カラヴァッジョ 光と影の巨匠
─バロック絵画の先駆者たち─展
 

   

2001年11月1日 東京都庭園美術館

会社の創立記念日。普通は休日ではない休日。混雑が噂されているこの展覧会も比較的見易いだろうと、早起きして開館前に並んだ。庭園美術館は公園の中に建てられていて入場券売り場は公園入口にあるので、公園の玄関には開園前に数人の人が並んでいた。

カラヴァッジョについては、波乱万丈の生涯が映画にもなったし、日本にも書籍も多い。所謂、西洋美術史のビッグネームのひとつなので、今さら、どういう人と説明する必要もない。バロック期を代表する画家で、彼の開拓した手法は後の世代へ大きな影響を与え、そういう人々はカラヴァッジェスキと呼ばれる。今回の展覧会では、その人たちの作品も展示されていた。しかし、自分で絵を描くわけでもなく、西洋絵画についての教養も持ち合わせていない私には、中世の宗教画の様式性の強い絵画がルネサンスによって写実的な絵画に変わって、ダ・ヴィンチやラファエルロといった巨匠が輩出した、いわゆる泰西名画というやつです。それから数世紀、バロックだのロココだのクラシックだの美術史では区切りがされていますが、私には、その違いがよく分かりません。みんな同じに見えてしまうのです。美術史の本やガイドブックの類を読んでみても、それらしいことが書かれていますが、そもそも、どこが違うのか、どうして、さほど違いが感じられないものを区別する必要がどこにあるのか、私にはまったく理解できません。何せ、さっきのダ・ヴィンチとラファエルロというピックネームだって、どっちの作品だと教えられなければ、ある作品がどちらかが描いたものだと聞かれても、どっちと答えられないでしょう。印象派を境にして絵画そのものが大きく変化するので、印象派の前と後の作品は区別できますが、その程度の美術を見る目とか持っていません。

では、ちょっとお勉強から「通常カラヴァッジョというと、ルネサンス期の華麗だが伝統的な手法から離れ、自然と生活の単純な模倣を導入しながら、その自然を完璧な方法で浮き上がらせるために、明と暗、光と影を画面に強く印象づける画法を駆使した画家。」という説明があります。ルネサンスが伝統的かいえば、それ以前の中世のイコンのような図案に近いものから、取敢えず現代の私が見ても生身の人間のようだ、あるいは写真のようだ、と思えるような絵画に大きく転換させた、それを完成の域に達し洗練させたのはダ・ヴィンチたちで、カラヴァッジョはその僅か1世紀後に生まれ、当時は美術史いえば、ルネサンスからマニエリスムやバロックに移り始めていたはずで、果たしてルネサンスを伝統的と言えるかどうか、後の世の現代から見えると図式的にそのように見えるけれど。それはいいとして、中世の絵画が図案のようだと書きましたが、書かれたのは教会の壁画などでキリストの事績など書かれることは決まっていて、キリストもどう描くかというパターンができて、たとえモデルを使っても、個人をそのまま書き写すことはなかったでしょう。これに対して、ルネサンスは君主や聖職者の肖像画が書かれるようになり、宗教画もパターン化された画像ではなくて、キリストなども生身の人間に近い書かれ方に変わりました。といっても、中世が払拭されたわけではなく、キリスト一個の人間ではなく、神様のようなものですから、普遍性が求められます。どこかの誰かににているキリストでは格好がつかないわけです。そういう人物の描き方が理想化された人物像というわけです。だから、キリストは庶民の大工の家に生まれたといっても、生活に疲れ薄汚れた貧しい青年とは描かれなかった。キリストの弟子たちや聖者と言われる人たちもそうです。

それをカラヴァッジョは、貧しい青年なら実際にそういう人をモデルにして、当時としては、その人にそっくりに描き、それをキリストや聖者としたといいます。しかし、それだけでは、キリストが近所のガキと同じです。そこで、画面では彼に光り輝くようなスポットライトを浴びせた。劇場のステージで小柄な俳優が、まるで劇場全体を支配するような圧倒的な存在感を示すことがありますが、そこでは照明効果で、その俳優にスポットライトを当てたり、下から光をあてて上に伸びあがるような錯覚を見る者に与えるなどの視覚効果を駆使していました。それを絵画の画面で行ったというわけです。一般にキアスクーロと言われる手法です。そうなると、絵画の画面がまるで劇場のようになるのです。それを見る人は劇的と称しました。それがまあ、上で引用した解説の、私なりの捉え方です。

例えば『エマオの晩餐』(右図)という作品では、キリストが磔にされた後、復活を遂げて弟子の前に現われた事績を描いていますが。中央でテーブルに着いている若者がキリストであるということは、言われなければ分らないでしょう。しかし、宿屋の室内ということか、全体に暗い空間の中で向かって左から光が差して、それに浮かび上がる顔とその表情や、周囲の人々のポーズが劇の一場面を切り取ったような迫真さが、いままで書いてきた特徴と言えます。

今回は、彼の作品の中でも中規模の作品が展示されていて、それらを見て行きたいと思います。

 

■『果物かごを持つ少年』

美術館の玄関に入り受付をぬけて、ロビーに入った正面に「果物かごを持つ少年」は展示されていました。入って正面の一番目立つところです。展覧会のポスターにも載せられていましたので、この展覧会の目玉なのでしょう。光り輝くような印象を与える作品と言えます。しかし、この作品の中で、光り輝くほど描きこまれ燦然としているのはかごに入った果物で、その華やかな色彩と、生々しい描写に加えて、キアスクーロの手法で光が当てられているので尚更です。一方、かごを持つ少年は影が薄いんです。少年の肩脱ぎになって露わにされた肌は赤みがかかった肌色ですごく目立っています。しかし、存在感が薄い。少年の肌の色は目立つのですが瑞々しさとかそういうものではなく、色彩自体の派手さで目立つという感じです。参考として、バロック初期のパミジャニーノの「凸面鏡の自画像」(左図)とバロック後期のムリーリョの「乞食の少年」(右図)を比べてみてください。ムリーリョの作品は、色彩は派手ではないのですが、少年の肌の柔らかさ、それゆえの傷つきやすさのようなものが、そのポーズや乞食という境遇のリアルな描写とあいまって印象深く迫ってきます。その肌のリアリティはくすんだような色調にも拘らずです。一方、「凸面鏡の自画像」は凸面鏡に映し出されたという技巧的な体裁の作品ですが、そこに映し出された少年の顔の美しさは、ちょうど子供と大人の境界線の微妙な時期の特権的なものです。これは、すぐに崩れてしまうような、はかなさが凸面鏡のよる画面全体の歪みが、その後を予感するような不吉さとなってあらわれ、それと対比に少年の顔の美しさが強く印象に残ります。

これらの作品に比べて並べてみると、カラヴァッジョ の少年は、果物と一緒に描かれ、果物に負けてしまっている。そもそも、そういう作品なのか、と思っても光の当て方がそうではありません。もし最初から果物中心の絵画にするのなら、光は果物だけに当てて少年は影の中に入れてしまえばいいのです。しかし、それをやっていない。少年の肌の色は目立つのです。しかし、少年と描写と色彩は噛み合っていないし、少年の顔は美少年という顔ではない。モデルを写生してそのままなのかというと、顔と首、として身体のバランスが合っていないように見える。首の傾げ方不自然で、顔の筆遣いが雑で、筆の後が粗くのこって、まるで皺のように見えて見苦しくなっている。左右の目のバランスもとれていない気もする。要するに、画家が手を抜いたか、他の人に書かせたとしか思えないのです。肩を露わにしたポーズは女性が取ればエロチックなものになるはずが、少年でも同じような効果が期待できてもよさそうなのですが、描写がぞんざいというのか、力がはいっていないようなので、影が薄くなってしまっている。他にも、カラヴァッジョには少年を題材にした作品がありますが、どれもパッとしないのです。(これは、私の主観的な印象です。例えば「メランゴロをむく少年」(右下図))

カラヴァッジョという画家は少年とか女性の細やかな描写には向いていないかもしれないと思いました。先ほどのパルミジャニーノの作品と比べるとはっきりするのですが、パルミジャニーノの作品は、光と影の使い方が繊細で細かな陰影を細密に描いています。これに対してカラヴァッジョの場合は光と影の対照が強烈で劇的な効果を生み出しますが、光と影か対立するように扱われてパルミジャニーノのようなグラデーションが細かく描き込まれていません。両者の光と影の違いは、例えばテレビと映画の画面の違いと考えてもいいのではないかと思います。テレビの画面は小さくクローズアップを多用するため、人の表情の動きを捉え、出演する俳優も顔の表情を中心に演技を組み立てます。これに対して、映画の場合は大画面で、風景全体を映すロングショットも可能で、俳優は広い空間を動き回ります。映画はその動きを捉えて映画の画面に運動を与えます。クローズアップは行われますがテレビに比べると少ない。そのため、俳優の演技は顔の表情という動きの少ないものではなくて、俳優自身の身体の動き、あるいは複数の俳優の動きのアンサンブルが中心になります。

この喩えでいえば、カラヴァッジョの作品は映画的と言ってもいいと思います。少年の顔とか繊細な描写というのは、このような場合、かえって邪魔です。後の宗教的な大作では、画面の人物たちは表情というよりも身体全体のポーズや位置関係で一瞬のドラマを作っていました。そういう身体の動きを見てもらうには表情は邪魔になります。そういう意味で、この作品はカラヴァッジョ の得手不得手という特徴がよく出ている作品と言えると思います。

だからと言って、カラヴァッジョ は細かな描写が苦手というわけではなく、後の作品でも小道具が効果的に使われていたのは、この作品で言えば果物の細部まで完璧に描き込まれているのが、その証拠です。 


■『ナルキツソス』 

私は、どちらかというと近現代の絵画の展覧会をよく見に行きます。機会があれば、つとめて行きたいと思っているのが抽象画の展覧会です。それが、今回は近世のバロック絵画、カラヴァッジョというのですから。勝手が違います。私は美術史家でもないし、そういうことを考えているわけではありませんが、絵画の概念が当時と今では違うし。画家のあり方とか、画家が絵画を描く目的とか動機といったものが異なっているはずなので、近現代の作品と同列に扱うのは、そもそもおかしいと思います。例えば、カラヴァッジョは芸術家ではなかったはずで、作品の芸術的価値といったことは議論してもしょうがないでしょう。というような堅苦しいことは、私は単なる素人で作品を眺めて、ああでもない、こうでもないと考えてみることが好きな人間なので、私の個人的で主観的な好み、好き嫌いで作品を見て、その感想をここで語っているわけです。とくに、私は、作品を商品として見てしまうので、そういう見方がカラヴァッジョのような近世の画家の作品に適当かどうかは、なんとも言えません。ただし、そういうことの本質的な違いは、私も認識しながら、ここで感想を書いていきたいと思います。

この絵は、ギリシャ神話、あるいはそれをベースにしたオヴィディウスの「変身物語」にあるナルキッソスとエコーの物語を取り上げたもの。美少年ナルキッソスは、その美しさゆえに見る者すべてを魅了したが誰にも心を許さなかった。ニンフのエコーは、ゼウスの浮気を助けた罰として女神ユノーに罰を受け、話しかけられたときに相手の最後の言葉を繰り返すこと以外には口がきけなくなってしまう。そんなエコーが恋したのがナルキッソスだったが、自分から話しかけることが罰によりではず、恋は成就せず、エコーは失意のうちに衰弱し、森の中で声だけの存在になってしまう。それが木霊。それを見ていた復讐の女神ネメシスはナルキッソスに罰を与える。これによって泉で水を飲もうとして、水面に映った自分の姿に甲をしてしまう。答えぬ水鏡に映った自分の姿を抱こうとして泉に落ちて溺れ死んでしまう。

後にフロイト等によって、ナルキッソスの水面に映った自分の姿に恋するところを自己愛とか、自己陶酔といった意味合いのナルシシズムという症例として理論化されていきます。しかし、カラヴァッジョ の時代はそのような精神分析などというものはなく、そういう近代的な神経症というよりも神話の有名なエピソードとして取り上げたのだと思います。疑問なのは、この時代の画家は注文によって絵画を制作するのですが、誰がどのような事情で注文したのか、おそらく有力な聖職者か裕福な市民がギリシャ神話の話を部屋に飾るために工房に注文したのでしょう。

それにしても、この作品は、そういう注文には似つかわしくない、さっき余計なことを書きましたが、後の精神分析のナルシシズムということの説明にピッタリとくるような画面になっています。そこで、どうしても現代の視点での解釈を施したい誘惑に駆られてしまうのです。カラヴァッジョ が死後忘れられていたのが20世紀に再発見され、急速に人気作家となったのは、そういう要素が大きいと思います。たとえば、同じ題材を扱った、古典派のプッサン(右上図)やラファエル前派のウォーターハウス(右下図)の作品と比べてみるとカラヴァッジョ の作品が同じ題材を扱っているとは考えられない程大きく違っています。他の二つの作品では、緑豊かな明るい風景の中に、ニンフのエコーや泉の周囲の花など物語に関する事物が描かれています。これに対して、カラヴァッジョ の作品は、ナルキッソスが水面に映る自分の姿に恋した瞬間の集中し、それ以外のものは本質でないとして排除してしまっています。まるで、ナルキッソス自身の心の風景とでもいった現代的な解釈ができてしまうのです。明るいはずの周囲を敢えて暗くして、ナルキッソスの表情にスポットライトをあてて、その瞬間の表情の動きから、彼が恋に落ちたことが一目でわかるような措置が施されています。実際、観る者の視線はナルキッソスの顔に自然と導かれますから。そして、ナルキッソスのプロフィールが何と切ない表情をしていることか…。この全画面が、この表情にむけてみる人の視線が集まるように画面が構成されているように見えます。比較した二つの作品では、そういう視線の集中というよりも、物語の場面を過不足なく要領よくまとめたという感じですが、カラヴァッジョ の作品はナルキッソスの内面のドラマを描こうとしているように見えてくるのです。これって、近代以降の芸術の見方ですよね。そのために、この恋の対象となる水面に映ったナルキッソスの姿を描く必要があった。そして、ナルキッソスが水面に映る自分の姿を見、それが自分とは気が付かないような、水面への接し方を示すひつようがあったため、この作品のような不自然なポーズを作らざるを得なかったのではないか。実際、なんかナルキッソスのポーズは不自然で不格好というか、画面の中で決まっていない。これなど、美よりも真実を優先する近代的志向にぴったりくるものでしょう。その結果、画面の構成が上下で水面を境界線として上下対称の構図、まるで、トランプのキングやクィーンのカードのデザインのような、図式的なものになった。しかも、このような図案は精神分析でいかにも使われそうなデザインです。そして、全体の暗さ。これは光と影というキアスクーロの手法から取らざるを得なかったのかもしれませんが、心理学でいうナルシシズムはコンプレックスを起源とすることが多く、この画面の暗さは自己愛の基盤となっているコンプレックスの闇であるという穿った解釈だってできてしまうのです。

また、気が付かれた方は多いと思いますが、ナルキッソスが来ている衣装がカラヴァッジョ の作品だけ違っています。他の二人の作品では、いかにもギリシャ神話に出てくる狩人の扮装ですが、カラヴァッジョ の場合は当時の青年の来ている服をきているようです。現代ならTシャツとズボンというところでしょうか。つまり、ギリシャ神話の一場面から、現代に置き換えて普遍的な青年の悲劇として描かれている、当時としては。それを見た当時の人は、どう見たのか。単なる神話の一場面ではなく、自分にもあるかもしれないという一種の共感を持てることがあったのではないか、それが感動ということに連なって…、という近代的な解釈にどうしても傾いてしまいます。

この作品で、物足りないと思うのは、その一番大事なナルキッソスの顔の描き方です。私には、描き込みが足りないように見えます。影が薄く、生気があまり感じられない。顔を見る限り、とても美少年には見えない。それと光の当て方で、顔ではなくて右肩の衣装に光の焦点が当たっているように見えるのです。そこが絵画作品として、どうかということです。

最後に脱線です。日本のアニメーションはリミテッドアニメと言われています。それはディズニーのようなすべてを動画で描きスムーズで滑らかな動きをするアニメーションに対して、低予算で動画のコマを描くことができないため、背景を省略したり、動きがぎこちなかったり、ときには静止画で時間を稼いだりしたものです。それを日本のアニメーターたちは劇的な効果や心理的な効果に逆に利用しました。それが日本アニメに独特の心理的な掘り下げた描写などに結晶していったといいます。たとえば、この「あしたのジョー」のラストシーンですが、本来リングの周囲にあるはずの観客やセコンドなどすべてが省略されてジョーたけが描かれています。そして、カラー画面であるはずなのに色彩が排除されて、燃え尽きたというジョーの姿を象徴的にあらわし、この場面では本来画面が動くはずのアニメーションが動きすら止めてしまったのです。なんか、カラヴァッジョの、この作品に通じるところがあるのではないか、と現代の観客は思ってしまうのです。 

   

■『執筆する聖ヒエロニムス』 

最初の少年から10年、「ナルキッソス」から5年、短期間で、明暗のメリハリは深度を増して、劇的要素が同じ画家とは思えない程深化した印象です。

横の画面に、暗闇の中に執筆している聖ヒエロニムスと机、そして机の上に置かれた髑髏だけが浮かび上がるというものです。その暗闇とスポットライトを浴びて浮かび上がる聖ヒエロニムスと髑髏の対照が、この作品の最大の魅力ではないでしょうか。劇的な緊張というのでしょうか。劇場的という言葉が一時期政治の世界である宰相のパフォーマンスを形容するのに使われましたが、外面的に派手なパフォーマンスで民衆の支持を集めて、実質的にこまかな政策論議を成り立たせ無くしてしまうというニュアンスで語られていました。この作品を見ていると、そういう意味での劇場的という形容が当てはまる印象です。外面的効果を徹底的に追求している、それはアコギと思われるくらいに。それだけに、この作品を見る人は教養ある聖職者から庶民まで、その圧倒的な効果に、一様に強い印象を受けたのではないでしょうか。当時はキリスト教会のカトリックとプロテスタントの対立が深刻で、そこでのプロパガンダとして機能を、この作品は期待されていたのではないかという想像をしてしまいます。

真っ暗な中に浮かび上がる聖ヒエロニムスと髑髏は、まるで劇場の舞台でスポットライトを浴びて観客の注目を一身に集めてモノローグを読む主演俳優のようです。そのために、他の画家が聖ヒエロニムスを描いた作品と違って、書斎の描写を一切省略して黒く塗りつぶし、小道具としては机があるだけで、視線の拡散を防いでいます。そして、髑髏の赤みが少し入ったクリーム色、机と書籍の茶系統の色、聖ヒエロニムスの肌色とマントの赤と色調が、赤が入った黄色から茶色の系統で統一されていて、注意の拡散を防ぎ、中でも比較的印象の強い赤に視線の注目が集まるように作られています。

聖ヒエロニムスに光が当てられていますが、上半身の部分と机上の髑髏と執筆されている書籍に当てられ、下半身と机の下の脚の部分は影となっています。とくに聖ヒエロニムスの下半身は赤いマントで覆われて描かれていません。舞台でモノローグする主演俳優のようだと書きましたが、その強調したい部分だけにスポットライトが当たり、あとは影として観客に見えないように周到に排除されています。

しかし、現代の考え方で言えば一番焦点の中心となるべき顔の表情は、陰影を濃くして、執筆のため下を向かせているため、顔の中心である目は注意深く隠されています。これでは、中心である聖ヒエロニムスの内面が隠されているのです。近現代の個人の主体性というものが尊重される今だからの、これは視点で、当時は神を信仰し、すべてを神に委ねる、とくに聖人に列聖されているひとには、人間的な感情といったものは、仏教で言えば煩悩というわけで信仰の邪魔になると考えられていたかもしれません。その時に個々人の感情とか内面といったものよりも、具体的な信仰という行為が重要だった。とすれば、内面は空っぽでいいわけで、外面の行為としての信仰、ということを考え、さらに前に話したように、当時の新旧の宗派対立が激しかった時代状況の要請でプロパガンダとしての機能を期待されていたとしたら、このような作為的というのか、芝居がかったような絵画を制作して、一般の民衆にインパクトを与えるという目的に適うものであったと思います。

カタログ等の解説書には、明暗の対照や聖ヒエロニムスが老境にあり瘠せさらばえていることや、髑髏が象徴的に描かれていることから生死の世界を象徴的に描いていると解説している者もあります。現代の心理学的というのか、行動主義的な会社にどっぷりと浸かった私のような人間は、そう考えたい誘惑にいつも捉われます。とくに、この時代、ドイツでは宗教戦争で国土は荒廃し、イタリアもペストが猖獗を極めた後で死というものが間近であった時代と考えられることから、そう考えたくなります。ただ、それを作家個人の芸術的意図のように考えるのには、違和感を感じます。

    

■『祈る聖フランチェスコ』『瞑想する聖フランチェスコ』 

アッシジの聖フランチェスコを描いた2つの肖像です。

「フランチェスコは1182年にウンブリアのアッシジに裕福な織物商の息子として生まれ、享楽と放蕩に溺れる恵まれた青年時代を送った。長い精神的な逡巡を経験した後、らい病患者の介護を始め、人生の規範としてのキリストの教えを福音書を通じて発見し、気楽な人生に背を向け、すべての財産を放擲し、絶対的な貧困の中で普遍的な友愛を祈るようになった。この友愛は、貧者や浮浪者とともに生活することで実体化したが、神の創造した森羅万象に例外なく向けられた。」と解説で説明されていますが。かれを慕って人々が集まり、後にフランチェスコ会という托鉢修道会に発展します。私にはそれよりも、「聖フランチェスコの小さな花」という彼の死後に書かれ、16世紀以降のヨーロッパでベストセラーとなった伝記に描かれた純粋無垢な、まるで天使のような姿です。小鳥に説教するというような象徴的なエピソードがありますが、誰でも微笑まずにはいられないような、キリスト教信者以外の人たちにも広く親しまれたシンボルです。現代でも繰り返し映画(右下図)の題材として取り上げられているキャラクターです。現代でもイタリアの守護聖人になっていて、広く親しまれているなど、絵画の題材として過去にも多く取り上げられている(右図ジョットーの作品)キャラクターです。

ここで展示されているカラヴァッジョの作品を見ると、そういう純粋な天使のようなイメージとは違って、聖人の晩年の姿を描いていることもあって、厳しい姿として描かれています。たしかに、財産を全て放擲し、貧困の中で托鉢だけで生き、ひたすら全身全霊を投げ出して神に祈るということは、言葉にすれば純粋で清々しく聞こえますが、実際にそれを生涯を捧げるということは生半可なことではないし、自己を律する厳しさが求められるでしょう。外から見れば、場合によっては狂信的と映るかもしれないものです。実際に、フランチェスコと同じようなことを実践して、ローマ教会から異端として迫害された人も数多く存在します。カラヴァッジョの描くフランチェスコにはそういう厳しさが色濃く表れています。

しかし、そういう絵画は、近代以降の画家の個性を尊重し、他の人と違った視点で描くことで自分の個性を主張することが芸術という時代なら歓迎されるにしても、当時は近代的な芸術とは違う考え方の時代であったわけで、そういう時代に、このような個性的ともいえる作品を受け容れられたというのは、どういうことなのか。カラヴァッジョは近代の芸術家と違うので、これらの作品は注文があって初めて描かれたはずなので、こういう作品に対するニーズがあったのか。それとも、フランチェスコを描くような注文を受けたカラヴァッジョがこのような作品を仕上げてしまったのか、素人の私には分かりません。

ここでも、2つの作品に見られるのは、カラヴァッジョの作品の特徴である、劇的な作為というのか、わざとらしく、あざとい演出です。そして、それを全面に出すために、それ以外の要素を全て余計なものとして排除してしまうことです。ここで描かれているのはフランチェスコ本人と、それがフランチェスコであることが分かるために必要な小道具(アトリビュート)の髑髏と十字架です。それ以外は暗闇に隠されてしまっています。カラヴァッジョが専売特許のように画面構成で多用する光と影の対比は、劇的な効果を出すだけでなく、暗い影を作り出すことで、その影に余計なものを全て隠させてしまうという効果もあるのですね、こういう画面は、現代の私の目でみれば映画の映像効果を駆使したワンシーンによく似た感じとして見ることができます。これに対して、描かれた当時の人々にとっては、他の画家が描くものと、あまりに違うので、はたしてどのような捉われ方をしたのでしょうか。たしかに、フランチェスコを描いたこれらの作品は信仰の峻厳さを見る者に強く訴えかけるところはあります。しかし、そう感じるのは現代の私であって、信仰というものに距離をおいて冷静に見ているから言えることであって、実際に信仰の真っただ中にいて、このような厳しい姿を突きつけられたら、果たしてどう感じるのか。また、当時の他の作品とあまりに違うので、フランチェスコの作品とはこのようなものだという先入見を、誰しも持っているとはずなので、そこにこれらのような全く異質な作品が提示されたときに、はたして受け容れられたのか。これを描いたカラヴァッジョにしても、ある程度そのようなことは予想できるはずで、何も考えずに、このような作品を製作しているはずはないので、芸術家としても職人としての側面が強かった当時の画家の常識として、これらの作品を描いた時に、それなりの計算はあったと思います。

全体の色調は暗く、装飾的な要素は皆無で、教会の壁面に飾るには適当かといわれると、首を傾げざるをえない。ただし、信仰を個人の問題として、神と対峙するような姿勢ならば、このような作品は受け入れられる、むしろプロテスタントの精神に近いような気もするのです。影に対する光の使い方も、強烈な光を直接当てるというのではなく、斜光気味にして、まるで黄昏時の黄金色の光線のような影の多い光の当たり方に描かれています。描かれているのか晩年のフランチェスコで人生の黄昏を迎える姿などと、とうしても現代の象徴的な解釈をしたくなるのです。これらの作品を見ていると。 

  

■『マグダラのマリアの法悦』 

マグダラのマリアは、イエスの死と復活を見届ける証人であったとともに、ローマ・カトリック教会では「悔悛した罪の女」として位置付けられました。福音書の記述では、七つの悪霊をイエスに追い出していただき、磔にされたイエスを遠くから見守り、その埋葬を見届けたこと、復活したイエスに最初に立ち会い、復活の訪れを使徒たちに告げ知らされるために遣わされた。そのため、イエスの受難や復活を扱った絵画ではイエスのもとに描かれている。

また、ローマ・カトリック教会では、彼女は金持ちの出身で、その美貌と富ゆえに快楽に溺れ、後にイエスに会い、悔悛したという。「悔悛した罪の女」ということから娼婦であったと解釈されているケースもあるという。そういう題材としてルネサンス以降の絵画で好んで取り上げられたといいます。(左下図はダ=ヴインチ、右上図はティツアーノ、右下図はラトゥール)聖女を描いたものとしては例外的に肌を露出し、時には全裸で描かれ、それが取り上げられた大きな原因でしょうか。晩年の隠遁生活の中でしばしば天国に昇り、天使の歌声を聴いたということからその昇天が画題として取り上げられたそうです。

カラヴァッジョのこの作品は、そういうマグダラのマリアが悔悛したことによる法悦、あるいは晩年の昇天によるものか、宗教的なトランス状態を活写してものなのでしょう。しかし、この表情や上体姿勢などから宗教的な法悦というよりも、同じエクスタシーという言葉から性的な恍惚、特に性交の後での快感を反芻し脱力したような印象を強く受けます。それは、マグダラのマリアがかつて快楽に溺れた女性だったというストーリーが妄想を掻き立て、他の画家も聖女と言いながらエロチックな裸体を描く口実として彼女を取り上げてきたということなどから、観る人の中には、そういう視線を送る人もいたのではないか。私には、下賤な言い方かもしれませんが「マグダラのマリアの法悦」でも「マグダラのマリアの恍惚」でもどっちでもいいと思えます。その表情もそうですし、肌こそ露出させていませんが、手前の左肩をはだけさせたポージングで、鎖骨から胸のふくらみを垣間見せるなどというのは、チラリズムの高等テクニックそのものです。しかも、暗い中で下から光をあてて身体の凸凹の陰影を濃くして強調し、無理なポーズから生じる身体のねじれによる筋肉の撚れが陰影で浮かび上がり、性的な高まりを想像させます。

カラヴァッジョお得意の光と影の対照を強調した手法を駆使して、とくに一番焦点が当たるはずの顔に対しては、下の顎の方から見上げるように光をあてて、顔の表面の陰影が深く、濃くなる効果を上げています。その結果、顔の表情の半分が濃い影になって、観る人の想像を駆り立てるばかりか、半開きの口が表情豊かに見え、一番表情を付けやすい目が影に入ってしまうことで、かえって明確な表情の読み取りがしにくくなり、曖昧な意識があるのかないのか区別がつかないような、逝ってしまっているような恍惚の表情であることが際立たせられているようです。

とくにマグダラのマリアであると辛うじてわかるのは赤い布を下半身に掛けていることくらいで、あとはカラヴァッジョの時代の女性の恰好をしているので、普通に女性を描いたシンプルな画面で、宗教的な題材を取り上げても、アトリビュートなどの装飾的な決まり事を最小限におさえ、重点を置きたいことだけを抽出して、あとは明暗の対比的な画面構成によって闇に隠してしまい、残された部分に光を当てて、観る者の視線を誘導していくというカラヴァッジョの特徴がよく出ていると言えると思います。そして、焦点の当たった顔については、単に光り輝くというのではなくて、光の当て方を工夫し、さらにその中で深い陰影を与えることで、効果をさらにアップさせています。そして、マグダラのマリアの顔色が光の当て方のせいなのか土気色のようにも見えます。「エロチシズムは死に至るような生の称揚」とバタイユが言ったように、エロチシズムには生と死のせめぎ合いで、その小規模な繰り返しという要素があることは確かです。フロイトがエロス(生の欲望)とタナトス(死の欲望)との葛藤を性的なものとして説明してみせたように。例えば、性的な達成を、特に男性の場合ですが、昇天と形容されるのは偶然ではない。その行為の最終的な結果は新たな生面の誕生ですから、死と再生という理屈を当てはめられるのです。そういう意味で、この作品でマグダラのマリアの表情が生死の境目にまさにいるような顔色をしていているのは、この時代では、このカラヴァッジョの作品のみと言っても過言ではないでしょう。結局、この作品でも、現代的な解釈を押し付けて楽しんでいる自分を見つけてしまいました。


 カラヴァッジョ展(2016.3 西洋美術館)の感想はこちら

 

 
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