1848年のロンドン、大英博物館にほど近いブルームズベリー地区ガワー街83番地、ジョン・エヴァレット・ミレイのアトリエに7人の若者が集まりました。彼らは、批評家ジョン・ラスキンをして「いささか滑稽な」と言わしめた「ラファエル前派兄弟団」という名のグループを結成します。中心メンバーは、ロイヤル・アカデミーの附属美術学校で知り合った、ウィリアム・ホメマン・ハント、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティそしてミレイです。彼らは、ラッキー・ナンバーである7へのこだわりから、友人を誘い仲間に引き入れました。詩人でもある彫刻家のトマス・ウールナー、ロイヤル・アカデミーの学生のジェイムズ・コリンスン、税官吏のウィリアム・マイケル・ロセッティ、そして画家として挫折した後に芸術批評に転じたフレデリック・ジョージ・スティーヴンズという面々です。
彼らはラファエロ以前の美術に学ぶという信条を共にし、兄弟のように結束する修道院の組織を思わせる兄弟団と名乗ることにしました。そして、当時のロイヤル・アカデミーの掲げる美術の規範に反旗を翻し、ラファエロ以前の初期ルネサンス絵画や中世絵画にならい、徹底した自然描写と真摯な政策態度による、独特の象徴的な絵画を生み出そうと運動をスタートさせました。
当時のヨーロッパ社会は、政治的な社会運動の高揚期にあったと言います。とくにイギリスでは1848年にチャーティスト運動の大規模なデモがおこり、その頂点を迎え、ラファエル前派兄弟団のメンバーたちも、これらの動きに同調したといいます。ただ、彼らの関心はあくまでも芸術に対してものだったと言えます。
では、当時のイギリス画壇の状況はどうかと言えば、商工業の大きな発展に伴い新興市民階級が勃興してくる中で、肩の凝らない風俗画が流行していたといいます。これは、市民の国であったオランダ等の美術の影響を受けたもので、しかし、そこからオリジナルな創造に向かわず、作品が技巧的に優れたていれば良い仕事と見なされるようになり、イギリスの絵画は次第に因習と反復に埋もれていったと言います。そのような因習的な権威の象徴として、ラファエル前派兄弟団が目の敵にしたのが、ロイヤル・アカデミーに飾られていたラファエロの『キリストの変容』(右図)の複製画だったそうです。それがラファエル前派の名前の由来となったということです。
そのようなラファエル前派の特徴は別のところでお話ししますが、当初はアカデミーをはじめとして権威からの反発をうけ強い批判にさらされたようです。それに対して、ジョン・ラスキンのような批評家の擁護を受けたりしながら、次第に新興市民階級の中に支持者を広げていったといいます。
しかし、ラファエル前派兄弟団の結束は10年も保たず、ミレイが1854年のアカデミー会員に選ばれるなど、メンバーの行動がバラバラになり、事実上崩壊してしまいます。その中で、ロセッティが、バーン=ジョーンズやウィリアム・モリスと出会い、新たな活動を開始します。これもラファエル前派の活動を見られたので、以前のミレイやハントとの活動と混同されがちですが、両者はまったく異なる性格の異なる特徴をもった作品を生み出したものです。実質的には別々のものと言っていいと思います。そのため、ここでは、ロセッティ、バーン=ジョーンズ、モリスらの活動を第二次ラファエル前派として便宜上区別します。この第二次ラファエル前派は19世紀末の象徴主義の運動につながる結果となりました。