ラファエル前派周辺の画家
チャールズ・ウィリアム・ミッチェル
 

 

ラファエル前派の画家たち言えばミレイ、ロセッティ、ハント、バーン=ジョーンズといった人たちで、彼らはラファエル前派兄弟団に参加したし、運動の中心メンバーとしてリードしていました。その一方で、彼らが精力的に作品を発表し、少しずつ世間の耳目を集めていくに従って、運動が広がっていきました。それ応じて、運動に参加したり、運動には参加しなくても彼らと相互交流をつづけたり、運動には距離を保ちながらも間接的に影響を受けたり、様々なかたちでラファエル前派の運動に係る人々がでてきました。ここでは、そのような画家たちをピックアップしてみたいと思います。この人は、バーン=ジョーンズのフォロワーの一人です。

 

(1)ミッチェル、画家と作風

チャールズ・ウィリアム・ミッチェル(1854〜1903)という画家については、19世紀にニューカッスルで活躍したということになっていますが、当時、女性の裸体をあからさまに描いたことでスキャンダルとなった「hypatia」(1885年)が代表作として、それのみが取り上げられ、その他にも作品を制作しているのに、まったくといっていいほど触れられることのない、という人です。

いちおうの経歴程度しか調べられませんでした。1854年ニューカッスル・アポン・タイン生まれ、ジェズモンド・タワーズに住む父親は裕福な造船主でコレクターでもあったといいます。ミッチェルはパリで修行し、1876年から89年にかけてはロイヤル・アカデミーで、85年から87年にはグローヴナー・ギャラリーで、肖像画、風俗画を展示しています。1878年には、修行時代に知り合ったヨーロッパ各地出身の画家たちにニューカッスル芸術連盟へ作品を出品するよう奨励し、これが機縁となって、ミッチェルはその後、生地、ニューカッスルの画壇で重鎮として活躍し始めたということです。なお1880年代には同地に居を定めている。その程度です。おそらくは、地元を中心に多くの肖像画を描いた。それが本業だったという人ではなかったのでしょうか。

 

(2)ミッチェルの主な作品

ミッチェルの作品は、あまり日本では紹介されていないようで、日本語のタイトルが不明なため、混同を避けるため英文でタイトルを記すことにします。また、以下の作品が代表作かどうかは何とも言えません。

■Hypatia(1851年)

さっそく「hypatia」を見ていきましょう。この作品はチャールズ・キングズレーが1851年に発表した小説「ヒュパティア」からとられているものです。5世紀アレキサンドリアで女性ながら天文や数学などの学問に生きたヒュパティアという人物が、狂信的な宗教運動の中で、キリスト教徒の一群によって身体を引き裂かれるという話しです。小説では、この異教徒の哲人ヒュパティアどこまでも冷静で知的な主人公として描かれ、狂信的でヒステリカルなキリスト教狂信徒を対照させたことが、キリスト教への冒涜であること。そして、クライマックスで、ヒュパティアが死に臨んで裸身をさらす情景が強く非難されたということです。

ミッチェルの作品は、このヒュパティアが裸にひん剥かれて殺されようとする場面を描いたものです。その公開時に、キングズリレーの小説から作品の情景を説明する以下のような抜粋が添付されていたといいます。

「彼女の引き裂かれた衣服は、聖堂の身廊部や祭壇の周囲の階段、そして沈黙を続ける偉大なキリストの真下におかれた祭壇まで点々としていた…。苦痛を与え続ける監視者の手から身をよじりやっとのことで逃れると、彼女は後ろに大きく躰をそらせてすっくと立ち上がった。その裸身は雪のように白く、周囲の陰鬱な色彩から際立っていた。片手でブロンドの頭髪を引き寄せて裸身を隠し、もう一方の真白い腕を偉大な物言わぬキリストに向けて高々とかかげた。彼女は神に訴えのである。人間から神へ─誰が彼女の願いが空しいと言い切ることができようか」。

この作品は、リアルな女性の裸身を生々しく描いていることが社会道徳に反するとして、センセーションを引き起こしたそうです。同じ頃、エドワード・ポインターやアルバート・ムーアといった唯美主義の画家たちの作品も槍玉に上げられたという社会情勢だったようです。

画面では、ヒュパティアはキリスト教の寺院の中にあり、祭壇のすぐ近くにあります。テーブルの上には十字架と聖杯があり、その時代(キリスト教の文字XP)のコンスタンチン皇帝によって確立されたキリスト教のシンボルを見ることができます。これはキングズレーの小説に忠実ということなのでしょうか。また、ヒュパティアという人物はアレクサンドリア、つまりエジプトの人であり、この作品のようなブロンドの長い髪で白人の薄い肌というのは、史実と異なることは明らかでしょう。つまり、ヴィクトリア朝の時代から見た、古代風という唯美主義の中で描かれた作品と言えます。

■The Flight of Boreas with Oreithyia(1893年)

ギリシャ神話で風の神はアネモイと総称され、東西南北の方向の風に応じて4人の神がいました。そのうちボレアスは冬を運んでくる冷たい北風の神です。ボレアスは強力で粗暴な性格で、法螺貝を持ち突風にうねる外套をまとい、もじゃじゃの髪に顎鬚をたくわえた、翼のある老人の姿として描写されます。

このボレアスはイリソス河からアテナの王女オレイテュイアを略奪したという伝説があります。オレイテュイアに惹かれたボレアスは、最初は彼女の歓心を得んとして説得を試みていましたが、この試みが失敗に終わると、ボレアスは生来の荒々しい気性を取り戻し、イーリッソス河の河辺で踊っていたオレイテュイアを誘拐しました。ボレアスは風で彼女を雲の上に吹き上げてトラキアまで連れ去り、彼女との間に二人の息子ゼテスとカライスおよび二人の娘キオネとクレオパトラをもうけた。

この作品は、そのボレアスがオレイテュイアを略奪した場面を描いています。この作品でのオレイテュイアのポーズは両手を広げて、突っぱねて拒もうとしているところや、足を伸ばしているところ、腕をあげていることで肩や胸の筋肉が盛り上がり乳房を突き出すようになっているところで、「hypatia」とよく似たポーズをしています。これらの作品には、古代の神話や伝説に名を借りて、実は扇情的にエロティックな作品を制作しているところがあるように見えます。

ただし、このテーマではデ・モーガンも作品を制作しており、当時は裸婦を描くということは芸術の前衛の人たちが表現を広げるために必要なことであったと意識されていたとも言えるでしょう。

■The Spirit of Song(1889年)

 
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