カラヴァッジョ展
 

2016年3月16日(水)国立西洋美術館

1年に1回の通院の日。昨年との経過状態の変化を監視してもらっている。大丈夫と思ってはいても、どこかで変化があったら・・・という危惧は残っていて、検査自体は簡単に終わってしまうのだけれど、万が一のために休みを1日取った。それで、蓋をあけてみたところは、異常な変化は見られず、これでしばらくは大丈夫と思うので、一区切りにしましょうとのこと、つまり、恢復しましたということ。まあよかった。

ということで、万が一に備えていた時間が余ってしまったので、ということで何か美術展でもということで、上野に向かった。上野は桜の開花が始まろうとしていた自分で、外国人の姿がかなり目だって多いような気がした。たしか、ボッティチェリ展が終わり近いし、JR駅の公園口を降りると、西洋美術館のカラヴァッジョ展が目に入ったが、始まったばかりだし、後で見る機会もあるだろうからと、公園奥の東京都美術館に向かった。しかし、美術館に向かって歩いていくうちに、同じように歩いている人の姿が多いのに気づいた。かなり混んでいるのは、この時点で分かった。そして、美術館の玄関で入場2時間待ちとかアナウンスされているのを聞いた。お手上げだ。そんなところで絵を見るなんて真っ平だ。と、玄関で急遽、予定変更。さっき通り過ぎた西洋美術館に行くことにした。こっちも混みあうだろうけれど、始まったばかりだから、未だましではないか。その予想は当たり、決して空いているわけではなかったが、会期は始まったばかりで、比較的落ち着いて絵をみることができた。

15年前の2011年に東京都庭園美術館のカラヴァッジョ展には行った。あの時は、ずいぶん混雑していた記憶が合った。それ以外にあまり記憶が鮮明ではない。私自身についても、美術展まわりをするようになって、はじめのころで、自分なりに絵を見るパターンができていなかった(今も大して変わらないけれど)ことでもある。今、15年経って、自分の記憶を確かめたいし、同じ画家の作品を見る時間を隔てて、その頃の自分はどうだったか、今と変わったのかを見ることもできるかもしれないとも考えていて、この美術展は見たいと思っていた。

まずは、主催者のあいさつから行きましょう。ここに、主催者のカラヴァッジョに対する視点が表われていると思います。“ミラノの生まれたミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(1571〜1610)は、西洋美術史における最大の変革者のひとりとして、バロック美術の創始者にも数えられる偉大な画家です。目の前のモデルを忠実に写すリアリズム、素描を行なわずカンヴァスに直接描く手法、モチーフを極限まで影に沈める劇的な明暗法(手ねプリズム)、そして観る者に直接訴えかけるヴィヴィッドな主題解釈といって点において、彼の作品はルネサンス以降の様々な美術の規範を打ち破り、新時代の到来を告げました。それゆえ、彼の画法は多くの熱狂的な継承者(カラヴァッジョスキ)を生み、ルーベンスやラ・トゥール、レンブラントなどの17世紀の数多くの画家たち影響を与え、バロックという新時代の美術を開化させる原動力となったのです。本展では、11点のカラヴァッジョ作品と、彼の影響を受けた継承者たち(カラヴァッジョスキ)による作品をあわせ、計51点を展示します。これはカラヴァッジョの現存する真筆が教会の祭壇画など移動不可能な作品を含めて60点あまりと言われるなか、日本では過去最大、世界でも有数の規模となります。今回は「風俗画」、「静物」、「肖像」、「光」といった、カラヴァッジョ芸術を理解するための重要なテーマごとに章立てを構成し、彼の芸術の革新性と、継承者たちによる解釈と変容の過程を検証します。あわせて、彼の波乱万丈な生涯を記録した同時代の古文書資料を出品し、カラヴァッジョを芸術と人生の両面から掘り下げてご紹介いたします。”

というように、カラヴァッジョを絵画史の中での変革者、バロック芸術の創始者として説明されているようです。しかし、と言って知ったかぶりをするつもりはありませんが、カラヴァッジョという画家は1920年代にイタリアの美術史家ロベルド・ロンギによって再発見されるまで、歴史に埋もれていた画家であったということです。だから、ここでカラヴァッジョを変革者としていても、再発見されるまでは、とくにカラヴァッジョによる変革ということは意識されていなくても、バロック絵画というのはあったし、美術史もちゃんと筋が通っていたということです。たしかに、カラヴァッジョスキという継承者が生まれ、後からみれば錚々たる大家にもカラヴァッジョの影響が見られるのでしょうが、それはバロック美術全体を左右させるものだったか(そうであれば歴史に埋もれるはずはなかったでしょう)、そして大家への影響は彼らの特徴の中に包摂されてしまった(カラヴァッジョの影響云々を考えなくても、各画家の特徴ということで話は済んでしまっていた)ということだったと思います。ここで、本題に入る前に少々脱線しますので、興味のない方は、読み飛ばして、次ページの具体的な展示の感想に移っていただきたいと思います。ちょっと長くなると思います。

ロンギがカラヴァッジョを再発見し、世に紹介しようとした1910〜1920年代というのは、ヨーロッパの歴史をみれば、大変動、変革の時代と言うことができます。第一次世界大戦によってヨーロッパの伝統的な秩序や文化は根底からの変化を余儀なくされます。ドイツとオーストリア、そしてロシアという帝国は消滅し、ロシア革命により社会主義体制が成立します。また資本主義経済などによって従来の社会やコミュニティが変質し、個人がバラバラになり大衆社会がうまれます。このような動きの中で芸術や文化も、大きな変化を遂げて行きます。ロンギの周辺である、当時のイタリアの芸術文化では未来主義の運動が起こり「革命」を標榜します。その中で、ロンギはカラヴァッジョの中に芸術の革命を見出し、それを自身が世に認められる野心を実現させるためにも、大きくアッピールしていったと居えると思います。では、ロンギはカラヴァッジョにどのような「革命」を見出したのでしょうか。それは、彼の言葉で言えば、ルミリズム、地上のリアリズム、完璧なリアリティにおける視角の具現化の三点です。それは、まさに主催者あいさつの中で述べられていることに他なりません。

あいさつの説明は簡潔すぎるので、もうちょっと説明すれば、カラヴァッジョは、ルネサンス以来、画家たちが重視してきた素描に基づかず、直接、カンヴァスに向かったといいます。このため、人物の相貌や身体各部の比例関係を探求し理想化するフィレンツェのルネサンスの画家たちを中心とした古典主義美学に対して、時に無骨さ、野卑さ、醜さまでも剥き出しにした生々しいリアリズムを打ち出すことになりました。すぐれた着想によって高貴な主題を物語ることが絵画の使命であると考えるのがネルサンスの絵画の考え方ですが、そのような立場から見れば、カラヴァッジョの絵画のリアリズムは、絵画を破壊するものと見えても無理はないでしょう。また、ティツアーノらのようなヴェネツィア派のような多彩な色彩を駆使した装飾的な豪華絢爛さにも背を向けて、光と闇の強烈なコントラストの中で、民衆的ともいえる直接的で平明な語りを画面で演出して見せました。制作の手続でいえば、従来のきまりごとから逸脱する宗教画の革新、歴史画を頂点とする主題のヒエラルキーを転倒させる静物画や風俗画の積極的な再解釈、といった一連の特徴は、歴史的資料のあまり残されていないこともあって、この画家が、従来からの伝統を断ち切って、あたかも突然変異のように新たな芸術を単独で生み出し、世に衝撃を与えたというように、ロベルト・ロンギは世に強烈な印象を与えるようにカラヴァッジョを紹介し、それが、この美術展にも影響を与えているというわけです。また、さらに言えば、カラヴァッジョという人物の波乱万丈の生涯の伝記的なエピソードもそのイメージをさらに煽ることになっています。

カラヴァッジョについて、あいさつで述べられていることを否定するつもりはありませんが、そのベースには時代によるバイアスが色濃く反映されているのは疑いようのないことで、それが学問とか、そっちの方では定説となっているかもしれませんが、それはかなり度の強い色眼鏡ではないかと思えるところもあります。だから、そこから自由になるとか、新たな視点を提案するとか、そんなつもりは全くありません。ただ、或る時期まで歴史に埋もれ、ということは殆ど無視されてきて、或るきっかけから革命児として脚光を浴びるという毀誉褒貶に巻き込まれてしまっているようで、そんなところから距離を置かせてあげてもいいのではないかと、せめて私だけでも(というのは傲慢な言い方かもしれませんが)、そういうところから離れたところで対することはできないかと思いました。それが、ちゃんとできているかは、この先の感想を読んでいただければ、一目瞭然でしょう。

ということで、作品を、展示の章立てに沿って見ていきたいと思います。

 

T.風俗画:占い、酒場、音楽 

カラヴァッジョの作品で最初にお目にかかるのは「女占い師(ジプシー女)」(左上図)という作品です。主催者のあいさつに説明されているようなカラヴァッジョの特徴は、それほど明確に表われているとは見えません。光と影の巨匠にしては、それほど画面が暗くない印象です。後年の教会の壁面を飾るような宗教画ではなく、いわゆる世俗画ということになるでしょう。とはいっても、宗教的な教訓が含まれているようなのですが、それは他の人のブログや記事で書かれているでしょうから、そちらをご覧ください。

実際の作品を観ていくと、奇妙な(特徴的な)ところに気づきます。その第一は、色が鈍く、あたかも汚れてしまっているようにみえることがあるという点です。これは、私の錯覚かもしれず、また、独りよがりかもしれません。先回りするようですが、ここで展示されているカラヴァッジョの作品を通してみると、カラヴァッジョの作品は、前面真っ黒で一部分に穴のような空白があって、そこに光が当たっているように見えるとか、全体に汚れてくすんだ画面になっているとか、この作品の色彩がもっとも鮮やかな部類に入ると思われるほどです。実際に、少し前のルネサンスの画家たちの明朗で、透明感のある色彩と比べると、鈍重でうす汚れた印象を受けます。これには、何かわけがあるのでしょうが、私には見当がつきません。この点については、別のところでお話したいと思います。

そして、第二の奇妙な(特徴的な)ところは、背景がないということです。この作品では、二人の人物の背後は土壁のようになっていると見えなくもありませんが、確かなところは分かりません。つまり、この作品では2人の人物だけが登場し、その二人の動きと表情が前面に、あるいは全面に見えているといえます。そこで、言えることは、この作品において二人の人物しか描かれていないということです。なんか、同じようなことを繰り返して喋っているようですが。二人の人物が、どこにいるのかという空間が描かれていないということです。少しくどい言い方になりますが、この作品に画面には、ある空間、つまり場面があって、そこに(その空間に)二人の人物がいて、その二人の人物が何かしているといように描かれているのではなくて、ダイレクトに二人の人物だけが描かれているということです。二人の人物が、このような空間にいるという場面の客観的な面が省略されているということです。どういうことかというと、場面を描くということは、二人の人物のいる周囲をふくめて広く見ないといけない。そのためには、視点を二人から少し引いて遠目に見なければならないことになります。映画でいえばロングショットです。つまり遠景です。遠目に引いて見ることを突き詰めていけば鳥瞰的になり、最終的には神さまの視点に近づいていくことになるでしょう。そのような視点で背景が入った空間をきちんと描くことを試みたのが遠近法であり、その遠近法を駆使し洗練させていったルネサンスの画家だったといえると思います。しかし、この作品では、その空間を描くことを省略してしまっているように見えます。従って、私には、この作品はネルサンスの画家たちが追求していた客観的な視点に立っていないように見えるのです。では、この作品が客観的な視点に立っていないとすれば・・・、そうです、全面的には言い切れないでしょうが、主観的な視点に立とうとしていると、わたしには思えます。背景を省略しているということは、映画でいえばクローズアップです。人がものを見るとき、特に何かに注目する時、そのものに集中して、余計な情報を切り捨ててしまいます。そこでは、見ているようで見ていない。この作品では、背景を画家は見ているかもしれないが、目に入っていないのです。映画のクローズアップでは、背景とか空間は見えなくしてしまいますが、クローズアップした人物の表情はよく分かります。これに対して、ロングショットでは人物の表情までは細かく分かりません。その代わりに、画面全体の構成とか人物の配置とか、人物がどのようなポーズをとっているか、人物以外にどのようなものを画面に入れるかといった全体の設計で、表わすということになると思います。だから、スケッチを何枚も描いて、下絵の段階で画面がキッチリとキマるように作ることになるわけで、そのためには精確なデッサンが必要不可欠になるということでしょうか。例えば、映画ではロングショットの場面を中心とした作品では、人物の表情は見えてこないため、人のアクションとか、大きな動きが中心となって進みます。これに対して、テレビのドラマでは、映画のような大画面ができないため、小さい画面の限られた情報量でドラマを進めるためには、小さな枠にちょうど入るような人の顔や上半身が中心で進むため、顔の表情を映すことが多くなって、人の動きよりも表情の移り変わりを主に映し出すようになります。その場合、映画とテレビの違いということがよく言われますが、映画の場合は作品の完成度ということがいわれるのに対して、テレビの場合には見る人がコミットする共感といったことが言われる傾向にあります。それは、映し出される画面がクローズアップ中心で、見たいところに焦点を合わせて、それ以外のところは省略することになる主観的に近い画面になっているのが、ひとつの原因と考えられるからです。

それと同じことが、この作品にも言えるのではないでしょうか。そして、この作品で描かれている二人の人物、とくに左側の女占い師のちょっとあざとく見えてしまうほど、わざとらしく描かれている表情は、ルネサンスの画家は、これほどまでには極端に表情を描かなかったのに対して、敢えて描き込んでいると言えるのではないでしょうか。カラヴァッジョのこの作品では、そうすることで、表情が画面にドラマを作り出しているように見えます。

この理由を少し考えてみましょう。それには、この作品が制作された1600年ごろの時代を考える必要があります。ひとつの契機として考えられるのは16世紀はじめにルターによって端緒が開かれた宗教改革の影響です。ルターによって始まり、各指導者によって様々な宗派が生まれましたがプロテスタントと一括された新しい主張する人々は、「神は人間一人一人と契約するのであって個人が直接接触する事が出来る。」という聖書の言葉に基づき、個人個人が直接神に向き合って信仰することを求めました。これは、カトリックの教会によって遣わされた神父を通じて神にという、神⇒神父⇒集団(一般大衆)という、集団ありきの組織的な信仰の筋道を批判したといえます。カトリックの、このような組織的なものでは、個人の内面より、集団の中での個人ということで進行は外形的なものに、例えば儀式への参加とか勤行とか外面的な行為に偏ることになります。これを批判したプロテスタントは集団ではなく、あくまでも個人を立脚点とした組織統合を目指し、これを根拠に個人個人の優劣も肯定しました。その結果、聖書中心主義や内面的な信仰という主張が自ら神と自己の内的な関係を結ぶという点を強調し、主体的な人間という西欧の個人主義の基礎を作り上げていくことになったのではないかと言えるわけです。この影響は、プロテスタントのみに留まらず、カトリックの側にも、似たような動きが生まれます。それが極端に進むと異端として断罪されてしまう人々も現われたというわけです。

歴史的には、カラヴァッジョが生まれたロンバルディア地方では、当時「新しい敬虔」という動きがあったそうです。それは、当時の聖職者たちの堕落を悲観し、過度ないしは頽廃に陥った知性重視の思弁主義的神秘思想、エリート向けの宗教に直面して無気力状態に陥っていた状況を批判し、反思弁的で反修道会的な反動を掲げた宗教運動と言われています。その運動が打ち出したのが、主観的で情緒的な瞑想の実践、「心の祈禱」という教会の典礼という儀式に頼るのではなく、自宅や志を同じくする同志との共同生活で体系化された瞑想や祈りを行なうほうが、神との神秘的合一に到達できるという主張です。これでは、プロテスタントの姿勢とどこが違うのかと言いたくなります。少なくとも、カラヴァッジョの耳にも、このような主張は聞こえていただろうし、周囲には、そのような空気が漂っていたことは否定できないと思います。

そのときに、この作品に限るわけではありませんが、作品の視点として客観的なものから、主観的なものの萌芽があったのではないかと思われるのです。この「女占い師」という作品にも、それが現われていると思います。それが、カラヴァッジョの作品の特徴を生み出す要因の一つになっているのではないか、と私には思えます。

この展覧会では、カラヴァッジョニスタというカラヴァッジョのフォロワーたちの作品も並べて展示されていました。シモン・ヴーエの「女占い師」(左下図)という作品です。カラヴァッジョと同じ主題で、似たような画面になっていますが、この作品は、それほどでもありませんが、カラヴァッジョとカラヴァッジョニスタとを画するのは、ひとつには技量の差であることが分かります。カラヴァッジョのレベルで見ると、カラヴァッジョニスタの作品は描けていないのです。この作品では、二人の女性が男性のカモを騙そうとしていますが、表情がカラヴァッジョに比べると描けていません。表情が語りかけてこないのです。そのため、背景を省略して、人物に視線を集めても、その人物が観る者を引き付けてくれないのです。だから、作品を観る者は、画面にコミットできないので、共感といったような感情的な反応に至らないのです。似たような作品であれば、むしろラ=トゥールの「いかさま師」(展示作品ではありません)(右図)の方が、デフォルメがきついのでカラヴァッジョの画風とは言えないでしょうか、その表情のあざとさは雄弁で、カラヴァッジョの「女占い師」に近い印象を持つことができるのではないかと思います。

カラヴァッジョと同時代の医師で、画家と面識もあったとされるマンチーニは、この作品を描いた当時のカラヴァッジョの生活や作品の意義について証言を残しているそうです。それによれば、当時のカラヴァッジョは、ローマで天涯孤独で困窮した生活をおくり、画家の工房で作品の一部の頭部や半身像などを描く賃仕事で糊口をしのいでいたそうです。このような、実際のモデルに基づいて少数の「頭部」や「半身像」をクローズアップで描くという仕事を通じて、カラヴァッジョは自身の手法としていったことが分かります、マンチーニは次のように書いています。“カラヴァッジョが単身像や頭部、そして彩色によって、偉大な成果をもたらしたということ、さらに、今世紀の職業が、彼に多くを負っていることは否定できない。”マンチーニの言う「彩色」は、当時の現実のモデルや自然の事物を再現するということのために用いられていた意味があるといいます。それは、マンチーニがカラヴァッジョの作品のなかで最も高く評価したのは、聖堂に設置された大型の歴史画ではなく、まさにこの「女占い師」だったからです。このことは、逆にカラヴァッジョを批判した保守的な画家が、この作品に対して欠点として指摘した言から知ることが出来ると思います。その典型がバリオーネという画家の次のような証言です。“彼が絵画を破壊したのだと考える者もいる。というのは、多くの若者たちがカラヴァッジョの例に倣い、実際のモデルからひとつの頭部を写生することにかまけ、素描の基本や芸術の奥義を学ぶことをせず、ただ彩色だけに満足しているからである。そのため彼らは、二つの人物像を一緒に配置することもできなければ、歴史画を組み立てることも全くできない、かくも高貴な芸術の美点を理解していないがゆえに”、つまり、事物の表層を模倣する表面的な「彩色」ばかりを追い求めていては、彩色と対をなし、それに先行すべき「素描」、つまり精神の中にイメージを形成し、それを表現するという芸術の奥義の探求が疎かになってしまう。このバリオーネの言説の後半は、いままで述べてきたことに通じると思いますが、前半の彩色に関することは、私も感じていることでもあるので、別の作品のところで私なりの位置づけと説明を試みたいと思っています。

 

U.風俗画:五感  

 この展示コーナーについて、その意図を解説の説明から引用してみましょう。“対象に近づき自然主義的に描く、劇的なほどに感覚に訴える見せ方によって、カラヴァッジョの絵画は同時代人の視覚に極めて強い刺激を与えた。この若き画家は類稀な観察眼と、劇的な光のもとに置かれた対象を写実的に描く抜きん出た能力を持ち、絵画史に革新をもたらしたばかりでなく、様々な作品において五感の象徴性とつよく結びついたテーマを描いて、注文者を驚かせた。古典的な五感の図像そのものを表わす主題を用いることはなかったとはいえ、カラヴァッジョが知覚というテーマに関して非常に敏感であったことは明らかであり、そして認識論的な観点よりも感覚的な観点においてそうだった。一方、概してイタリア絵画では、五感のような寓意的含意を内包する絵画的主題をとりわけ好んでは扱ってこなかったことは、述べておく必要がある。”ということで、ここでは五感の隠喩があるとみなされる作品が列挙されているということです。ただし、ここで、それがカラヴァッジョの絵画において、どのような意味があるのか、価値をもたらしているのか、とか、どうしてカラヴァッジョはこのようなことをしたのか、は分かりません。

カラヴァツジョの「トカゲに噛まれる少年」(左上図)という作品です。作品解説の説明では、“「トカゲに噛まれる少年」は触覚を示唆すると考えられ、(中略)、トカゲに噛みつかれたことによる身体的な痛みの表現は、各別にドラマティックである。美しい顔はゆがめられ苦々しい表象となり、かみつかれた指先からもつれた髪の毛まで、画面全体が少年を狼狽させる激しい衝撃を伝える。劇的な光の使い方によって一瞬の動きが強調され、花瓶の中で光を反射させる水面ですら、この衝撃に巻き込まれている。その一方、乱れたシャツや耳の後ろの花は、おそらくエロティックな逢瀬が予定されていることを暗示し、淡い官能に浸った瞬間を台無しにする。予期せぬ出来事という着想をほのめかしている。これはほとんど「愛のドラマの暗喩」なのである。”ということです。一般的には、そういうことなのでしょう。ただ、私が、ここで、いつも展覧会や作品の感想を述べているのに際しては、私がそれらを見た際の、自分のストーリーを捏造して綴っているので、そのストーリーには、上記の説明はそぐわないので、勝手に独断と偏見のストーリーを綴ります。これは、史実とか解釈とかいったものとは別物なので、これを読んでいただいて方は、そのようなものとして繭に唾をつけつつ読んでいただければ幸いです。

前のコーナーのところで「女占い師」という作品について、この作品には背景が描かれていなくて、客観的に空間とか場面を構築するというよりは、二人の人物に焦点をあてて主観的にコミットするような画面になっていると述べました。そして、主観的に人物に焦点を当てるということは、映画のクローズアップのように人物に視点を寄せていくことになる、それによって、人物の表情が大きな役割を果たすことになります。「女占い師」では、その女占い師のあざといとも言える表情は、それ以前のルネサンスの画家の描いた作品の人物のような静謐で穏やかな表情とは全く異なるものとなっていた、ということです。そのような見方で、この「トカゲに噛まれる少年」を見てみると、トカゲに噛まれて痛さに顔を歪めるとか、驚くといった表情は、それ以前では絵画の様式として画面の中心で描かれるようなことはなかったと思います。カラヴァッジョはそこで、新たな表情に挑戦する必要があった。それは、主観的に観る者にコミットしてもらうような画面をつくるためには、喜怒哀楽のリアルさを観る者に感じさせ、感情移入させることが必要だからです。人間というものは、表情をコミュニケーションに活用しています。痛いときにそのような表情をすれば、他人は痛がっていることを理解してくれます。さらにいえば、痛そうな表情をしてさえいれば、たとえその原因であるはずの苦痛がなくても、他人は痛がっていると誤解してくれます。嘘をつくとは、そのようなことでしょう。カラヴァッジョの絵画では、そのような効果を観る者に生じさせることで、共感を喚起させるという性格があると思います。そのために、観る者を騙すことができる画面を作る必要があるというわけです。この「トカゲに噛まれる少年」という作品は、そのような位置づけで、カラヴァッジョが苦痛を観る者に想い起こさせる表情の表現をつくり上げていこうとした作品と、見ることもできるのではないか、むしろ、私は、そのように見ました。

この「トカゲに噛まれる少年」という作品は、キマっていないというのが率直な第一印象なのです。並べて展示されていた、カラヴァッジョスキの一人の「カニに指を挟まれる少年」(右上図)がカラヴァッジョに比べて下手なのですが、それなりに安定した印象を受けるのに、なぜと思うのです。それは、ひとつには痛そうな表情を描くというパターンをカラヴァッジョが試行錯誤しているさまが見て取れるということがあると思います。それと、もう一点、「カニに指を挟まれる少年」が安定している印象と述べましたが、それは、それほど心動かされる、つまり衝撃を受けることなく、作品を見ていることができるということでもあります。つまり、カニに挟まれて痛そうと感情移入させられることなく、その場面をニヤニヤしながら、突き放して見ていることができるのです。しかし、それでは観る者が感情移入していないわけです。そこにとどまっていれば、カラヴァッジョの作品にあるような観る者を引きずり込み共感させてしまうことにはなりません。そのためには、単に痛そうな表情を上手に写したというだけでは不十分なのです。カラヴァッジョの「トカゲに噛まれる少年」は、そのための試みをしているため、画面がチグハグなものになっていると思うのです。例えば、画面右手前のガラスの花瓶と、それにさしたバラの花は精緻にはっきりと描かれているのに対して、少年の描き方は大雑把で、描きこみ方が違います。そして、少年のポーズは大袈裟すぎるところがあり、顔と身体の位置とかねじり方が不自然な感じで、バランスが悪い印象です。例えば、手前の肩が張り出して顔を隠すようにしている首のねじり方などは、現実にはありえないのではないかというほど極端です。顔の描き方にしても、左右のバランスが取れていないで、この角度であれば右側はもっと小さくなるのではないかと思います。それは、カラヴァッジョという画家のデッサン力という技量が原因しているのかも知れませんが、それだけではなくて、敢えて意図的に描いているのではないかと思います。それは、造形的には歪んでいるのかもしれませんが、そのように描くことによって動きを生み出そうとしているのではないか、と思うからです。そういう形態をわざと歪ませて、描かれたものにダイナミックな動きを与えることについては、日本のマンガによく見られるデフォルメ手法です。参考に、大友克洋の「アキラ」の一場面(右下図)をみていただくと、ここでのバイクの前輪と後輪の関係が歪んでいるようですが、このことが却って、急発進で運転者にG(重圧)がかかってくることかせリアルに伝わってくるのです。同じように、表情というのは、実際には一瞬たりとも静止しているのではなく、絶えず動きます。だから、その一瞬を静止させ精緻に描いても、そこに迫真的なリアルを感じさせることは難しいのではないかと思います。それよりも、動いていることを観る者に想像させるようにする、そのためにカラヴァッジョは敢えて人物を歪んで描いているのではないかと思うのです。そしてさらに、左手前の花瓶とバラの花を静止したものとして精緻にはっきりと描くことで、静止した静物と動く人物の表情を対照的に描いているように思うのです。そのことで、人物の動いている感じが強調されて見えてくることになるわけです。

「トカゲに噛まれる少年」についての記述が長くなってしまいました。ここでは、これ以上展開しませんが、表情とは日本人の感覚にすれば陰影に繋がります。陰影、つまり光と影です。カラヴァッジョの大きな特徴とされている光と影の表現は、このようなことから出てきたのではないか。ひとつの試論です。おっと、結論を急ぎすぎました。このことについては、後で、別の、もっと光と影のドラマが感動的な作品についてのところで述べていきたいと思います。

カラヴァッジョの次の作品「ナルキッソス」(左下図)を見ていきましょう。この作品は以前に庭園美術館でのカラヴァッジョ展でも見ましたし、その感想を別のところで書きました。今回は、展示の中での作品の位置づけが異なるようなので、その用に見ていくと、印象が異なってくるかもしれません。

ギリシャ神話のなかのナルキッソスのエピソードは、オウィディウスの『変身物語』で詩的な表現を与えられ、ナルキッソスを題材として取り上げた画家たちは、『変身物語』の記述に基づいて描いています。カラヴァッジョも例外ではありません。ここで描かれている場面について、解説では次のような解釈が説明されています。“画家が主題に選んだのはこの物語で最もドラマチックな場面、すなわち、若い狩人が水面にうつった自分の姿に抗しがたいほど魅せられ、口づけと抱擁を交わすために水面に体を近づける場面ではないだろろうか。細心の注意を払って描かれた青年の唇は、一見して明らかなように虚像に口づけするため半開きのままわずかに前に突き出している。また左手が水に触れているのは、彼が虚像を抱き寄せようとしているからにほかならない。本作は長きにわたって、のどの渇きを癒すために身をかがめたナルキッソスが自分の虚像を見つけて恋に落ちた場面を表わしているとされてきたが、実際は水面に近づき虚像に口づけと抱擁を交わそうとする、よりいっそう込み入った場面で表わされているのである。カラヴァッジョはここでナルキッソスの物語をたんに「語る」のではなく、最も情熱的かつ官能的な瞬間、すなわち自分の虚像を我が物にしたいという欲望が絶頂に達した瞬間─これはまた絵画として表現するのが最も難しい瞬間でもある─を描くことで鑑賞者の感情に強く訴えようとしている。”こうなると、神話の牧歌的な挿話におさまりきらない、狂おしいほどのドラマがそこにあるということでしょうか。

私自身も、たしかに、以前の庭園美術館でのカラヴァッジョ展で「ナルキッソス」を見たときに、内面のドラマを感じて、そのことを感想として綴っていました。とは言っても、引用した説明は過剰ではないかと思います。以前の感想にも書きましたが、心理学などでつかうナルシシズムとか、鏡像段階による自己認識の概念を援用できるだのといったことを試みたくなるような画面が構成されていることはたしかではあると思います。他の多くの画家たちのような物語内容を暗示するモチーフ、例えば森の情景とか、ナルキッソスに恋焦がれるニンフのエコーや、猟師であるナルキッソスを象徴するような弓矢や猟犬、を描き入れることなく、泉に向かってかがんでいる青年の姿だけを捉え、その実像の姿と泉の水面に移った虚像を水面を境界として上下対称に、まるでトランプの絵札の図柄のように図案化させ、しかも、上下の像で着ている服についてはポジとネガのように光と影を逆にした色の使い方をして、実と虚の対称を明確に出したりと奇抜な構図で描かれているところはあります。それで、あれこれと尾鰭をつけて、語りたくなってしまうのでしょう。

前置きが長くなってしまいました。私としては、この「ナルキッソス」がそのような解釈が加わってくるということは、この作品自体に、解釈の余地を生じさせる一種の弱さがある証拠ではないかと思っています。とどのつまりは、作品自体としては、その評判に比肩するほどのものではないのではないか、と思います。カラヴァッジョの作品として見ると中途半端なのです。たしかに、構図は奇抜で、カラヴァッジョの作品の中でも、図案のような構図の作品は他になく異彩を放っていますが、それは、いつものパターンの構図で描くことができなかったからと考えることもできるのではないでしょうか。つまり、このような抽象的、ということは客観的に構図ではなくて、観る者をコミットさせて、しまいには共感とか感情移入させてしまうことが、この題材では構想できなかったのではないか。かといって、客観的な他人事のような作品にはしたくない、それでやむなく奇抜な構図をとることになったという具合です。

それは、構図だけでなくナルキッソスの表情が描ききれていないように見える点にもあります。いままで見てきた作品では表情が観る者を画面に引き込む重要な魅力のひとつでしたが、その表情が、この作品では、はっきりしません。また、画面の中のナルキッソスの姿勢は、かなり無理をしている姿勢ですが、その姿勢に動きが感じ取れないで、ポーズをとっているように見えてしまっています。だから、わたしには、この「ナルキッソス」は最初に見た風俗画などの人物を近い距離感で描くという画面から、後の宗教画などのような画面に見る人を引き込むような主観的な視線の構図への過渡期を示す作品なのではないか、思えるのです。

水面に映る虚像と実像の対照を図式的に扱い、虚と実を巧みに扱った作品であれば、葛飾北斎の富嶽三十六景から「甲州三坂水面」(右下図)という作品があります。河口湖に映る富士が水面を境界に線対称ではなく点対称の姿で、しかも実景は夏富士で、水面には冠雪した冬の姿が映っています。これは空間だけでなく、時間軸においても季節を対称させているという、対称をいくつも重ねた機知を働かせた構図を愉しむことができます。こうなってしまうと、実像と虚像の境目はどうでもよくなり、実像と虚像とが対称して、互いに関係しあうことによって相対的に存在しているかのように見えてきます。夢うつつなどといいますが、それぞれが独立しているとか、現実があって、夢がそこにぶら下がって存在しているなどというのではなく、それぞれがもたれあうように、しかも、両者の境界も曖昧で、というような深読みの解釈も現代では可能と言えます。この作品の場合、視点は客観的な体裁をとっていて、画者が描かれている世界に属していないから、このように突き放して世界を相対的に見ることが可能となるわけです。ここには、描く対象を突き放した距離感があります。

これに対して、カラヴァッジョの「ナルキッソス」は北斎の遠景を突き放して描いたのとは対照的に、ナルキッソスに視点を近接させて、つまり距離をおくことをしないで描いています。このため北斎のように構図の効果を最大限に活用して画面にユニークな世界を展開させることにはなっていません。つまり、せっかくの奇抜な構図を活かしきれていないと思います。むしろ、「ナルキッソス」の場合は、北斎のように遊戯的に構図を扱う意図はもっておらず、画面いっぱいに彼の姿を描いていることで、水面に映る姿を見入るナルキッソスに寄っていきたかったのではないかと、私は思います。そうであれば、水面に映る姿を実像と同じように描く必要が、どこにあったのかという疑問が残ります。私には、ナルキッソスが水面という鏡を通して自分の姿を見ている姿を描いているようにみえます。それは画家が自画像を描くことのシンボライズのようにも見えます。もし、この作品を90度回転させてみたら、水面を見る姿から立てたキャンバスに向かう姿のように見えてこないでしょうか。カラヴァッジョは作品の存在をしていたか分かりませんが、パルミジャニーノの「凸面鏡の自画像」というマニエリスム絵画の作品があります。これは画家が鏡に映っている自分を描いているという自画像ですが、いかにもマニエリスムらしい凝った趣向ですが、それを一般の人が見ても共感を呼ぶということにはならないでしょう。カラヴァッジョは北斎のような距離を置くことによる構図の遊びでもなく、パルミジャニーノの鏡面を主観的に見るという趣向の遊びでもなく、この両者の間で、観る者がコミットメントできるような描き方を探して試行錯誤して、この作品のような中途半端なものとなったのではないかと思います。カラヴァッジョの、この作品は水面を鏡に見立て、人か自分の姿を見る、自己認識するというプロセスに、作品を観る人々を巻き込もうとした作品、しかし、十分に目的を達成するに至らなかった作品として見ることができるのではないかと思います。 

 

V.静物  

このコーナーは静物ということになっていますが、カラヴァッジョがいわゆる静物画を描いたということないらしく、彼の作品のなかで、静物が人物などと同じように丁寧に描かれているということから、このように独立したコーナーが設定されたようです。最初、静物というコーナーがあるので、スペインのバロックのボデコンのような特徴的な静物画が描かれたのでは、と期待したのでしたが、それはなくちょっと落胆しました。

「果物籠を持つ少年」(左上図)という作品です。この作品も、以前の庭園美術館でのカラヴァッジョ展で観た作品です。以前の庭園美術館のカラヴァッジョ展のときには、入り口を入ってすぐ正面に展示されていたので、何年経っても強い印象が残っています。いわば、私にとってのファースト・インパクトの作品です。その最初の時に感じて、以後、カラヴァッジョの作品をみるにつけても拭うことができなかった、あるズレの感覚は、ここで、改めて感じました。それは、多分の私のカラヴァッジョの作品への個人的な感じ方なのでしょうが、それは、カラヴァッジョの作品が、キマッていないというか、収まるところにピタッと収まっていないという感じです。では、どのようなところがそうなのかと言えば、何か、この作品のあら捜しのようなことになりそうなのですが、反面では、そこにカラヴァッジョの特徴が表われて来ると思うので、述べていくことにします。その主要な点は、果物籠に盛られた果物と、それを持っている少年のバランスが不釣合いであるということです。

明らかに果物を描いているのと少年を描いている筆致が違うのです。この作品の主役は間違いなく果物籠で、果物の描き方は精緻といっていいほど丁寧で写実的です(以前に紹介したカラヴァッジョの同時代人の証言によれば、このように静物を人間と同等、またはそれ以上に重視して描くというとは、当時の絵画の世界では革命的だったことになるそうです)。これは、カラヴァッジョスキの作品として同時に展示されている、パンフィロ・ヌヴォローネの「果物籠」(右上図)にも共通していると思いますが、対象である果物籠をすぐ近くから写真で言えば接写するように間近に迫って、果皮の絶妙な頃亜や質感の表現にかなり気を遣って描いています。それは、ネルサンスの画家たちが聖母を描く時の聖母の柔らかな皮膚を着衣の布地の質感や肌触りと対照させて描いたのと同じような注意ではないかと思えるほどです。カラヴァッジョは作品の中で果物籠に光を当てて映え、果物の鮮やかな色彩を「彩色」により際立たせています。そして、ルネサンスの画家たちが布地の質感やきらびやかな色合いを彩色によって表現したのに対して、カラヴァッジョは果物の果皮の質感だけでなく、物体としての立体性を陰影を「彩色」し、そして実在感を汚れなどを「彩色」することで表わしているように見えます。そこで、カラヴァッジョは鈍い色、鮮やかでない汚い色を効果的に遣っています。これが、私には、ルネサンスには見られなかった、カラヴァッジョの、あるいはバロック絵画の特徴であるように見えます。おっと、ここでは、「果物籠を持つ少年」の釣り合いの悪さを述べていたのでした。このことは、後で触れます。このような果物籠に対して、少年の描かれ方は影が薄いのです。少年そのものが歪んでいるように見えます。首が太すぎるように見えますし、首の傾げ方は不自然なほどで、頭と胴体が別物のようです。顔の筆遣いが雑で、筆の跡が粗く残って、まるで皺のように見えて見苦しくなっています。顔についても左右の目のバランスもとれていない気もします。しかも、少年は全体として、果物に比べて鈍い色で目立たないように描かれているように見えます。

これをどう見るか。ちょっと、この展覧会のはじめのところに戻って考えみたいと思います。「女占い師」を見たときに、この「果物籠を持つ少年」と同じように背景が描かれていなくて、作品の画面に人物の居る空間が設定されていないことに思い至りました。そこには、神のように客観的に空間を構築するということから、個人が主観によって対象を限られたところで見るという、言ってみれば世界観の転換の萌芽があったのではなかったのでしょうか。その中で、ではそのような主観的な視点でつくられた画面の世界で、例えば人物などの個々の構成物はどのように描かれるのでしょうか。そのひとつとして、「トカゲに噛まれる少年」において、人が人を人格ある者としてみる場合、人間を間近にクローズアップさせてみて、そこに表情をみているということから、人の表情に重大な注意を払って、強調して描いているのを見ました。また、その表情をリアルにするために人間は静止しているのではなく動くもので、そのダイナミックさを描くために、敢えて形態を歪ませて描いてみせているのを指摘しました。

これについて、関連がないような突飛なことを持ち出すように見えるかもしれませんが、私には、このようなカラヴァッジョの画面のつくりが、現代のアニメーションに似ているところがあると思うのです。どのようなところが似ているのか、ということについて簡単に述べてみましょう。アニメーションの空間とは、背景と、その手前で動くキャラクターが別々に描かれています。アニメーションのつくり方をみれば背景とキャラクターを別々のセルに描き、それらを重ね合わせて、背景のセル画はそのままにキャラクターのセル画を動かして全体としては背景の前でキャラクターが動いているような画面を作っています。このように、アニメーションのでは背景とキャラクターは最終的には同じ画面に収められることになるので、一見すると同じ空間のよう見えることはありますが、もともと違う目的で、別の人が別々に作成したものなのです。ですから、背景とキャラクターのセル画がルネサンス絵画に見られるように正確な一点透視図法によって統一的に作成されるということはありえないのです。したがって、同じ画面にある背景とキャラクターの間に統一した連続性は存在していないのです。これが何を意味するかというと、アニメーションの画面というのは、それ自体で完結した空間を形作っていないということなのです。だから、アニメーションを見ている私たちは、客観的に完結した空間として、その画面を見ているわけではないのです。この場合、実は、背景とキャラクターの二枚重ねの二重構造を私たちが見ているということは、背景とキャラクターに連続性がないということで、画面を見ている私たちとの距離の置き方が背景とキャラクターとに対するものが異なってくることになります。その結果、キャラクターは見ている私たちと背景の間の中間的な位置になるということなのです。それは、背景とキャラクターとの間に連続性がないというのは、画面を見ている私たちとキャラクターとの間に連続性がないという点で同じなのです。あとに残るのは、単なる程度の違いで、私たちと背景のどっちがキャラクターに近いかという距離の差と言うことになります。それが見るものにとって、どのようなことになるのかというとキャラクターは画面と見ている私たちの境界にいるということになります。そこに、キャラクターが橋渡しとなって、画面にコミットするかのような見方をすることができる。つまりは、画面を通じての共感とか感情移入を促す効果が生まれるといっていいでしょう。

このようなことが、カラヴァッジョの「果物籠を持つ少年」においては、少年と果物籠の描かれ方の違いにも当てはまるのではないでしょうか。しかも、少年の描かれ方は、ちょうどアニメーションのキャラクターほどではないのですが動きがあるかのように、少なくとも見る者がそのように感じられるように描かれています。これと同じことは、「トカゲに噛まれる少年」で少年と右下の花瓶に差したバラの描き方が異なっていることにも当てはまると思います。

このことは、同じ会場に展示されていました「バッカス」(左下図)にも言えると思います。

続けて考えて行きましょう。このように画面に空間としての統一した連続性がない、空間を設定していない画面で人や物を描いていて、もともと二次元の平面である画面で、奥行きのある空間が想像できるように描かれていないとすると、画面が平面的になってしまうことになります。そのようなところで、画面に描かれている人物や物体を平面にしないで立体に見せるためにはどうすればいいのか。そのことを考えた時に、「果物籠を持つ少年」を見ると、少年や果物の彩色によって、立体性を持たせていることが分かります。つまり、奥行きのある空間に配置して、その立体の中にいるということで、奥行きのある立体であると示すやり方、これが遠近法によるものです。ただし、ここでは人物や物体そのものにも影をつけたりして立体であるように描かれてもいますが。これに対して、カラヴァッジョの作品では、人物そのものが自立した立体であることをまず描いている。同じように個々の物体が立体であるように、それぞれ描いているというわけです。つまり、画面全体を統一した秩序ある空間として、いわば画面に客観的に世界を構築するのではなくて、個々の人物や物がそれぞれに立体として存在しているという全体に対して個物を優先させるということです。それは、ある意味では客観である世界、つまりあるべき世界、ではなくて、個別の人、つまり個人が在る、つまりあるべきに対してあるということを描こうとしている、と言えるのではないでしょうか。バリオーネがカラヴァッジョに対して素描という形態を構築することを重視していないと批判しましたが、それは、アリストテレスが存在の本質を形相を一義として見ている伝統から素描という形態を描くことを重視していたことになるわけで、カラヴァッジョの描き方は、そういうアリストテレス以来の形相を本質としたあり方に対するアンチテーゼと言うこともできるかもしれません。その具体的なものが彩色という描き方です。

実際に、色によって人物や物の立体性を表わさなければならないとすると、影をつけていくことによって、つまり陰影によって立体性を表わすことになります。立体に光を当てれば、光が当たるところと当たらないところが生じ、それによって陰影がうまれます。立体であるからこそ陰影が生まれる。これを逆に遡れば、陰影が生じるから立体であるということになるわけです。したがって、影をつけるということが重大な意味を持ってくることになります。この影というのは光が当たらないところですから暗くなります。そこで主に遣われる色は、灰色や黒といった暗く、鈍い色です。だから、私には、カラヴァッジョの色遣いは、暗く鈍い色を中心に考えられていたのではないかと思えるのです。そこで考えられるのは、カラヴァッジョの出てきたローマで活躍した偉大な先人です。

何か、思わせぶりな言い方をしましたが、その先人とはミケランジェロではないかと思うのです。ミケランジェロとは、カラヴァッジョにもミケランジェロという名がつけられていますが、なにか関係があるのでしょうか、ルネサンスの彫刻家であり画家でもあった、あのミケランジェロです。ミケランジェロはローマのサン=ピエトロ聖堂に「最後の審判」(右下図)という大きな壁画を残しています。著名な作品なので、ご存知の方は多いと思いますが、裸の筋肉隆々の人々が画面に溢れんばかりの群像画の様相の作品です。この壁画は、実は、全体としてはノッペリして平面的な構成になっているのです。しかし、中央のキリストをはじめとして、その画面にいる人々の姿は、それぞれに存在感があって、それこそ画面から溢れんばかりです。その個々の人々は裸体で、みな筋肉隆々で強烈な存在感を放っています。その個々の人々の描き方を見ると、ミケランジェロは豊かな陰影を施しているのが分かります。その陰影を生み出すために、ミケランジェロは最初に黒色を彩色したと言います。つまり影から描いたらしいのです。その黒いところに光の当たる明るい色を重ねて塗っていくと、明るい色が際立つように目立って浮き上がるように見えます。それによって、立体性を強調したといいます。カラヴァッジョは、このことを知っていたのかどうかは分かりませんが、この先例に倣うようにして、描いたのではないか。だから、暗い色や鈍い色が、必要不可欠で、重要だったのではないかと思えるのです。

17世紀のジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリの『芸術家列伝』の中で、このようなカラヴァッジョの様式の変化を初めて指摘したということらしいのですが、その中で次のように述べられています。“肉体に立体感を与えるために黒を多用し、強烈な暗色に支配されている。そして、このような制作方法に深く没頭したため、彼はいかなる人物像も、太陽の照る戸外にはけっして出さなかった。そして逆に、閉め切った室内の暗闇の中で人物像を描くための手法を見つけ出した。つまり、照明を高い位置にとって、光が肉体の主要な部分に垂直に下りてくるようにするとともに、残りの部分は陰影の中に残すことで、激しい明暗によって絵に力強さを与えるという手法である。” ここで見ている「果物籠を持つ少年」も「バッカス」も黒っぽい暗い背景をバックに少年の白い肌が浮き上がるような色彩構成になっています。まさに、ここで説明されている通りとは言えないでしょうか。

そして、さらに考えていくと、カラヴァッジョの大きな特徴と言われている、光と影の強烈な対比的扱いによって生まれるドラマということも、このような暗い色調による影をベースに光の当たったところを際立たせるという色の遣い方から生まれたと言えるのではないでしょうか。また、ここでも先を急ぎすぎたようです。

ここで、少し脱線して道草をしようと思います。この暗い色調について、ルネサンスの画家たちが明るく、透明な色遣いをしていたという印象が強かったのに対して、バロックの画家たちは、一転して暗い色や鈍い色、汚い色を多用しだしたように、私には見えます。ルネサンスからバロックの転換は、ひとつには色遣いの大きな転換があったと、私には感じられました。バロックに当てはまるかは微妙ですがエル・グレコの聖母を描いた作品などは背景は真っ暗ですし、ムリーリョは汚れた乞食の少年を写実的に描いたり、ベラスケスは真っ黒な衣装を着ていますし、レンブラントは夜を描いた作品が有名です。ここには、空間構成を崩しても、個人を独立したものとして描いていくという転換があったことにより、個人を立体的に空間から独立して存在するものとして描くという課題に、それぞれの画家たちが出した答えが、このようなことだったのではないか。そして、カラヴァッジョも、そのような画家たちの一人であったと、私には思えるのです。

 

W.肖像

カラヴァッジョの「マッフェオ・バルベリーニの肖像」です。モデルの身体的特徴を理想化したり美化したりせず、ありのままの姿で描き出し、その真の姿と一致させるように描いたことで、肖像画におおきな変革をもたらしたと解説されていましたが、この作品を見る限り、例えば左右の目がアンバランスだったりと、下手な画家に見えてきます。同時に展示されていた他の画家たちの肖像画の方が、カラヴァッジョの作品より立派に、上手に見えました。

その理由として言えることは、肖像画の人物には動きがない、感情的な表情がない、画面に動きを入れることがひとつの特徴であるカラヴァッジョにとっては、自分の有利さを生かすことのできない分野だったように思えます。したがって、ここは、さっと通り過ぎました。

 

X.光

今回のカラヴァッジョ展は、「マクダラのマリア」などが話題となっていたようですが、私には、このコーナーで展示されていた「エマオの晩餐」が、一番印象に残りました。ルカ伝のなかで、復活したイエスが、エルサレム近郊のエマオという町に向かう二人の弟子の前に現れたものの、二人の弟子は師の復活に気づかなかった。そこで、イエスはエマオに泊まり一緒に食事の席に着いて、パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて渡すと、二人は気づいた。しかし、その時にはイエスの姿は見えなくなっていた。というエピソードの、まさにその食事の席を描いた作品です。

キリストは、今、パンを祝福し終え、二人の使途に手渡したところで、パンはテーブルに置かれています。福音書によれは、二人の使徒は、まさにこの時はじめて、この男がキリストであったこと、キリストが復活したことを知った。まさに、その瞬間です。手前、テーブルの両側にいる二人の使徒は、キリストに視線を向けてフリーズしてしまっているかのようです。福音書の中でもクライマックスの瞬間ではないでしょうか。というのも、この瞬間、同時に二人の使徒の前からキリストの姿は消えてしまうわけですから。それまで、とくに意識もしていなかった(視野に入ってこなかった)男が、キリストであると分かって視野に入ってきた。つまり、見えてなかったキリストが、ある瞬間に突然見えた(二人の使途にとっては出現したというに等しいでしょう)。それも束の間、見えたと思った途端に、キリストの姿は消えてしまった。そういう瞬間です。

これは、絵を見ている観者の立場では、このように冷静に述べることができますが、もし、この絵の中の人物、例えば、キリストを見た使徒の立場であったら、どうでしょうか。とても冷静ではいられないと思います。それまでの現実の男が師であるキリストだったと分かった、としても、それまで見慣れたキリストが分からなかった(死んだと思っていた)。どうして気づかなかったのか、気づかなかった現実の生活に対する疑いが生まれ。そう思った途端に、キリストの姿は消えてしまったわけですから、現実なのか、そうでないのか、ということにならないでしょうか。

例えば、全然、方向性は異なりますが、突然、目前に思いもよらぬものが出現した瞬間を描いた作品として、そのものズバリの題名の「出現」という近代フランス象徴主義のギュスターブ・モローの作品があります。幻想絵画に分類されるのでしょうが、サロメの前にヨハネの首が出現した瞬間を捉えたということです。この作品では、空中に出現したヨハネの首が光り輝いて神秘さと不気味さを際立たせています。そこで超常的な世界を作り出しているわけです。ここでは、出現した首自体が光り輝いています。舞台は古代世界ということもあって、現実のリアルさというより、全体として幻想的な世界になっている。そこで、絵を見る人は、現実ではない、幻想の世界として見ることになります。

近代の象徴主義者モローは、出現を神秘的瞬間として幻想空間で、いわば絵空事として具現化しました。しかし、カラヴァッジョは17世紀の未だ世俗化が進んでいない宗教が日常に確固として存在していた時代の人です。言ってみれば出現を絵空事ではなく、現実のものとして受け取ることができた。そうしなければならなかった、それが当然であったという時代で、そういうものとして具現化することをカラヴァッジョは目指した、それ以外になかったと言うべきかもしれません。そこで、カラヴァッジョの採ったいき方はモローのような絵空事の画面を精緻に作り上げることではなくて、現実的な画面の中に、非現実が紛れ込んでしまったかのような、現実にあるものが一瞬にして非現実に転じてしまうような画面であったと思います。それは小道具、例えば真ん中手前の宿屋のテーブルや卓上の食器やパンは写実的に描かれて、目の前に実在しているかのように迫真のリアルさで描かれています。しかし、背景は暗闇になっていて、本来であれば宿屋の壁や家具が描写されるべきところは闇に紛れるように省略されてしまっています。例えばルネサンスの古典的な作品であれば、宿屋という空間や小道具がすべて明確に描かれていたでしょう。少なくとも暗闇に紛れてしまうことなく、あくまでも明澄で確固とした形態が描写され、現実の明確さが観る者に確信されるものであったと思います。このようにすべてが明確にみえてくるということは、すべてに遍く光が当てられ、すべてを見渡すことができるようになっているわけです。しかし、この作品では、背景が暗闇に紛れてしまい、どのような空間であるかが、まず分からなくなっています。つまり、宿屋ではあると思いますが、そのことは画面を見る限りでは保証されていません。暗闇があるということは、遍く光が当てられているわけではなく、光は偏在しているのです。画面左上から光が差し込んできていますが、この差し込む光によって、背後の闇から、人物や宿屋の小道具であるテーブルや食器、パンなどが照らし出されている、と言うわけです。ということは、もともと闇であったところに光が差すことによって、人物や小道具の存在が、浮かび上がってきたわけです。ここでは、しかも、はじめてキリストの存在が二人の使途に認識されたわけで、差し込む光に浮かび上がるキリストの姿は、闇に照らし出されて初めて存在が表れるというドラマでもあるわけです。ここで、写実的に描かれて小道具類と非現実のような闇との間に境界はありません。むしろ、闇の中から小道具が浮かび上がってくるように、現実の中に非現実が侵入している、あるいはその逆が画面の中でできているというわけです。だから、作品を観る者が、自分の日常に変わらないような、日常生活と連続しているようなところと、奇蹟が起こるような日現実が境目なく、画面にあるのです。

そこで、作品を観る者は、自分の活きている世界と連続しているようなところで、画面にコミットしていながら、キリストの出現のような奇蹟に迫真をもって接することが可能になるわけです。それを可能にしているは、暗闇が画面を支配しているのと、そこに光がさして、存在が表われてくる、というこの作品の画面のつくりによるものであると思います。

カラヴァッジョの特徴として、例えば、次のような評があるのは、具体的には、今言ったように現われているのではないかと思います。“カラヴァッジョの作品が我々に与える衝撃の一つ、それは何よりも、光と闇の強烈なまでの対照に違いない。スポットライトの光が交錯する劇場の舞台さながら、カラヴァッジョが描く場面は、闇を貫く強烈な光によって、我々の前に開示される。光は、すべてをくまなく照らし出すのではなく、むしろ対象をはじめて存在させるべく、闇の深淵から呼び起こす。光の強烈さゆえに、対象は、輪郭は明確に浮彫にするというよりは、むしろその皮膚、その表面を、剥き出しに露呈して我々に迫ってくる。”

実は、この「エマオの晩餐」という作品。カラヴァッジョはこの作品の5年前に同じタイトルで描いています。現在は、ロンドン・ナショナル・ギャラリーにあるそうですが、そっちの方が有名らしいです。上で説明した光と影のドラマチックな対比は、このロンドン版の方が特徴的なので、むしろ展示されている作品よりも、ロンドン版の方が有名らしいです。同じタイトルの二つの作品を比べてみると、展示作品の特徴が、よりはっきりすると思います。例えば、ロンドン版に比べて人物たちはもはや画面を突き破るばかりの動きを抑え、というよりも、ロンドン版は演劇的と言えるほど、多少わざとらしく見えるほどオーバーなポーズをとっています。これに対して、展示されているものでは、人物のポーズは自然で、動きが少なく、内向的に見えます。ロンドン版ではキリスト出現に驚くというのであったのに対して、展示作品では人物たちは静かにキリストの声に耳を傾けているようにも見えます。だからこそ、内向的というのか、単に出現に驚くというのではなく、宗教的な奇蹟にあうという神秘性がある雰囲気を醸し出していると言えます。それ以外で大きな相違点は、ロンドン版と同じモデルが歳をとったような宿の主人の位置がキリストの左に移ったことと、ロンドン版にはいなかった老婆がその傍らに登場したことです。この老婆は、身振りが少なくなったため、空間に占める人物の比重が小さくなり、その結果、画面に空白が生じて挿入された考えることもできます。というより、キリストを覗き込み、じっと耳を傾ける給仕の男女は、キリストのヴィジョンを見ているのではないかと思われます。彼らはうらびれた食堂の主人とその母であり、質素な食事を運んだ時に、突如キリストと使徒たちが彼らの前に顕現した。ロンドンの作品では、キリスト以外の人物や事物が強い現実味を帯び、観る者のいる空間と時間を共有していて、つまり現実とヴィジョンとが混淆していたのに対し、ここでは給仕の二人のみが作品を観る者と同じ現在におり、彼らとともに観者はキリストと使徒の晩餐のヴィジョンを見ることになります。つまり、キリストの出現を二人の使途が見ています。これを宿屋の二人の男女がその模様を見ている、ただし、宿屋の二人もキリストが見えていたとすれば、使途と同じ対置にも立っています。そして、この画面を作品として鑑賞者が見ている、ただし、宿屋の二人とも同じ位置にも立っているというわけです。つまり、空間のヴィジョンの次元が重層的に重なって画面にあって、それぞれの次元で、二重の位置関係でヴィジョンを見ている者が、それぞれの次元で順繰りにいるわけです。それらの次元の越境がひいては、観る者の画面へのコミットを画面事態が促しているともいえます。また、二人の使途がキリストを見る、見えなくなるという二重性を脇で見ている宿屋の人物を配することで、客観性がでたと思います。それが次元の越境が順繰りに起こることで、見える−見えないがダイナミックに重層化することになりました。それが、この場面の一発の衝撃は弱めているものの、何度も同じ場面を見ても、刺激が減退しないで維持できている理由であると思います。

このようなカラヴァッジョの劇的な光と影の扱いという特長について、“世界を覆う暗闇は絵画の世界における行為、仕草、精神状態、表情を増幅し、その結果として描かれた場面に活力を与え、物語における「時と場所」を確固としたものにする。カラヴァッジョの光は、現代の写真技術において「斜光」や「サイド光」と呼ばれる照明方法に対応する。順光と逆光の中間、撮影方向に対して0度から90度の間の角度に光源を設定する方法である。この照明方法は効果的に陰影を作り出し、彫刻のような造形的な明確さで対象を表現することが可能になる。写真という平面上に立体感を表現するのに効果的な光の扱いである。画布もまた平面であり、その平面上に三次元的存在感を生み出すカラヴァッジョの絵画は、幾世紀も後になって開発される写真技術を先取りしていると言える。”と説明されています。この画家を再発見したロンギは、これを特定の角度と効果をもった「個別的な光」を創出した、といいます。これは、画家の出身地であるロンバルディア地方の当時の絵画の傾向から、次のように説明しています。“遍在する光のもと、対象を輪郭線素描において限界づけ、捉え、その形を確定するトスカーナ芸術。それに対してヴェネツィア芸術は、色面の並置として対象を捉え、輪郭線よりも彩色の統一を重視し、半音階的に濃淡をつけてぼかしながら対象の質を模倣する。これらルネサンス以来の主要な芸術的潮流に対して、ロンバルディア美術は別の道へと向かった。そこでは光はもはや遍在することはない。むしろ、闇を照らす光の一瞬の通過によってはじめて物の存在は浮かび上がると同時に、表面をかすめ遮る影の投射によって、劇的な存在感が対象に醸し出される。光の充満する面は、存在の表層、皮膚を、生々しいまでに露呈し、色彩さえも、対象に含まれる光の量や価値に依存する。ロンギのいう「ルミニスム」の芸術である。場面がたとえ遠近法的に構築されていようとも、この光と闇の弁証法にかかるや、鑑賞者と絵画の距離は消失し、絵画内世界は直接的に我々の眼前に開示される。ルネサンス的遠近法が前提とする視覚の円錐形の「断面」、開かれた「窓」、あるいは「鏡」としての絵画、そうした境界面は稀薄となり、観賞者と絵画空間との敷居はいわば解消へと向かう。一つの定点に固定された観賞者の「眼」と絵画面との距離はもはや数学的に確定されず、むしろ光と闇の戯れのなか、観賞者は画中空間へと埋没する。虚構と現実を無媒介的つなぐこうした手法こそは、カラヴァッジョの強烈な光と闇が照らし出す場面へと結実するものである。”たしかに美術史としてはそうなのでしょうが、わたし的には、少しくどくなるかもしれませんが、画面に空間としての統一した連続性がない、空間を設定していない画面で人や物を描いていて、もともと二次元の平面である画面で、奥行きのある空間が想像できるように描かれていないとすると、画面が平面的になってしまうことになります。そのようなところで、画面に描かれている人物や物体を平面にしないで立体に見せるためにはどうすればいいのか。これに対して、人物そのものが自立した立体であることをまず描いている。同じように個々の物体が立体であるように、それぞれ描くということをしています。つまり、画面全体を統一した秩序ある空間として、いわば画面に客観的に世界を構築するのではなくて、個々の人物や物がそれぞれに立体として存在しているという全体に対して個物を優先させるということです。その人物や物を立体的にするためにカラヴァッジョは彩色を活用します。色によって人物や物の立体性を表わさなければならないとすると、影をつけていくことによって、つまり陰影によって立体性を表わすことになります。立体に光を当てれば、光が当たるところと当たらないところが生じ、それによって陰影がうまれます。立体であるからこそ陰影が生まれる。これを逆に遡れば、陰影が生じるから立体であるということになるわけです。この場合、さらに、陰影が効果的に活用されるためには影を基調とすれば、光が当たったところが映える、つまり、際立つことになります。これによって、陰影が深くなり、人物の物の立体感や奥行きが強調されることになるわけです。これが、カラヴァッジョの作品の光と影を対比について、私の読みのストーリーです。しかし、これだけならカラヴァッジョニスタたちも同じです。

カラヴァッジョとカラヴァッジョニスタたちの光と影の違いは何か。カラヴァッジョニスタたちの作品、例えば、バルトロメオ・マンフレーディの「キリストの捕縛」(右中図)という作品を試しに見てみましょう。夜の暗い空間で限られた光の中で、人物たちが見えています。夜の闇から光があたって人々が浮かび上がっているという図です。この場合の光で特定されているというよりは、光が弱くて届かない、昼の陽光と違ってすべてに行き渡っていない状態です。ロンギの言う「個別的な光」ではないのです。意図的に暗闇が作られているわけではなく、そこに特に意味があるわけではありません。これと比べて、カラヴァッジョの「エマオの晩餐」に戻ると、暗闇に理由はないのです。だから、画家がわざと暗くしていると思えます。ではカラヴァッジョはなぜ敢えて暗闇をつくったかというと、その暗闇が観る者の想像力を喚起する効果を生んでいると言えます。マンフレーディの方は、夜の闇という当たり前なので、とくに想像力を掻き立てるものとなってはいません。これは、オラツィオ・ジェンティレスキの「スピネットを弾く聖サエキリア」(右下図)でも、ラトゥールの「煙草を吸う男」なども優れた作品ではあるのですが、暗闇に、それなりの理由があって、敢えて暗闇にして、観る者の想像力を喚起するものではないのです。その想像力の差が作品の画面の深さを感じさせるものとなっているのではないかと思うのです。

 

Y.斬首  

カラヴァッジョの「メデューサ」が展示されています。他に、カラヴァッジョニスタの画家たちが旧約聖書の物語のゴリアテの首をもったダビデの姿を描いた作品が展示されていました。美術史なんかでは意味があるのでしょうが、私としては、あまり作品として面白くありませんでした。カラヴァッジョの「メデューサ」でも眺めて、さっと通り過ぎました。

 

Z.聖母と聖人のための新たな図像

  

今回のカラヴァッジョ展で大きな話題となっている「法悦のマクダラのマリア」(左上図)です。この作品は、以前に庭園美術館のカラヴァッジョ展においてもカラヴァッジョに帰属として展示されていたと覚えています。その時の感想はこちらに残しています。これから述べていくことは、そこで書かれていることと重複する内容となるかもしれませんが、同じ人が、同じ作品に対して、根本的な趣向性の転換でもない限り、違った印象を抱くことはないと思いますので、ある程度はお許しいただきたいと思います。ただし、全く同じであれば、ここで書く必要もないと思いますので、多少の変化はあると思います。

今回は、同じ題材を他の画家が手がけた作品が並んで展示されていたのと、比べて見たことにより、カラヴァッジョの作品の特徴が改めて見えてきましたので、その点を中心に述べていきたいと思います。ジョヴァンニ・フランチェスコ・グエリエーリの「悔悛のマグダラのマリア」(右上図)と見比べてみましょう。カラヴァッジョの特徴として光と影のドラマということを散々述べてきましたが、光と影の対比が映えているという点で見れば、カラヴァッジョの「法悦のマクダラのマリア」よりも、むしろこちらのグエリエーリの「悔悛のマグダラのマリア」の方が目立ちます。画面左下から、つまり、俯くマグダラのマリアに向けて正面から光が当てられ、暗闇の中で、マリアの顔を中心とした正面が光り輝く、と描かれています。神々しさでは、カラヴァッジョの作品より、こちらの作品の方が印象が強いと思います。マリアの描き方についても、艶やか肌に豊かな金髪が流れるようで、そこに光が当たり光っています。顔の彫りは深く、ギリシャ彫刻の女神像のようです。そして、腕を交差して祈るように俯いているさまは、天使か聖人といった輝かさがあります。作者のグエリエーリはカラヴァッジョの手法を活用して輝かしい効果を生んでいると言えると思います。

これに比べてカラヴァッジョの「法悦のマクダラのマリア」はどうでしょうか。グエリエーリと同じように光と影の効果が使われていて、暗闇の中でマリアの姿が浮かび上がっています。しかし、グエリエーリの作品にあるような輝かしさは、ここにありません。マリアの姿は闇の中から浮かび上がる程度で、光り輝いてはいません。いやむしろ、髪の毛などは闇にとけ込んで見えなくなってしまっているかのようです。それは、闇にとり込まれてしまいそうな雰囲気すら漂っています。それはまた、マリアの顔に精気が見えず、顔から首そして胸元まで露出している肌が土気色で、死体と区別できません。顔を見れば白目を剥いて、口は半開きになって締りがありません。そのマリアに対して、下の顎の方から見上げるように光が当てられ、下顎などの顔の下半分ははっきり見えますが、表情のポイントとなる目やその周辺がある上半分は影になって(暗闇に紛れて)しまっています。それだけに、明確に表情が読み取れず、しかも、半開きの口が目立ち、呆けているのか、意識がないのか、という感じがします。この画面にいる女性は、聖人には見えません。少なくとも、グエリエーリの作品を見れば、とくに説明されるまでもなく、マグダラのマリアとは気がつかなくても、聖なる人であることは、すぐに分かります。これに対して、カラヴァッジョの作品では、黙って見せられれば、到底、宗教画には見えません。このように、私が書き進めているのを読まれている方は、カラヴァッジョとグエリエーリを比べて、カラヴァッジョよりは、グエリエーリを称揚しているように思われるでしょう。

それについては、カラヴァッジョは、敢えてマグダラのマリアを、このように描いたはずで、グエリエーリのように描くこともできたのに、意識的にそうはせず、この作品を描いたのでしょう。そのことを考えてみたいと思います。その理由のひとつは、マグダラのマリアがもともと娼婦であったということから、リアルな描き方を追求しているカラヴァッジョとしては、リアルな娼婦を描く必要があったという考え方です。しかし、それはマリアの服装とか装身具とか小道具で表現することが可能です。顔色に精気がないのはリアルな娼婦を描くこととは一致しません。同時に展示されていた、アルミテジア・ジェンティレスキの「悔悛のマクダラのマリア」(左下図)は、意識をなくしているように横たわった姿で描かれていますが、こちらは官能的であるほど艶々した肌で描かれています。しかし、カラヴァッジョはそうしません。むしろ、マグダラのマリアを題材とした作品が他にも多く描かれている中で、カラヴァッジョの描く作品は異彩を放っていると言えると思います。それは、どうしてなのか。私、個人の偏見による見解ですが、そもそもマグダラのマリアという題材は、イエスの死と復活を見届ける証人であったとともに、ローマ・カトリック教会では「悔悛した罪の女」として位置付けられたものです。福音書の記述では、七つの悪霊をイエスに追い出していただき、磔にされたイエスを遠くから見守り、その埋葬を見届けたこと、復活したイエスに最初に立ち会い、復活の訪れを使徒たちに告げ知らされるために遣わされた。そのため、イエスの受難や復活を扱った絵画ではイエスのもとに描かれます。そしてまた、ローマ・カトリック教会では、彼女は金持ちの出身で、その美貌と富ゆえに快楽に溺れ、後にイエスに会い、悔悛したという。「悔悛した罪の女」ということから娼婦であったと解釈されているケースもあるといいます。カラヴァッジョは、その娼婦が悔悛したという点に注目して、これを突き詰めたのではないでしょうか。つまり、この作品の中にいるのは娼婦という罪深い人間です。いくら悔悛したと言っても、外見が変わってしまうわけではありません。マグダラのマリアが悔悛したのは、本人の問題で、それを傍から見ても、本人ではないので、娼婦以外の何ものでもありません。それをまず、キッチリ描いた。しかし、娼婦でずっといたのを、簡単に悔悛できるものではないでしょう。それは、今までの自分の行き方を否定することでもあるはずです。普通に過ごしていれば、そのようなことは考えもしないし、やらない。だから尋常ではないのです。それこそ、生まれ変わるようなことではないかと思います。悔悛などと言葉にするのは簡単ですが、これまでの自分を否定するということは、以前の自分を殺してしまうことと同じで、これまでの自分の死とそこから生まれ変わる、つまり再生ということ。これは、イエスがいちど、磔になって死んだあと、復活することとパラレルと見ることもできるのではないか。カラヴァッジョはピエタの画面を視野に入れながら、マグダラのマリアの画面を考えたのではないかと思うのです。そして、マリアの呆けたような顔の表情を法悦として、ここに生死の境目にいる脱自的な状態、ある意味では仮死状態のようなものです、で描いている。つまり、悔悛し、まさにマグダラのマリアが法悦状態にあって、今までの自分が死んで、新たに再生しようしている瞬間を、一人の娼婦の現実の姿として描いたのではないか、と思うのです。それは、作品を見る人にとっては、現実のこととして迫ってこられることになります。敏感な人であれば、のうのうと作品を眺めている自身に対して、マグダラのマリアですら、このようなのだから、「オマエの信仰はどうなのだ」と真摯な問いを突きつけられる、そのような衝撃を秘めた作品になっているのではないでしょうか。そこに、輝かしさといったものは必要ないと思います。むしろ邪魔になるのではないかと思います。

これは、私の独断と偏見による見方なので、そのように受け取っていただきたいと思います。この展覧会では、私にとっては核心部は、この前の段階で、「果物籠を持つ少年」と「エマオの晩餐」が白眉で、これらを見ただけで満足でした。後の作品は、「法悦のマグダラのマリア」も含めてオマケというほど、私にとって格差は明白で圧倒的でした。

 
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