マグリット展「不思議空間へ」
 

2015年の国立新美術館での「マグリット展」の感想はこちら
 

2002年7月 BUNKAMURA ザ・ミュージアム

6月に定時株主総会が、とにかく無事に終了すると、ほっとします。美術展もそういう時に見ることが多くなります。総会以前は時間の余裕がないのし勿論ですが、美術展に行こうという気も起らないのも事実です。今回も、暑い日でしたが、都心に出る用事を済ませた後、時間に余裕があったので、

展覧会カタログでは、マグリットを次のように紹介しています。長くなりますが、次に引用します。「ペルギーの画家ルネ・マグリットはシュルレアリスムの広範囲にわたる理解において、鍵となる人物である。彼の絵画言語はあらゆる世代の関心を呼び起こす力を持ち、一方では、あらゆる文化的背景を持った人びとが、その驚くべきイメージが持つ数々に驚嘆する。マグリットのイメージが持つ固有の特質は、両義性、奇妙な不思議さといった感覚を引き起こし、また彼の絵画は私たちを困惑させ、私たちの無意識の習慣をかき乱し、私たちの確信を破壊するであろう。それらは、ミステリアスな影響力を失うことなく、色あせない魅力を今なお発揮しているのである。マグリットの絵画に登場するイメージは、それらの本質や源泉は何かという、多様な解釈と議論の分かれる推論の対象となり続けている。生前、画家の心理や伝統的シンボルに言及した説明がなされたが、それらはしばしば彼の不興を買い、また画家を狼狽させることにもなった。彼は自身の作品についていかなる象徴的、精神分析的な解釈をも断固として拒否した。マグリットにとって謎は、現実に対する自らの観念的な見方要約したものであったが、彼は自身の芸術を私たちの意識をその「謎」へと誘うものと考えたのである。不幸にして彼は、このパズルのように悩ましい思考を解き明かす、それ以上のいかなる説明もすることはなかった。多くの思索的エッセイを残しはしたが、謎についての考えは謎めいたまま残されたのである。おそらくマグリットは、言葉で暴くことのできないイメージによって、自身の絵画が伝わることを、私たちに理解させようと試みたと思われる。マグリットの作品を前にして私たちが経験する永遠の魔法を解く鍵は、彼が現実の体験を語ったところの「見えるものは他のものを隠す─私たちは常に、見えるものによって隠されたものを見たいと願っています。隠されたものと、見えることが私たちに見えなくしているものに関心があるのです」という言葉に隠されているにちがいない。」

ここで書かれている内容は、この展覧会のスタンスでもあるのですが、一般的なマグリットに対するスタンダードな捉え方を代表しているのではないかと思います。私は、ある程度、そうだと思いますが、それ程のものでもない、というのが正直な感想です。例えば、この展覧会のパンフレットにはマグリットの有名な作品である「アルンハイムの領地」が使われています。猛禽類の頭部の形をした岩山を遥かに望み、手前には卵が置かれています。岩山と卵という普通に考えれば無関係なものが描かれているものが、岩山が猛禽の頭の形をしていることで、何か関係ありげな意味を詮索するような気になる。あるいは、展覧会で販売されたカタログの表紙で使われた「光の帝国」(左図)という作品は、前景は暗い家の陰で街燈が点灯し、家の窓にも明かりが灯されているのにたいして、後景では青空が広がっている。そこで前景と後景のギャップに不思議な感じがする。このような、絵画か常識的に描かれている後景を少しズラすことによって不思議な感じを見るものに生じさせる。いうなれば、「騙し絵」のようなものです。じっさい、マグリットの作品をそういう視点で見る人も少なくないと思います。引用した文章にもありましたが、マグリットはシュルレアリスムという運動に属していたと言われますが、シュルレアリスムの画家には、「騙し絵」のような作品を多く残した人がいます。例えば、右上の図のようなMCエッシャーもそうです。かれの作品は図のような視覚上の錯覚を利用して、鳥の群れの飛ぶ方向が正反対に見えてしまう不思議な画面になっています。これは、一種の視覚遊びのような感覚で、楽しんでみることができます。これは、純粋に見ることの愉しみです。これに対して、マグリットの場合は、その絵がどのように不思議かということが、言葉で説明できてしまうのです。これがMCエッシャーの作品との大きな違いで、エッシャーのように純粋に見るだけの愉しみとはちがって、言葉で説明できてしまうと種明かしをした手品のように魅力を失ってしまうことになります。しかし、マグリットの作品が今まで、繰り返し見る人の眼を愉しませているというのは、手品の種だけでは終わらない何かを持っているのです。私には、それがマグリットの作品の最大の魅力と思います。

それは、ミステリー(推理小説)というのは犯人捜しがテーマと言われます。ミステリーを読んでいる人に、犯人や結末を告げることは意地悪な行為なことです。しかし、犯人や結末が分かっていても、そういう題材を好んで取り上げたアルフレッド・ヒッチコックという監督のつくった映画は、製作されて何十年経っても人々に繰り返しサスペンスを与え続けています。タネが割れた「騙し絵」で見るものを魅惑し続けるマグリットと、結末が分かっていてもドキドキして見入ってしまうヒッチコックの映画には、全く分野が違うものの共通する点があります。それは、徹底的に“何を描くか”ではなく“どのように描くか”にこだわった点です。二人にも、細部に至るまで周到ともいえる緻密な描き方を徹底しているのです。そして第2の共通点は、その描き方が徹底して表層的であることです。つまり、見る人にどのように見えるかという効果に徹底的にこだわっているのです。ヒッチコックは彼の監督した作品の鍵を「マクガフィン」という言葉で表現しています。「マクガフィン」とは何か、と言っても何も意味はないのです。何か意味ありげではないですか。これが作品にいかにもあるように見せる。見る人は、それを何かあるはずだと探し始める。そういう効果を生み出すことにヒッチコックは頭を絞り、工夫をしました。同じような努力がマグリットの作品にも見られます。それは、決して冒頭で引用した解説に書かれているような大層なことではありませんが、それをこれから個々の作品で見て行きたいと思います。
 

 

■「アルンハイムの領地」

まず、今回の展覧会のパンフにも使われた「アルンハイムの領地」について、最初のところで具体的に触れなかったので、ここで見て行きたいと思います。

猛禽類の頭部の形をした岩山を遥かに望み、手前には卵が置かれています。岩山と卵という普通に考えれば無関係なものが描かれているものが、岩山が猛禽の頭の形をしていることで、何か関係ありげな意味を詮索するような気になる、という作品です。

実は、鳥の頭の形をした岩というのを、マグリットは別の作品でも用いています。1950年の「行き止まり」(左図)という作品や1957年の「青春の泉」という作品です。このうち、「青春の泉」(右下図)の場合は、体裁はモニュメントのような人工的に作られた彫刻のようなもののように描かれています。また、「行き止まり」という作品では留まって羽を休めていた鳥が石化してしまったもののように見えます。とくに、「行き止まり」では、鳥の姿がそのまま石と化したというところに一種の驚きを誘うところがあります。これに対して、「アルンハイムの領地」では、岩となっている鳥の形態は頭部と羽の一部に限られています。これは、見る人にとっては鳥がそのまま岩となっているような驚きが最低限に抑えられています。場合によっては岩が鳥に見えるかもしれないと思うようなギリギリのところにある。これは、マグリットが同じ鳥の形をした岩を描いていても、それを見る観客の眼差しが違ってくるように意識して描いていると思われます。鳥がまるごと石化してしまえば、それは異常なことで、見る人は驚きます。しかし、それは一瞬のことにすぎません。普通でないことを目前にすると人は驚きますが、それに慣れてしまうと普通のことになってしまうのです。そうなったら驚きもなくなってしまいます。これに対して、実際にあるかもしれない鳥に見える岩山がらしく描かれていると、見る人の見方によって、それは普通のことにもなりうるし、驚きを誘うことになり得るわけです。そうすることによって見る人は緊張を強いられることになります。当然、その部分に視線を集中させ、「何かが隠されているかもしれない」という疑惑をもたせ、想像力を掻き立てさせるのです。そして、「アルンハイムの領地」では、その鳥の形をした岩山は、山脈の一部としてさりげなく描かれています。それほど強調されているわけではありません。つまり、この描かれている光景は、マグリットの世界として決して特殊なものと描かれているわけではない。普通の光景と同じように描かれています。大事なのは、異常な光景を見せるということではなくて、普通の光景との相関関係でみる人にとって、らしさ、というのか、らしく見える、ことなのです。ここに通底しているのは、異常とか驚きを誘うというのは、普通の空間を壊してしまうようなことではなくて、普通の光景と異常に光景は結果的に共存しているということです。どういうことかというと、「アルンハイムの領地」での鳥の形の岩山を単に異常なものとみる人を驚かせてしまうと、そこで終わってしまうので、異常か普通かの間で宙ぶらりんにすることで、普通の空間が破壊されるまでの張りつめた緊張感を醸し出させるのです。そこには、普通の空間には、その影には異常な、普通を破壊してしまうようなものが隠されているということです。そういう視線で画面をみると「何かあるのかもしれない」と余計な想像を働かせてしまうことになります。

次に、卵と鳥の形をした鳥でないものとの組み合わせというパターンは1940年の「帰還」(左下図)という作品でも用いられています。一般的な「騙し絵」ならば、タネは一回しか使えません。手品のようにタネを隠すことができないのでパターンが一度知られてしまえば、既知となって次回は見る人を驚かすことは出来なくなります。しかし、マグリットは、バターンを繰り返し用いて洗練させながら、使用を少しずつズラしていきます。この「アルンハイムの領地」が制作された1960年当時は、マグリットは既に大家として名を知られた画家であり、その作風も周知されており、見る人の多くは既に発表された画家の有名な作品を予備知識として持っており、そのような準備をしてくるなかで、「何かありそうだ」という想像をすでに働かせてくるといえます。そのときに、他の作品で既に使われた周知のパターンを、見る人に分かる程度にズラして用いることで、何が変わり、何が変わっていないか、詮索させる気を起こさせる。そこには、見る人にとっては、これだけ画家のことを知っているという優越感を鼓舞させることにより、尚更、そういう気分を煽るのです。

そして、この「アルンハイムの領地」にも「帰還」にも特徴的な点は、卵は手前の窓枠の桟のような狭いところに置かれていて、鳥の形をした岩や空の切り抜きは窓の外の風景のように描かれているということです。つまり、手前の卵と後景の鳥の形をしたものは違う空間にあって、それを窓枠の様なものがしきっているのです。しかも卵はその境目のような窓枠の桟の狭い空間にある。これを見る人にとっては窓枠がこちらとあちらを分ける境界であり、卵はその境界の狭い隙間に置かれ、こちらにもあちらにも落ちてしまいそうな不安定な存在のように見えます。そこに、まるで劇場のような虚構の空間で観客が場を共有していながら、虚構に参加できるようで参加できない、しかし、目前で手に取るように起こっていることが分かるという立場に置かれる。つまり、この絵を見る人は劇場の観客のように目の前のことは全て見えるにも拘らず、手を出して参加することができない。そこで、目の前の絵では、いかにも「何かありそう」に描かれているといえます。

最後に、このような効果を最大限に生み出すように、全体としての描き方が非常に分かり易く描かれているということです。絵画という一般的な概念にもっとも適合するように、何が描かれているかが明確で、画家の個性的な表現とか感情の吐出のようなことは注意深く排除されています。しかも、描き込みはシンプルで、キーとなる卵や鳥の形はさりげないけれど、ハッキリそれと分かるように描かれている。分かり易くするため、画面は具象でありながら余計な要素は注意深く排除され単純化されている。多分、描く前に画面構成は画家によって綿密に設計され、アドリブ的な要素は微塵もない完璧主義といっていい画面になっています。画面が単純化されることによって、見る人はそこにある要素に何らかのシンボルのような意味づけを与えやすくなります。ということはそれが印象に残り、何度も注目することなる。卵と鳥の形を繰り返し見返すことで、見る人が自ら進んで意味を読み込むように仕向けているというわけです。

展覧会カタログの解説文で、マグリットの「見えるものは他のものを隠す─私たちは常に、見えるものによって隠されたものを見たいと願っています。隠されたものと、見えることが私たちに見えなくしているものに関心があるのです」という言葉を引用しましたが、これは以上述べたような視覚設計による効果のことであるように思われるのです。そして、マグリットの場合は、このよう視覚効果そのものが作品として結実していると言えと思います。そこは、心理学的要素とか哲学的要素などというのとは、別の物のように思えるのです。 

 

■「無謀な企て」

マグリットの描く人物は、どうしてこんなに生気も存在感もないのだろうかと思います。この「無謀な企て」という作品では、画家に動きがなく、描かれている裸婦にしても美しいとかエロスというものは感じられません。もっとも、裸婦は二次元の平面に描かれるべきものが立体として描かれるという不思議さであるため、リアルな息づく人間として描かれる必要はないのでしょうが。女性はマネキン人形のようです。デッサンはしっかりと書かれているのでしょう。形態はしっかりとらえられていて、人物であることは分かるし、どのような動きをしているかということは、情報として分かります。しかし、表情は能面のような無表情です。女性は顔の輪郭などはきちんと描かれ美人であることは分かります。しかし、人間の顔というより人間の顔の形態をそれらしく描いているという感じです。立体感はあり、それらしい色彩も丁寧に塗られています。一方、画家が絵筆を持っている様子は、ちゃんとそれと分かるし、不自然さはありません。しかし、画家の顔にも表情がなく、物体としての重量がないし存在感がありません。それらく陰影があり立体感が感じられるように影が付けられています、何となく塗り絵のような平面的な感じがします。類型的というのでしょうか。この展覧会でも何点も人物を描いた作品が展示されていますが、一様に下手というのか、リアルな人間を感じられないものになっています。1964年の「善意」(左図)の人物もパイプがなければ、人物画として積極的に見たいと思うでしょうか。

このことについては、他の作品のところでも述べてきたようなマグリットの特徴として見る人への効果のことを考えると個々のパーツは単純化するという事情があります。そのことは、別のところで述べましたので、ここでは別の点から考えてみたいと思います。

それは、経済発展による大衆社会の到来と、技術の飛躍的進歩ということです。マグリットは1898年に生まれ、1967年に亡くなっています。マグリットの生まれたころは印象派以降の近代絵画の時代と言えます。このころの時代背景としては、それまでの古典やロココといった君主や貴族、あるいは寺院といったパトロンの庇護のもとで注文に応じて歴史画や肖像を描いていた画家というものが、フランス革命や産業革命などによって社会の主導的地位をブルジョワジーに取って代わられることになります。そのために画家はパトロンを失い、時代の担い手であるブルジョワジーを新たな顧客として行かざるを得なくなります。ブルジョワジーはそれまでの支配階級と違って、民衆に対して自らの優越的地位を派手に宣伝するような必要はなく、倹約と勤勉によって経済的実力を蓄えて行くという生き方をするものでした。だから、画家をパトロンとして雇って沢山の絵を描かせるというはしません。そこで、画家は大きな方向転換を強いられたわけです。さらに技術の大きな進歩によって画家たちにとっては写真という新たな競争相手が出現したわけです。肖像画を描いてもらわなくても記念写真をとれば、絵画より対象そっくりの写真が一瞬でしかも安い価格で手に入るわけです。このような中で、旧態依然の絵を描いていて、写真に対して絵しかできないことを考えないと、写真との競争に負けてしまいます。そこで現われた運動のひとつが印象派といえます。そのあと、幻想的な絵画や抽象的な絵画などさまざまな試行錯誤が行われました。さらにマグリットの時代には、技術の進歩と経済発展の進展によってブルジョワジーだけでなく、大衆が社会の消費の担い手として認識され、時代は大量生産、大量消費の時代に入って行くことになります。そこで登場したのは複製技術です。写真も当初は、1回の撮影で1枚の写真しかできませんでしたが、焼き増しができることによって、1回の撮影で多数の写真が一度に作られることになりました。これによって、例えば人気の俳優や踊り子の写真を大量につくって商品として売る、プロマイドのようなものが出てきました。絵画も、多色刷りの印刷の発展により色鮮やかなポスターの生産が可能となり、そういうものへの対応に迫られるようになって行ったと言えます。一枚の作品をじっくり描いていては、そのようなスピードと大量生産に追い付いていけなくなってしまうのです。そして、恐ろしいのは、そういう大量生産が出回り、それが当然のこととなっていくと、人々の意識もそれに引き摺られていくことになるのです。そこでの美意識も例外ではなくて、精緻で繊細な絵画は複製が難しいので、需要が減り、代わって単純化された図案の様な大量生産しやすいものが、しかも貴族やあるいはブルジョワジーのような程度の差こそあれ教養や文化の蓄積がありそれを尊重するような人々から、蓄積を持たない大衆は分かり易いものを自然と求めてしまうのです。

さてもこのような周囲の環境に対して、マグリットは超然としていられたのか。とくにかれの生まれたベルギーはオランダと境界を接し、商人による交易で栄え早くから市民社会の発達した国だったと言えます。そういう社会では資本主義の進展は早く、画家として食べて行くためには最初から貴族や教会の庇護は期待できなかったはずです。現代と、それほど変わらない、画商を通じて描いた作品を人々に見てもらい購入してもらうというシステムが既に出来ていたと言えます。それも、複製することで安く大量に頒布されることで利益を上げるということに既に始まっていたと思われます。その言う視点で見ると、マグリットの作品で描かれた人物というのは、まるで複製されたもののようではないでしょうか。ベンヤミンがいみじくも「複製技術時代の芸術」という論文で述べていたような芸術作品の一回性であるようなオーラを欠いたものと言えます。今の時代からみると、そういうマグリットの描き方はイラストのようなものに極めて似ているように思えます。

つまり、敢えて、人物が描かれていることが分かれば十分であって、芸術のオーラのようなものは却って大衆に広く受け入れられるためには障碍になる。そこで当初から追求しないというわけです。

その意味で、人間の外側の輪郭だけを切り取り、中身を空洞のようにして描かれた「王様の美術館」(右図)という作品は、まるで現代のデザイン・イラストといっても誤解のないものではないかと思います。そういう意味で、マグリットという画家は複製の発達による大量消費の時代に、どう対処するかという点で、極めて自覚的な作品を制作したと言えるのではないかと思います。

 

■「大家族」 

マグリットの作品の中でも、とくに有名なもので、広告や宣伝ポスター等で広く用いられ、マグリットの作品と知らなくても、目にしている人は少なくないと思う作品です。このような風景の中である形の輪郭を切り抜いた青空を、強調するような形で全面に出すというパターンで、広く引用されていると思います。マグリット自身も、このパターンを何度も取り上げています。例えば1966年の「王様の美術館」(右図)、1960年の「愛の法廷」(左図)、1951年の「誘惑者」(左下図)、「大潮」、1940年の「帰還」、1931年の「夏」等が今回のマグリット展の中で展示されています。面白いのは、他の画家であればテーマとか題材というものを何度も繰り返し取り上げて、そのテーマを掘り下げたり、違った視点から描いて拡がりを与えたりすることが多いのです。しかし、マグリットの場合は、そうことは皆無で、代わりにこのようなパターンを繰り返し取り上げて作品を制作しているのです。パターンですから掘り下げることは出来ず、異なる視点で拡がりを与えることも出来ません。そこにあるのは反復です。そこにあるのは、パターンの独り歩きともいった現象です。何を描くかという内容よりも、その描かれるパターンの方が優先されるというわけです。

こじつけて、難しい言葉を持ち出すと“シュミラークル”という、言うならばオリジナルをもたないコピーという説明概念が思い浮かびます。例えば、あるブランド商品は品質や信用の伝統の結果打ち立てられたものですが、それがブランドとして独り歩きし始めると、それを買う人々は商品の品質を求めるのではなくて、有名で高価なブランドを買うことで満足し始める。究極には、商品がなくてもブランドパッケージだけでも満足してしまうことになる。そこでは本来の内容とん実質といったものは後回しにされてしまう。だから、まことしやかにブランドのロゴマークがついただけの模造品商売が成立しているのです。

このようなことは、マグリットが描く個々の作品が、どこか薄っぺらく、まがいものめいた感じを受けるのは私だけでしょうか。パターンが繰り返されるという反復が重ねられ、本物らしさが無限に希薄化していって、偽物めいたものになっていくと、シュミラークルに近づいていく。本物とか偽物といった区別が無効となって、それゆえに個々の作品の独立性の前提となる同一性がなくなってくる。これが、さらに推し進められると現実のリアルという足場を失って、普通のリアルな感覚をベースに異常な世界とのズレを作品としていくことから、それらの境界がだんだんなくなって、行きつく先は普通のリアルという足場に逆影響を与え、現実という前提そのものが不安定化させていくことになる。このバランスを失ってしまうと、マグリットの不思議な作品世界というものが崩れ落ちてしまうでしょう。そのような危ういバランスの上に乗っている。それが、マグリットの作品の限界と言えるのではないかと思います。

一方、具象といい抽象といいますが、西洋絵画というのは、常に何かを描いてきたものです。それがテーマという言葉に収束されていると思います。具象は現実の何かを描いているから分かるが、抽象画はもとの形がないのだから、と疑問に思われる方もいると思いますが。キャンバスでも紙でも白い平面に、とにかく線を引いても、絵の具を塗っても、そこに何かが線とか面とかというのが残るわけで、それが描かれた形ということになるわけです。具象画のように現実のモデルを写したというものではなく、描いた画家が描いたものに対して何らかの価値づけを行って、それを見る人に提示することになるわけですから、ある意味では、具象画以上に「描かれたもの」というのに対する切迫感は強いとも言えます。つまり、結果であれ、目的であれ、何かを描くというのは、西洋絵画が絵画として成り立つための条件のようなものと言えます。だから、まんがやイラスト、挿絵のようにものを芸術絵画のハイカルチャーに対して、サブカルチャーという差別していたわけです。しかし、マグリットの作品は、ここでも言うように何を描くということよりも、パターンを繰り返し提供するということを追求しているように見えます。ハイカルチャーである絵画の存在意義を否定するようなものであったのではないかと思います。そこに、マグリットという画家の突出したところがあったのではないか。さらに言えば、そういう絵画であったからこそ、大衆が登場した大量消費社会における宣伝という媒体で、マグリットの方法が真似されて、多数の偽マグリットを輩出させたのではないかと思います。もともと、日本の絵というのは、とういう自意識のようなものはなくて、まんがとの境界もきわめて曖昧な社会で、マグリットのような表面的な作風というのは、馴染み易かったのかもしれません。


 

 「アルンハイムの領地」

 「無謀な企て」

 「大家族」

 

 

 

 


 
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