ラファエル前派周辺の画家 エトワード・ジョン・ポインター |
ラファエル前派の画家たち言えばミレイ、ロセッティ、ハント、バーン=ジョーンズといった人たちで、彼らはラファエル前派兄弟団に参加したし、運動の中心メンバーとしてリードしていました。その一方で、彼らが精力的に作品を発表し、少しずつ世間の耳目を集めていくに従って、運動が広がっていきました。それ応じて、運動に参加したり、運動には参加しなくても彼らと相互交流をつづけたり、運動には距離を保ちながらも間接的に影響を受けたり、様々なかたちでラファエル前派の運動に係る人々がでてきました。ここでは、そのような画家たちをピックアップしてみたいと思います。 エドワード・ジョン・ポインター(1836~1919)は、建築家で画家のアンブローズ・ポインター(1796-1886)の息子としてパリで生まれました。1852年からトマス・ショッター・ボイスのもとで手ほどきを受けている。1853~54年にはローマを訪問し、ここでレイトンに出会った。彼の作品と新古典主義の芸術思想はポインターにその後長く強い影響を及ぼすことになるのです。ロンドンに戻り、リー素描学校で学び、ウィリアム・チャールズ・トマス・ドブソンに弟子入りする。ロイヤル・アカデミー美術学校にも短期間通いました。1855年、パリ万国博覧会で展示作品に衝撃を受けたポインターは、ふたたびフランスに赴き、パリに1859年まで滞在した。パリではグレールのアトリエとエコール・デ・ボザールで研鑽を積み、グレイルが要求した厳格な学問的、古典的な戒律を身につけ、最も形成的な3年間を過ごしました。そこで「ポインターは英雄的でロマンティックな古典主義の雰囲気の中で訓練を受けた」といわれています。なお、ポインターはそこで、アングロ・サクソン系の芸術家仲間と親交を結び、その様子を後にジョルジュ・デュ・モーリエが小説「ドリルビィ」で活写することになります。
1870年代以降の「アエスキュラピウス」や「市場の片隅」などの彼の絵画のほとんどは、純粋に装飾的なものとなりました。これらの作品には、彼の初期の作品のような感情的でドラマチックな力はありません。後の経歴では、彼はアルマ=タデマの古典的なジャンルのシーンに似たより小さな作品に自分自身を限定し、主に管理に彼の時間を費やしました。その一方で、様々な公的な役職に就任して輝かしいキャリアを積んでいきました。歴史的には、ポインターの評判は師であるレイトンの評判に影を落とされており、彼はカラフルな個性を持っておらず、また、彼は有能な画家ではあったが、レイトンのビジョンと想像力に欠けていたために、歴史家たちから軽視され、死後は埋もれていったのでした。 (2)ポインターの主な作品 ポインターの作品は、あまり日本では紹介されていないようで、日本語のタイトルが不明な作品は、混同を避けるため英文でタイトルを記すことにします。また、以下の作品が代表作かどうかは何とも言えません。 ■ エジプトのイスラエル人(1867年)
けれどもイスラエルの子孫は多くの子を生み、ますますふえ、はなはだ強くなって、国に満ちるようになった。ここに、ヨセフのことを知らない新しい王が、エジプトに起った。彼はその民に言った、「見よ、イスラエルびとなるこの民は、われわれにとって、あまりにも多く、また強すぎる。さあ、われわれは、抜かりなく彼らを取り扱おう。彼らが多くなり、戦いの起るとき、敵に味方して、われわれと戦い、ついにこの国から逃げ去ることのないようにしよう」。そこでエジプトびとは彼らの上に監督をおき、重い労役をもって彼らを苦しめた。彼らはパロのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。(「出エジプト記)第1章7~11節) エジプトの監督が彼らの背中に鞭を打っている間に、前景に赤花崗岩で作られたライオンの彫刻を引っ張っているイスラエル人奴隷の数十人が描かれています。前景から少し後退した右側には、同じ花崗岩の獅子が高い門をくぐっている様子が描かれており、奥にはほぼ完成した花崗岩の獅子がずらりと並んでいます。前景に戻ると、中央の花崗岩の獅子を追う小さな王族の一団が見えます。行列の中のエジプトの王女は、イスラエル人をこのような奴隷制度から解放するために導く幼子のモーゼを抱きかかえていますが、彼はミニチュアサイズの鞭を持っています。ポインターは、この場面を細かく描き込まれた建築物の風景を背景に描きました。出エジプト記の記述では、ピトムとラムセスの都市について具体的に言及していますが、ポインターは、これら2つの都市の時間的・空間的な境界をはるかに超えた折衷的な、つまりは時代考証の正確さものではないエジプトの建築を採用しています。門の近くに描かれている4つの黒御影石の像は、テーベのアメンホテプ3世の大英博物館に展示されているものをモデルにしていますが、赤御影石のライオンは、1854年のクリスタルパレス展でエジプト宮廷に展示された別の博物館の作品をモデルにしていると言われています。画面左の遠景には、ギザの大ピラミッド、フィラエの神殿、ヘリオポリスのオベリスク、そして最後にエドフのパイロン・ゲートウェイが並んでいます。これらの作品に描かれた建築やモニュメントは何千年にもわたっており、これらすべての構造物の間に物理的な距離があることは言うまでもありませんが、ここではそれらが互いに歩いて行ける距離にあるように見えます。 ポインターは、その初期の活動においては、東洋のテーマに興味を持つようになり、「エジプトのイスラエル人」は彼の最初の大成功と考えられます。この作品は完成までに3年を要し、1867年にロイヤル・アカデミーで展示され、大成功を収め、ポインターの代表作の一つとして知られるようになりました。しかし、それなりの批判を受けました。考古学的な正確さを軽視しているように見えるこの画家の作品を不支持する人もいれば、題材が不適切で魅力的ではないとする人もいました。 ポインターの男性の形に対する熟練した技術は、この作品(王女を除いて、男性だけが描かれている)では、押したり引っ張ったりと、さまざまな種類の肉体的緊張の下で男性の肉体をとらえています。 ■アンドロメダ (1869年)
エチオピア王国は美しさを鼻にかけた王妃カシオペアによって支配されていた。カシオペアは自身と娘アンドロメダの美しさが、海神ポセイドンに仕える海のニンフであるネレイデスより優れていると主張した。ネレイデスがカシオペアの言動に気づくと彼女たちは激怒してポセイドンに抗議し、ポセイドンはエチオピアの海岸を荒廃させ、エチオピアを危険にさらすためにケートスあるいは海の怪物を呼び出して報復した。王妃は夫ケーペウスともに、ゼウス・アンモンの神託に従って、アンドロメダを怪物に捧げることに決めた。メデューサ退治から空を飛んで戻ってきたペルセウスは、鎖で繋がれたアンドロメダに一目惚れし、彼女の鎖を解く。ポセイドンに差し向けられた怪物が彼女に襲いかかろうとしたとき、ペルセウスは死闘を繰りひろげ、ついには怪物を打ち倒す。勝利したペルセウスはアンドロメダを花嫁とする。
ポインターの「アンドロメダ」はオールドマスターの絵画のような質を持っていて、その暗くて不吉な岩と官能的な女性の肉の暖かさとのコントラストがあります。彼女の青いローブは、波しぶきの暴力を響き渡らせ、彼女の無力さを表現しています。このローブが風に翻るさまはティツィアーノの「アリアドネ」を研究したものだと言われています。アンドロメダの髪は縛られており、手首の残酷な鉄の束縛を反映しています。彼女の体は、ミケランジェロの瀕死の奴隷を思い起こさせるようなポーズで不愉快にねじられ、顔は痛みと恐怖を伝えています。この片足を前に出して身体をよじるアンドロメダの姿態はレオナルド・ダ・ヴィンチの「レダと白鳥」から直接のインスピレーションを得たかもしれません。彼女は下の海のどこかに潜む怪物が見えないように目を閉じており、彼女の唇はまるで自分の嘆きを歌っているか、神々に慈悲を祈っているかのように、歌の中で分かれています。彼女の横顔はあくまでも冷ややかでありながら恐ろしい悲劇を予告しているかのようです。 ■愛の神殿のプシュケ (1882年)
ポインターが描き出しているのは、夜になれば戻るクピドを待ちわびつつ、昼間の無聊を慰めるプシュケの姿です。彼女は、一夜のスイカズラを、彼女の表象である蝶に向けています。大理石の壁や円柱が覗く豪奢な宮殿が背景となり。右奥にはアーケード越しに光を浴びた庭が見える。この庭は、ウォーターハウスに「クピドの庭に入るプシュケー」という作品みもありますが、クピドのシンボルのようなものと思われます。つまり、右の窓こそが夜になるとクピドが飛んでくる入り口で、その窓の奥に覗いている庭がプシュケと隔てられたクピドを暗示しています。ここでのプシュケは、こころもち憂いを帯びているのは、この隔たりと、この後、二人の姉にそそのかされて、眠っているクピドにランプの灯りをかざした時、プシュケは自分の愛する人が神々しいまでに美しい神の使いであることを初めて知るのだが、それによりクピドは自らのもとを去ってしまうという悲劇を暗示しています。物語は最終的にはクピドとプシュケの結婚という、ハッピーエンドで幕を閉じる。 ■市場の一画 (1887年)
この作品の2年後、ポインターは「ヴィラの一画」という作品で、同じような構図で若い2人の女性が楽しそうに子供を見守る情景を描きました。両作品は何もせずに忙しく過ごしている古典的な女性たちの絵画に好んで描かれる「ドルチェ・ファー・ニエンテ」として姉妹のようによく似 これらの作品は、1880年代にポインターが古代世界の日常生活を描いた小さな絵のグループのひとつです。それらには、特定の文学や歴史、地理等の背景があるわけではない、リラックスしたものです。他にも「テラスにて」(右図)(1889年)のような作品もあります。モデルはモザイク模様の床に置かれたクッションに座り、その向こうにはスイカズラ文様の浮彫りが施された大理石の低い壁が連なっています。少女はゆったりとしたガーゼのようなドレスを身にまとい、手には扇を持っています。その上にはカブトムシが乗っているが、彼女は明るい色の羽根でそれをもてあそんでいます。左手には階段が海に向かって続き、遠景には島、あるいは岬が見えますが、それはナポリ湾越しに見えるカプリ島を暗示しています。 ■ The Visit of the Queen of Sheba to King Solomon(1890年)
ポインターは、ラファエル前派のホルマン・ハントの「The Finding of the Saviour in the
Temple」(右下図)(1860年)や「The Shadow of
Death」(1879年)といった作品を参考にして、構想や準備を進めたと言われています。たとえば、これらの作品は、観客を聖書の歴史を再現した異国情緒あふれる時間と場所に引き込むために、画家自身がデザインした額縁に収められています。その作品の画面は、それぞれ19世紀の考古学的発見の結果と、個々の物体と聖書のテキストに記述されている場面の両方を想像力豊かに組み合わせて再構築されていました。この作品の構想は次のように説明されています。 高価な石の土台、レバノンの杉で作られた柱と梁、金と真鍮の贅沢な装飾、12頭のライオンに囲まれた6段の階段を持つ王の壮大な象牙の玉座などが記載されており、メソポタミアやその他の近東地域の考古学的発掘調査で得られた証拠に基づいて、驚くほど複雑で真実味のある建築装置の中にあります。この玉座には、細部、人物、物、動物までもが展示されており、イスラエル王国の後継者であり、エルサレムの神殿を建設したダビデ王の息子、ソロモン王の伝説的な宮廷が再現されています。
舞台となっているのはソロモン王の宮殿の大広間で、評論家たちは、当時の考古学者たちによるアッシリアとペルシャの発見により、ポインターは装飾の細部や調度品に取り組むための多くの材料を得ることができました。ライオンは大英博物館に所蔵されている模範図が典拠で、エジプトの楽器や皿、カップ、ボウル、その他の器などは、右手前にある平和の一人の人物に見てもらうことができました。ポインターの想像力は、この巨大な構図に組み入れるための本物のイスラエルの古代美術品がないことによっても制約されていませんでした。象牙の玉座は大部分が彼自身の発明であり、衣装の大部分は、広範な歴史的研究、多数の下絵や建築物の縮尺模型などから知的に情報を得たものです。ポインターがこの絵を描くために長い間努力してきた間、光の様々な効果を最大限の精度で立体的に観察できるように、ポインターが構築したものであった。 ハント、アルマ=タデマ等の画家たちのように、ポインターは学問的な研究と想像力を組み合わせて古代の生活の一場面を描き出しました。これらの他の2人の画家のように、古代の近東の風景の彼の非常に詳細な描写は、観客が古代の過去の生活を体験することを可能にするために、現代のリアリズムの技術を用いてリアルらしく見せることに努めました。しかし、ハントとは異なり、タデマやロングのように、ポインターはただ古代の出来事を正確に表現したかっただけで、キリスト教の到来を予言するために聖書の象徴主義を使ったり、その光景を歴史的な出来事として、また神秘的な体験として存在するものに変えようとは考えていませんでした。このようなアプローチは、ハント(あるいは初期の「両親の家のキリスト」のミレイ)とは異なり、『シバの女王のソロモン王への訪問』をヴィクトリア朝後期の観客にはるかに身近なものにしたのでした。 ■ The Ionian Dance(1895年)
画面の中心は透き通るようなヴェールを身にまとってダンスを踊る少女です。彼女の背後並ぶ愛人や女性たちは、大理石のベンチや台に座って、女性の笛の調べに合わせて少女が動くのを見ています。この作品を見る者もまた、そのダイナミックな光景を観察するように誘われ、少女の裸体をかろうじて隠しているかのような薄い流れるようなドレスに視線を導かれるようになっています。 細かいところを見ていきましょう。背景には黄色と白のオリエンタル・アラバスターの高さのある太い柱が立っていて、金色のキャップと豊かな成形の土台に支えられています。壁には深みのある色の大理石が敷き詰められており、庭や木々、花、日光と陰影が見えないように設定されています。床には幾何学的なパターンでモザイクが敷き詰められ ■Fishing, the Nymph of the Stream(1905年) 小川のほとりで、一人の少女が清流で入浴するために服を脱いだが、今は水に張り出した大きな玉石の上に座っていて、竹竿で魚を釣ろうとしています。彼女の周りには、清流が渦巻くプールに落ちていく牧歌的な風景、春の花の絨毯を敷き詰めた雄大な玉石、そして小川の向こうに伸びる節のある木々がある。 この絵は、1907年のロイヤル・アカデミー夏の展覧会で展示された時には、現在の絵とは微妙な違いがありましたが、1914年に修正されました。その違いは、ヌードの背中の後ろにウシノキの植物が入っていること、遠くに小川があること、垂れ下がっている木の上に葉が多くあることです。ポインターはこの変更がこの絵の修正を正当化すると感じていたようで、おそらくこの変更は新しい顧客を引き付けるために行われ、以前の絵の修正というよりはむしろ新しい作品であることを示唆しています。流れのニンフというタイトルも、自然の不滅の精霊の一人である水のニンフであることを示唆するものがほとんどないため、後の発明である可能性があります。彼女の縛られた髪、織られた籠やローブは、そのようなものを必要としないニンフではなく、むしろ人間の女性の身の回りのものです。ポインターは、1903年の有名な「Cave of the Storm Nymphs」(右上図)の中で、ニンフたちが海の洞窟に投げ込まれた宝物をさりげなくおもちゃにしていることを明らかにしています。1904年にポインターは、似たような裸の少女がプールの冷たい水を試す「The Nymph's bathing place」を描いています。 ■ Lesbia and her Sparrow (1907年) ローマ時代の詩人ガイウス・バレリアス・カトゥルス(紀元前84〜54年)はサッポーの異名であるレスビアという女性にあてて多くの恋愛詩を書きました。現代まで残された彼の116篇の詩のうち、25編がレスビアにあてた恋愛詩ということです。中でも「スズメが死んだ」の中から引用します 人間の喜びに関わる限りの神よ。 私の恋人の雀が死んだ。 彼女が目に入れても痛くないくらいに可愛がっていた 一羽の雀が死んだ。 蜜のように愛らしく、 少女が母親に甘えるように、 私の恋人になついていた。 彼女の膝の上から離れようとせず、 あちこち向きを変えては飛び跳ねる。 ちゅんちゅん鳴くのは、彼女に対してだけだった。 レスビアは、メテルス・セレールの妻であるクロディア・メテリ(紀元前95年)を表すと考えられています。彼女は詩人としての才能に恵まれた美しい女性して知られています。カトゥルスとレスビアとの恋愛は単純なラブストーリーではなく、苦い嫉妬と後悔に悩まされていました。彼らの不倫の最中に、最終的に死んだスズメは、詩人の永続的な愛を象徴すると考えられ、またエロティックな意味合いを伝えるかもしれません。
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