1884年頃にフレスコで描かれた作品です。ダンテの『新曲』地獄篇第5歌のパオロとフランチェスカの物語をもとにして描かれた作品です。
(1)パオロとフランチェスカの物語
この物語は、1285年頃実際に起こった事件を基にしています。当時リミニのマラテスタ家とラヴェンナのポレンタ家という二つの相対立する家がありました。それがある時和解のためにグイド・ダ・ポレンタの娘フランチェスカをマラテスタ家へ嫁がせることになりました。だがこの際、両家はフランチェスカに内緒で一つの奸計を用いました。つまり武勇の誉れ高いが風采の上がらぬ跛の兄ジャンチオットがその相手であったにもかかわらず、美男の弟パオロをジャンチオットと偽って見合わせ、フランチェスカをマラテスタ家へ嫁がせたのです。フランチェスカは嫁いだ後はじめて事の次第を知ります。ある日、二人はアーサー物語の円卓騎士ランスロットと王妃ギネーヴァとの不義の恋の話を読み進むうちに、微笑を湛えた王妃の唇にランスロットが口づけをする下りに出会い、この下りを読んだパオロはおののきつつもフランチェスカに口づけをしてしまう。これを契機にして、フランチェスカのパオロに寄せる、またパオロのフランチェスカに寄せる恋情はもはや絶ちがたいものとなってしまっていました。折しもジャンチオットが公務で外出の機に、睦やかな二人の様子を使用人がジャンチオットに注進に及び、とって返したジャンチオットの手で二人は有無を言わせず殺害されました。
しかし、ダンテは『新曲』地獄篇第5歌でダンテは一切こうした史実に触れようとはしません。ダンテがヴェルギリウスとともに肉欲の咎人が集まる第2獄で見たのは、抱き合ったまま狂風に煽られ、暗い空をあてどなく漂う二人の魂であったのです。ダンテの「あはれ幾許の楽しき思ひ、いかに切なき願ひによりてかれらこの憂ひの路にみちびかれん」との問いかけに、フランチェスカが答えて言います。「われら一日こころやりとて恋にとらはれしランチャロットの物語を読みぬ。ほかに人なくおそるることもなかりき。書しばしばわれらの目を唆かし色を顔よりとりされり、されど我等を従へしはその一節にすぎざりき。かの憧るる微笑がかかる恋人の接吻をうけしを読むにいたる時、いつにいたるも我とはなるることなきこの者、うちふるひつつわが口にくちづけぬ、ガレオットなりける書も作者もかの日我等またその先を読まざりき」と。
フランチェスカの主張するところによると、「愛」とは高貴な心にひとりでに宿るものであって、高貴な心の持ち主であったパオロが彼女の美しい姿に接して愛を抱いたのは、いわば必然であって避けることのできない現象ということになります。しかし、ここで主張しているフランチェスカは魂だけの存在です。生身の人間は魂と肉体のふたつからなっていますが、この場合ダンテと会話しているフランチェスカは殺害されて肉体を奪われ魂だけが残された存在となっているわけです。そして、愛された者は愛し返さなくてはならないと言います。これは、キリスト教徒にとって、そもそも「愛」というのは人間のものではありません。それは神のもの、それどころか、神そのものであるわけです。神は人間を愛してくださっている。従って、我々もまた神を愛さなくてはならない、というのがキリスト教的な愛の理論です。つまり、フランチェスカは愛というものの持つそうした本質に忠実であろうとすれば、自分もまたパオロを愛さずにはいられなかった。これもまた必然であり、避けることはできなかったと言っているのです。 ヨーロッパの抒情詩的伝統というのは、もともと社会的地位の高い人妻を相手とする恋愛をテーマとしています。ですから、根本的に宗教上・倫理上の問題を含んでいるわけで、作品に肯定的な意味づけを行なおうとすれば、常に大きな困難がつきまといます。若い頃のダンテも属していた《清新体派》という詩派の詩人たちは、理論的にこうした問題を解決しようとして、相手の女性を天使になぞらえる方法を編み出しました。そして、フランチェスカも認めているとおり、彼らの愛は二人を地獄落ちへと導く結果になります。彼女たちのとっての死とは表面的には自分とパオロの二人が同時に殺害されたことですが、そこには《肉体の死》と《魂の死》という二つの死が同時に訪れたことを表す意味内容が含まれています。《魂の死》とは、地獄に落ちることを比喩的に示す表現です。キリスト教にあっては、肉体が死んでも霊魂は死ぬことがありません。それが「死ぬ」というのは、地獄に落とされて二度とそこから出ることができない状態を意味しているのです。ただ、ここに至ってもなお、フランチェスカは自分たちの愛が《清新体派》の理論に代表されるような「正しい」ものであったと主張することをあきらめません。彼女によると、二人を不当にも殺害したジャンチョット・マラテスタは、彼らよりもずっと罪深い人々の落ちていく《カインの圏》に落とされるだろうというのです。ここは旧約聖書のカインとアベルの物語からその名が採られている「近親者に対する裏切り」を働いた罪人の行く所です。
(2)パオロとフランチェスカの絵画表現
この物語を多くの画家が題材としてとりあげました。
ドミニク・アングルの<パオロとフランチェスコ>(1819年)では、3人の人物が登場して、パオロは恥じらい気に顔をそむけたフランチェスカの頬に接吻しています。その瞬間彼女の手からアーサー王の物語が落ち、背後のカーテンの影から現われた醜い夫のジャンチオットが、二人を手討ちにしようと剣に手をやっています。アングルの作品の特徴として、目につくのは、次の3点です。その第一点は、二人の接吻とフランチェスカが浮かべている恥じらいの表情です。第二点は、ジャンチオットの存在です。彼の存在が一瞬後の二人の死を暗示しています。第三の点は、二人の読んでいたアーサー王物語の書冊の扱いです。フランチェスカの手からこぼれ落ちた小さな本の頁には、挿絵等のようなアーサー王の物語であることを示すものは描かれていません。
このアングルに対するに、ラファエル前派ダンテ・ガブリエル・ロセッティも1855年に同じ題材で水彩画を制作しています。ワッツの作品と似通った構成の、この作品はさきのアングルの作品と比べながら特徴を明らかにしていきたいと思います。その特徴は、ワッツの作品にも通じるところが多いと思います。作品は、三つの部分に分けられており、左の第一の部分には大きな円窓を背に互いの手と手をしっかり握りしめ接吻を交わす二人の姿が描かれています。二人の膝の上には一冊の大きな本が置かれ、その開かれた頁には二人に接吻を唆したランスロット卿と王妃グウィネヴィアの接吻の場面が認められます。右の第三の部分は、抱き合ったまま第2獄の狂風に漂う二人の姿が、かれらの体と対角線に配された無数の火の玉(魂)を背景として描かれています。
この作品は画面を三つの部分に分け、各々左から○=×と極めて図式的な構図を見せています。細かなディテールは一切省かれ、もっぱら抱き合うパオロとフランチェスカとそれを見ているダンテとヴェルギリウスの姿だけが、奥行きを排した装飾的な画面に浮彫りにされています。画面の平面性、装飾性はさらに『新曲』からの引用の記入によって高められています。そこで、アングルの作品の特徴と比べていきましょう。アングルの作品の特徴の第1点であるフランチェスカの恥じらいの表情に対して、
ロセッティにはフランチェスカに恥じらいの表情を与えるなど、全く見当違いも甚だしいと思われたふしがあります。ダンテはフランチェスカに「恋しき人に恋せしめではやまざる恋は、彼の慕はしきによりていと強く我をとらへき」と言わせていることが、その根拠と考えれます。つまり、その瞬間は彼女にとって、「恋しくてたまらなかったから、私はあの人を愛したのだ」ということがすべてということなのです。したがって、互いのつのる思いの果ての接吻であってみれば、恋心に強くとらえられたフランチェスカに恥じらいの表情を与えることは、その貞潔さを暗示するどころか、むしろ卑しい不純な要素を加えることに等しいということになります。フランチェスカはパオロの激しい恋慕の情けに屈したメロドラマのヒロインではないのです。そのため、ロセッティの互いに抱き合い口と口を合わせる二人には、情熱の無垢さがあるというわけです。このようなロセッティの立場からは、アングルのフランチェスカにはむしろ媚態に似たいやらしさがあるということになります。そして、アングルの特徴の第2点であるジャンチオットの存在による死の暗示については、ロセッティの作品にはジャンチオットは描かれていません。むしろロセッティにとってはジャンチオットは余計な存在でしかなかった、それはダンテも『新曲』の中で彼に一切言及していません。ロセッティには、ジャンチオットの姿を描き、アングルのように一瞬のちの二人の死を暗示することなど思いもよらないことでありました。それは、二人の接吻の瞬間が、そうした至高の愛の瞬間の前では、原世的な死などまったく取るに足らない瑣事にすぎなかった。ロセッティにとっては、ダンテが書いた「かの日我等またその先を読まざりき」に忠実だったと言えます。アングルの特徴の第3点である本の扱いについて、ロセッティの作品では、本の挿絵に互いに抱き合い接吻を交わすランスロット卿と王妃グウィネヴィアの姿がはっきりと認められます。しかも、ランスロット卿はパオロと同じく赤い上衣の下から黒い袖を見せ、王妃グウィネヴィアはフランチェスカの予型を見ていることを示しています。二人の抱擁と接吻は、ランスロット卿と王妃グウィネヴィアのそれによって予表されていたのであり、地獄の第二獄における永遠の抱擁と接吻を約束するものだったのです。ダンテの「われら一日こころやりとて恋にとらはれしランチャロットの物語を読みぬ。(中略)かの憧るる恋人の接吻をうけしを読むに至る時、いつにいたるも我とはなるることなきこの者、うちふるひつつわが口にくちづけぬ」という記述にもかかわらず、かつてロセッティのように明確な予型論的な意図をもってパオロとフランチェスカが描かれた例はほかにありません。本の存在はロセッティにとって単なる小道具以上の意味を持っていたといえるのです。
(3)ワッツのパオロとフランチェスカの絵画表現
ワッツの作品は二人の作品に比べて二人の抱擁にさらに焦点を絞ったものとなっています。それはロセッティの三連画の右側の抱き合ったまま第2獄の狂風に漂う二人の姿に絞り、さらにエスカレートさせたものと言えます。アングルの作品にいたジャンチオットの姿は見えず、ロセッティの作品で象徴的な意味を付加させた本も描かれていません。パオロとフランチェスカが情熱と欲望に突き動かされるように恍惚として抱擁している。もはや二人だけで別世界にいるようです。その二人の世界は自分自身を燃え尽きてきた炎によって残された中空の殻のようなもので、彼らは、乾燥した葉が風の波に沿って運ばれるように、無重力で無情な空気の中に浮いています。また、二人の背景の茶系統の色調の雲ともカーテンともとれるのは、地獄の業火ということなのでしょうが、具体的に炎を描いているわけではなくて、まるで、官能に打ち震える二人を包み込むように描かれているのです。それはイメージとしては、肉体的な官能のカーテンをイメージさせてしまうのです。
ロセッティの作品は、ワッツと似た傾向のものではありますが、水彩画の透明な色彩でラファエル前派の特徴である平面的な画面になっています。これに対して、ワッツの作品は色彩の鮮やかさが際立ち、奥行きが描き込まれています。それゆえに、中心の二人もロセッティの二次元と違って三次元の立体的に描かれています。それゆえ、人物の肉体が存在感を持たされて、二人の抱擁が肉体的な官能性を伴ったものとして見えてきます。従って、二人の表情をみていると恍惚しているように見えてくるのです。これは、アングルの作品のフランチェスカの恥じらいはおろか、ロセッティの情熱の無垢さ、愛を純粋に貫き通すというのをもはや通り越しています。やや仰角気味の二人の顔は、目を半ば閉じた半眼の状態であることがよく分かるようなアングルになっていて、フランチェスカの場合は、半眼ばかりでなく、口を半分開けた状態で、顔に締まりがなくなって、快感に打ち震えているように見えます。そこには、純粋な愛の精神性ゆえに、地獄の業火に苦しむというより、官能的な世界に溺れているように見えます。観念的な象徴的な作品を描いているのでしょうけれど、この表現が観念を超えてひとり歩きを始めてしまったような感じになるのです。つまり、愛の快楽に溺れて、それ以外の地獄の業火だろうが何だろうか、快楽の大きさの前では打ち消されてしまう、二人は他の全てを犠牲にしても愛の快楽にいそしんでいる、という言ってみれば快楽礼賛といったものに突き抜けてしまっているように見えてくるのです。したがって、ここでの「愛」はダンテが『新曲』と主張しているようなキリスト教の神の愛ではなく、また、ロセッティの観念的な愛でもなく、肉体の官能による恍惚を伴う官能的な性格のものになっていると言えると思います。