ラファエル前派の画家達
ローレンス・アルマ=タデマ
『ヘリオガバルスのバラ』
 

 

ヘリオガバルスはローマ帝国の第23代皇帝で、ギボンをはじめとする歴史家たちにローマ史上最悪の君主と評価されているひとです。ヘリオガバルスは放縦と奢侈に興じ、きわめて退廃的な性生活に耽溺し、しかもその性癖は倒錯的で常軌を逸したものだった言われています。また、宗教面でも従来の慣習や制度を全て無視してエル・ガバルを主神とするなど極端な政策を行いました。それで支持を失い、帝位わずか4年で近衛隊によって殺されました。『ローマ皇帝群像』のなかに、ヘリオガバルスのエピソードとして、宴会に招いた客の上に巨大な幕を張り、幕の上に大量の薔薇の花を載せたうえで宴会中に幕を切り、花を一斉に落として客を窒息死させたという逸話があります。アルマ=タデマはこのエピソードをもとに作品を制作しました。

ここで描かれているのは凄惨な殺人の瞬間で、残酷な情景です。ヘリオガバルスは画面の後壇の左端に横たわる人物がそうです。黄金の冠を頭に、黄金の衣服を着て、黄金の杯を手にしています。手前の花びらに埋もれる客たちの様子を眺めています。古代のテーブルは食事の際に、横になって飲み食いしていたため、果物が乗ったテーブルを前に、クッションに凭れながら横になっています。

しかし、この作品を見る人には、惨劇の場面には見えないでしょう。それは、数えきれないほど無数のバラの花びらが舞い散る色鮮やかな光景に見える。花びらの中には幾人かの人物像が見え、バラはかれらの頭上から降り注いでいます。画面の奥には、その様子を寝そべって眺める数名の人たちがいます。大理石の柱か並ぶ空間は開放的で、背景には澄んだ空と山の稜線が遥かに見渡せる。古代の趣向を凝らした豪華な宴会の光景です。それは、ひとつには、画面手前の花びらに埋もれて窒息しつつある人々には苦悶や恐怖、あるいは驚愕の表情をうかべることなく、むしろ花びらの隙間からのぞかせている顔は端正で、微笑みを浮かべているようにも見えます。また、この人たちのポーズにも、息ができなくて苦しんでいたり、花びらを掻き分けようとしたりといった必死の動きがありません。むしろ無数の花びらのクッションの上で、リラックスして寝そべっているように見えます。他方で、奥の方でテーブルに横になっているヘリオガバルスをはじめとした人たちは、無表情で、手前の人々が苦しんでいるのを喜んでいるようには見えません。つまり、この画面にいる人々について生々しい存在感とかダイナミックな動きというが感じられないのです。惨劇の場面をきりとったというよりは、その場面を人形で再現したデコレーションを絵にしたような感じなのです。

さらに、このような歴史的な出来事を題材にした場合、重要なモチーフ、この場合は花びらに埋もれて窒息して苦悶する人々か、あるいはその様子を眺めて喜ぶ非道な人々をクローズアップして、はかのモチーフを抑えた色調にしたり、焦点をぼかしたりすることで、出来事がドラマチックに映るのですが、ここには、すべてのモチーフが平等に扱われています。どの人物もほぼ同じ大きさで描かれ、人物以外の事物もたくさんあって細部まで緻密に描かれて、人間も事物もすべて同等に描き込まれています。そのため、すべてのモチーフが同等の存在感で並んでいるので、画面全体が散漫で平板なものとなり、画面からは誰が主役か分からないと人々の心理的な関係性なども見えてくることがなく、出来事や物語の劇的な緊迫感がうまれ難くなります。

そこで、話は全然関係ないところに飛びます。このようなアルマ=タデマの画面を見ていて、似ていると思ったのが速水御舟の「京の舞妓」という作品です。大正時代の日本画がでてくるとは、あまりの開きに唖然とした方もいると思います。もし、どこかに共通点があるとしたら、こじつけですが写実をうたっているということくらいでしょうか。その写実といっても一様ではないのですが、その写実のあり方に似ている点があると思ったのです。「京の舞妓」という作品は横山大観に“悪しき写実”と酷評されたのも無理はなく、画面の舞妓さんが人間の体形をしているとは思えないし、背景の、彼女が腰かけている窓の張り出しは平面的で奥行がなく、とても腰かけられるものではない。そして、描かれている舞妓に生命感がなく人形のようにしか見えないのです。では何が写実なのか、速水御舟は、そこにあるものすべてを写し取ろうとして、細部を徹底的に追求します。例えば、室内の畳の目ひとつひとつ、着物の生地の糸一本一本までも描いていますし、舞妓の顔には無数の細い線を重ねています。そこでは、舞妓の顔と畳の目と衣装の生地は同列の価値で画面に並べられていることになります。ここでは、人間中心とかそういうことはない。このように同列で、並列的に描かれ、人間中心とかいうような大きな秩序で画面が統括されていない、いわばスーパーフラットな世界となっている。そこでは、限りなく分散化し、まるでコンピュータのデータのような交換可能な世界になっているように見えるのです。その結果、出来上がった作品は写実的とは見えず、デフォルメのきつい、風変わりな挿絵のように見えてしまいました。いってみれば、装飾的な方向のユニークなスタイルという感じです。写実を求めた結果が、装飾的なものに行き着いてしまったというわけです。

話は、アルマ=タデマに戻りますが、当時のイギリスではローマやギリシャなどといった古代の歴史や物語を描いた絵画はスペクタクルなエンターティメントとして人気が高かったといいます。しかし、そういう古代世界の出来事を描いた絵画を理解するためには典拠となった神話や歴史、あるいは古典文学の素養が必要で、描かれた画面から内容を読み取るには注意力や読解力も求められました。したがって、難しい絵にもなっていました。これに対して、アルマ=タデマの作品は、そういう難解さがなくて、歴史的知識のような準備がなくても手軽に理解できるとして、幅広い人気を獲得していたと言います。この作品であれば、ヘリオガバルスというローマ皇帝がどのような人だったかとか、どんな酷いことをしたかといったことを知らなくても、古代ローマの豪勢できらびやかな美を視覚的に楽しむことができた、というわけです。そこに、何かのメッセージが含まれていて、それを読み取ったり、歴史の主役のドラマに共感したりするといったことは、深い感動をもらしますが、そこに読み取る準備と努力を求められます。しかし、アルマ=タデマの作品は、むしろそういう要素を画面に持ち込まないように周到に計算されていて、純粋に見たままの表面的イメージを愉しむように構成されているのです。ヘリオガバルスが暴君であることが分からなくても、床に積もった花びらの隙間に見えている古代の器の色の鮮やかさや文様の面白は見れば分かるし、ちゃんと見ることができるように緻密に描き込まれているのです。花びらに埋もれて倒れている人についても、その人の着ている古代のエキゾチックな服に好奇心をそそられることができるように描き込まれてあるのです。

したがって、この画面は惨劇の場ではなく、バラの花びらと芳香に満ちた豪奢な世界として、見る者の目を瞠らせるものです。視覚の快楽に徹した作品からは死の恐怖も苦悶も排除され、虐殺の場は甘美なスペクタクルへと鮮やかに変貌してしまう。それが、この作品の、アルマ=タデマの魅力であると言えます。

 
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