速水御舟とその周辺
─大正日本画の俊英たち─
 

 

2015年5月6日(水)世田谷美術館

5月のゴールデンウィークに出かけることなどというのは、久しぶりのことだ。世田谷美術館は、私の地元からの交通の便がよいわけではなく、しかもおそくまで開館してくれないので、なかなか訪れることのできないところ。10年以上前に一度訪れたことはあったが、ほとんど初めての訪問のようなものだ。用賀の駅から住宅地の中の道を歩き、世田谷公園の中のある美術館に行くのは、散歩道として、そういう雰囲気が好きな人には、いいのだろうと思う。美術館のロケーション自体は悪くはないと思うが、私には行く難さの方が先にたつ。連休の最終日で世田谷公園は子供連れのファミリーでいっぱいだったが、美術館は展覧会の会期が始まって間もないこともあるのだろうか、人影は多くはなく、静かにゆっくりと過ごすことができた。

速水御舟という画家については、以前に山種美術館で「速水御舟 日本美術院の精鋭たち」という所有コレクションを中心とした展覧会に行ったことがあった。このときは、展示の拙さもあって、近代の日本画に対する違和感と速水という画家が文献等で高い評価を受けていることに対して強い違和感を持った。著名な画家で評価が高いということだが、下手くそで、自分が何をやろうとしたのか分かっていない愚かな人だったと思わせるものだった。つまり、はっきり言って「つまらない!」という印象だった。今回の「速水御舟とその周辺」を見た印象では、速水という人は、それほど酷い画家ではないに変わった。何か、えらそうなことを言っているけれど、私の個人の印象なので、独断と偏見ということです。また、展示によって、こうも印象が変わるのか、ということがよく分かったのと、どちらにしても速水と画家は見せ方によって評価が変わってくると言う、私にとっては、その程度の画家に評価が上がったということです。このあたりの展示の見せ方を含めて、主催者のあいさつを引用します。

“速水御舟は1895年、東京・浅草に生まれ、14歳にして生家の筋向いにあった当時歴史画の大家とされていた松本楓湖の安雅堂画塾に入門し、粉本模写などを通して日本画の基礎を学びました。御舟は師と同様歴史画から出発しますが、兄弟子で後に日本画改革のリーダーとなる今村紫紅と出会い、紫紅の影響から印象派の点描に似た表現を用いて、当時新南画と呼ばれた自由な画風へと作風を変化させてゆきました。紫紅は御舟ら安雅堂画塾の若手メンバーと赤曜会を立ち上げ、旧態依然とした旧来の日本画の殻を打ち破り、日本画の革新を目指しましたが、赤曜会は紫紅の突然の逝去によりわずか一年あまりで解散となってしまいました。御舟は紫紅の影響を脱し、新南画が中国の宋代院体画の花鳥画や北方ルネサンスの画家・デューラーの極端なまでの写実絵画へと突き進みます。型にはまることを嫌う御舟はその後、琳派の奥行を排した金屏風の大画面へと再び舵を切ります。渡欧後、御舟は西洋絵画の群像表現に魅せられて人体表現へと向かい、女性群像の大作に取り組もうとしていた矢先に、病に倒れ夭折してしまいます。享年40。御舟の突然の死は画壇に大きな衝撃を与え、その才能を惜しむ声が各界から寄せられました。本年は速水御舟の没後80年の節目の年に当たり、本展はそれを記念して、師の松本楓湖から院展目黒派と呼ばれた今村紫紅、小茂田青樹、小山大月、牛田雞村、黒田古郷ら赤曜会のメンバー、そして御舟一門の高橋周桑、吉田善彦など、御舟とその周辺の作家たちの作品を一堂に集め、展観いたします。近代日本画の頂点のひとつとされ、今なお燦然と光り輝く御舟芸術がどのように誕生し、継承されたかを検証しようとするものです。”

公立美術館と言うことなのでしょうか、教科書のような卒のない文章で、主張のはっきりしないところがあります。展覧会を見た後で、注意して読み返してみると、特徴がようやく分かってきます。また、別のところで美術館の学芸員がこの展覧会の経緯を説明しています。ここでも展示されている吉田善彦の回顧展の準備していたときに、吉田は速水の許で若年時に薫陶を受けた人で、そこで見ることができたスケッチやメモなどをきっかに調査をしてみると、“御舟は孤高の画家のように思われているが、御舟の作品は誰の影響も受けずに生まれたものではなく、御舟が入門した安雅堂画塾の兄弟子の今村紫紅や御舟も加わった院展目黒派と呼ばれた小茂田青樹ら赤曜会の仲間たちとの切磋琢磨から生み出されたものであることが徐々に分かってきた。今村紫紅とそっくりな作品や小茂田青樹と似た作品もかなりあるので検証してみたいと思った。金地の色紙に描かれた宋代院体画風な静物画などは赤曜会のメンバーのほとんどが描いていることも分かってきた。”そういうことを踏まえて、私が捉えたことは、ちょっと違うと思いますが、この展示の特徴は、速水という人を単独の自立した芸術家(画家)としてではなく、彼が含まれる芸術家たちのグループの中の一人、つまりワン・オブ・ゼムとして提示しようとしたところです。そうしてみると、一見、速水の作品を通しに見ると感じられる主体性のなさ、一貫した人格というか視点が見えてこないところは、速水が修行時代からグループの画家たちの様々な動きの中で翻弄され、時には引きずられ、ときには差別化したりして、グループの中での差異により自分の存在を表わしてきたと考えると納得できる。そう考えると、速水の作品を、夭折した気鋭の画家などと考えずに画家のグループの中で坊やみたいな存在で、からかわれるか、いじられるかのように周囲の画家たちの、あっちこっちの方向にふらふらして、グループの中で自己を確立させるような人だったことが分かります。日本画とか、画壇というより、数人のグループという閉じられた空間の中で息づくような内向的な傾向の作品傾向というのでしょうか。速水の作品の特徴は、作品として際立っているというのではなく、グループの他の画家たちの作品との些細な差異に見出されることで、はじめてそれと認識できるとわかります。それは、ここで、速水の作品を他の画家の似たような作品と並べて展示して見せてくれたことでよく分かりました。

美術館の受付で入場券を買うと、長い廊下を通り、最初のロビーのような展示室にあいさつと並んで、真っ先に目に付くように、章立てとは別に展示されていたのが『洛北修学院村』(右図)という作品を見て行きましょう。これは速水の作品の中でも著名なもののようです。それもあってか、特別にこの作品をロビーに展示したということなのでしょうか。縦長の画面を利用して、斜め上から奥行きを見下ろすようなアングルが設定されています。しかも、細長い画面を利用して、そこにつづら折のように斜面に曲がりくねった道をいれて、その道を追いかけるように見る者の視線を追わせるようにして、空間を感じさせる。それだけでなく、物語の展開のような筋を画面につくり出している、という画面の構成を作り出しています。これは、別の部屋で展示されていた、今村紫紅の作品、例えば、『潮見坂』(左下図)という作品と構成がよく似ています。それだけでなく、『潮見坂』では画面の右手の樹林などで緑を点描のように絵の具の色を混ぜずに塗り分けて、離れたところで見ると樹々の緑の折りなす様や陰影を厚みを感じさせるような効果をあげていますが、『洛北修学院村』では、ほぼ画面全体にわたって、その方法が使われています。初めての私のような人間が『洛北修学院村』を眺めると、へんなデフォルメをした、現代でいえばギャグマンガのようなヘタウマっぽい描き方でトンチンカンにしか見えませんが、他に、例えば今村の『潮見坂』のような先行作品をみると、そういうものがあるという環境の中で制作されたことが理解できます。これは、こういうものだと、という前提に立って、この『洛北修学院村』という作品を、とにかく見てみようという気にさせてくるのでした。(ただし、『洛北修学院村』という作品は、それだけ終わるような作品ではなく、『潮見坂』と、どのように異なっているかを見ていくと、たいへん興味深いところが多々見えてくる作品なのですが、それは、この後の具体的な感想のところで、できれば書いていきたいと思います。)そういう効果を、見ている私に及ぼしてくれたという点で、この展覧会は、私にとっては速水というエキセントリックな画家への入門の役割を果たしてくれたと思います。 

では、いつものように作品を見ていきたいと思います。 

 

第1章 安雅堂画塾─師・松本楓湖と兄弟子・今村紫紅との出会い

速水が画家としての修行を始めた時代の師匠や、画塾の人たちの作品です。画塾には粉本が数多くあって、速水を含めた弟子たちは、それらを次から次へと模写をしていくことで、日本画の基礎を身につけていったということです。粉本には、中国絵画や琳派、土佐派や狩野派、円山四条派、浮世絵などあらゆるものが揃っていた(これら列記されたものの違いを、私は見分けられません)と説明されていました。そして、師匠の松本楓湖という人は放任主義で、絵の批評などは全く行なわなかったらしく、それが逆に良かったのか、今村紫紅や小茂田青樹、小山大月、牛田雞村、黒田古郷らが集まって、自由に描いていたようなイメージが湧いてきます。

後年、速水は節操がないといえるほど、一方で写実を追求する方向から、平面的で様式化された作品世界で装飾的な方向まで、広いふり幅で作品を矢継ぎ早に制作して行った素地は、このようにして形成されたのかということが想像できました。そのような視点で見てみると、今村紫紅が提唱して、速水がその流れに乗るように様々な作品を制作していった“日本画改革”で目指したものというのは、日本の絵画のあり方を根本的に見直すというよりは、様々な要素や技法を、それぞれの拠って立つ体系から抽出してきて、ちがった体系の中にぶち込んでみたり、本来ならば異なる体系にある要素を同一の画面の中で同居させたりなどといったパズルの組み方の新しいパターンの模索のようなものであったことが分かります。今村はどうか分かりませんが、速水という人は、そういうことが十分に可能な器用さを持ち合わせていたということは、ここで展示されてた習作ともいえる作品をみてもよく分かります。ただ、作品は習作といえる程度を超えるものではないようなので、個別に取り上げてどうこうということはしません。 

 

第2章 赤曜会─今村紫紅と院展目黒派

この展覧会は速水御舟の展覧会であるはずですが、展示の章立てでは今村紫紅がメインのような錯覚をおこすほどです。この展示を見ていると、速水という人が今村などがリードしていたグループの中にいて、引っ張られるようにいて、今村が夭折したり、グループの兄貴分のような画家たちが離れていった後で、いつに間にか残された速水が、その遺産を集約するように成果を一人受け取ったという点が分かります。速水は主体的に自らの個性を追求して行ったのではなくて、今村や他の画家たちが追求していったことに相乗り(?)して、そこで速水は、今村にたいして、いかに差別化するかを追求することが、今村の追求のユニークさをベースに、それに対する差別化を進め、言うなれば二重の差別化を進めていたのに、そこで今村が死んでしまったことで、まるでハシゴを外されるように残された速水の作品が、きわだって差別化されているように見えたという経緯が、想像できます。

例えば、人家の風景を描いた作品では、今村の大振りな斑点を重ねるようにして、さらにその色を滲ませて、立体の面の存在を前面に出し、線で輪郭を区画させる平面的な書き割りのようなものから、空間を感じさせるようなつくりがベースになって、作品が制作されています。今村の『瀬田風景』(右上図)や『潮見坂』(右中図)といった作品を見ると、今言ったような方法の試みが現れていると思います。しかし、私には、その試みが先行して、作品として、どうかと問われれば、立体的な空間が表現されているかということもありますが、空間が感じられるかといって何なのか、という作品自体の魅力というのか面白味が感じられないものに終わっていると思います。傲慢な言い方で、かなり偏った見方であると思いますが、これらの作品を見て、新しいことを試みる必要があるのか、その効果が表われていない、たんにヘタウマの味わい程度のことしか感じられない作品になっていると思います。

ここで、速水の作品を見てみると、今村に対して色遣いの点で繊細な注意を払っているのが特徴的であるように思います。それゆえでしょうか、今村のような空間の追求とか、面で立体的に捉えるという試みよりも、それでつくられた作品画面の完結性に重点が置かれている。つまり、立体的とかそういうことではなくて、結果として画面効果が、幻想的だったり、叙情的だったりに見えるということに重きを置いているように見えるということです。

『暮雪』という作品を見てみましょう。画面全体がセピア色が基調となって、日暮れの黄昏の薄ぼんやりとした光が、降り積もった一面の雪景色の中で映えている。家々には灯りが点り、それが障子から仄かに漏れている。そういう風景でしょうか。降り積もった雪の蒸気と黄昏の陽光とで、全体に靄がかかったような画面が幻想的な雰囲気をかもし出し、一面の雪が日暮れの陽光でセピア色に染まったなかで、家々の障子の淡い光が映える様は、光の一瞬のドラマを切り取ったような趣があります。まるで墨絵のように色彩を抑えて、セピア色を帯びた雪の白い世界と背後の木々の緑を雪が積もらないでいて、日が暮れて影となったのと、家々の壁を黒くして、モノクロームにすることで、画面は静謐さを帯びて、それは雪の降り積もって音が雪に吸収されてしまったような世界です。その中で、家々の障子に映る灯りは、障子全体ではなく、一部が淡く光が漏れて出しているのは、つまり、一様でないのは、それぞれの家の中の人々の動きを想像させます。このような時間が止まって、音が聞こえてこないような世界の中で、画面の表面には表われてこないような障子の向こう側の家中では人々が動いていることを想像させ、そこに静と動の対照が仄めかされている。そのような、幾つかの点で、対照性が重層的に構成されて画面が作られているように見えます。今村のおおらかな単純さに対して、速水の作品は、神経質なほどです。おそらく、速水は今村に触発されながら、彼に対して差別化を図っていくことで、自らの個性を作ろうとしていたかもしれません。

この『暮雪』を今村の『瀬田風景』を見比べてみると、民家の形や各々の事物を面として描いていく描き方などは、今村の風景画の基本的なつくりを踏襲しているのが分かります。つまり、速水は今村のつくった土台や骨組みに乗って、枝葉のところで今村ではない別のことを試みて、観る者には今村とは違う画面として見せていると見えます。これは、後年まで速水の作品についてまわる印象なのですが、主体がみえないというのか、何を描こうとしているのか骨がわからないという、多分、速水本人にも、強烈な主体のようなものがなかった点はあると思います。それと、この『暮雪』をみれば分かるように精緻で繊細な配慮を細部まで施している細工物のようなことをしていると全体を見通すことが難しくなる。そこで、今村の骨に乗っかるかたちで、細部にこだわった作業を思い切りやってみる、ということではなかったのかと思います。これは、絵画の世界ではありませんが、小説の世界で芥川龍之介のことを思い出します。彼の初期作品は今昔物語などの古典を題材に取って、そこに近代主義的な要素を加えていくことで病的といえるほど精緻で心理的な使用説世界を作っていました。例えば、『羅生門』という小説は、今昔物語の中の「羅城門登上層見死人盗人語第十八」を題材に取ったといわれています。まず、冒頭について今昔物語ではこうです。

“今は昔のこと、摂津の国のあたりより盗みをするために京へ上ってきた男が、まだ日が高かったので、羅城門の下に隠れて立っていたが、朱雀大路の側には往来が絶えないので、人通りが静まるまでと思い、門の下で待っていると、山城の側から人が大勢近づいていくる音がしたので、姿を隠さなければと思い、門の二階へ音を立てないようによじ登ったところ、かすかに火がともされているのが見えた。”

これを、芥川龍之介の『羅生門』になると、このように膨らんでしまいます。

“ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々丹塗の剥げた、大きな円柱に、蟋蟀一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路にある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子が、もう二三人はありそうなものである。それが、この男のほかには誰もいない。何故かと云うと、この二三年、京都には、地震とか辻風とか火事とか饑饉とか云う災いがつづいて起った。そこで洛中のさびれ方は一通りではない。旧記によると、仏像や仏具を打砕いて、その丹がついたり、金銀の箔がついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪の料に売っていたと云う事である。洛中がその始末であるから、羅生門の修理などは、元より誰も捨てて顧る者がなかった。するとその荒れ果てたのをよい事にして、狐狸が棲すむ。盗人が棲む。とうとうしまいには、引取り手のない死人を、この門へ持って来て、棄てて行くと云う習慣さえ出来た。そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、この門の近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。その代りまた鴉がどこからか、たくさん集って来た。昼間見ると、その鴉が何羽となく輪を描いて、高い鴟尾のまわりを啼きながら、飛びまわっている。ことに門の上の空が、夕焼けであかくなる時には、それが胡麻をまいたようにはっきり見えた。鴉は、勿論、門の上にある死人の肉を、啄みに来るのである。――もっとも今日は、刻限が遅いせいか、一羽も見えない。ただ、所々、崩れかかった、そうしてその崩れ目に長い草のはえた石段の上に、鴉の糞が、点々と白くこびりついているのが見える。下人は七段ある石段の一番上の段に、洗いざらした紺の襖あおの尻を据えて、右の頬に出来た、大きな面皰を気にしながら、ぼんやり、雨のふるのを眺めていた。作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた」と書いた。しかし、下人は雨がやんでも、格別どうしようと云う当てはない。ふだんなら、勿論、主人の家へ帰る可き筈である。所がその主人からは、四五日前に暇を出された。前にも書いたように、当時京都の町は一通りならず衰微していた。今この下人が、永年、使われていた主人から、暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波にほかならない。だから「下人が雨やみを待っていた」と云うよりも「雨にふりこめられた下人が、行き所がなくて、途方にくれていた」と云う方が、適当である。その上、今日の空模様も少からず、この平安朝の下人の Sentimentalisme に影響した。申の刻下さがりからふり出した雨は、いまだに上るけしきがない。そこで、下人は、何をおいても差当り明日の暮しをどうにかしようとして――云わばどうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考えをたどりながら、さっきから朱雀大路にふる雨の音を、聞くともなく聞いていたのである。雨は、羅生門をつつんで、遠くから、ざあっと云う音をあつめて来る。夕闇は次第に空を低くして、見上げると、門の屋根が、斜につき出した甍の先に、重たくうす暗い雲を支えている。どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいる遑はない。選んでいれば、築土の下か、道ばたの土の上で、饑死にをするばかりである。そうして、この門の上へ持って来て、犬のように棄てられてしまうばかりである。選ばないとすれば――下人の考えは、何度も同じ道を低徊した揚句に、やっとこの局所へ逢着した。しかしこの「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」であった。下人は、手段を選ばないという事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつけるために、当然、その後に来る可き「盗人とになるよりほかに仕方がない」と云う事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。下人は、大きな嚔をして、それから、大儀そうに立上った。夕冷えのする京都は、もう火桶けが欲しいほどの寒さである。風は門の柱と柱との間を、夕闇と共に遠慮なく、吹きぬける。丹塗の柱にとまっていた蟋蟀も、もうどこかへ行ってしまった。下人は、頸をちぢめながら、山吹の汗袗かざみに重ねた、紺の襖の肩を高くして門のまわりを見まわした。雨風の患うれえのない、人目にかかる惧おそれのない、一晩楽にねられそうな所があれば、そこでともかくも、夜を明かそうと思ったからである。すると、幸い門の上の楼へ上る、幅の広い、これも丹を塗った梯子が眼についた。上なら、人がいたにしても、どうせ死人ばかりである。下人はそこで、腰にさげた聖柄の太刀たちが鞘走らないように気をつけながら、藁草履をはいた足を、その梯子の一番下の段へふみかけた。それから、何分かの後である。羅生門の楼の上へ出る、幅の広い梯子の中段に、一人の男が、猫のように身をちぢめて、息を殺しながら、上の容子を窺っていた。楼の上からさす火の光が、かすかに、その男の右の頬をぬらしている。短い鬚の中に、赤く膿を持った面皰のある頬である。下人は、始めから、この上にいる者は、死人ばかりだと高を括っていた。それが、梯子を二三段上って見ると、上では誰か火をとぼして、しかもその火をそこここと動かしているらしい。これは、その濁った、黄いろい光が、隅々に蜘蛛の巣をかけた天井裏に、揺れながら映ったので、すぐにそれと知れたのである。この雨の夜に、この羅生門の上で、火をともしているからは、どうせただの者ではない。下人は、守宮のように足音をぬすんで、やっと急な梯子を、一番上の段まで這うようにして上りつめた。そうして体を出来るだけ、平にしながら、頸を出来るだけ、前へ出して、恐る恐る、楼の内を覗のぞいて見た。”

『羅生門』の「今昔物語」の比べて異様なほど、細かくなって、様々な要素が加えられているのが分かります。その一つに、下人の心理が多重人格のように重層的に書き込まれ、羅生門とそれを取り巻く風景までもが、彼の真理の反映か、何らかの意味を与えられたような過剰な心理と意味の象徴が溢れています。そこに、芥川龍之介の病的で神経質な小説の世界が展かれています。

速水御舟の一見、のんびりとした牧歌的な山村風景のように見える『暮雪』には、このような芥川龍之介に通じるような、それ自体で自立できないような不安定で神経質な世界があるように、私には見えます。

『短夜』(左中図)という作品を見てみましょう。鬱蒼とした木々の中に家が立ち、タイトルが『短夜』ということなので、夏の夜なのでしょうか、その暗いところで蚊帳の中の人影がぼんやりと見えてくるという作品です。ここでは、『暮雪』とは違った暗さの風景です。こちらは、対照の活用ではなくて、暗さのグラデーションのなかで、木の葉の緑や下草の中に青を混ぜたりと、微かな色彩を効果的に使おうとしています。趣向としてはバロックの画家レンブラントの『夜警』のような夜の暗さの中でのかがり火で照らされたところから夜の暗闇までのグラデーションの中で人々を浮かび上がらせたのを、暗さを基調に地味にしっとりと試みたような作品といえるでしょうか。ここでの木々の葉などは、一枚一枚を描くのではなく、点描のように絵の具を落として、その点を重ねて、しかも、それぞれの色を変えていくことで、葉の重なりや月か星明りの光線の陰影を表わしているように見えます。この作品での家は、『暮雪』以上に今村の作品で描かれている家の形や輪郭そっくりです。そこで、速水は同じような形状で描かれている家ですが、夜の帳の中で見えているということからでしょうか、今村の太くたくましい輪郭線に対して、か細い線で輪郭を引いています。それが、今村の作品には、どっしりとした重量感があるのに対して、存在感が薄く、現実か夢かはっきりしないような夜のうつろなフワフワとした雰囲気を感じさせるものとなっています。これは、きわめて繊細なものになっていると思います。その一方で、芥川龍之介の小説もそうですが、作り物めいた作為が感じられるのも事実です。それは、家が、何となく歪んで見えるような、キッチリとした構造物に見えないところ、例えば、開いた戸からのぞいている家の中の床や敷かれた布団が傾いているようにしか見えないことや、蚊帳の中の人物が形になっていなくて雑に見えてしまうことで、私なぞがみると白けてしまうところがある。雰囲気を描こうとして、肝心の本質的な形というのか、核心が等閑にされているように見えてしまう。これは、速水の作品をいろいろ見ていて、共通して感じられることですが、どこか中心的な核が空ろで、小手先のみてくれにはしっているように感じられるところがあり、その核を今村をなぞることで補おうとしている。そういうところが露になっている作品でもあると、私には見えます。

では、グループのリーダーである今村以外の画家と比べるとどうでしょう。牛田雞村の『藁家』(右下図)という作品です。速水の『暮雪』の家屋の形状は似ているところがあります。感じでいうと、ホンワカしたテレビアニメの日本昔話のような丸っこい輪郭で、立体とか奥行きを意識していない描き方です。基本的には、今村の『瀬田風景』とも通底していると思います。面でもって、結果的に形状ができてくるという行き方です。それをベースにして、速水は家屋という対象そのものを描くというよりは、我々と対象の間のメディアを描こうとしていたと言えます。言うなれば、対象と我々の間の薄いヴェールのような、“もの”ではない“こと”に近いと言えるような、それは例えば空気であったり、光とそれによって作られる影であったり、陽光によって染め上げられるということであったり、ということです。ただ、速水の場合には、それらを描こうとしてそうなったのか、描き方が色彩のグラデーションとか、色遣いを重視しているうちに、それが効果的に生かせることとして、結果としてそういうことになったのか、私には何とも言えません。それは、この牛田の『藁家』を見ていて、牛田が家屋を描く際のベースとなる面をダイレクトに描き込もうとしていたのと比べるとよく分かります。牛田の場合、家屋全体もそうですが、壁とか藁屋根等がダイレクトに存在感とか、どっしりとした重量感とかそういうものを持っているように見えてくるのです。これは、速水の描く家屋の、どちらかと言うと薄っぺらでフワフワしているのとは全く違うものです。牛田の作品では、そういう存在感に不可欠なのでしょう、例えば藁屋根の藁葺きの質感を藁の一本一本が分かるかのように描かれています。そして、手前の竹の葉の一枚一枚が明確に描かれていることで、全体の基調を決めていて、そういうものとして、この作品を見る者は、その向こうの藁家をみるように準備させられます。実は、私のような鑑賞眼のしっかりしていない人間には、二人の作品をブランドと見分けることはできないほどなのですが、それでも、あえて、この両者の方向性の違いを言うならば、牛田は対象があるということを描こうとしたのに対して、速水は対象が見えることを描こうとしたのではないかと思います。

風景画では、速水の作品は、他にも『横浜』(左下図)という作品が展示されています。見る眼のない私には、アマチュアの水彩画だと言われれば、それを真に受けてしまうでしょう。私には、その程度にしか思えない作品です。正直に、誤解を恐れずに申し上げて。同じ、横浜を題材にした作品として小茂田青樹の『横浜海岸通り』(右下下図)という作品も展示されていました。これも、私にはアマチュアの水彩画でしたが。これらを見る限りでは、二人の違いは、よく分かりません。それは、この次の章の展示で追求されることになるので、ここでは、それほど違わないというというのを、二つの作品を見比べてみれば、いいのではないかと思います。

展示は、他にも作品が多く展示されていましたが、私なりに速水の作品の印象と、それと比較関連させて見ることの出来る作品をピックアップしてきました。それ以外にも、眼に留まった作品は小山大月の『入相櫻』などがありましたが、それらをひとつひとつ、取り上げることはしません。 

 

第3章 良きライバル─速水御舟と小茂田青樹

この展覧会を見ていると、速水という画家のアイデンティティは集団的と言うのでしょうか、人間は多からず少なからずあるのかもしれませんが、とりわけ、この人に特徴的と思われるのは、集団とかグループの特定の人に寄りかかるように、その人物との距離感から画家としての自我を形成していったという依存的な性格であったと思われるところです。解説本などでは、速水に対する形容として“孤高”という言葉が使われることがありますが、この展示を見ていると、そういう“孤高”という言葉のイメージとは正反対の面影が見えてきます。前章では今村というグループのリーダー的な人物に寄りかかるような自我の形成がみられ(ただし、私には、この今村という画家のどこが良いのか、さっぱり理解できませんでした。これは、今村の作品をそれほど見ていないのか、後知恵で作品を眺めているからで、同時代の人が見ていたのは、別の姿だったのかもしれません)、その後、今村が亡くなってしまうと、今度は、同じグループで同年代の小茂田青樹との関係から、それまでは違う方向に画家としての自己を発展させていった、というのが見えてきます。その後、小茂田も夭折してしまって、取り残された速水は、こんどこそ自立するということだったのが、数年を経たずに亡くなってしまった。この展覧会もそうですし、以前に見た展覧会においても、速水の作品の変遷をみていると、様々なことを試行しながら、あっちこっちに寄り道するようにかわっていくのが、どこか取ってつけたような、表層の小手先をいじっているような、浮ついた印象を拭えないでいるのは、そういう速水が、自立して自らの根元から核心を吐出すような画家としての自己が形成され得なかったというように、私には見えてくるのです。こんなことは、一般的な速水像から見れば、言いがかり、中傷以外の何ものでもないかも知れませんが、だからこそ、そういう表層に終始している点に、実は速水という画家の魅力があるのではないか、そう思わされたこともまた事実です。何か、屈折して、わかりにくい言い方をしています。

速水の『仲秋名月』(左上図左)という作品です。会場では、この作品と並んで小茂田の『月涼』(左上図右)という作品が展示されていました。両者を見比べると、二人の画家の違いは、私には全く区別できなくて、同じ画家の作品と言われても、疑うことはできないでしょう。これらを見ると、二人の同質性ということが、よく分かります。むしろ、このように同じようだということは、二人とも分かっていて、それゆえに互いに危機感を持っていたのではないでしょうか。他の画家と同じようだというとは、個性がないと同じことです。他の画家とは違うから、その画家の作品を買ってもらえるのですから。そこで、速水にしろ、小茂田にしろ、急き立てられようにして互いに違いを追求しようとして、個性化の方向性を探っていったのではないか、私はそんなストーリーを想像してしまいました。

そこで、また、二人の似た傾向の作品を見比べてみましょう。速水の『山茶花に猫』(左中図)という作品と小茂田の『朧日』(右中図)という、猫を題材にした作品です。この二つの作品についても、私には、はっきりと区別することができません。作者名を伏せられて、どちらが速水の作品で小茂田の作品であるかと、問われれば答えることはできないでしょう。私の知識が貧弱で、鑑識眼がないことを棚上げして言うわけではないのですが、いろいろと尤もらしい解説はあるものの、速水とか小茂田という画家の作品の個性とか、いわば作品のブランドとしての差別化というのは、その程度のものかもしれません。後は、作者名というラベリングと、それにサイドストーリーを批評家とか評論家とか学者といった業界人が箔付けするように、あたかも付加価値があるようにして、商品価格を引き上げている。ちょっと口が過ぎますでしょうか。私自身も、そのような口車に乗って、あたかも歴史上の大家の名作であるかのように考えて、わざわざ美術館に足を運び、入館料を支払って、頼まれもしないのに、こんな文章をネットに出しているのですから、片棒を担いでいると同じなので、あまり、大それたことを言うと、天に向かって唾を吐くようにことになってしまうことになります。さて、ここで、速水の『山茶花に猫』という作品ですが、猫の位置が変な感じがしませんか。顔を仰向けにして視線を上に向けているようですが、その先には山茶花の花があるわけでもなく、意味不明なのです。また、全体のバランスを考えてみても、画面左側は山茶花が占めていて、それと対峙させるように猫を右側に置くのでもなく、画面の中心は猫であるとして中央に置くのでもなく、こころもち左寄りに山茶花に寄りかかるような位置関係になっています。これでは、画面が左に傾いているような印象で、右側に空間を取りたかったのか、そうだとしても余白の分量が中途半端です。画面下方を見てください。足元です。山茶花の根元が前面で猫はそこから少し上、つまり足元を見ると後ろの方に位置することになります。それでいて、全体として猫が山茶花の奥にいるような描き方になっていないし、そういう位置関係が考えられていないような、ちぐはぐさがあって、画面全体が、なんとも居心地の悪いものになっています。これは、速水という画家に画面を全体として構成させるパースペクティブの能力を欠いているためなのでしょうか。私には、そうではないとは、言えないとは思えるところもあります。それよりも、私には、速水の中には、そうせざるを得ないものが、やむにやまれぬところがあったのではないか。あえて言えば、速水と小茂田を分かつのは、そのやむにやまれぬものの有無ではないか、と私には思えるのです。

そういう、速水のやむにやまれぬものが、ある面ではっきりと、しかも、画面にポジティブな効果をもたらしたのが、有名な『洛北修学院村』(左下図)という作品ではないかと思います。この作品の、画面全体を見ていると、ちょうど上部の4分の1ほどのはるかな山の風景は見上げるように描かれているのに、その下の村の風景は見下ろすように描かれています。では、速水は、このような風景をどこから見て描いたのでしょうか。そういう統一した視点が、この作品にはないのです。もちろん、この作品のそういう特徴は、多くの人の気付いているところで、それがこの作品の特徴とされていて、村を見下ろすようにして描いたのは、村のあちこちのたたずまいを同時にくまなく描こうとしたから、とか細密描写がリアリティを与えているとか解説が付されていることが多いのではないかと思います。私には、そういうことは、速水があとから効果として附加したことで、速水は、このようにしか描けなかったのではないかと思えるのです。というのも、もし、解説されているような効果を狙って意図的に、このように描いたとしたら、速水のほかの作品では、きちんとした視点がはっきりしていて、それでかっちりとした画面構成が為されているはずです。ところが、さきほど見た『山茶花と猫』にしても、前章の展示で見た『暮雪』や『短夜』にしても、視点が統一されていないのです。前章で芥川龍之介の「羅生門」の一節を引用しましたが、その文章は下人が羅生門の梯子を上がって見えてくる風景について、下人が見ているところに、話者の主観が混入し、それだけでなく別に芥川龍之介の主観が入り込んできて、風景をみている主体が分裂して、視界の意味づけが二重三重に過剰に溢れてくる、どこか病的なものとなっています。多分、そういうところが芥川の作品が思春期の若者の不安定な感性に適って、未だに支持を得ている理由なのではないかと思います。そういう芥川の性向というのは、時代環境の影響もあると思われ、ほぼ同年代で、同じ東京銀座界隈という環境で育った速水にも共有されていたと考えられなくもありません。速水の画風から想像するに、繊細で感受性が強いのも芥川と共通していると思われます。

前章の芥川龍之介の「羅生門」の文章と、そのネタ本である「今昔物語集」との比較で一目瞭然ですが、芥川の「羅生門」の文章は細部を微に入り細を穿つように、重箱の隅をつつくかのように執拗に描写し、その各々に心情を仮託したりして過剰に意味づけていきます。同じように、速水の『洛北修学院村』の農村風景の描写は精緻を極め、田んぼの稲の一本一本、畦の葉っぱの一枚一枚まで執拗なほど丹念に描き込まれています。芥川の「羅生門」の文章のような分裂した心情を押し込めたような過剰な意味づけがされているようには見えませんが、田んぼの稲の一本の茎にまで丁寧に細い緑色の線を丁寧に描いている様は、多少の病的な印象も与えるものです。このような肥大した細部に充たされた画面全体は、分裂した歪みがあるのです。おそらく、芥川は過剰な細部を内に抱え込んで、それをまとまった作品として統合することができず、古典にすがるようにものがたりの骨格を借りて、いわばヤドカリのようなやり方で小説を書いたように、速水は同じグループにいた今村の作品の骨格を借りて、自身の細部を、そこに置いて行くというやり方で作品を作ろうとしたのではないかと思います。それは、速水のこの作品を見ていると、画面全体のプロポーションだけでなく、それこそ細部の各部分のパーツに眼をやると、ひとつひとつの形状がしっかりしていないで歪んでいるのです。たとえば、作品の一部(右下図)を取り出してみた3人の農夫の描写を見てみると、サラって形状をなぞっているようで、存在感も動きも感じられません。3人の位置関係での人物の大きさも背景との関係を考えるとバランスが取れているようには思えません。また、田んぼの周辺の草原や森の草木は田んぼの稲との大きさが不釣合いですし、木の形は外形をなぞったようなパターンを繰り返しているようで、もうちょっと描き込んでもいいのでは、と思わせるところがあります。これだけ執拗に細部に筆を入れているにもかかわらず、形状への配慮は無頓着のようにも見えてくるのです。

だから、この『洛北修学院村』という作品を、パッと一見した印象は風景画とか作品タイトルのような農村というのではなくて、青い靄がかかった幻想絵画というのか象徴的な心象風景のように見えるのです。全然関係はないのでしょうが、マルク・シャガールが異郷のパリで故郷の農村を思いつつ描いた幻想画に似ているような気がしてしまいます。それは、シャガールと似たようなブルーの色調でグリーンを効果的に使っている点も似ているせいかもしれません。これは、ひとつの妄想なので、そういうことで聞いていただきたいのですが、前回の展示でみたように今村のグループにいた速水は、今村をはじめとした他の画家たちとの関係の中から、自己の居場所をつくるように彼らと差別化するプロセスの中で自身の個性を作ろうとしていったと思います。つまり、グループの中で自分の個性を作ろうとしたら、他の画家にないもの、他の画家では弱くて自分でもこでは勝てるだろうと思われるところ、それがグループの中の彼の個性と言うことになっていったのではないかと思います。その一つは色遣い、とくに明暗や同系統の色のグラデーションを効果的に配することで独特の雰囲気をつくりだすことでした。それはまた、今村が始めた点描的に色をまとまって画面に置いて行く方法で、陰影とか移ろう感じをうまくかもし出すことができたのでした。そのような、個性を前面に出して、一種開き直ったような作品が、この『洛北修学院村』ではないかと思います。だから、上で述べてきた、速水の弱点というべきものが、実は個性であるグラデーションを活かした色遣いを際立たせる結果となっている、というより色彩のグラデーションの注目してもらうために、ほかの要素は目立たなくされている。例えば、ブルーの濃淡とグリーンとの対照を見てもらいために、人物とか森の木々の形体をはっきりさせると見る者の視線がそっちに行ってしまうので、曖昧になって、しかも形状がしっかりしていないので、見る者の注目を集めない結果になっている、というわけです。しかし、よく見ると細部の線は細かく引かれているので、全体として画面が濃密な感じをかもし出して、青の色彩が分厚く浮き上がってみえるような錯覚を見る者に起こさせる。たぶん、作者である速見の当初の意図を超えて成功してしまった作品になったのではないと思います。

風景画であれば、小茂田青樹の『漁村早春』(左下下図)という作品を見てみましょう。この作品も、速水の『洛北修学院村』に負けず劣らず、細かい描写が追求されています。例えば、茅葺屋根の茅の一本一本が細かく描かれて、そのケバ立った様子が目立つほどです。しかし、一見した印象は、速水の『洛北修学院村』が全体に薄ぼんやりして見えるのに対して、小茂田の『漁村早春』ははっきりしすぎるほど明確に見えます。一点の曇りもないほど、タイトルの早春のもやっとした空気はあまり感じられず、言いすぎかもしれませんが地中海の透き折るような明確な輪郭の風景を想わせるところがあります。それは、ひとつには画面の切り分けがスッパリと気持ちいいほど為されていることと、構成の主だったところに直線が効果的に配されていて、それが明確な印象を強調しているためだと思います。速水の作品に見られる点描的な絵の具の置き方は、グループのリーダーだった今村がパリの印象派に倣ったということらしいのですが、印象派の作品はそういう絵の具の置き方をしていった挙句が画面全体がぼんやりとした作品、たとえばモネが典型的ですが、全体が靄のような画面に至ってしまいます。速水の『洛北修学院村』などは同じようなものです。それは、絵の具をダイレクトに画面においたり滴らせたりすれば、画面上で滲んだりして塗った境界が曖昧になってしまいます。これに対して、この小茂田の『漁村早春』では違う色を塗ったところとの境界線がはっきりしています。例えば、画面右上から左下に向かって民家の屋根から土手の輪郭が対角線のように一直線になって青い空と茅葺屋根と草叢の土手の茶系統の黄色と明確な境界わけが為されています。その対角線に水平線がくっきりと交叉して空と海を区分しています。さらに、右側の屋根の斜線との間で海の部分が下向きの青い三角形を形作っていますが、これは手前の部落の民家の屋根の茶系統の三角形と対照的で、この画面が三角形の配置で構成されていることがまた、構築的な印象をさらに強くしています。このような、まるで設計図のような構成的な画面で細部を詳細に描き込む筆の動きは、あまりに明確なために、却ってうそ臭ささえ感じさせ、不思議と現実感を感じさせません。それは、ある意味で非現実の幻想的要素を速水とは正反対の方向で見る者に抱かせる作品となっています。速水と小茂田が、細密な画面を追求したと解説されていますが、その作品から受ける印象は、このように異質です。

小茂田の作品をもう少し見て行きましょう。『四季草花図』という屏風です。『冬図』の方を見てみましょう。左半分を占める赤い実をつけ、雪を乗せた木が前景に中景に雪の中の川の流れが左上から右下に流れて画面を分けるようにして、右上の部分は後景の上から雪の積もった葉が垂れ下がるような高木の枝と、三景を中計である川の対角線を境界として、そして、一面の雪の白で、その境界を曖昧にすることで、平面的で装飾的な描き方でありながら、重層的な奥行きを備えた画面を作り出しています。これらの作品を見ると、小茂田という人は、画面に描く時の全体の設計とか構成に先に考えるタイプで、特に幾何学的な秩序を志向するところがあって、そこに細部を当てはめて、そのなかで全体の構成の中での意味を考慮しながら細かな描写とか、色合いとか陰影を加えていった人のように思えます。それ故にでしょうか、速水の作品のような細部が暴走してしまって、画面全体のバランスが崩れてしまうような不安定さを感じさせることがありません。『夏図』の方を見ると、金色の靄の中に色とりどりの朝顔の花が浮かび上がるというものでしょうが、左手前に垂れ下がる木の枝と葉が輪郭くっきりと描かれて、その奥に靄にけぶるように薄ぼんやり描かれている朝顔を対照をとって、手前の木の葉がぼんやりとした曖昧な、いってみれば幻想的な世界に対して、リアルな現実の世界を対峙させるように構成されているわけです。つまり、見る者が靄の中からぼんやり浮かび上がってくる朝顔の幻想的な世界に陶酔することを、手前の葉が明確な現実を示すことで、引き止めるのです。その結果、幻想的な朝顔の美しさを対象として愛でることを可能としている、そういう構成になっていると思います。ここに見られるのは、現実にしっかりと根を下ろした主体を持った目が、対象を客観性をもって観るという視線です。あとは、その視線に写った対象をいかに描くかということです。だから、小茂田にとって、日本画というのは一つの手段ということになろうとしていたのではなかったのか、と思います。

このようにして、他の画家と比較して見てくると、速水という画家の特徴が、私にも、ようやく分かりかけてきたような気がしました。例えば、1930年に渡欧したときのスケッチが展示されていましたが、『オルヴェートにて』という作品は、それらしく仕上げられているようですが、構成とか、つくりをみれば、幼児のお絵かき“おうちの前でパパと遊んでいたら、窓からママが見ていました”とでも言ってしまいそうな、絵画的な思考とか、認識とかの構造的な面が至って幼稚に見えないものです。速水に対して大変失礼な物言いをしていることは百も承知ですが、空間ということが把握されていないし、思いついたものをとりあえず描いた、というようにしか見えません。『彼南のサンバン』という作品などは、古代エジプトの壁画のように見えてきます。画家として、評価を得た後で、渡欧したときのスケッチをもとに描かれた作品に、象徴的に見えてくるのは、こういう姿です。つまり、絵画的な視点とか、認識とかが確立されていなくて、主体的に、自分が何をどのように描こうかというのが、キッチリしていなくて、今村とか小茂田とか周囲の画家との距離感がとれず、そのプロセスで、彼らではない作品を描くことで、ネガティブに自分を差別化していった。けれど、もともとの主体の空虚さを克服しえたわけではなく、その一方で描く技量だけは上達してしまった。その結果として、ひとつの表われが、細部の肥大化、あるいは意匠の独走です。『洛北修学院村』では、それが作品の趣向として許容範囲の中に、結果的に収まるものであれば、個性的な作品として見ることのできるものとなった。しかし、それでも、どこか不安定な崩壊感が底にある、病的なものを秘めている、と私には思えました。端的に言えば、出たとこ勝負です。だから、弟子をとって自らの日本画を教え、継承するということはできなかった。そのため、第4章の弟子という画家の作品展示は、私にはまったく無意味で、興味も湧きませんでした。かつまた、そう見る私を、惹きこむほどの魅力を持った作品ではありませんでしたので、感想を書くほどの印象はありません。

今回の展示でも、『洛北修学院村』と並んで、特別に入り口すぐのロビーに展示されていた『女二題』などは、そのような矛盾が表面化した不安定な作品ではないかと思います。一方、小品では、構成とか視点を、それほど問われることがないので、むしろ技量を活かして、よく見られる作品があったと思います。と、曖昧な書き方をしているのは、あえて取り上げて感想を述べるほど印象に残っていないせいです。ただし、骨董品として市場では高い値段がつくのだろうと想像させる、という程度でした。

速水に対して、ネガティブな物言いをしましたが、ある意味日本画と近代主義の矛盾を真正面から引き受けてしまって、玉砕してしまった潔さは、この展示を見て、何となく分かり、そこが速水という画家の作品を見ていく手がかりになるのではないか、という収穫があった展覧会だったと思います。

 

 




 
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