる傾向はありません。線は、線であることがかわらず、それが不規則に引かれていく面白さ、それに伴って、黒以外の色が塗られた形が、その線と無関係に画面に配置される、アナーキーなところに面白味があると思います。この「少年」という作品でも、黒い線とは別に、緑や黄色の四角形が線とは別々に白い地の上にあるのが、不思議でしたが、村井という人のセンスの良さでしょうか。独特の色合いというか、白と黒だけだったらあったであろう緊張感を和らげていると思います。緊張の分散というか、それが遊びの要素を増加させていると思います。

村井正誠の「天使と聖母子」

顔のところでも指摘しましたが、村井の描く人間には、個性とか表情が欠けています。つまり、人格というものがなくて、単なる人間のかたち、特徴的な外形が単純化されて描かれています。それが、顔だけでなく、身体(物理的な身体だけでなく社会的な身体)も捉えた全体像を、しかも複数の人間を描いた場合、そこには例えば、複数の人間を描いたのであれば、それらの人物の関係とか、そういうことを描くことには一切興味がないように見えます。実際、描かれていません。端的にいうと、ものがたり的なものが全くないのです。あくまでも描く題材は、人間の外形的なかたちだけなのです。しかも、人間の形を描くというより、人間の形を取り上げて描いた形をいじる。そこには、ロマンチックな人間とか人物というものは描かれていないと思います。それゆえに、画面であそぶということができるように見えます。こういうのは、日本の画家では珍しいのではないかと思います。“村井にキリスト教の信仰はないが、滞欧時代の経験やミッション系の学校で講師を務めるなかで、聖書の物語にモチーフとしての面白さを見出した。戦争による荒廃や多大な犠牲に対する鎮魂と祈りも込められているのであろう。”と解説されていましたが、たまたま題材として使ったら、それを繰り返していたというだけのものではないかと思います。つまり、こういうことです。村井の作品というのは、描かれた画面をいじってあそぶという性格のものです。その場合、画面をいじって遊ぶことが主眼なので、何かを描くということではないため、対象への愛がない。逆に言うと、描きたい題材というのは、とくにない。しかし、題材がないと、それをネタにして遊ぶことができない。愛はないのですが、ネタとしては必要ということです。しかし、愛するようなこだわりはないので、わざわざ探す気にはなれない。そこで、たまたま手近の題材に手を付けた。それが顔であり、人物だった。また聖母子のそのひとで、ヨーロッパで絵画を学んでいたわけですから、先人によって描かれ聖母子の作品は多数あった。つまり、ネタは豊富だった。そんなものがたりを想像してしまいます。それが、村井の聖母子の作品から受けた印象です。だから、彼の聖母子の作品には、宗教性とか慈悲とか愛情とかいう情緒的とかいうような情緒性は、全く感じられなくて、その形状で遊んでいる画面の表層を楽しむという作品ではないかと思います。

「聖母と天使達」(左図)という1948年の作品です。黒い線で引かれた形が聖母子とか天使の形のように見えるということなのでしょう。相変わらず、平面的な画面です。そのペッタンコの白い画面に鮮やかな色の四角形や円が描かれています。それは幾何学的な図形の並びで、整った形ではありますが、動きとかはない。それはそれで色遣いのセンスはいいので、静かな落ち着いた、というよりは生命感とか動きとかはない、死んだような動きの留まった、しかも、画面に奥行きのような空間がなくて、ペッタンコの平面が並んでいる。動きのなす世界を作っています。そして、その世界の上に、それとは全く関係がないような、黒い線がくねくねするように屈曲したさまが描かれています。それは、色が使われ幾何学的な図消すのならぶのはべつです。例えば、黒い線の屈曲は色が塗られている図形の角や節目のようなところでは無関係だし、直線は不規則に四角形や円を横断します。ここには、白地に黒い直線というモノクロームで、線は不規則に屈曲したり、延びたり縮んだりするように、動きと即興性が感じられます。それに対して、彩色された図名が並ぶように配置されて描かれているところがある。この二つの面が一つののっぺりとした平面に同居し、時には重なり合っている。ここに多層的な空間が生まれている。そう思えます。それだけ二つは異質です。しかし、この作品は、ペッタンコで二つの世界が重なっているということが、よっぽど注意して意識していないと気づきません。一見では、白地の画面を黒い線が自由にくねくね動いているというように見えると思います。しかし、正反対のような二つの面が同居し、重なり合っているという視点で見ると、黒い線の動きの自由さ、即興性は、その背後に幾何学的図形のようなかっちりとして整のった秩序がある。その対照性から、黒い線の動きが強調されることになっている、そう見えました。

「天使とトビア」(左図)という1951年の作品です。トビアは旧約聖書の外典であるトビト記に登場するユダヤ人の男子で大天使ラファエルに導かれて旅をしたという古典西洋絵画で繰り返し描かれた題材で、そのアトリビュートである魚が画面中央に描かれています。この作品は、「聖母と天使達」と比べて、参考としてあげた図像(右図)と似たような輪郭の形を察知しやすくなっています。背景の図形が整っているのたいして、黒い線でつくられたトビアと天使の形は、線をくねくね引いているうちに、偶然、そういう形になったような印象です。それが、この作品の即興性、あるいはあそびの感じ、自由さを印象付けていると思います。ちなみに、この作品では人の形が、それと分かりやすくなっているので、ピクトグラムに似ている、とても記号的な印象をうけます。ピクトグラムというのは道路標識や案内標識で人の形を簡略化した図案です(例えば、非常口の走る人の形やトイレの男女の区分など)。それが、作品を見る人にとっては、取っ付きやすく感じられると思います。それと、何度も指摘していますが、この人のセンスの良さは、この作品でも、決して鮮やかな原色を使いながら、色の配置や余白を巧みに多くとって、くどくならないようにしているところとかに表われていると思います。

村井正誠の「黒」

村井は、1950年代末から60年代半ばまでの数年間、画面全体が黒く塗りつぶされた作品の制作をつづけました。マレーヴィチのシュプレマティスムの作品のようです。シュプレマティスムを簡単に紹介すると、語源的にはラテン語の「supremus(至高の、最後の)」に由来するもので、マレーヴィチは絵画に絶対を求め、それ以外のものを排除していきました。彼にとって絶対的なものとは感覚でした。したがって、自然の諸現象からさまざまな印象をうけとって、これをあれこれ表現することは、まったく無意味にすらなってくるわけです。それは、自然や世界がたんに無意味だというのではなく、そこに適当な意味を付与することが自然を掴まえたことにはならないというのです。意味を付与するのは知性による認識の働きであり、感覚ではありません。つまり、何かの対象を描くということから、キャンバスに対象がなくただ平面形態を描くということになり、形態も単純化され、挙句の果てに形態も何かであるということになり、画面を真っ黒に塗りつぶすという作品まで突き詰めます。それは果たして絵画と言えるのか。理念を極限まで追求して、行くところまで行ってしまったというものです。

しかし、村井の作品は、そのような理念を突き詰めるような理論的なものではありません。作品は似ていますが、村井の作品はシュプレマティスムとは明らかに一線を画しています。前のコーナーで見た「聖母と天使達」と「天使とトビア」の二つの作品は、「天使とトビア」が3年後に描かれたのですが、両社では、黒い線の太さが明らかに異なっています。3年後に制作された「天使とトビア」の線の方が、明らかに太い。一見して、分かるほど太さの違いは明らかです。おそらく、村田は、画面上で線を遊ばせるかのように自由で即興的に引いているようにみえます。それだけ、線の重要性が高まっていった、それに比例するように画面上の線の存在感が増していった。その表れとして、線が太くなっていったと思います。その後、線の存在感は増すばかりで、それが極端なほど、線が画面全体を埋め尽くすまでに至ってしまった。それが「黒」の作品ではないかと思います。そのためか、作品のサイズが、今までの比べて大きくなったこともあって、巨大な黒い画面が、見る者に迫ってくるような迫力は、これまでの村井の作品にはなかった圧迫感があるものとなりました。何か迫ってくる感じがあります。しかし、村井の場合は、シュプレマティスムとは違って、描かれた作品の線が突出した結果と言えると思います。そのためか、マレーヴィチの「黒い正方形」が禁欲的であるのに対して、村井の作品は、もっと感覚的で、豊かさを抱えていると思います。たしかに、線は白地の余白があって、そこに伸びているから線なのであって、画面を埋め尽くしてしまったら、そういうメリハリがなくなってしまいます。その代わりを村井は模索したのでしょう。ひとつは絵の具の塗りです。これ以前の村井は塗りは無造作ともいえるようで、ベタッと絵の具を平面においていたという感じでした。線自体も、同じ太さで幾何学的とはいえますが、機械的で、線が伸びて平面上を動いていく軌跡が形となることが重要でしたが、その線自体には、とくに工夫とか魅力があるというものではありませんでした。ところが、その線が画面を埋め尽くしてしまったら、その線自体=線で埋められた画面に魅力がなければならなくなります。そこで、線の表面、つまり黒い絵の具の塗りに対する姿勢が変化します。

「不詳(黒のひろがり)」(右下図)という1959年の作品や「軌道(オービット)」(左上図)という1961年の作品では、黒で塗り尽くされた画面上に、絵の具を土手のように盛り上げて、それを線状につなげます。それが作品タイトルにある軌道ということだろうともいます。つまり、ペッタンコだった表面に変化を作ろうとするのです。それは、土手ところだけでなくて、筆のストロークの幅や方向を揃えたり、リズムを生むように規則的に塗り方をしたりして、表面に様々な変化が生まれてきたのです。しかも、黒という色は、室内の照明の光に正対するように反応するので、光を反射したり、影を作ったりするのがよくわかります。その変化が、作品をどこで見るかの位置によって微妙に変化してくるのです。それゆえ、一見真っ黒で何もないような画面が、見る位置や時間によって無限に変化する、豊かな可能性に溢れた画面になっているのです。それまでの作品は、描く人が線を引いて遊んでいましたが、この作品は、見る者が線を見ることであそぶことができる作品になっています。それは、マレーヴィチの禁欲的な作品は、正反対の方向性だと思います。また、これらの作品では、黒一色ではなく、画面の隅にわずかな余白や彩色された部分があり、それらが黒の部分とバランスをとっていて、黒の迫力からの息抜きのようにもなっています。その後の「人」とか「人びと」という作品では、そういう余白もなくなり、黒一色の画面を作っています。

村井正誠の「人」

ここで展示されているのは、「黒」い作品を経た後の作品です。これまでの「顔」でも「天使と聖母子」でも人を題材にした作品を展示していて、ここでも人を題材にした作品を展示していまか。しかし、村井が「黒」の絵画を経て、描く線を変質させてしまったので、作品の印象が、それに伴って変化してきました。その変化の中でもっとも目立つのが、線です。それ以前の線は自由に動き回っていまたしが、線自体が変化することはありませんでした。図形の線のように、図形を描く手段で、存在するのは結果として描かれた図形で、線自体は存在しないと同じでした。そのため、線自体は同じ太さで黒の色も変わらず、とにかく機械のように一定だったのです。ところが、線自体が自己主張するようになってきます。

「黒い線」(左図)という1957年の作品です。「黒」い作品と同時期のころの作品ですが、作品タイトルになっている通り、線そのものを描くという作品になっています。ここでの線は、以前のような長い線が伸びて、くねくね屈曲して動いていたのが、ここでは短くなっています。それと反対に、線の太さは太くなって、もはや線で言えない、面といっていいくらいのギリギリのところになっています。これ以上太くなったら、面となって画面を蔽うようになって「黒」い絵になってしまうでしょう。むしろ、いままで背景の面としてあった彩色された面の配置に黒い面が同化するようにしっくりハマっているようです。それによって、それまで前面に出ていた黒が引っ込むようになり、代わりにバックに控えていた彩色の面が相対的に前に手出来たような感じで、見る者には、以前の作品に比べてカラフルな印象を受けるようになったと思います。画面向かって左に黒い太い線による結び目のような形がありますが、線はそこだけで、むしろ青い鯉のぼりのような図形は黒い線よりも目立つほどで、あとは様々な色の小さな面が黒い線と同じように存在を主張していて、さながら万華鏡のような華やかさがあります。

「二人」(右図)という1894年の作品です。展示室の奥の壁に、「二人」という題名で、同じサイズの大きな作品が3つ並んでいました。2.2×1.8という大きな作品が三つ並んで、それぞれが黒い線のバリエィションをそれぞれに主張しているようで、圧倒されました。その線をみているだけで楽しかった。それまでの、線の遊びは線が動きまわるという外面的だったのが、線自体が変化するようになって動きが内側にも生じた、つまり、内面的になったと思います。つまり、線の意味が変わってきていると思います。他の二つの作品は画像を貼っていませんが、以前だったら一本の線が伸びて動き回っていたのを、線を分断して数本の線で一つの形をつくるようにしたり、一本の線において線自体の太さが変化したりしています。この作品では、全体として形が幾何学図形のように整った四角形や円形のようなものか゛崩れてきている。そこに自由さの幅がひろがって、静止していたようなバックに動きが生まれてきている。一方で線は、この作品では細い線で、他の作品に比べて太さは一定で輪郭も明確で、以前の機械的な線ではあります。しかし、この作品では、線が、その方向に伸びていくだけでなく、伸びる方向が揺らいでいるように見えます。それは、それによって、線自体が意識をもって、自身で、どの方向に伸びようと悩んで逡巡しているように見えます。まるで生き物のように、線に生き生きとした自主的な動きをみることができます。

ここで、絵画の展示がひと休みで、次の部屋が版画やオブジェ、そしてアトリエの資料の展示の部屋が入ります。それはパスして、最後の展示室に入ります。

村井正誠の「日本」

最後の展示室は晩年までの作品の展示です。展示では、村井の成熟期と説明されていました。前に、長谷川三郎との比較を述べましたが、長谷川が晩年に前衛書道のような抽象画を制作していたのに、似たようなことを村井もやっています。それが、この展示タイトルにあるように「日本」という要素がクローズアップされてくると思います。それは、前のコーナーで見た、線に生き物のような生き生きとしてきたことが行きついたところ、と見てもよいのではないかと思います。

「人」(左図)という1992年の作品です。村井の晩年近くの作品で、人を描いた絵画というより、漢字の“光”という字の書のようです。黒い線は、書の筆で書いた文字の線のように見えます。書でいう墨跡のような変化が加わっています。例えば、線の太さの変化は、前のコーナーで見た作品をさらにエスカレートしていて、以前の作品のような一様さがなくなっています。それは生き物のような不定形さが加わっていると思います。そして、線の輪郭に変化がくわわっています。それは、以前の線では輪郭は明確で、機械的といえるほど一律にそろっていたのが、輪郭がぼやけたり、でこぼこになったりして、その変化が不規則で、そういう線自体の変化を見ているだけも楽しい。そういう変化は線の輪郭だけではなく、絵の具の塗りもそうで、線の内部には、筆の跡が盛り上がったり、塗りが薄くなったりして、波のように表面が変化している。これは。「黒」い作品の黒の表面で工夫してきたことが、この線という面積の小さい部分に集約させて出させています。そこで、黒という色には、特有の艶がありますが、それは光が当たると反射の変化により強調されます。それゆえ、一見では、単純に見える作品ですが、小さな変化が不断に続く繊細で微妙な作品になっていると思います。「黒い人」(右図)という1998年の最晩年の作品も書のように見える作品ですが、「人」に比べてモノクロームになって、簡素さが、さらに進んでいますが、上で述べたような細部の変化が、まるで意識していないかのように、即興的に現れる融通無碍の作品になっています。

「大覚寺」(左下図)という1992年の作品です。初期作品で、「百霊廟」のように航空写真のように都市を上から見て建物等の配置を抽象的な画面にした作品があります。この作品は、それと同じようなつくりになっていると作品であると思います。京都の古刹大覚寺の塔頭と庭園を上空から見たのを抽象画のような画面にした作品です。しかし、「百霊廟」が建物が方形などの幾何学図形になって、その配置が作品の中心になっています。これに対して、この「大覚寺」という作品は、単に建物を記号のような図形にして、その配置がつくるかたちを楽しむというものではなくて、配置そのものは「百霊廟」に比べても、はるかに単純で、それぞれの図形が不定形で、その形自体が面白いのと、余白との“間”を味わうという作品になっていると思います。しかも、その余白が面白い。おそらく枯山水の庭の白砂で作られた波に見立てているのでしょうか、白い絵の具を短い筆の筆跡で波のような短い繰り返しのように絵の具を盛り上げているつくられている表面の変化があります。それで、余白が余白でなくなって、逆に意味ありげに見えてくる。一種の逆転で、地と図が交替するようなダイナミックな動きが、この一見静かな画面に潜んでいると言えます。そういう意味では、枯山水の世界が、この作品の画面に、形は変わっているがエッセンスが詰め込まれていると見えます。

そう見ていくと、村井の作品というのは、徹底して表層的で、見るという感覚のあそびに徹していると思います。それだからこそ、何がどのように描かれているかということを言葉にすると、それが、その人が作品を、どのように見ているかを明らかにしてしまう。私のように、作品を見た感想を綴っている人間にとっては、感想を書くことによって、私の感覚や感性の底が知れてしまう恐ろしい作品であると思います。村井の作品を形容詞で語ると、それは作品からの逃げになるので、そういう感想は、実は作品をちゃんと見ていないのが、すぐに分かってしまう。

 
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