BOOKER
ERVIN(ブッカー・アーヴィン) |
ブッカー・アーヴィン(テナー・サックス)
1930年テキサス州デニソン生まれ。黒人テナー・サックス奏者。
アーヴィンの演奏について、一聴しただけでも分かる大きな目立った特徴というのは、彼の演奏するフレーズが一発でキマらないということなのだ。切れ味の鋭いフレーズがビシッと決まるのは一種のカタルシスを生み、それだけでスカッとするプレイヤーもいる。スタン・ゲッツ等がそうなのだけれど、そういう場合、聴く方としては、フレーズが決まった時点で一区切りとなる。これに対して、フレーズがキマらないと、何となく終わったとか、区切りがついたという感じがしない。それが繰り返されると、くどいと感じることになる。とくに、アーヴィンのサウンドは低音の良く響く、俗に腰の低いどっしりしとたトーンでサックス全体が反響するような鳴りっぷりのいい音なので、そういう音でくどくプレイされると、聴く方は、濃い、感じを持つことになる。そういうキマらなさとアーヴィン独特の吹き方によって、彼の演奏を好意的に捉える人には、アーヴィンが彼の魂や身体の奥底から湧き上がってくるものの発露として、そうした形のないものに音楽という形を与えている(多分アーヴィン本人もそのようにプレイしているところもあるのだろうと思う)と聴くことができることになると思う。そういう演奏だから、計算したようにフレーズがキマらないこともある、というわけだ。これはクラシック音楽でアントン・ブルックナーという作曲家の交響曲の聴かれ方と似ている。ブルックナーはドビュッシーやシェーンベルクといった新時代の音楽が出て来ていた時代に時代錯誤とも言える長大な交響曲を多数残した。彼のつくりだすメロディは分かりにくく、繰り返しの多い長大な作品は、作曲当時は退屈と言われた。しかし、彼のメロディを分解してみると、アーヴィンのように上手くキマらないフレーズがまず出てきて、それでは聴く者に伝わらないのではないかと作曲家が考えたかのように、何度もくどいほど手を変え品を変え繰り返し、その挙句に作品は長大なものとなっていった、と捉えられる。そう捉えると、ブルックナーの1時間を超える長大な交響曲は素朴な老人の感情の吐露として感情移入することができるようになる。 一方、納まりがいい、キマるというのは、完璧に形式にハマるということで、所謂古典といわれるもの、それは古いのではなくて普遍的なもの。しかし、完璧なものなど、そう作れるものではなく、そこから自分独自のものを作ろうと古典の形式を脱する試みが為される。そういうものが新しかったり、古くなったりする。アーヴィンの演奏は、古典という形式にキマらないもので、古典から抜け出ようという動きに含まれると見ることもできる。それはアーヴィンのフレーズがそうで、形式に納まりきれないアーヴィンのフレーズは、それを従来の形式にない形式を作ろうとしていると考えれば、新しい試みと見ることもできる。とくに、アーヴィンの活躍した時代はバップという形式に行き詰まりを感じる人々が出てきて、この少し後にフリー・ジャズのようなバップという形式を考えないものも出てくることを考えると、アーヴィンのフレーズは、エリック・ドルフィーなどとならんでバップとフリーとの間の橋渡しと捉えることもできる。そういう意味で、アーヴィンをアバンギャルド(前衛的)と言う人もいる。実際、彼のフレーズで用いられるハーモニーは、当時の一般的に使われていたものとは違うので、響きのテイストが変わった感じがする。また、アーヴィンはよく音を伸ばすことをするが、その伸ばした音を、微妙にベンド~ある音程を吹きながら、唇の締め具合で(キーを使わずに)その音程を低く(高く)したりすること~させながら、意図的にその音程を不安定な感じにしている。それは・・・何かを堪(た)えている人が、咽(むせ)び、叫んでいるかのようだ。バラードの演奏ではとりわけそうだし、それがアーヴィンの作り出すフレーズにうねりを生む。このようなアーヴィンのプレイは斬新にものに見えたと思う。また一方では、そういう演奏だから感情移入できるものとなっていたと思う。 アーヴィンの魅力とは、この両面性ということではないだろうか。
バイオグラフィー
ハードで情熱的なトーンと未だコードをベースとした即興に基づくエモーショナルなスタイルを持った、かなり特徴的なテナー、ブッカー・アーヴィンは真実オリジナルなプレイヤーだ。最初はトロンボーン奏者だったが、1950~53年の空軍にいた時に独学でテナーを習得した。2年間ボストンで音楽を勉強した後、1956年にアニー・フィールズ・リズム・アンド・ブルース・バンドと自身のレコードデューを果たした。1956~62年の間に空白を挟みながらもチャールス・ミンガスとプレイしている時に、移り気なベーシストやエリック・ドルフィーと出会い、名声を得た。彼はまた、60年代には、カルテットを率いて、ランディ・ウエストと何度かプレイしている。腎臓病による若すぎる死の前の1964~66年の大半をヨーロッパで過ごした。 year 1960 61 66 ブッカー・アーヴィンの特徴的な音楽性は、何時、どのように形成されたのか、ということは興味のあることだが、よく分らない。出身地であるテキサス州という南部の土着的な音楽環境とか、リズム・アンド・ブルースのバンドでプレイしていたとか、チャールス・ミンガスとプレイしたとかいう解釈があるが、実のところはどうなのか、具体的な説明は何もないので、私には、それらのどれも確かなことは分らない。 ただ、上で述べたアーヴィンの特徴というのが、彼自身の身体の内側から湧き上がる表現衝動の勢いが激しく、音楽として十分にまとまらないうちに噴出してしまうのを、後追いで何とか演奏としてまとめようとした結果、コテコテの諄い印象を与えるものとなってしまったのではないか、という推測を、聴いていて思ってしまう。では、アーヴィンは単に衝動の趣くままに吹き散らしていたのか、というとそうではない。もしそうなら、何枚もアルバムを録音し十年近くリーダーとして第一線でプレイを続けることは出来なかっただろう。このことを彼自身は強く自覚していたのではないか、それゆえにこそ、アーヴィンのプレイが少しずつ変貌して行ったように思える。これは、勝手な私の憶測で、事実かどうかは分からず、検証するすべもない。ただし、アーヴィンのプレイする音楽に対して、このような捉え方をすることから、彼の残した録音に対しての、私の私的な評価、つまりは好き嫌いの基準がある程度はっきりしたと思う。つまりは、アーヴィンの衝動と表現とのバランスの変化だ。細かいことは、個々のアルバムに対するコメントを参照してもらうとして、大雑把な流れで、ここに取り上げたアルバムの位置づけを簡単に説明したい。 アーヴィンの伝記的事実に目を向けると、20代後半から30歳にかけてチャールス・ミンガスのバンド・メンバーとしてプレイをしていて注目されるようになったということで、この時期では、ミンガスのアルバムの中でプレイを聴くことができるという。そして1960年に初のリーダー・アルバム『The Book Cooks』をリリース。この初のリーダー・アルバムを聴く限りにおいて、アーヴィンの特徴的なスタイルは出来上がっているように見える。そして、これが死ぬまで一貫していた。つまりは、ワンパターンだった、というのが一般的な声のようだ。だから、どのアルバムを聴いてもアーヴィンのプレイは同じで、共演するメンバーによってサウンドが違ってくる程度の違いしかない、ということになる。しかし、初リーダーから10年の間に、録音されたアルバムを聴くと、アーヴィンのプレイが徐々に変化してきているように思う。 初のリーダー・アルバム『The Book
Cooks』で、すでにアーヴィンのプレイ・スタイルは出来上がっている。しかし演奏全体では、他のメンバーのバック・アップで盛り立てられているようだが、アーヴィン自身がこころゆくまでプレイし切っていない、どこか窮屈な印象が残る。これは、アーヴィンの他にズート・シムズという同じテナー・サックス、そしてトミー・タレンタインというトランペットがいたため、彼らのソロや彼らとの絡み(バトル)に時間を割かざるをえず、アーヴィン自身のソロの時間が限られてしまったため、長くなりがちな自身のソロを短めにまとめて切り上げざるをえなかったためではないかと思う。全体の雰囲気は、アーヴィンの他のアルバムと同様にアーシーで黒っぽいものとなっているので、アーヴィンの長いソロに、それほど付き合わなくていいので、アーヴィンの作り出す世界の雰囲気を、あまり疲れることなく味わいたいという人には格好のアルバムになっているのではないか。 同じ年の末にリリースされた次の『Cook'n
』では、ワン・ホーンの編成で、最後の「枯葉」を除いてオリジナル曲ということで、彼自身の全開のプレイを聴くことができる。このアルバムは、好き嫌いが極端に分れるのではないだろうか。私は、アーヴィンが抑えてきた衝動を初めて解放させたという、勢いと、ある種の瑞々しさが感じられるいい作品であると思う。 そして、1963年に入り「ブック・シリーズ」4作を次々と制作する。タイトルは似ているが、4作それぞれ変化があり、それが、ちょうどアーヴィンのプレイの変化する時期に重なって、4作のアルバムがちょうどそのドキュメントとなっているのではないかと思われる。そう思って聴くのも楽しいことではないだろうか。「ブック・シリーズ」最初の『The Freedom
Book』ではジャッキー・バイアードというアーヴィンの個性をプッシュしてくれるピアニストと出会ったことで、彼自身の特徴を『Cook'n 』以上に伸び伸びと発散させている。『Cook'n
』が彼の100%のプレイだったすれば、『The Freedom
Book』ではバックの後押しによって120%まで、ここでプレイすることによって自分自身をさらにエスカレートさせて、行き着くところまで追求しきった作品となっている。その結果、アーシーとかブルージーとかいう世界を突き抜けて前衛的な響きが聞こえてきている者となっている。私は、このアルバムをもってアーヴィンのプレイのひとつの頂点を見たと思う。 「ブック・シリーズ」の次作『The Song
Book』では正統的なトミー・フラナガンのトリオと組んでスタンダード・ナンバーを中心にプレイしている。フラナガンは、バイアードとは逆に逸脱しようとするアーヴィンのプレイをカバーするように道に戻そうとする機能を果たし、スタンダード・ナンバーをプレイしているということもあり、前作と違って破綻の少ない、まとまりのあるアルバムとなった。ただし、まとまりがあるといっても、アーヴィンの他の作品に比べてのことで、他のミュージャンのアルバムと比べれば、これはこれで十分個性的な作品と言える。アーヴィン自身、前作でやり尽くした感はあったのではないか、スタンダートという明確なテーマ・メロディがある曲の演奏ということもあるのか、ダラダラと吹き続けることから、ひとつのまとまりをもったメロディを吹く、垂れ流すのではなく言い切る方向に、少なくとも演奏に区切りをつけようとする方向に向かっている姿勢が感じられた。 次の『The Blues
Book』では、編成が変わってトランペットが入って、ワン・ホーンではないところでアンサンブルをやろうとしたのではないか。『The Book
Cooks』では、手練れの周囲に盛り立ててもらいながらだったのを、ここではアーヴィンが盛り立てることをしながら彼自身が主導権をもってプレイしようとしたのではないか。そういう傾向が、このアルバムから見られるような気がする。それまでであれば、強引にプレイを続けていたようなところで、アーヴィンが引いてしまうようなところが、これ以降のアルバムでところどころ見られるような気がするからだ。しかしそうはいっても、このアルバムでは、従来のプレイを続けていて、少し中途半端だったのか、彼のプレイの強引さが薄まってしまったように聞こえる。 「ブック・シリーズ」の後、何枚かのアルバムを録音しているが『Heavy』と敢えて言わなければならなくなったと思われるタイトルのアルバムでも、『The Blues
Book』の試みをしようとしている過渡期の姿が見て取れる。丁度、周囲の環境が、ジャズの新たな試みが行われていた時期でもあり、アーヴィンもそれを耳にしていたことも、ひとつの理由ではないかと思われる。そして、最後のまとまった録音となった『The In
Between』では、過渡期からの抜け道が見えてきて、彼のプレイが少し枯れた感じが出てくるとともに哀感が感じられる風情が出てきたとこがある。しかし、惜しいことに、ここでアーヴィンが亡くなってしまいこの後の展開の可能性のままで終わってしまった。
Cry
Me Not Grant's Stand Day
to Mourn Al's In Stella Starlight Alan Dawson (ds) Booker Ervin(ts) Jaki Byard (p) Richard Davis(b) アーヴィンは1963年末から翌年にかけてという4枚のアルバムをレコーディング、これらをブック・シリーズとして彼の代表作と見なされている。この『Freedom
Book』は、そのシリーズの第1作目にあたる。このタイトル故と言うこともないが、アーヴィンの自由奔放なプレイをもっともよく聴くことのできるアルバムとなっている。世評ではアーヴィンの代表作とされている『The Song
Book』に比べると、同じワン・ホーンのカルテット編成は同じだけれど、スタンダード曲中心のピアノが名手トミー・フラナガンで、まとまりある印象を与える『The Song
Book』に対して、こちらはジャッキー・・バイアードの奔放なピアノでオリジナル曲中心となっていて、アーヴィンのプレイは『The Song Book』にあった枠から解放された(制作は『The Song Book』の方が後)ように奔放に見える。 例えば第1曲目の「Lunar
Tune」からもう、最初から全開バリバリ!アップ・テンポではあるのだけれど、快速という感じではなくて全力疾走している感じ。タイプは全く異なるけれど、エリック・ドリフィーの有名なライブ・アルバム「アット・ファイブ・スポット」の最初の疾走感を想わせる。実は、アーヴィンとは異質なドルフィーを敢えて持ち出したのは、この曲でアーヴィンが吹いているフレーズにドルフィーとよく似たものが部分的に顔を出すからなのだ。しかも、ドルフィーはアルト・サックス、アーヴィンはテナー・サックスと楽器は違うのだけれど、メタリック気味でストレートなトーンは共通しているように聞こえる。ここでのアーヴィンのプレイを聴く限り、結果的にドルフィーに近いところに来てしまっているとおもう。しかし、ドルフィーとは違う。ドルフィーの場合には理論的というのか頭で考えてある形式に辿り着いた感じがある(だからと言ってドルフィーの演奏が頭でっかちの理論先行だというのではない)、これに対してここでのアーヴィンは全力疾走のプレイを他のメンバーと続けていて、もともと自身の体内から溢れ出るになんとか音楽の形を与えていたのが、ここでは精一杯を越えたところで、追い付かなくなり不定形なまま楽器を吹いていてそんなプレイになったという感じがする。だから、似たようなフレーズでも、ドルフィーの場合にはどこかしら重々しいところがあるのに対して、アーヴィンの場合はカラっとして、あっけらかんした感じで重さを感じさせない。だから、アーヴィンの極端な演奏を聴いていても、スポーツ的な快感、聴いていて「もっとやれ!」と嗾けたくなるようなワクワク感がある。それをアーヴィンと一緒になって、煽っているのがリズム・セクションであり、ピアノのジャック・バイアードの存在ではないかと思う。 2曲目の「Cry Me
Not」ではスロー・ナンバーとテンポが急に落ちるが、フレーズを歌うということは、あまりなくて、ひとつひとつの音が長くなるというあり方に感じられる。だから、単にテンポが落ちただけで受ける印象は1曲目と変わらない。ただ、音を息長く吹くためからか、抑えた感じで吹いていて、ブローをかますようなこともしていない。スロー・ナンバーの演奏で、つまり、リズミックな乗りで推進するということがなくて、ワン・ホーンで音色のバラエティが少なく、とくに目立ったメロディーもそうは表われず歌に浸ることもなく、アドリブの冴えもそうあるわけではない、そのようなないないづくしで、10分近い演奏を聴く人に飽きさせないで通してしまうのだから、これは凄いことと言わざるを得ない。ここでは、長い息のコントロールにより、持続しているサックスの音がゆるやかにうねることで、音に動きを与え、それが演奏を生き生きとさせて、ある種のノリを生み出していて、それが聴く人の心地よさにつながっているのではないかと想像する。 そして、5曲目の「Al's
In」(6曲目はボーナストラックになるため、正規録音では最後の曲となる)に至って、自由奔放さが最高潮に達する。ドラムスが大きくフィーチャーされて、リズムが前面にでてくると、アーヴィンのプレイも躍動感あふれるリズムの刻みで全体をドライブされて、あっちこっちに音がめまぐるしく飛び回り、バイアードのピアノがそれに対して、冷や水を浴びせたり煽ったりと丁々発止のやりとりを、テニスのゲームのラリーを見ているかのように楽しむことができる。 Come Sunday All
The Things You Are Just Friends Yesterdays Our
Love Is Here To Stay Alan Dawson(ds) Booker Ervin (ts) Richard Davis (b) Tommy Flanagan(p)
ブッカー・アーヴィンは何枚もアルバムを録音しているが、基本的な彼のプレイは変わらず、一貫している。あえて言えば、小賢しく考えて小手先のスタイルを変えていくタイプではなく、身体に染み付いた、これ以外にないというワンパターンを執拗に繰り返すというタイプだからだ。後は、好き嫌いの世界と言うしかない。と簡単に言うけれど、これは実は大変なことなのではないか。よくロックやポップスで若いバンドが青春の発露とでもいうような瑞々しい感性の音楽性を売り物にデビューして注目を浴びたものの、その後は消えてしまうということを聞く。録音というのは恐ろしいもので、自然な魂の発露で演奏したものでも、録音したものを繰り返し聞かされているうちに、人は飽きてしまうのだ。あるいは、もっとと、さらに高い要求をする。だから、音楽家はより質の高いの演奏をするとか、音楽性を変化させていくとか、何らかの対応を迫られることになる。音楽を消費する側としては、いくら素晴らしい演奏といっても、その人の熱狂的なファンでもない限り、同じようなアルバムを2枚も3枚もお金を払って買う必要はない、というのが自然なのだ。だから、ミュージシャンが感じるプレッシャーはいかばかりになるか。ドラッグに手を出したり、1作目の後で次作を出せなくなったりといった人が出てくるのは、だから仕方がないことだ。その中で、何枚ものアルバムを一貫して(同じようで)、しかも毎回高いレベルで出していたアーヴィンという人のすごさが分かるというものだ。こんなことができるのは、全く何も考えないバカか、ブローをかますことだけのイロモノ芸人か、そうでなければ、途方もない努力でプレッシャーに打ち勝って、ベストのプレイを続けている、ということだ。途方もない努力などと書いているが、実際のアーヴィンにとっては半端ない、身を切るような戦いだったのではないか。それを聞く人は豪放磊落なブローなどと言っているところから見ると、アーヴィンはそういう努力を微塵も他人に見せていない。 そんな、アーヴィンのアルバムの中でも、タイトルに“BOOK”という語の入った数枚のアルバムはBOOKシリーズと称して彼の代表作と言われている。その中でも、この『The Song
Book』はスタンダード曲を取り上げ、トミー・フラナガンの堅実なパッキングもあって親しみ易いアルバムと一般に評価されている。 1曲目の「Lamp Is
Low」では、最初から走るようにサックスが飛ばしている。アドリブに入るとさらに速くなり、ブッ飛び気味、しかもずっと吹きっ放しで、よく続くと呆れるほど、しかも、同じような節を少しずつズラしながら何度も繰り返すように、くる。目まぐるしいけれど、基本的に繰り返しなので翻弄されることはなく意外とついていける。アーヴィンについて、よく言われる諄さというのは、実際に、このカッ飛ぶようなプレイでは気にならないで、むしろそのスピードではちょうどいい。テンポを合わせてソロをとっているピアノのトミー・フラナガンの方が所々で冴えをみせるので、かえってピアノの方がついていけなくなるほど。そして、アーヴィンの音色がメタリックでドライなものなので、もたれることも少ない。そう考えると、この曲に関しては結果オーライだったのかもしれないが、バランスのとれたノリノリの演奏になっている。続くバラードも、だから前の曲との対照をうまく考えてのことになっているのではないか。このアルバムの中ではスローな曲を2曲演奏しているが、2曲ともマイナーで、それ以外の曲では疾走するという、完全な二極分化。 Mr.
Wiggles You
Don't Know What Love Is Down In The Dumps Well, Well Autumn Leaves いわゆるBOOKシリーズ以外にも佳品はたくさんある。アルバム全6曲のうち4曲がアーヴィンのオリジナルで、それゆえにアーヴィンの個性が全開で、それ以上に2曲のスタンダード曲での演奏が個性的だ。最後に収められている「Autumn
Leaves」、シャンソンの名曲「枯葉」で、スタンダードとして多くの人が取り上げている。とくにマイルス・デイビスとキャノンボール・アダレイによるムードたっぷりの演奏が有名だれども、ここでの演奏は、そんなムードを吹き飛ばすようだ。ミュートをつけたトランペットがテーマの前に短いアドリブするという珍しい展開の後で、アーヴィンのサックスがテーマを吹き始める。そこには情緒もムードもない。速いテンポで、スローなバラードで歌うなどということには一顧だにせず、素っ気ないほと。まるで屋台のチャルメラのようにも聞こえてしまう。アドリブに入ると、ドラムスが荒っぽく、ベースが重い音で煽るように走り、そこにアーヴィンが全開で吹きっ放しで、フレーズを即興的にキメる、というよりは熱くサックスを吹くためにフレーズを繰り出すという様相で、荒っぽい印象。これは、サックスを鳴らしたい、身体の奥底から湧き上がる息を吐き出したいと勢いが強くて、それにフレーズを創りだしていくのが追い付かない、というように見える。楽器を鳴らすという不定形の音が、形となったフレーズになる前に、とりあえず出てきてしまうという感じだ。そのタイムラグ激しいので、不定形の音が、また繰り返される。それを聴く人は、諄いとか荒っぽいと受け取る人もいるだろうし、不定形の音を前衛的と見なす人も出てくる。この「Autumn
Leaves」の剥き出しのような直截的なプレイに接していると、私には、そう思える。この鳴らしたいというものが、アーヴィンのプレイを突き動かしているからこそ、諄いプレイをワンパターンのように繰り返し行うことを可能にしてしたと、私には思える。 スローなナンバーを聴くと、違った方向ではあるけれど、息を吹く、サックスを鳴らすという動きのストレートな表出が見える。それは、例えば5曲目の「Well,
Well」というスロー・ナンバー。かなり遅いテンポで息の長いメロディをずーっと吹いている。引き伸ばされたようになったフレーズを、まるで息を吐き出すのにちょうどいい、と言わんばかりに。そして、バラードなので、そうムチャクチャにブロウするわけではなく、伸ばす音で大きな流れにゆったりとノルようないいソロを。それは、聴く人によっては単調になるし、前衛的にもなる。 これらの演奏に象徴されるように、このアルバムは、アーヴィンの後年のBOOKシリーズ以上にアーヴィンの特徴がより直截的に剥き出しにされている。だから、BOOKシリーズ以上にアーヴィンが好きな人には魅力的である反面、そうでない人には受け入れにくいだろうと思う。 Git
It Little Jane Book Cooks Largo Poor Butterfly Tommy Turrentine (tp) Booker Ervin (ts) Zoot Sims
(ts) Tommy Flanagan (p) George Tucker (b) Dannie Richmond (d) ブッカー・アーヴィンの初のリーダー・アルバムで、編成がピアノ・トリオのリズム・セクションにもう1本のテナー・サックスとトランペットという6人編成。ここでのアーヴィンは部分的には特徴を出しているが、全体として窮屈な印象を受ける。ただ、メンバーは手練れの人たちなので、演奏はまとまっているので聞きにくいということはない。聴き方によっては、全体のバランスとよく、まとまっているし、凝縮されたアーヴィンのプレイ自体は充実している。ただし、延々と垂れ流すようにプレイが続くことによって、諄いという特徴が際立ってくるので、そこまで行っていない。だからアーヴィンの諄いプレイが好きで、堪能したいという人には、物足りないかもしれない。 アルバム冒頭で、何も聞こえてこないと耳をそばだてていると、ベースのイントロから始まる。耳が慣れれば、ベース自体は強い音で腹に響いてくるようではある。その後で、3管によるテーマが提示されるのだが。このベースの始まりが喩えていえば、地を這って来るような印象で、テーマがブルージーな雰囲気を湛えているので、最初からアーシー(泥臭い)世界が始まる。この後にピアノのソロは、この雰囲気を壊さずに、しかも落ち着いた(沈んだ)ものにさせているため、ベースのイントロから重さを引きずり、続くトランペットのソロがフリーキーな要素を交えつつ荒っぽいプレーをしている。それが、この曲のアーシーで重い雰囲気に妙に合っている。実際、この曲ではプレイの時間もそうだが、トランペットが最も印象的。その後のサックスはアーヴィンのプレイではなく、続いて2本のサックスの掛け合いに入り3本のユニゾンでテーマに戻る。演奏としては、メンバー全員がアーヴィンをバックアップして彼独特の雰囲気を盛りたてようというものとなっているので、アーヴィンの世界という点では個性が鮮明に感じられる。しかし、アーヴィンのプレイの諄さ、飽きるほどのしつこさまで行かない。これはアルバム全体の他の曲の演奏にも言えることで、2曲目の「Git
It」でも、ユニゾンによるテーマに続くのは、ズート・シムズのソロで、その後にようやくアーヴィンのソロが続くのだけれど、特徴的な抑揚を排した音を長く伸ばすようなフレーズが出てくる、曲はアーヴィンのオリジナルだけあって、曲調にハマったものになっているけれど、プレイ時間はそれほど長くはなく、途中から2本の絡みになって終わってしまう。4曲目の「Book
Cooks」でようやくアーヴィンのソロが長く展開されるけれど、もう一人のサックスとの絡み(バトル!)の方が中心となっている。最後の「Poor Butterfly」はスタンダード曲で佳演と言えるもの。 One
for Mort No
Booze Blooze True Blue Alan Dawson (ds) Booker Ervin(ts) Carmell Jones(tp) Gildo Mahones (p) Richard Davis(b) ブック・シリーズ4作の中で、トランペットが入り2管編成となっている作品。ブック・シリーズでは、4作それぞれ共演メンバーが異なっている。アーヴィンは同じメンバーで固定グループを組んで、緊密なアンサンブルを作って、自分のプレイをその中で生かしていく、ということをしていない。その代りに、『The Song
Book』ではトミー・フラナガンのピアノを中心としたトリオは、繊細でアーヴィンの奔放なプレイをカバーするように演奏を巧みにまとめている。それによってスタンダード・ナンバーの演奏が聴きやすく、親しみやすくなっている。これに対して、『The Freedom
Book』ではジャッキー・バイアードのピアノを中心としたトリオと組むことによって、ピアノがアーヴィンに負けない奔放なプレイをすることによって、演奏全体がフリーキーでスリリングになっていく結果となる。このアルバムでは、アーヴィン自身のオリジナル曲やバイアードの曲を取り上げている。このように、アルバムによって編成を変えているのは、多分、アーヴィンのプレイの性格に起因するのではないかと思う。アーヴィンのプレイは、周囲のプレイヤーと強調したり触発し合ったりしてプレイを作り上げていくインタープレイのタイプではなくて、自身の内側から湧き上がってくるものに振り回されるように、先へ先へと、どんどん吹いていってしまう、ゴーイング・マイ・ウェイのタイプと言える。極端に言うと、アーヴィン本人がどんどん吹いてしまうのを、他のプレイヤーが何とかついていくという形になるのではないか。その場合、同じメンバーといつもプレイしていてアンサンブルの質が高くなりプレイにフィードバックするというのではなくて、演奏がマンネリ化してしまう危険の方が高くなってしまう。ゴーイング・マイ・ウェイで独り先へ行ってしまうアーヴィンにたいして、共演のメンバーを変えることによって、伴奏に変化をつけてヴァラエティを与える、というのがブック・シリーズで行われたのではないか。 この『Blues
Book』で、バックにいるリズム・セクションは、他の2作に比べて手堅くシンプルなパッキングをしている。むしろ単調といっていいかもしれない。そこで、トランペットというフロントのもう一つの色を付けることで色彩感をだそうとしたのか。演奏している曲はアーヴィンのオリジナル曲ばかりだけれど、曲としては、イマイチでそれ自体の魅力に欠ける。むしろ、アーヴィンが思う通りにサックスを吹いていくための材料としての意味合いのものだろう。演奏も、時折、トランペットやピアノのソロも入るけれど、アーヴィンのソロが中心で、それぞれが順番にソロを取って、それぞれのソロに関連性は薄い。だから、このアルバムはアーヴィンのソロを聴くということが徹底された作品として聴く者だと思う。ここに収められた、個々の曲がどうだ、というのではなくて、アーヴィンのプレイを聴くかどうか、といのが、このアルバムであると思う。 |