ラファエル前派は、その名前が示す通り、同時代の権威であるロイヤル・アカデミーのラファエル主義に対する「反抗」が出発点でした。ここでは、その出発点となったラファエル前派のメンバーたちが反抗した当の対象について考えてみたいと思います。
まず、ウィリアム・ホルマン・ハントの次のようなラファエル前派の自己定義の言葉に、そのことが語られています。“Pre‒Raphaelitism(前〈ラファエッロ派〉主義)は、Pre‒Raphaelism(前〈ラファエッロ〉主義)ではない。ラファエッロはその最盛期に於いて、因習に対してもっとも独自で大胆にふるまった芸術家のひとりであった。(中略)しかしラファエッロが実際は、システィーナ礼拝堂の天井を彼が見た後の12
年間の栄光に輝く年月に終わりがくる前に、豊かな牧草地につながれて自由が制限されていることを知らない高揚した馬のように、つまずかず、落ちぶれもしなかったかどうかは疑問であろう。(中略)ラファエッロの生涯に於けるどのような失敗もここでたどる必要はないが、彼の生産力の浪費、多くの助手達の養成が、彼に制作の規則と方法を犠牲にすることを強いたのだった。彼の追随者達は、ラファエッロに先立たれる前でさえ、師が描くポーズを強調し定型化して描いた。彼らはラファエッロの描く頭部の傾きや手足の輪郭を強調したので、人物はパターン化されて描かれるようになった。彼らは人々の集まりをピラミッドへとねじり上げ、彼らを前景のチェス盤上の駒のように配置した。彼らの師自身も最後には、そんな紋切型の例を供給することから逃れられなかった。”つまり、ハントによれば、ラファエル前派が批判したのはラファエロという画家ではなくて、ラファエロの工房やその後継者たちの職人的なパターンを繰り返すような紋切型の描き方です。紋切型に堕してしまうことで、対象のリアルで活き活きとしたものが失われてしまう。そこで誤解を恐れずにいえば、これに伴い感情的な感動を作品から感じることができない。それを批判することからラファエル前派の考え方、姿勢が生まれてきたとハントは語っていると考えられます。
そもそも、彼らがラファエル前派としてラファエロを持ち出してきたのは、当時の権威であるロイヤル・アカデミーの玄関にラファエロの『キリストの変容』の複製が飾られていたということからです。このロイヤル・アカデミーは1768年に初代会長のジョシュア・レイノルズが推奨した大様式(グランド・マナー)を規範としました。
(1)ジョシュア・レイノルズ
ラファエル前派の画家たちが、おそらく彼らの「反抗」の具体的な対象として標的にしたのがロイヤル・アカデミーの初代会長であり、アカデミーにおける「美術講義」という形式主義の典範ともいえる著作をものしたジョシュア・レイノルズ(1723〜92)という画家だったと思います。保守的でアカデミックな制作態度、および、「ロイヤル・アカデミーの初代会長」という肩書きから、権威におもねった旧弊な画家というように、彼らの目に映ったのでしょう。
レイノルズは、当時の古典的絵画の本場であるイタリアに留学してルネサンスからバロックを経た古典的な名作に多数触れて帰国しました。17世紀のイタリアやフランスの美術アカデミーが掲げた正統的美術理論では、人間の意義ある行為を描く歴史画が最高ランクに置かれていたと言います。歴史画を描くには絵画表現の技術だけではなく、歴史的・文学的知識や豊かな構想力が必要であるとされていました。そこには、画家の教養に裏打ちされた総合的な創造力が発揮できるものとされていたわけです。しかし、イギリスはヨーロッパ大陸とは違って、歴史画は振るわずもっぱら肖像画に対するニーズが高かったと言います。これは、16〜17世紀の宗教改革により教会が国家の管理下に服し、偶像崇拝を禁止するピューリタニズムの過激な運動の影響でイコノクラスム(聖像破壊運動)が吹き荒れた影響で宗教画や歴史画の多くが破壊され、しかも注文層が弱体化してしまったためです。その代わりに大陸貴族に比べれば規模の小さいイギリスの貴族やジェントリーたちには家の伝統や記念を私的に記録する肖像画を求めたということなのだろうと考えられます。もっとも、彼らが歴史画を必要としても、本場イタリアの作品を買い付ければいいわけで、わざわざ絵画後進国であるイギリスの画家に描かせることもなかったわけです。そんな環境に、本場の絵画を身につけたレイノルズが颯爽と帰国しても、歴史画の依頼など来るはずもありません。レイノルズにとって正統的でランクの高いのは歴史画です。それが描けないというのは、本場に比べて後進的ということになってしまいます。そこで何とかイギリスを本場と肩を並べるところに持って行きたいと歴史画を根付かせようとしたのは分かります。そこで、レイノルズがやったことは、依頼された肖像画を制作する際に、貴婦人に古代風の衣装をまとわせたり、戦場を背景に軍人の肖像を描いたりと、肖像画を歴史的に演出し、歴史画ふうの表現をしていくことでした。
しかし、肖像画は注文によって描かれるもので、常識的に考えれば、モデルよりも立派に見えることが求められるわけで、その立派さは分かり易いことが必要でした。だからそこでは一定の「型」や「約束事」による効果が期待されていたわけです。例えば、学者文人の肖像では、行動よりも思索の人であることを暗示する机に向かって着席したポーズを用いるというように。他方、肖像のモデルである注文主に長時間モデルになってもらうことは物理的に困難で、大抵は短時間でスケッチを急いで描いて、それをもとに人形や似た体形の別人を使って全体を描き切ることをしていたのです。だから、細部まで写生するということはできず、人形のようにこわばった肖像になっているものも多かったといいます。
そのような事情で、しかも、歴史画にならってモデルの本質なり寓意的意味なりをあらわす演出をするのに、写生を超えた画家の構想力を駆使して作品をものにしようとしても「型」にはまって、形骸化してしまうのは避けられないことではなかったか、と思います。
しかし、例えば「アルブマール伯爵夫人」(右図)の肖像を見て下さい。この女性は類型化などされてはおらず、リアルな個人として息づいています。この女性の鋭い視線の前では、絵を見ているこちらの人物を鋭く観察されているような気がしてくるほどです。しかも、女性の衣装の描写などは細かく精緻です。
その意味で、ラファエル前派の画家たちがレイノルズを批判の槍玉にあげたのは、誤解があったとは言いませんが、そこには、多分に彼らが理念を先行させ、それに都合よく利用できる対象としてレイノルズがあったと言えるのではないかと思います。レイノルズの作品を見ていると、むしろラファエル前派の作品に通じるものを見ることができるように私には思えるのです。