『良心の目覚め』に見られる
ラファエル前派の様式的特徴
 


  

ハントの『良心の目覚め』を例として、ラファエル前派の表現の特徴を見ていきたいと思います。

この作品は、ラファエル前派の現代生活を題材としたもののなかでも代表的な作品ということができます。ラファエル前派は文学や歴史上の出来事や伝説だけでなく、現代生活の劇的な場面における心理的なクライマックスの瞬間も題材としてとりあげました。これは、フランスの印象派が産業革命後の新しい市民生活の諸相を描く20年も前のことです。

彼らに先立つヴィクトリア時代の伝統的な画家たちも活気あるイギリス社会の諸相を風俗画として多数描いてはいます。しかし、これらは道徳的な教訓を含み、饒舌な描写や俗っぽい感傷性、あるいはイギリス伝統の風刺性が特色で、ラファエル前派のような社会の現実をあからさまに描いて問題提起をするという姿勢はなかったのです。では、ラファエル前派が伝統的な風俗画と袂を分けるような異質な現代社会の描写は、どのような理由ででてきたのでしょうか。それは、ヴィクトリア時代の産業革命による近代的社会の展開による社会の急速な変化が要因していると考えられます。端的に言うならば、伝統的な絵画手法では社会変化についていけなかったのです。絵画手法を含めた伝統的な文化や社会に対する考え方に対して、次第に疑問の声が生まれ始めたのです。それは、社会批判として現われました。経済、社会の進歩に対して疑問を抱き、産業化以前の世の中の方が健康的で、平和で、精神性も高く、美しかったのではなかろうか、経済発展や機械化のもたらす物質的な豊かさを得た代償は大きすぎたのではないか、こうした批判です。批評家であるトーマス・カーライルは1843年に刊行した『過去と現在』の中で、強力な指導力の下に社会が一つに統合されていた中世世界と、混沌に満ちた現代とを対比させてみました。また、カトリックを信仰する建築家オーガスタス・ウェルビー・ノースモア・ピュージンは、1836年に『対比』を刊行し、近代の都市空間を中世都市の有機的な調和、審美性の高さに引き比べ、徹底的に批判しました。そして、これらの動きを総合し、さらに過激に展開させたのがジョン・ラスキンで、1851年の『ベニスの石』の中の「ゴシックの本質」で、中世の彫刻に「石を彫った職工一人ひとりの生命と自由のあかし」を見出し、産業化以前の創造的な労働のあり方は「庶民の生気が工場の吐く煙の燃料として送りこまれ」ている「我らが英国」の「奴隷状態」、賃金でしばりつけられた工場労働と、その魂のかけらもない醜悪な製品とはまさに対照的であると批判しました。このような近代への批判が近代のスタート地点と見なされたルネサンス批判になり、そのルネサンスにより乗り越えられたと見なされていた中世への回帰的な姿勢が生まれてきます。ラファエル前派のルネサンス初期から中世を再評価する姿勢と同時代の風潮です。ですから、ラファエル前派の復古主義の姿勢は当時の社会に対する批判的な姿勢の裏返しの姿勢が隠されていたと考えても不自然ではないと思います。だから、ラファエル前派の現代社会を題材とした風俗画には生真面目な倫理性が裏打ちされていたと言えます。福音主義の立場から近代の物質主義により堕落した人間の生き方に対する救済の必要性を説き、同時にそのための自助努力と課せられた義務の履行を訴える、一種の寓意的な宗教画の様相を帯びることになります。それを意識的に作品としたのが、このハントの『良心の目覚め』ということができると思います。

では、実際に画面を見ていきましょう。様々な細部が詰め込まれていますが、場面としては若い女性がピアノに向かって歌う男の膝にのっていちゃついている最中に、突然立ち上がったという瞬間です。舞台は、ハントが用意したセント・ジョウンズ・ウッドの居間だそうですが、派手な家具がいっぱいに飾られています。ラスキンが「圧倒的なまでの新しさ」と呼んだけばけばしい品々で埋め尽くされていて、鮮やかな色のトルコ絨毯、ローズウッドの化粧張りのピアノ、刺繍を施した鐘の引き紐、窓の上に贅沢に飾り付けたカーテン覆いなどの道具立てが、男の愛の皮相さを裏付けるようです。男はいかにも羽振りがよさそうで流行の服装に身を固めているということです。テーブルの上に置かれたシルクハットにより男が訪問者であることが分かります。女の指にはことごとく指輪がはまっているのに、結婚指輪をはめるべき左手の薬指にだけ指輪がありません。そのことによって、この女性は、結婚は許されないで、男によって住まいを与えられた愛人であることを示しています。そして、彼女のまとうのは、緩めのペティコート、ペイズリー柄のショールというありあわせの衣装で、着替えの途中に男が不意にやってきていちゃつき始めたかのようです。これらことで、良心に目覚め改心しようとする女性と対照をなすものとして男性が描かれています。男が歌うのは、ピアノに立てかけられた楽譜から「しばし夜のしじまに」という曲であることが分かるそうです。幼い頃の思い出がよみがえり懐かしい人々への思いが胸につのるという内容の歌詞だそうで、純粋だった子どものことを思い出させ、彼女が目覚めるきっかけとなったことが暗示されています。彼女が着替えの途中のような姿は、その歌に心打たれ、男の膝から立ち上がろうとする彼女の、変化し始めた心模様を反映しているかのようです。たほう、テーブルの下では猫が小鳥をなぶる様は二人の関係を暗示し、床に落ちた楽譜はテニソンの詩「かいなき涙」を歌詞にエドワード・リアが作曲した歌だそうで、その歌は過去の幸福な思い出への思慕の念を歌ったもので彼女の過去を物語っているとのことです。彼女の足元に落ちた手袋はやがて捨てられる彼女の将来を暗示し、刺し掛けの刺繍の糸がもつれているのは、彼女の錯綜した状況を表わしていると言えます。

しかし、画面右下のピアノに脚もとには光があたり周囲より明るくなっており、彼女が救われる可能性をうかがわれます。また、部屋の奥には鏡があり、そこには外に向けた窓が映っており、窓の外には光溢れる情景が垣間見えます。彼女は「光」に照らされて、救われると受け取ることも可能です。

このように一つの画面の中に過去や未来の暗示も含めて、複数の時制が一緒くたに詰め込まれていて、通時的な物語の展開に沿う伝統的な手法とは異なっているものです。これは、むしろ類型的なモチーフを類似や関連で並べて主題の意味を暗視背していくという宗教画に用いられてきたものと言えます。宗教的や観念的なシンボルの体系を、現代生活の諸相の描写に適用し、各モチーフの暗示する内容によって、作品の主題を意味づけていくという表現は、「シンボリックなリアリズム」と言うことができます。そこには風刺や客観的観察を越えて、よりよき世界の探求という倫理的な願いが込められていると言うことができます。

このように、ラファエル前派の描く現代生活は、単に風俗を写生しているのではなく、宗教画の要素が潜んでおり、それは復古主義的な歴史から現代を見るという視点で描かれています。そこには現代と歴史という対立的な要素が潜在しているといえます。さらに言えば、宗教的でシンボリックな題材を取り上げながら表現は細密な写生的描写によって表現されており、「シンボリックなリアリズム」と述べましたが、言葉の意味から言えば対立しているものを一緒にして含み込んでいるのです。それらが作品としてはそれらの対立を昇華させたものとして結実している、と言うことができます。

ラファエル前派が、一方では文学や歴史の出来事や伝説のドラマティックな瞬間を題材として取り上げ、それらを現代からかけ離れた絵空事としないで、リアルなものと実感させるため写実的な細密描写を行いました。これに対して、現代社会を題材として取り上げた際には、逆に歴史的あるいは宗教・倫理に基づく理想主義的な視点から現代社会を逆照射していくために、伝統的な絵画手法にとらわれない写実的な細密描写を行ったというわけです。画面を見てもらうと、細部がごちゃごちゃしていて、その割には、いくら室内が舞台になっているといえども、空間とか奥行を感じさせず、のっぺらの平面のようになっています。それは、初期ルネサンスや中世の、未だ遠近法のような近代的な視点が見出される以前の宗教画に見られるような宗教的シンボルの体系の配置のような構成になっているように見えるのです。しかし、個々のモチーフは写生に基づき細密に描写されているのです。伝統的な絵画の、遠近法的ないわゆる「絵画としてまとめあげるメソッド」とは異質な画面を形作って、かといってシンボリックな中世の宗教画とも違う、さきほど述べた「シンボリックなリアリズム」とも言うべき特徴的な様式を作り出していると言うことができます。

 
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