没後40年 熊谷守一 生きるよろこび
 

2017年12月21日(木)東京国立近代美術館

12月の暮も押し詰まってきた20日過ぎ、中国の子会社に出張してきた。中国の街角は、日本のような歳末といった感じはなくて、普段どおりの忙しく、活気に溢れた人々が行き交っていた。そういう中に身を置いていると、日本よりも慌しいはずなのに、ほっとする気持ちになった。おかげで、いつもの、この時期の、浮ついたような心持ちを落ち着かせることができたと思う。数日の出張で帰国したときには、普段の感じに戻れていたと思う。それで、空港についた時間も早かったので、折角の機会だからと、羽田から竹橋に廻ることにした。

地下鉄の竹橋駅を降りて、お堀端にでると、平日の午後の静けさで、観光客と見られる外国人とランナーがチラホラだった。近代美術館のロビーは静かで、展示室は、ほとほどの人で、緊張感を保ちつつ、マイペースで会場をぶらつくくらいに、ちょうどいい雰囲気。結果的に熊谷守一の作品を見て廻るには、ちょうどよい雰囲気だったと思う。熊谷守一に抱いていたイメージは、下手さを味わいという言葉にすり替えて、ちょっとお洒落な中高年の趣味に媚びるイラスト風詩画で、民芸風のカフェに飾ってある、というような毒にも薬にもならない、というような感じでした。実際、そういう作品もありますが、この展覧会は、そうではない熊谷の作品の性格を提示しようとしているようでした。それは主催者のあいさつにも表われているので、引用します。“熊谷守一(1880〜1977)は、明るい色彩とはっきりしたかたちを特徴とする作風で広く知られています。特に、花や虫、鳥など身近な良きものを描く晩年の作品は、世代を超えて多くの人に愛されています。その作品は一見ユーモラスで、何の苦もなく描かれたように思えます。しかし、70年以上に及ぶ制作活動をたどると、暗闇でのものの見え方を探ったり、同じ図柄を何度も使うための手順を編み出したり、実にさまざまな探求を行っていたことが分かります。描かれた花や鳥が生き生きと見えるのも、色やかたちの高度な工夫があってのことです。穏やかな作品の背後には、科学者にも似た観察眼と、考え抜かれた制作手法とが隠されているのです。”例えば、次のように解説します。“熊谷の作品をよく見ると、一見簡単に描かれているようで、本当はどれも緻密な色や形やタッチの計算の上に成り立っていることがわかる。花や猫といったモチーフの親しみやすさと高度に考え抜かれた画面作りとのギャップは驚くほどだ。膨大な数にのぼる作品は、熊谷守一とは何者か、というミステリーを解くための最大の手がかりだから、もっと突っ込んで見る必要がある。”何か、今まで無縁に思っていた熊谷守一の作品に対して、親しむことができる突破口が見えたような気がしました。この展覧会のタイトルは「生きるよろこび」という副題があり、チラシには熊谷の晩年の仙人のような飄々とした姿の写真が載せられていますが、むしろ、熊谷の作品は、そういったこととは無関係に、作品として独立しているというようのが、この展覧会の姿勢であるように思われるので、むしろ作品に親しむ上では邪魔になるように感じました。そんなように、これから作品を見ていきたいと思います。

1.闇の守一:1900から10年代

ここには、展覧会のポスターとは別人のような熊谷がいました。「婦人半身像」は、筆触がむき出しになったような荒いタッチで、何だか描きたいイメージが先にできて、どんどん進んでいって、それに描く作業が必死に追いつこうとして筆を動かしている、というように見えます。しかも全体に暗くて、モデルである女性を美しく描こうなどとはこれっぽっちも思っていない。そういう配慮というものがなくて、ひたすら描くことに追いまくられている。そんな感じは、岸田劉生を想わせるところがあるのではないかと思いました。

「蝋燭」という作品です。蝋燭を手に持った男性が、その姿が炎に浮かび上がるという作品なのでしょうが、絵の具の変質や汚れによって黒っぽくなったせいもあるのでしょうが、全体に暗いので、男の姿はぼうっとしているように見えます。蝋燭に照らし出された光と影をドラマチックに描くのはカラヴァッジョやラトゥールなどといったバロック絵画の常套手段で、蝋燭の炎が揺らめいて光るところを飽きずに描いた高島野十郎のような画家もいますが、熊谷は、それらの画家かちとは違って、蝋燭の光の部分を過小と言えるほどに描いています。それだけ影の部分に注意が向かっているのか。多くの画家は光を捉えることに関心を持って、影を描くとしても、光を描くための対照させるために描いている、先に例をあげたバロックの画家たちは強調するように使っていました。それに対して、この作品の熊谷は、光ではなく影に描きたいと言わんばかりに見えます。

それについて、次のように解説されています。“熊谷が「人間の目にとってのものの見え方」に強い関心を抱いていた。身体に属する一器官である目にはさまざまな癖があり、ときにわたしたちに現実とは異なる「とてもおかしいこと」を見せる。人間はものをそのままに見るわけではなく、あくまで目というフィルターを通って届く刺激により、脳が作った像を見るのだ。熊谷は早い時期から目というフィルターの存在に自覚的だった。そんな熊谷にとって、闇とは、ものの物質的な実体を消し去り、代わりに光の当たり方によってどのようなでも変化する不安定な像を出現させる、理想的な状況だったに違いない。”

それは、熊谷は、写実ということを素朴に信じられない人だったということかもしれません。この作品で言えば、男が存在することは確かだとしても、そのままを人は見ることができるのだろうか。そうであれば、見るという仕組みを分析して、どのように男が存在しているという情報をキャッチして、その詳細について、おそらく必要な情報をフィルターにかけてセレクションしている。そのセレクションの仕組みを絵画に逆に用いれば、セレクションした情報のみを絵画に載せることによって、見る人はそこにリアルとか真実であると捉えさせることができる。そうであるとすれば、熊谷にとって絵画とは在るものを表わすものというよりは、在るという真実を創り出すものであったのではないか、と考えていたかもしれない、と思えるのです。そうであるとすれば、熊谷という作家は、控え目に言っても、かなり特異な作家であったということになると思います。そうであれば、この後に見ていく展示作品において、色や形といったことの捉え方が、他の画家たちとは根本的な発想が異なっている、というよりは突飛に見えてしまうのは、そういうことなのかもしれない、とすこし先回りしてしまいました。

「横向裸婦」という作品です。一見、粗っぽい塗りようで、薄い塗りは土の板が見えてしまいそうで、筆の跡がはっきり分かります。この女性の裸体は、人間の肌とは思えないような色が使われ、筆の塗り跡のままに散りばめられています。それは物質として、そこに存在する身体を目が捉えているというよりは、光の集合として捉えているという、人間の目と脳の中だけに生じるものを画面に定着させようとしているのではないか、と思えるのです。

「自画像」という東京美術学校卒業時の作品です。学生時代の同級生に青木繁がいて、夜の街角を二人で歩いていて、遠くの街灯の光がまつ毛に当たって光輪のように見えて、そっくり返って歩く青木は下まつ毛に、俯いて歩く熊谷には上まつ毛に、それぞれ光輪が映っていた、と熊谷は後世になって述懐しています。この作品では、全体に赤黒い色調で、輪郭がぼうっとして明瞭でなくて、その暗い画面のなかで、影になっていたり、暗さの中で細かいところは赤黒いというか暗褐色の影の中に沈み込んでしまうように、よく見えなくなってしまっています。色というのは、光の反射具合を人の目が検知するものです。だから、逆に色を描くことによって人が検知したということを表わすことができるわけです。この作品をみていると、熊谷が影を描くことから離れていったことがわかるような気がします。だって、何を描いたか、画家以外の人には、分からなくなっていくようなのですから。「轢死」という作品など、その最たるものなのですから。熊谷の次のような言葉が引用されていました。“影ってものは、陰気なもんでしょう。そこを影のない色を寄せ集めれば、困るほど影が出てくる。そのほうは、実際の影より陰気じゃないですわ”

「某婦人像」では、印象派の描法のような絵の具を混ぜることをしないで、いくつかの色を別々に塗り分けて様々な色が人間の目の中で適切に混ぜ合わされて、まるで絵の具を混ぜた色のように見えてくる効果を意図して描いているように見えます。このことは、人間の目がどのようにものを見るか、ということへの関心が闇と光から色と色の関係に移っていったことが作品に反映したもののひとつと言えるかもしれません。この作品では補色関係を計算していると考えられます。

2.守一を探す守一:1920−50年代

このコーナーで展示されている作品を見ると、前の「闇の守一」のコーナーでは光と影の対比で影ばかりだったり、色に注目して点描みたいな色を分けて塗ることだったり、といったことが目についたのでしたが、ここではまず、荒々しい筆のタッチが画面に、そのまま残されている描法が目につくようになります。

例えば「松」という作品は、まるで絵筆で描きなぐっているだけのような作品です。どう見ても、松には見えない、そういう形をしていない。ここでは、光とか色ということだけでなく、形という側面からも、人がどのようにものを見るかに関心を向けているように見えます。その関心は、描くという行為に伴って、このように描くことで、人はこのように見るという方向に逆転します。それは、松がどのように在るということではなくて、このように描くと人は松を見るという方向です。この作品では、それが試みられているようにも見えます。

「夜」とは「轢死」の再制作と言える作品ということです。この作品は夜なのに。画面全体が明るい。これまでの暗い色調で影ばかりを描いていた作品とは大きく違います。これは、まさに熊谷本人が言っていた影が陰気になってものの形が曖昧になってしまうことから脱して、光と影を色に置き換えようとした作品ではないかと思います。実際のところ「轢死」では、真っ暗な画面で何が何だか分からなかったのが、この作品を見て、どんなものが描かれているのか、はじめて分かりました。この作品での中心となる轢死した女性は物質的な身体ではなくて、赤、青、緑、黄、白などの光の点の集まりとして描かれています。光というよりも色に置き換えられている。暗い背景から色の点が浮き上がり、ふらふらと動き出すように見えてくる。これは女性の肉体という物質に属するものではなく、見る者の目と脳の中だけに生ずるものの見方と言えます。

「陽の死んだ日」という作品です。画面左手に火の灯った蝋燭が描かれているところから、通夜の風景なのでしょうが、夜の暗さは微塵もありません。蝋燭の灯りに照らし出されたにしては昼間のような明るさです。おそらく、夜の闇の暗い部分は薄い地塗りのままなのか。はっきりと見えているところは、ブロックに分けられて絵の具を厚く塗られています。つまり、光と闇を闇から見ていくことから、次第に光と闇を色の集まりの分布に置き換えられていったと言えます。それは、ここでは遺体という物質の実質から、それを視覚というセンサで感知している表層の色という情報の集まりと配列ということに置き換えているというわけです。「松」のところでも述べましたが。人が遺体を見るときには、その色、色というのは光の反射を網膜が捉えた情報を解析した結果、色として把握して消化するわけですが、を認識する。その色の配置により、形を構想する。つまり、この作品であれば、赤と黒に囲まれた肌色っぽい色のブロックを形としてまとまったものとして捉えて、それが顔であるという意味を与えて、その対象の内容を解釈するということでしょうか。このとき、西洋絵画の基本的な認識の仕方とは異なることを熊谷は試みているのではないかと思います。熊谷自身には、そんなことを意識しているわけではないでしょうが。つまり、人が何ものかを見て得た情報について、それがその見たものと一致しているかどうか、一致していれば、それは真実であるということになります。その判断をするのか知性とか、理性といったはたらきです。理性が得た情報を真実かどうかを判定するときに、その情報のどこで判断するかというと、それが本質です。本質という部分をそれが何であるかという基準(概念とか、あるいはイデアというひともいますが)に当てはめて、それと一致すれば真実であるということになります。そういう本質の内容について、形相、つまりかたちを第一に考えるのが西洋の伝統と言えます。だから、近代絵画くらいまでの西洋絵画は、デッサンというものの形をある視点で正確に捉える訓練を重視してきました。私たちの常識的な絵画の見方であっても、形がそっくりであるということをひとつの基準としてみていることがあるわけです。リアリズムというのは、ものの形を正確に捉えて描写しているというように見ている要素が大きいと思います。説明が長くなりましたが、ここで熊谷の作品を見ていると、そういう形ということを第一に考えていない。そのベースとなる、見たものが真実であるかどうか、ということについて熊谷は全く注意を払っていないように思えます。それよりも、目というセンサで得た光というメディアを介した情報を色に変換し、そこから形という意味づけの手段とするプロセス。つまり、西洋的な真実かどうかを判断するための本質を得る前段階のプロセスを追究して、それを描こうとしているように思います。したがって、熊谷にとって形というのは、真実として意味づけられる以前のもの、だからあいまいなのです。例えば、ダイビングで海底に潜っていた際に、海底の岩につかまろうとしたら、そのつかまったものがグニャリとした感触で柔らかかったら驚くでしょう。岩に見えたものが、摑んでみるとそうではなかった。つまり、見るというセンサで検知したものから判断して、それに基づいて行動したら、その判断が誤りである、つまり真実でないことに気が付いた。このとき、人は判断を訂正するのが普通です。摑んだのが岩ではなくて、岩に擬態した軟体動物であった。それが分かると、人は、その新しい判断を基にして行動を改めるでしょう。しかし、このとき、その摑んだものが未知のもので、どう対処すればわからないとき、人は不安になったり、時には恐怖やパニックに陥ることもあります。実に、熊谷は、この判断以前の時、この例で言えば、岩と思って摑んだものが岩ではいことに気づいたとき、それが岩以外の何であるか不明で、それを水中眼鏡越しに見ている状態にいるのではないかと思います。例えば、この「陽の死んだ日」という作品では、通夜の風景とか、目の前に横たわっているのが人間の遺体であるという判断をする以前の光とか色が目というセンサに情報として検知された状況を捉えようとしている。むしろ、熊谷にとって世界とは、そのような判断のできる安定した心理でいられる状態でないものとして存在しているのかもしれません。そうであれば、逆に真理などという既成の判断基準にとらわれずに自分独自に基準をつくって解釈することが可能となります。それが、この時期の熊谷に特徴的に表われている荒っぽい筆の跡なのかもしれません。

「人物」という作品です。裸婦の後姿を描いたものでしょうか。これまでの作品の見方から、色のブロックの組合せが室内の裸婦の形を成しているというように見ることができると思います。そしてさらに、色のブロックが色というだけでなく、画面に絵の具を塗ってある筆の跡が画面にリズムを作り出していることに気づきます。例えば、裸婦の背中や尻のところの円形の筆跡。それが背景にもあって、それらが色によって形がなして在るのは別に、筆の跡が新たな形を画面に創りだしている、と見えます。熊谷は、これを裸婦や風景を題材とした作品で試行するように制作していった、それらが並べて展示されていました。「裸婦」では赤い絵の具のくねった筆跡だけで裸婦ということにしてしまっています。これなどは、もはや裸婦を写生したことを超えて、筆で引いた筆跡を裸婦ということにしてしまっていると言った方がよいのではないと思われる作品です。「横の裸」という作品では茶色と白の筆跡だけとも見える作品で、これはタイトルがあるから、そのように見て、はじめて、何が描かれているのか分かるもので、タイトルがないところでは抽象画と言われても、そうだと信じてしまいます。つまりは、熊谷にとって世界とは、そういうものとして存在していたのではないか、と思えるのです。だから、自分なりに創ってしまうことができることにもなるわけです。

例えば「安良里港」という作品です。漁船は水平に筆を動かして赤と白と薄い青の帯が数本引かれたというもので、画面手前の岸に集まった人々は円形に筆を丸めて引かれた跡が三角形に集められています。「人物」から、さらに一歩進んで、既成の真理以前の状態で世界を検知するというところから、筆跡という要素を描くことにくわえることによって、画面をそれで作っていこうとすること、それは、熊谷が新たに創り出した、既成の真実ではない彼自身の尺度で世界を判断しようとするもの、というところに行こうとしている。つまりは、検知した情報を基に彼自身による世界を構築しようとしている方向に一歩進んだのではないか、ということです。なお、ここに見られる作品は、スタイルとしては表面的にキュビスムやフォービスムに似ているところがありますが、これらの運動は、理念として真実を尺度として、真実を画面に再現するための様々な試行錯誤と考えられるので、根本的に熊谷の姿勢とは別物と、私には思えます。それゆえに熊谷の作品には、そういうイズムの作品にある計算された緻密さにはないプリミティブな奔放さとか荒々しさがあるように思えます。

そして、表われて来るのが。熊谷守一のトレードマークともいえる赤い輪郭線ではないかと思います。展覧会での説明では、熊谷はもともと光と影に関心を持っていて、前に見た「横向裸婦」では逆光の位置に立ち、身体の縁から漏れる光を白く細い線で表わしていたと言います。「夜の裸」という作品は、「轢死」のモチーフを引き継いでいて、夜の闇の中の死体をはっきりとそれと分かるために、光と影を色に置き換えるだけでなく、逆光の縁取りが赤い輪郭線となって現われたと言います。本来、現実の世界に輪郭「線」は存在しません。あるのはモノと空間、またはモノとモノとの境目だけです。熊谷は何ごとも一から自分で考えなければすまない性格です。その熊谷が実在しないはずの輪郭線を画面の上に引くためには、一度「線のように見える細い輪郭の光の帯」という確かな手がかりを用意する必要があった。と展覧会では解説されていました。

そして面白いのは、赤い輪郭線を引くことによってなのか分かりませんが、輪郭線によって引かれて形成された形がひとり歩きし始めるようなことが見られることです。 「谷ヶ岳」という作品では、「夜の裸」の顔を背け、腕を投げ出した裸婦の輪郭を左右反転させると山並みのラインとよく似ているのです。これは、一連の裸婦像や風景画で筆跡がひとり歩きして世界を創るようになっていったのと同じように、輪郭で形成された形態が世界を創ることもできることなるわけで、熊谷は、このように様々な方法で世界を創ることを試みていたのではないか。創るという意図的なことではなくて、既成の真実という尺度のないところで世界があるということを検知して、それを表わそうとして、そのままでは他人には分からないから、何らかの尺度をそこに他人のためのフィルターを入れることを試みていたのかもしれません。

「漆樹紅葉」という作品では、輪郭線で区切られた形成された領域を色で埋めて、結果として風景画の画面が出来上がるという、あたかも世界創造をしてしまっているかのように思えます。しかし、何気なく見れば、簡素化された、こどものようなナイーブさを感じさせる牧歌的な風景画で、しかも色が鮮やかできれいというものでしょうか。しかし、この鮮やかな紅葉として見る者が受け取る色彩は、様々な色の相互関係による効果を計算して創り出されたものでしょう。

解説では、アニメーションのセル画のように塗り分けていると説明しています。「西日」という作品では、光が当たる部分の明るい色と影になる部分の暗い色の塗り分けをそうしています。個々の岩は影に沈んで一色に塗られ、岩の影にあたる西日は赤い輪郭線で表わされています。このようにひとつのモチーフを明暗のブロックに分け、そのブロックをひとつの色で塗っていく、そして、その色は現実の固有の色ではなくて、となりの色との相互関係で対比や調和を考えて選んでいくようになっています。このことは、「仁右衛門島」という作品では黄土色に茶色という固有の色の明暗に近い色合わせとは別に、もっとも暗い部分には少量の青や紺が用いられています。つまり、暗部を影にするのではなく黄土色のとなりに青を置いているのです。つまり、真実かどうかという判断をする以外で、存在していることを検知するということをしようとする。それは、(西洋)絵画というもののあり方に対する、根本的な批判ということになりかねないのかもしれません。何かの対象があって、それを目で見て、そのことを描いて他人に見せる。そういうこと、そのベースにある見たままは、その対象そのものを写している、真実であるということです。その真実であるかどうか、ということを外してしまうということです。ある意味、そんなことは絵画の伝統の中で誰も想像すらしなかったことかもしれないわけです。しかし、熊谷以外の人は、絵画のそういう伝統の中にいるわけで、仮に熊谷がそういう試みをしたとしても、例えば私であれば、熊谷が試みているということを聞いていたとしても、習性的に伝統の中で熊谷の描いたものを見てしまうでしょう。したがって、熊谷がそういう試みをしている作品を、批判されている伝統として見てしまっている。それゆえ、そこにすれ違いというのか、正直に言うと、熊谷の作品に対して、簡素化したパターンのような同じようなモノの繰り返しを大量生産しているとして、絵画というよりイラストとか挿絵のようなもの、と見なしてしまう。しかし、熊谷からすれば、そういう検知をしていて作品を制作するだけでよかったのか、自分ですら手探りで試行錯誤を繰り返しているのに、それに自覚していない他の人に作品を見てもらうということができるのか。おそらく、見せたとして、それを分かったという人がいても、今言ったように混同してしまうのが関の山ということ、こんなことは熊谷も分かっていたと思います。したがって、熊谷は誰もやっていなかったことをするということと、それを他の人に見てもらって、そういうことだということを分かってもらうという、二つのことについて作品を創ることをしようとした。とくに二つ目のことについては、少なくとも混同を避けるためには、従来の絵画とは違うということを見る人が、ひと目で分かる、かといって絵画であると認められる範囲から外れてしまえば、見てもらえなくなる。そういう綱渡りのようなギリギリのバランスの中で、試みを続けていたのではないかと想像をしてしまいたくなります。とくに、この「西日」のような作品は、その結果としてシンプルさとか、軽さといったことを獲得し始めた作品ではないかと思えるのです。少なくとも、私には初期の真っ暗な作品と、どちらが親しめるかと問われれば、躊躇することなく、こちらを選択します。

そのシンプルさを追求した結果なのか、熊谷の作品には同じような、というより、ほとんど同じ作品が見られます。この展覧会では、そういう作品を一緒に並べて展示されていたので、そういう作品が少なくないことが分かりました。例えば「御嶽」という作品。色遣いは異なりますが、御嶽や雲の形といった図柄は同じです。まるで、アンディ・ウォーホルのマリリン・モンローのシルク・スクリーンみたいです。熊谷の時代には、そんな技術はなかったのでしょうから、解説によると、まずスケッチを作り、それを元に型紙となるトレーシングペーパーに図を写す。次いで、型紙の裏にカーボン紙を挟み、油彩を描くために板に線を転写する。ということです。そして、御嶽山を描いた作品は3点が展示されていました。解説によれば、熊谷は3枚の油絵を雲の上辺に日が当たったところ、朝焼けもしくは夕暮れ、青い空に白い雲と、異なる時間や天候を描き分けた。と。このベースには、対象の形相というかたちを重視しないからこそできることで、形相を事物の本質として、それを描写することを重視しないという熊谷の姿勢ゆえのことだと思います。ちなみに、ウォーホルの場合は、その形相という伝統を逆手にとって、大量生産の消費社会をパロディ化しているわけで、熊谷とは全く異なるといえると思います。なお、ここに画像があるのは1954年の「御嶽」と1953年の「木曽御嶽」というふたつの作品です。また、展覧会チラシにも使われている「鬼百合に揚羽蝶」という作品も同じように数点の同形の作品があります。

この「鬼百合に揚羽蝶」については、そのようなコピー作品というだけでなく、作品の中でかたちの転用も行われているということです。画面上部の赤いものが鬼百合の花は、下の揚羽蝶とよく似た形をしているため、三羽の蝶が飛ぶようにも、鬼百合が揚羽蝶の影にようにも残像のようにもなって一羽の蝶がくるくると飛び回っているようにも見えるという効果を作り出していると言います。それは、かたちの遊びとでもいうことができるかもしれません。「松虫草」という作品もそうです。このような遊びについて、少し脱線するようですが、熊谷は事物の存在を検知するということを、検知したことが真であるかどうかという判断をするということから外れて、目というセンサで視覚情報を得るということで見るということをしようとしました。その際に、真かいなかの判断をする基準として形相という概念を脇において、光と影に注目します。そこから光と影を視覚は色としてキャッチするということに進み色に注目します。ここで形というのは、色によって検知された結果として色が帯びているものを形状として捉えるという二次的なものになるのがせいぜい。だから、形はどんなでも色が違えばちがうものということになって、形のコピーが可能になったというわけです。一方で、熊谷は光と影を色に置き換えて、影の部分を明るい色で表わすという、事物の固有の色から離れて、色と色の対比や調和という相互関係を優先して画面の色の配置を計算していくようになりました。それは事物を色によって検知するということが、その事物に固有の色があるということから離れて、色によるパズルのようなものとして事物のある世界があらわれてくるということになると思います。つまり、ここまでくると事物を検知するということから離れてきているということです。したがって、この画面は事物とか、世界とかいった実在とは離れて、熊谷がそれまで検知してきた方法を逆用して、独自に創ったと言えると思います。ある意味では、光と影、色、そして形といったことが実際に存在している事物を離れてひとり歩きし始めた。暴走したとも言えるかもしれません。前のところで、形のコピーについてアンディ・ウォーホルと比べてみましたが、ウォーホルの場合には物を消費するということに対する批評ということで実在のイメージと切り離すことはできないことが前提されていましたが、これに対して、熊谷の場合には切り離されていると言えると思います。それはまるで。物と物との交換手段であった通貨が、独自の価値があるように錯覚されて、物の値段ということを離れて独走を始めて通貨が通貨を生むというマネーゲームを始め、しまいには物を作るということを支配しはじめるという状態に通じるものを、私は感じてしまうのです。言ってみれば疎外というマルクスの古い概念を想起させるのです。

「稚魚」という作品も展覧会チラシで使われているので、熊谷の作品の中でも代表的なものなのでしょうか、「鬼百合に揚羽蝶」で用いられていた形の遊び、解説では異時同図法という手法なのだそうですが、それが原初的に用いられているので、分かり易いと思います。つまり、まず青地に赤という補色に近い配色によって、赤い魚が目立つことになります。もし、この作品を左右に振るように動かしてみると、目立って前面に出てくるように見えている赤が素早く動くのに対して、青が一拍遅れるという動きの差があるように感じられるといいます。それによって赤い魚はますます元気に動くように見えることになると言います。さらに。もうひとつ運動感を生むために、ここに5匹の魚が描かれていますが、5匹の魚が泳いでいるようにも、1匹の魚がぐるぐる泳ぐ動きを分解しているようにも読み取れるように描かれています。おそらく向かって右下から魚が泳ぎ出し、左下でちょっと頭を下げて、中央で一挙に水中に潜ったというように、動きを読むことができる。真ん中の魚の色が濃いのは池の深いところにいるから。と説明されています。ちなみに。この作品の構成や色の位置はマティスの「ダンス」という作品を参考にしているらしいと言います。

3.守一になった守一:1950−70年代

1950年代に入ると、熊谷の絵画の作風が完成の域に達し、同じパターンの作品、つまり、お馴染み熊谷作品が量産されていくことになる。そういう作品の展示です。展示は、およそ半分はこの時期の作品で占められていて、同じような作品がズラッと並べられているのは、壮観である反面、ひとつの作品だけを眺めるというのが本来の意図した作品のあり方のようで、パッと見て同じ作品が何点も並んでいるのを順に見ていくのは、熊谷のファンには申し訳ありませんが、飽きてくるところがありました。おそらく、1950年代までの熊谷の作品には、これまで述べてきたような、従来の絵画の伝統にはなかった見るということを試みるということがあったと思います。それは、伝統にないことだから、今までにないことを自分で始めるわけで、今までのことは参考にならず、自分でいろいろやってみながら、あっちいったり、こっちいったりという試行錯誤をしなければならない。それが作品にも表われていたと思います。しかし、それが色とか形を実在から切り離すということを始めたら、事物を検知するということから離れていくことになった。それ以降は、実在から離れた色や形をパズルのキーにして、並べ替えをするようにして、画面を操作するようにして描くということに傾いていったように見えます。それで、以前の作品には感じられなかった趣向とかセンスといった技巧が前面にでてくるように感じられます。それは、半面で画面の土台が試行錯誤するような絶えず変化することをやめて固定化して安定した、つまりパターン化したからこそ可能になったのであって、それが私にとっては飽きるという感想を生じさせることになった。それは、停滞といっていいかもしれません。

「ハルシャ菊」という作品を見てみましょう。春車菊の花は写真のように花びらの内側が茶色で外側が黄色の花ですが、それを二重の円に単純化しています。その二重の円が画面の前面に散らばって、画面の下の方には菊の二重の円と同じようなかたちのカタツムリが、土と似た色で隠れるようにいます。その似た形が散在するのは、前にもあったパターンで、それが視線の動きを誘います。その一方で、カタツムリには動きがなくて、石のように静止しているようなのに、菊の茎や葉が、写真の実際の細さに比べて太くて力強さがあり、しかも動物の足のように力感があります。それは、カタツムリと菊の茎の絵の具の塗りの厚さや筆跡の勢いの違いからも、意図的に描き分けられているのは明らかです。二重の円への視線が動いているのに連動して、ということもあるのか、菊が自立歩行しているような感じもしてくる。そういうところがある作品です。

似たような作品で「山茶花」です。山茶花の花を「ハルシャ菊」の場合と同じように二重の円で描いていますが、「ハルシャ菊」との違いは色と大きさくらいでしょうか。この作品では、その二重の円がさらに前面に出てきて、茎や葉の茂みは2本の茶色の線とグリーン一色の面に省略されてしまっています。さらに、青地にピンクという補色に近い配色によって、ピンクの山茶花の花の円形が目立つことになります。また、それらとは別に水色の丸が散らばっていて、チラチラと目に付いて、山茶花の花の二重の円が全体に散在しているので、視線が絞られず、画面を動き回るように感じられます。「向日葵」も同じです。これらの花を描いた作品は、色の違いだけで、花の形は共通しています。

「雨滴」という作品。水たまり落ちる雨粒を描いた作品ということです。水たまりとそこに雨滴が落ちたことによって生まれた波紋を二重の円形にしています。これは上で見た花を二重の円形に描いているのと、形は同じです。この二重の円形という簡素化された形を熊谷は、花や水たまりといった実在では無関係な事物に共通して用いています。ここには形式化が進み、実際の存在とは無関係に画面の中で完結した整合性のためのパーツとして形が用いられている。事物とか風景は画面をつくるための操作する手段となっている。もともと、事物を検知することから始まった熊谷の絵画は、事物を検知するということは事物という自分の外界と関係をすることです。その関係の方法が検知ということです。その検知の際に、光と影に注目したしたわけです。したがって、光と影は熊谷が外界と関係する方法のための手段です。そういうことを考えると、この作品では形という手段がひとり歩きして、関係しようとする外界の存在とは切り離されています。つまり、熊谷のこの作品は外界と関係しようということが失せてしまったわけです。熊谷は外界と関係することをやめて、閉じ籠ってしまった。言うなれば、ひとり遊びです。ときに、熊谷の、このような作品に対して童心のような無垢とかナイーブと言われることもありますが、赤ん坊は外の世界を知らず、揺りかごの中で、ひたすら自分の世界に揺られているわけです。

この二重の円形は日輪を描いた作品、たとえば「朝のはぢまり」という作品にも使いまわされていきます。

「猫」(左側)という1963年の作品です。展示室の壁一面に、このような猫の作品がずらりと展示されていました。私のような熊谷のファンでない者にとっては、少し辟易させられるほどで、以前に高島野十郎の展覧会で蝋燭の絵ばかり並んでいたときには、これほど辟易させられることはなかったのですが、退屈を覚え始めたのは私の熊谷の作品に対する相性が悪いせいかもしれません。しかし、前に述べたように、ここに熊谷の自閉とか停滞とかいったことを感じているせいもあると思います。これは人によって好みが分かれるところだと思います。この作品では、20年以上前のスケッチを基に、幾何学的なルールに従って再構成されているそうです。首の線、両目の線、畳の線、背中の三角模様の線など、多くの直線要素が、画面の四隅を結ぶ対角線と同じ角度に揃えられているといいます。そういう工夫が施されていて、そうですか、感心するかもしれませんが、だからどうしたの?ということなのです。何のために、どのような効果を考えてということ、つまり、この画面をどうしようとしているのかということが見えなくて、そういう手先の細工が目に付いてしまうのです。それは「三毛猫」(右側)という、ほとんど同じ形の猫の作品と比べて見て、この「猫」という作品が幾何学的な画面構成をしていることによって、違いが際立つかというと、両作品を同じように見てしまっているのです。その違いというのは、熊谷の熱狂的な愛好者や研究者の話題づくり程度の効果しかないのではないかと詮索したくなります。1965年の「猫」(左側)という作品は展覧会チラシでも使われていた作品ですが、「白猫」(右側)という1962年の作品の左右反転のようにも見えてきます。

1960年以降の作品は、形の簡素化はさらに進んでいったように見えます。しかし、それが抽象的になったとは見えません。では具象と言えるかというと、対象を写すことをやめているので何とも言えません。また、記号として操作のツールにしているかというと、その形は記号のような自明性、つまり、誰が見ても、記号が表わしているものが分かるということにもなっていないのです。例えば「瓜」という作品。形は楕円で、色も実際の瓜の色を考慮せずに個々の瓜の色を塗り分けている作品です。これが瓜であると分かるのは、題名が瓜だからです。また、「はぜ紅葉」という作品では、鳥のまわりに赤や橙、そして緑の平面を配置して、この題名から紅葉であることを想像することになりますが、この鳥の周囲を紅葉した葉と見るのは、そう言われないと分かりません。しかし、この作品は、おそらくその風景を想像させる作品であるということなのでしょう。似たような作品に「若葉」というのもあります。

「揚羽蝶と百日草」という作品。1950年代の「鬼百合と揚羽蝶」の蝶は単純化されて図案のように、それなりに洗練されていましたが、この作品の揚羽蝶は、そういう洗練とは違う、画面に動きを作るような効果を計算したということもない。こういうのをヘタウマと評したらいいのでしょうか。落語家の5代目古今亭志ん生が晩年に、高座で居眠りを始めたのを観客が芸だと持てはやしたのと同じような味わいというものでしょうか。「泉」という作品などは、一見深遠に見えたりしますが、そういう周囲の人たちがもてはやして、それらしい体裁を保っていると、私には見えます。

というわけで、熊谷守一というブランドイメージに沿ったような作品には、もともと魅かれていなかったので、否定的なコメントを重ねることになってしまいました。私の偏見であることは否定しません。この展覧会では、その偏見を引っくり返すことはできませんでした。ただし、熊谷の絵画について、それなりのストーリーを持てたこと、この展覧会の収穫であったと思います。

 
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