ラファエル前派の画家達
ローレンス・アルマ=タデマ『春』
 

 

「春」はアルマ=タデマの最大(178.4×80.3 cm)かつ最も複雑な作品の1つで、4年をかけて1894年に完成しました。

(1)春の祭礼

描かれているのはタイトルのとおり古代ローマの春の祭典で、都市の大通りを春の花を手にした女性や子どもたちがパレードしているという場面です。しかし、実際はヴィクトリア朝時代の5月1日に行われていたメーデー祭りで、若い女の子が田舎に出かけて花を集め、それからそれらを輝かしい行列で持ち帰った行事の舞台を古代ローマに置き換えて描いたと考えられています。

アルマ=タデマには1879年の「セレス神殿への道」という、春の季節に農業と密接に関係しているローマ人の不妊の神セレスを称えて神殿にパレードしている作品があります。この作品と同じように縦長で、音楽の乙女、飾りつけられた歓喜、そして遠く離れた見物人の群れを描いています。これはオウィデイウスの「祭暦」のなかでセレリアリアとして紹介されている祭りだそうで、オウィデイウスはローマの春の祭りとして、フローリアリア、アンバルバリアも紹介しているそうです。アンバルバリアについては、ウォルター・ペイターが1885年に発表した長篇小説「享楽主義者マリウス、その感覚と観念」の中で、次のように紹介されていますが、「春」で描写されている内容と一致している部分が多いように思えます。

その日の早い時期に、農場の女の子たちは大きな柱廊の中でりんごと桜の枝から短く摘み取られた大きな花束をいっぱいに詰め込み、それから広々とした花でいっぱいになりました。そして野外を通り過ぎると、バッコスとさらに神秘的なディアデイァは、白衣の若者たちの肩の上の小さな家に運ばれました。 彼らはその早い夏の間の堅い天候で呼吸した空気。きれいな光沢のある水といっぱいのお香ボックスがそれらの後に運ばれました。 祭壇はウールの花輪と犠牲の火に投げ込まれるより豪華な種類の花と緑のハーブで同性愛者でした。そして、目的のために離れて置かれる古い庭の特定の区画から今朝集められました。

一方、19世紀後半、ヨーロッパ諸国の政府はパレードが大衆の愛国心を鼓舞するのに役立つとして盛んに行いました。都市ではヴィクトリア女王の治世50年と60年を祝って、兵士、王族、そして高価な備品の精巧なパレードが行われ、田舎では農業の工業化の結果として伝統的社会が崩壊していたなかで、5月の祭りのような古い祭りが復活しました。5月の祭りは、オウィデイウスの紹介しているフローリアリアにあやかるように、もともと、ヴィクトリア朝はフローラの子孫といわれていたため、古代の異教色やそれに伴う猥雑さを抑えて春の到来と花の美しさを祝って、花を飾った若者や女性が夜中に音楽を奏でながら森の中を歩き回ったそうです。

では、これを現代の風俗画として描いたらどうでしょうか、当時のロンドンは霧の都といわれるほどスモッグがたちこめて、日中も暗くて、街中にはゴミや汚物が散らばっていたといいます。そんな背景で花の祭りを描いてさえない感じだし、現実の5月1日の祭りのプロテスタント的なお行儀のよさでは、祝祭的な派手さの点で物足りません。おそらく、アルマ=タデマの念頭には、当時すでにイギリスからの観光客が見物に行っていたという、地中海の避暑地ニースやカンヌのカーニバルのパレードがあったと思います。しかし、それをそのまま描いてしまうと風紀的にまずいところが出てくる可能性がある。それで、古代に舞台を移すことで、現代では描くことが躊躇されるような多少の不道徳も許されるところがあります。そういうところで、アルマ=タデマは古代ローマの祭礼として描いたと思われます。

(2)画面構成

このように祭礼のパレードを描くときには、横長の画面にして、パレードの行列を横から眺めるようにしているケースが多いようです。例えば、同時代の画家でブレデリック・レイトンの「ダフニアーナ」という作品が典型的といえます。混雑したキャンバスを注文して制御する手段として、年齢、性別、社会的機能に応じてキャラクターを並べ、服装を改良し、目的地結果として生じる秩序、調和、そして壮大さの感覚は、芸術的および政治的理想の両方を満たしました。

その結果、画面は整理され秩序が生まれて、パレードの全容が分かって、参加している人々の描き分けも難しくありません。その代わりに、動きに乏しく、祭りの活力やエネルギーが感じられないものとなっています。

これに対して「春」は縦長の画面で、祭りのパレードを横からではなく、正面から捉えています。つまり、画面の奥から、こちらに行列が向かって来るという構図です。そのため、画面全体はコの字型の空間といいますか、まるで大劇場の観客席に囲まれて(建物の上から通りを見下ろす人々は劇場のテラス席のような感じです)、中央が花道になって主役達が舞台、つまり絵のこちら側に向かって入場してくるような場面構成になっています。つまり、演劇的に空間なのです。

基本的な舞台セットは白、つまり、建築物が代理的なので全体にしろくなっていて、俳優たち、つまりパレードの人々は淡い色のガウンを着ているので、緋色と紫色の花、黄色い花輪、緑のマラカイト、斑点のある大理石、酸性の青銅、そしてポンペイのような赤い壁はありません。観客の目は、ある場所から別の場所へと歩き回り、行列の最前線で運ばれる華麗な緋色のポピーから始まります。これは、花を手にした女性たちに注目を集めるものです。色は、正面および中心から遠ざかるにつれて、ますます微妙になるか、またはより広く分散するようになります。例えば、中距離では、「ロイヤルボックス」の落ち着いた赤い壁も私たちの注意を引き付けますが、ポピーよりも目立ちません。上のバルコニーからさらに数本の花が落ちてくると、赤が再び拾い上げられ、ついには観客の目を青い空に広げ、穏やかな色と下半分の形に再び降りる前に休息します。ローカルカラーの厳重に管理された領域とは対照的に、グレー、ローズ、そして日焼けの中立的な色の大理石のアーチや柱は、絵画の中央に位置しており、背景となっている建築の重厚な厳しさを柔らかくします。彼らはまた、中距離の人物と背景の区別を和らげるので、色とりどりの女性たちと前景の真っ白な大理石との強い対比には欠かせません。

(3)細部の描写

「春」はアルマ=タデマの最大の作品ということですが、(例えば、ルーベンスの祭壇画などと比べると)実際のサイズは巨大というほどでもない。しかし、その中の細かく描かれた部分を見ていくとたくさんの愉しみを見つけ出すことができます。

では、順不同、思いつくままに見ていきましょう。

例えば画面左側のところ、中心であるパレードの人々に注目しているのだけれど、その行列を辿っていきながら、少し視線をずらすと、多くの顔と人物を影の中に、光のが戻って見るのを見ます。それから大きな青銅色の騎馬像とさらにもう一つの青銅色の彫刻。さらに、ピンク色の大理石の柱が支えられた、緑の緑青のブロンズとゴージャスな光景が見えます。。背景であるに関わらず、この部分で空間に穴が空くように開いた開放感があります。そこで、あえて光があったところで大理石が映えて、色彩がよりゴージャスにうつります。その色遣いと描き分けです。この騎馬像が大理石でなく青銅であるがゆえに大理石の柱とファサードとの対照をつくりだし、それぞれが際立つように計算されています

画面の右側のにある列柱の上部、彫刻されたアカンサスの葉とらせんのカールはとても説得力があります。大理石を透過する微妙な光の感覚はここでは完璧に処理されており、使われている大理石の種類の違いによる表面の微妙な変化、例えば光線の反射や透け具合の違いが細かく描写されています。形も完璧です。

画面に描かれた花を見ると、その支配的な女神を称えてのお祝いにふさわしいように、絵画の細部の中で最も明白で重要なものを構成しています。ポピー、ラッパスイセン、オランダカイウユリ、ジョンキル、ワスレナグサ、サンザシ、そして桜とリンゴの花、そしてツタは簡単に識別できます。しかし、その花の季節には注意されていないようで夏に咲くポピーがあったりします。したがって主に審美的な役割を果たします。

また、画面の隠された素材として音楽の要素が巧みに織り込まれています。。画面全体構成の中で音楽の要素を散在させることによって、行進している者のリズミカルな揺れとペースを生み出しています。先頭でパレードをリードする少女はフルートを吹いています。また列の中でパンフルートを吹いている鬚面の男性は女性と子どもの行列の中で異分子のようでもありますが、先頭の少女と同じ淡い青の服を着ています。彼の後ろで、3人の若い女性がタンバリンを演奏します。彼女の楽器を右耳のそばに持ち上げ、笛の直線に対して、こちらは円形で、笛が下向きであるのに対して、タンバリンは大きく持ち上げられています。この3人は茶系統の色の服を着ています。

古代ローマの春の祭りは花を祝うことで、り自然の繁殖力の毎年の更新を歓迎することでした。その祭りのなかでは喧騒や混乱がうまれ、ヴィクトリア朝時代の慣習から見れば性的な放縦があり、不道徳な場面のそこかそこで見られたものと考えられます。アルマ=タデマはそういった面を巧みに隠蔽し、納得のいくように現実的で、とても考古学的に正確で、とても美しく、そして無邪気な、そして、幻想的な光景にアレンジしてみせました。その結果、春を迎えたことを喜び、明るく、華やぎに満ちた空間を演出した作品として完成させました。

ちなみに、この作品は1934年のハリウッド映画、セシル・B・デミル監督の「クレオパトラ」の中で、ジュリアス・シーザーがエジプトを征服し、ローマでの凱旋パレードのシーンで、春は花を咲かせる星形が主導し、観客の層が花束を投げつけて歓迎する行列の原形となったと言われています。

 
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