速水御舟とその周辺
─大正日本画の俊英たち─ |
2015年5月6日(水)世田谷美術館 5月のゴールデンウィークに出かけることなどというのは、久しぶりのことだ。世田谷美術館は、私の地元からの交通の便がよいわけではなく、しかもおそくまで開館してくれないので、なかなか訪れることのできないところ。10年以上前に一度訪れたことはあったが、ほとんど初めての訪問のようなものだ。用賀の駅から住宅地の中の道を歩き、世田谷公園の中のある美術館に行くのは、散歩道として、そういう雰囲気が好きな人には、いいのだろうと思う。美術館のロケーション自体は悪くはないと思うが、私には行く難さの方が先にたつ。連休の最終日で世田谷公園は子供連れのファミリーでいっぱいだったが、美術館は展覧会の会期が始まって間もないこともあるのだろうか、人影は多くはなく、静かにゆっくりと過ごすことができた。
“速水御舟は1895年、東京・浅草に生まれ、14歳にして生家の筋向いにあった当時歴史画の大家とされていた松本楓湖の安雅堂画塾に入門し、粉本模写などを通して日本画の基礎を学びました。御舟は師と同様歴史画から出発しますが、兄弟子で後に日本画改革のリーダーとなる今村紫紅と出会い、紫紅の影響から印象派の点描に似た表現を用いて、当時新南画と呼ばれた自由な画風へと作風を変化させてゆきました。紫紅は御舟ら安雅堂画塾の若手メンバーと赤曜会を立ち上げ、旧態依然とした旧来の日本画の殻を打ち破り、日本画の革新を目指しましたが、赤曜会は紫紅の突然の逝去によりわずか一年あまりで解散となってしまいました。御舟は紫紅の影響を脱し、新南画が中国の宋代院体画の花鳥画や北方ルネサンスの画家・デューラーの極端なまでの写実絵画へと突き進みます。型にはまることを嫌う御舟はその後、琳派の奥行を排した金屏風の大画面へと再び舵を切ります。渡欧後、御舟は西洋絵画の群像表現に魅せられて人体表現へと向かい、女性群像の大作に取り組もうとしていた矢先に、病に倒れ夭折してしまいます。享年40。御舟の突然の死は画壇に大きな衝撃を与え、その才能を惜しむ声が各界から寄せられました。本年は速水御舟の没後80年の節目の年に当たり、本展はそれを記念して、師の松本楓湖から院展目黒派と呼ばれた今村紫紅、小茂田青樹、小山大月、牛田雞村、黒田古郷ら赤曜会のメンバー、そして御舟一門の高橋周桑、吉田善彦など、御舟とその周辺の作家たちの作品を一堂に集め、展観いたします。近代日本画の頂点のひとつとされ、今なお燦然と光り輝く御舟芸術がどのように誕生し、継承されたかを検証しようとするものです。”
では、いつものように作品を見ていきたいと思います。
第1章 安雅堂画塾─師・松本楓湖と兄弟子・今村紫紅との出会い 速水が画家としての修行を始めた時代の師匠や、画塾の人たちの作品です。画塾には粉本が数多くあって、速水を含めた弟子たちは、それらを次から次へと模写をしていくことで、日本画の基礎を身につけていったということです。粉本には、中国絵画や琳派、土佐派や狩野派、円山四条派、浮世絵などあらゆるものが揃っていた(これら列記されたものの違いを、私は見分けられません)と説明されていました。そして、師匠の松本楓湖という人は放任主義で、絵の批評などは全く行なわなかったらしく、それが逆に良かったのか、今村紫紅や小茂田青樹、小山大月、牛田雞村、黒田古郷らが集まって、自由に描いていたようなイメージが湧いてきます。 後年、速水は節操がないといえるほど、一方で写実を追求する方向から、平面的で様式化された作品世界で装飾的な方向まで、広いふり幅で作品を矢継ぎ早に制作して行った素地は、このようにして形成されたのかということが想像できました。そのような視点で見てみると、今村紫紅が提唱して、速水がその流れに乗るように様々な作品を制作していった“日本画改革”で目指したものというのは、日本の絵画のあり方を根本的に見直すというよりは、様々な要素や技法を、それぞれの拠って立つ体系から抽出してきて、ちがった体系の中にぶち込んでみたり、本来ならば異なる体系にある要素を同一の画面の中で同居させたりなどといったパズルの組み方の新しいパターンの模索のようなものであったことが分かります。今村はどうか分かりませんが、速水という人は、そういうことが十分に可能な器用さを持ち合わせていたということは、ここで展示されてた習作ともいえる作品をみてもよく分かります。ただ、作品は習作といえる程度を超えるものではないようなので、個別に取り上げてどうこうということはしません。
第2章 赤曜会─今村紫紅と院展目黒派
例えば、人家の風景を描いた作品では、今村の大振りな斑点を重ねるようにして、さらにその色を滲ませて、立体の面の存在を前面に出し、線で輪郭を区画させる平面的な書き割りのようなものから、空間を感じさせるようなつくりがベースになって、作品が制作されています。今村の『瀬田風景』(右図)や『潮見坂』(左上図)といった作品を見ると、今言ったような方法の試みが現れていると思います。しかし、私には、その試みが先行して、作品として、どうかと問われれば、立体的な空間が表現されているかということもありますが、空間が感じられるかといって何なのか、という作品自体の魅力というのか面白味が感じられないものに終わっていると思います。傲慢な言い方で、かなり偏った見方であると思いますが、これらの作品を見て、新しいことを試みる必要があるのか、その効果が表われていない、たんにヘタウマの味わい程度のことしか感じられない作品になっていると思います。 ここで、速水の作品を見てみると、今村に対して色遣いの点で繊細な注意を払っているのが特徴的であるように思います。それゆえでしょうか、今村のような空間の追求とか、面で立体的に捉えるという試みよりも、それでつくられた作品画面の完結性に重点が置かれている。つまり、立体的とかそういうことではなくて、結果として画面効果が、幻想的だったり、叙情的だったりに見えるということに重きを置いているように見えるということです。
この『暮雪』を今村の『瀬田風景』を見比べてみると、民家の形や各々の事物を面として描いていく描き方などは、今村の風景画の基本的なつくりを踏襲しているのが分かります。つまり、速水は今村のつくった土台や骨組みに乗って、枝葉のところで今村ではない別のことを試みて、観る者には今村とは違う画面として見せていると見えます。これは、後年まで速水の作品についてまわる印象なのですが、主体がみえないというのか、何を描こうとしているのか骨がわからないという、多分、速水本人にも、強烈な主体のようなものがなかった点はあると思います。それと、この『暮雪』をみれば分かるように精緻で繊細な配慮を細部まで施している細工物のようなことをしていると全体を見通すことが難しくなる。そこで、今村の骨に乗っかるかたちで、細部にこだわった作業を思い切りやってみる、ということではなかったのかと思います。これは、絵画の世界ではありませんが、小説の世界で芥川龍之介のことを思い出します。彼の初期作品は今昔物語などの古典を題材に取って、そこに近代主義的な要素を加えていくことで病的といえるほど精緻で心理的な使用説世界を作っていました。例えば、『羅生門』という小説は、今昔物語の中の「羅城門登上層見死人盗人語第十八」を題材に取ったといわれています。まず、冒頭について今昔物語ではこうです。 “今は昔のこと、摂津の国のあたりより盗みをするために京へ上ってきた男が、まだ日が高かったので、羅城門の下に隠れて立っていたが、朱雀大路の側には往来が絶えないので、人通りが静まるまでと思い、門の下で待っていると、山城の側から人が大勢近づいていくる音がしたので、姿を隠さなければと思い、門の二階へ音を立てないようによじ登ったところ、かすかに火がともされているのが見えた。” これを、芥川龍之介の『羅生門』になると、このように膨らんでしまいます。 “ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々丹塗の剥げた、大きな円柱に、蟋蟀一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路にある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子が、もう二三人はありそうなものである。それが、この男のほかには誰もいない。何故かと云うと、この二三年、京都には、地震とか辻風とか火事とか饑饉とか云う災いがつづいて起った。そこで洛中のさびれ方は一通りではない。旧記によると、仏像や仏具を打砕いて、その丹がついたり、金銀の箔がついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪の料に売っていたと云う事である。洛中がその始末であるから、羅生門の修理などは、元より誰も捨てて顧る者がなかった。するとその荒れ果てたのをよい事にして、狐狸が棲すむ。盗人が棲む。とうとうしまいには、引取り手のない死人を、この門へ持って来て、棄てて行くと云う習慣さえ出来た。そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、この門の近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。その代りまた鴉がどこからか、たくさん集って来た。昼間見ると、その鴉が何羽となく輪を描いて、高い鴟尾のまわりを啼きながら、飛びまわっている。ことに門の上の空が、夕焼けであかくなる時には、それが胡麻をまいたようにはっきり見えた。鴉は、勿論、門の上にある死人の肉を、啄みに来るのである。――もっとも今日は、刻限が遅いせいか、一羽も見えない。ただ、所々、崩れかかった、そうしてその崩れ目に長い草のはえた石段の上に、鴉の糞が、点々と白くこびりついているのが見える。下人は七段ある石段の一番上の段に、洗いざらした紺の襖あおの尻を据えて、右の頬に出来た、大きな面皰を気にしながら、ぼんやり、雨のふるのを眺めていた。作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた」と書いた。しかし、下人は雨がやんでも、格別どうしようと云う当てはない。ふだんなら、勿論、主人の家へ帰る可き筈である。所がその主人からは、四五日前に暇を出された。前にも書いたように、当時京都の町は一通りならず衰微していた。今この下人が、永年、使われていた主人から、暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波にほかならない。だから「下人が雨やみを待っていた」と云うよりも「雨にふりこめられた下人が、行き所がなくて、途方にくれていた」と云う方が、適当である。その上、今日の空模様も少からず、この平安朝の下人の Sentimentalisme
に影響した。申の刻下さがりからふり出した雨は、いまだに上るけしきがない。そこで、下人は、何をおいても差当り明日の暮しをどうにかしようとして――云わばどうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考えをたどりながら、さっきから朱雀大路にふる雨の音を、聞くともなく聞いていたのである。雨は、羅生門をつつんで、遠くから、ざあっと云う音をあつめて来る。夕闇は次第に空を低くして、見上げると、門の屋根が、斜につき出した甍の先に、重たくうす暗い雲を支えている。どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいる遑はない。選んでいれば、築土の下か、道ばたの土の上で、饑死にをするばかりである。そうして、この門の上へ持って来て、犬のように棄てられてしまうばかりである。選ばないとすれば――下人の考えは、何度も同じ道を低徊した揚句に、やっとこの局所へ逢着した。しかしこの「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」であった。下人は、手段を選ばないという事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつけるために、当然、その後に来る可き「盗人とになるよりほかに仕方がない」と云う事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。下人は、大きな嚔をして、それから、大儀そうに立上った。夕冷えのする京都は、もう火桶けが欲しいほどの寒さである。風は門の柱と柱との間を、夕闇と共に遠慮なく、吹きぬける。丹塗の柱にとまっていた蟋蟀も、もうどこかへ行ってしまった。下人は、頸をちぢめながら、山吹の汗袗かざみに重ねた、紺の襖の肩を高くして門のまわりを見まわした。雨風の患うれえのない、人目にかかる惧おそれのない、一晩楽にねられそうな所があれば、そこでともかくも、夜を明かそうと思ったからである。すると、幸い門の上の楼へ上る、幅の広い、これも丹を塗った梯子が眼についた。上なら、人がいたにしても、どうせ死人ばかりである。下人はそこで、腰にさげた聖柄の太刀たちが鞘走らないように気をつけながら、藁草履をはいた足を、その梯子の一番下の段へふみかけた。それから、何分かの後である。羅生門の楼の上へ出る、幅の広い梯子の中段に、一人の男が、猫のように身をちぢめて、息を殺しながら、上の容子を窺っていた。楼の上からさす火の光が、かすかに、その男の右の頬をぬらしている。短い鬚の中に、赤く膿を持った面皰のある頬である。下人は、始めから、この上にいる者は、死人ばかりだと高を括っていた。それが、梯子を二三段上って見ると、上では誰か火をとぼして、しかもその火をそこここと動かしているらしい。これは、その濁った、黄いろい光が、隅々に蜘蛛の巣をかけた天井裏に、揺れながら映ったので、すぐにそれと知れたのである。この雨の夜に、この羅生門の上で、火をともしているからは、どうせただの者ではない。下人は、守宮のように足音をぬすんで、やっと急な梯子を、一番上の段まで這うようにして上りつめた。そうして体を出来るだけ、平にしながら、頸を出来るだけ、前へ出して、恐る恐る、楼の内を覗のぞいて見た。”
『短夜』(左図)という作品を見てみましょう。鬱蒼とした木々の中に家が立ち、タイトルが『短夜』ということなので、夏の夜なのでしょうか、その暗いところで蚊帳の中の人影がぼんやりと見えてくるという作品です。ここでは、『暮雪』とは違った暗さの風景です。こちらは、対照の活用ではなくて、暗さのグラデーションのなかで、木の葉の緑や下草の中に青を混ぜたりと、微かな色彩を効果的に使おうとしています。趣向としてはバロックの画家レンブラントの『夜警』のような夜の暗さの中でのかがり火で照らされたところから夜の暗闇までのグラデーションの中で人々を浮かび上がらせたのを、暗さを基調に地味にしっとりと試みたような作品といえるでしょうか。ここでの木々の葉などは、一枚一枚を描くのではなく、点描のように絵の具を落として、その点を重ねて、しかも、それぞれの色を変えていくことで、葉の重なりや月か星明りの光線の陰影を表わしているように見えます。この作品での家は、『暮雪』以上に今村の作品で描かれている家の形や輪郭そっくりです。そこで、速水は同じような形状で描かれている家ですが、夜の帳の中で見えているということからでしょうか、今村の太くたくましい輪郭線に対して、か細い線で輪郭を引いています。それが、今村の作品には、どっしりとした重量感があるのに対して、存在感が薄く、現実か夢かはっきりしないような夜のうつろなフワフワとした雰囲気を感じさせるものとなっています。これは、きわめて繊細なものになっていると思います。その一方で、芥川龍之介の小説もそうですが、作り物めいた作為が感じられるのも事実です。それは、家が、何となく歪んで見えるような、キッチリとした構造物に見えないところ、例えば、開いた戸からのぞいている家の中の床や敷かれた布団が傾いているようにしか見えないことや、蚊帳の中の人物が形になっていなくて雑に見えてしまうことで、私なぞがみると白けてしまうところがある。雰囲気を描こうとして、肝心の本質的な形というのか、核心が等閑にされているように見えてしまう。これは、速水の作品をいろいろ見ていて、共通して感じられることですが、どこか中心的な核が空ろで、小手先のみてくれにはしっているように感じられるところがあり、その核を今村をなぞることで補おうとしている。そういうところが露になっている作品でもあると、私には見えます。
展示は、他にも作品が多く展示されていましたが、私なりに速水の作品の印象と、それと比較関連させて見ることの出来る作品をピックアップしてきました。それ以外にも、眼に留まった作品は小山大月の『入相櫻』(右図)などがありましたが、それらをひとつひとつ、取り上げることはしません。
第3章 良きライバル─速水御舟と小茂田青樹
速水の『仲秋名月』(左図左)という作品です。会場では、この作品と並んで小茂田の『月涼』(左図右)という作品が展示されていました。両者を見比べると、二人の画家の違いは、私には全く区別できなくて、同じ画家の作品と言われても、疑うことはできないでしょう。これらを見ると、二人の同質性ということが、よく分かります。むしろ、このように同じようだということは、二人とも分かっていて、それゆえに互いに危機感を持っていたのではないでしょうか。他の画家と同じようだというとは、個性がないと同じことです。他の画家とは違うから、その画家の作品を買ってもらえるのですから。そこで、速水にしろ、小茂田にしろ、急き立てられようにして互いに違いを追求しようとして、個性化の方向性を探っていったのではないか、私はそんなストーリーを想像してしまいました。 そこで、また、二人の似た傾向の作品を見比べてみましょう。速水の『山茶花に猫』(左図)という作品と小茂田の『麗日』(右中図)という、猫を題材にした作品です。この二つの作品についても、私には、はっきりと区別することができません。作者名を伏せられて、どちらが速水の作品で小茂田の作品 そういう、速水のやむにやまれぬものが、ある面ではっきりと、しかも、画面にポジティブな効果をもたらしたのが、有名な『洛北修学院村』(下右図)という作品ではないかと思います。この作品の、画面全体を見ていると、ちょうど上部の4分の1ほどのはるかな山の風景は見上げるように描かれているのに、その下の村の風景は見下ろすように描かれています。では、速水は、このような風景をどこから見て描いたのでしょうか。そういう統一した視点が、この作品にはないのです。もちろん、この作品のそういう特徴は、多くの人の気付いているところで、それがこの作品の特徴とされていて、村を見下ろすようにして描いたのは、村のあちこちのたたずまいを同時にくまなく描こうとしたから、とか細密描写がリアリティを与えているとか解説が付されていることが多いのではないかと思います。私には、そういうことは、速水があとから効果として附加したことで、速水は、このようにしか描けなかったのではないかと思えるのです。というのも、もし、解説されているような効果を狙って意図的に、このように描いたとしたら、速水のほかの作品では、きちんとした視点がはっきりしていて、それでかっちりとした画面構成が為されているはずです。ところが、さきほど見た『山茶花と猫』にしても、前章の展示で見た『暮雪』や『短夜』にしても、視点が統一されていないのです。前章で芥川龍之介の「羅生門」の一節を引用しましたが、その文章は下人が羅生門の梯子を上がって見えてくる風景について、下人が見ているところに、話者の主観が混入し、それだけでなく別に芥川龍之介の主観が入り込んできて、風景をみている主体が分裂して、視界の意味づけが二重三重に過剰に溢れてくる、どこか病的なものとなっています。多分、そういうところが芥川の作品が思春期の若者の不安定な感性に適って、未だに支持を得ている理由なのではないかと思います。そういう芥川の性向というのは、時代環境の影響もあると思われ、ほぼ同年代で、同じ東京銀座界隈という環境で育った速水にも共有されていたと考えられなくもありません。速水の画風から想像するに、繊細で感受性が強いのも芥川と共通していると思われます。
小茂田の作品をもう少し見て行きましょう。『四季草花図』という屏風です。『冬図』(右図)の方を見てみましょう。左半分を占める赤い実をつけ、雪を乗せた木が前景に中景に雪の中の川の流れが左上から右下に流れて画面を分けるようにして、右上の部分は後景の上から雪の積もった葉が垂れ下がるような高木の枝と、三景を中計である川の対角線を境界として、そして、一面の雪の白で、その境界を曖昧にすることで、平 このようにして、他の画家と比較して見てくると、速水という画家の特徴が、私にも、ようやく分かりかけてきたような気がしました。例えば、1930年に渡欧したときのスケッチが展示されていましたが、『オルヴェートにて』(右図)という作品は、それらしく仕上げられているようですが、構成とか、つくりをみれば、幼児のお絵かき“おうちの前でパパと遊んでいたら、窓からママが見ていました”とでも言ってしまいそうな、絵画的な思考とか、認識とかの構造的な面が至って幼稚に見えないものです。速水に対して大変失礼な物言いをしていることは百も承知ですが、空間ということが把握されていないし、思いついたものをとりあえず描いた、というようにしか見えません。『彼南のサンバン』(左図)という作品などは、古代エジプトの壁画のように見えてきます。画家として、評価を得た後で、渡欧したときのスケッチをもとに描かれた作品に、象徴的に見えてくるのは、こういう姿です。つまり、絵画的な視点とか、認識とか
速水に対して、ネガティブな物言いをしましたが、ある意味日本画と近代主義の矛盾を真正面から引き受けてしまって、玉砕してしまった潔さは、この展示を見て、何となく分かり、そこが速水という画家の作品を見ていく手がかりになるのではないか、という収穫があった展覧会だったと思います。
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