ラファエル前派周辺の画家
ハーバート・ジェイムズ・ドレイパー
 

 

ラファエル前派の画家たち言えばミレイ、ロセッティ、ハント、バーン=ジョーンズといった人たちで、彼らはラファエル前派兄弟団に参加したし、運動の中心メンバーとしてリードしていました。その一方で、彼らが精力的に作品を発表し、少しずつ世間の耳目を集めていくに従って、運動が広がっていきました。それ応じて、運動に参加したり、運動には参加しなくても彼らと相互交流をつづけたり、運動には距離を保ちながらも間接的に影響を受けたり、様々なかたちでラファエル前派の運動に係る人々がでてきました。ここでは、そのような画家たちをピックアップしてみたいと思います。

 

(1)ドレイパー、画家と作風

ロンドンで生まれ、最初は科学者としての教育を受け、自身科学に対して強い興味を抱いていましたが、その後ロンドン北部にあったセント・ジョンズ・ウッド・アート・クールに学び、次いで1884年にはロイヤル・アカデミー美術学校に入学しました。そこで人物デッサンにより銀メダルを受賞し、後には金メダルを得て留学のための奨学金を受け、それを利用してスペイン、イタリア、フランス、そしてネーデルランドなどを訪れ、歴史的な美術作品を精力的に学ぶとともに、自らが見たものを丹念に描きとめました。1892年にイギリスに戻り、フレデリック・レイトンの真の後継者とみなされて、その絵画技法を踏襲しました。それは色チョークを使って背景となる風景や全体の構図を描き、人物についてもチョークによる裸体と着衣の素描を多数行い、その組み合せによって画面構成を行うというものでした。

ドレイパーの神話や文学に取材した作品は、19世紀の末から第一次世界大戦が始まる頃まで、極めて高い人気を誇りまし。また彼は歴史画だけに留まらず、肖像画も描き、風景画にも巧みな技を見せました。

ドレイパーは、ウォーターハウスもその一員だったセント・ジョンズ・ウッドにあった芸術家村の一員で、20世紀に至るまで大衆的な人気を博しました。しかし、1920年に亡くなる頃には彼の作品は時代遅れとみなされ、その存在はほとんど忘れ去られていたといいます。

サイモン・トールが2002年に発表したこの画家のモノグラフの序文に書いているように、彼は「流動的な時代、豊かな黄金時代、壮大な物語性のある絵画の最後のスタンスを見た時代に、アカデミック・ロマンティシズムの最も成功した表現者の一人となった」のである。ある者がアヴァロンやカルナックを夢見る一方で、ドレイパーとその後援者は、サイレンの声とバッカンテの遠くの笑い声に惑わされていた。ドレイパーの作品に共通する主なテーマは、女性と水との関係であり、彼の最も成功した作品のほとんどすべては、海や川のそばで裸の女性を描いています。彼が最初に描いた裸の女性の絵は、1893年のスペンサーの『フェイリー・クイーン「泉の精霊」』の挿絵(右上図)で、セクシーなニンフが若い騎士を誘惑しようとしています。トールが指摘しているように、「神話では、水のそばで出会った女性の誘惑は、常に避けた方がよいとされていた」。しかし、海のニンフには、セイレーンとオンディーヌという二種類のタイプがあり、前者は殺人的で冷徹で、後者は海の遊び心のある魅力的な精霊です。ドレイパーの芸術では、彼はこれらのテーマの流れの間を移動し、危険な海の精と愛らしい海の精の両方を描きました。1894年には、The Sea Maiden(左上図)でセイレーンのテーマを拡大し、ロイヤル・アカデミーでの最初の大成功を収めましたが、1890年代半ば以降は、サイレンよりもオンディーヌに集中するようになりました。1897年のCalypso’s isleThe Foam Sprite、1898年の「イカロス哀悼」、1900年のThe Water Babyなど、水の中や水の周りにいる女性を描いた作品が次々と成功を収めていきました。20世紀に入ってからも、海辺での漠然とした古典的なヌードの研究は、1905年の「Ariadne Deserted by Theseus」、1907年のThe Pearls of Aphrodite(右図)、1909年の有名な「ユリシーズとセイレーンたち」などの絵画で続けられました。最後の作品では、欲望に満ちた危険なサイレンを題材にした作品に戻っていましたが、主な焦点は女性のフォルムのセクシーな表現です。

 

(2)ドレイパーの主な作品

ドレイパーの作品は、あまり日本では紹介されていないようで、日本語のタイトルが不明なため、混同を避けるため英文でタイトルを記すことにします。また、以下の作品が代表作かどうかは何とも言えません。

イカロス哀悼 (1898年)

物語は古代ギリシャ神話に取材している。職人のダイダロスとその息子イカロスは、アテネを追放されクレタ島に避難する。しかし、そこでミノス王の不興を買い、有名な迷宮の中に閉じ込められてしまいます。そこで、クレタ島から脱出するために、ダイダロスは羽を集めてそれをロウで固めて翼を作り、息子と共に飛び立つことを考えます。ダイダロスは息子に向かって、高く飛びすぎても、海面に接するほど低く飛びすぎてもいけないと注意を与える。しかし、空を飛ぶことの楽しさにふけるあまり、イカロスは父の教えを無視し、さらに高く舞い上がってしまいます。ダイダロスが怖れたように、太陽の熱は羽を固定していたロウを溶かし、少年は墜落し死んでしまうのでした。ドレイパーの作品は、父の教えに背いたイカロスの悲劇的な結末を伝えている。翼を広げたイカロスが岩の上にその亡骸を横たえており、波の中から現われた3人の海の妖精がこの悲劇的な場面をじっと見つめています。

イカロスのつけていた大きな翼は無様に乱れ、地中海の風にわずかにそよいでいます。生気を失ったイカロスの体はあおむけに横たえられ、2本の腕は父が作った革ひもに通されている。肌は太陽の熱に焼かれており、海の妖精の乳白色の体と対照的です。この作品の中心は、イカロスと海の妖精の若くて美しい姿です。しかし、それは儚いもので、若いイカロスは死体となっています。イカロスの翼は神話ではロウが溶けてバラバラになってしまうのですが、画面では翼の形態は、そのままです。これはイカロスに天使のような外観を与える効果があり、その遺体はふかふかの翼の上にゆったりとした姿で羽根に埋もれるように、そして、一人の妖精の腕の中で溶けているように見えます。このように若くて美しい青年が、死んでしまうことで、その記憶は若くて美しい姿のまま残る。それに対して、物質としての死体は朽ちていくのですが、その一瞬の儚い美を捉えているということができます。それは、夭折の美少年、あるいは美少女というロマン主義的な美意識に通じるものがあるといえるのではないかと思います。

また、イカロスの身体の日焼けした肌は太陽に焼かれたためで、3人の妖精の白く滑らかな肌との対照により強調されています。遠くの崖に沈む夕日の光線は、時間の過渡性を強調しています。それは、さらに妖精の手にしている竪琴と髪飾りの花輪の象徴によって、そして遠くの崖の上に虹色の輝きを放つ日光の通過を通して繰り返されます。

この画面を見る者の視線は、イカロスの翼をたどることによって、彼の身体に導かれます。 そこから視線は彼の体を支えている2人の悲しみの海の妖精までフォローアップして彼らの視線を追うことができます。いったんそこに着くと、次にイカルスの腕を追って彼のもとに泳ぎ着いた妖精を見つけ、それからもう一度イカルスに戻ることができます。このイカロスは3人の海の妖精の構成は、画面の中で組み合わされてエロティックな交渉を示唆しています。ヌードの男性が、女性の欲望の視線にさらされているのです。しかし、イカロスはすでに死んでしまつています。そのことが性的な要素を直接表わすことを避けています。しかし、死の要素が加わることで、エロチシズムの観念的に表わされることになっています。それはまた、画面の中のすべてのものが、滑らかで官能的に描かれ、人物と背景も同等に扱われる。さらに光と影の魅惑的な効果がそこに加わります。

同じようにイカロスを題材として取り上げ、フレデリック・レイトンの1869年の作品(右図)は、イカロスが飛行する前に、父親から忠告を受ける場面を描きましたが、ドレイパーは飛行の悲劇的な終わりを描きました。ドレイパーはレイトンの後継者と評されていましたが、こういう点に、二人の資質の違いが表われていると思います。

ユリシーズとセイレーンたち (1909年)

物語は、古代ギリシャの詩人ホメロスの叙事詩『オデュッセイア』の主人公オデュッセウス(ユリシーズ)がセイレーンの声に苛まれるエピソードです。トロイ戦争を終えたオデュッセウス(ユリシーズ)が故郷に帰る航海の途中、セイレーンの歌声を聴くために部下たちに自らをマストに縛り付けさせます。彼以外の船員たちは、歌声に誘惑されて船外へ飛び降りるのを防ぐために耳をワックスで塞ぎました。セイレーンの美しい歌声は、それを聴いた船員たちを誘惑し、死に誘い込むと言われていたからです。この作品では、オデュッセウス(ユリシーズ)がセイレーンの誘惑に直面させられている場面です。本来セイレーンは、3人ないし7人姉妹で、胸までが人間の女性、その下は鳥の姿をしていると言われてきました。しかし中世以降、その複数形の表記が人魚と同じであることから、下半身を魚で表現することが増えてゆきます。その後、セイレーンを鳥として描くか、人魚として描くかは画家や発注者の好みで、例えば1891年のウォーターハウスの「オデュッセウスとセイレーンたち」(右上図)では半人半鳥の不気味な姿で描いています。これに対して、1858年のレイトンの「漁師とセイレーン」()では人魚の姿で、S字にうねる体の曲線をあらわに示す姿勢で、すでに意識もないように見える漁師にぴったりと抱きつき、海に引き込もうとしている姿で描かれています。二つの三つ編みにまとめられた長く豊かなブロンドには真珠と珊瑚の髪飾りを付け、腿の付け根やや下あたりから、脚は緑青色の鱗の尾ひれに変わってゆく。蛇のように細くなったその尾の先もまた、漁師の足にしっかりと巻き付いています。あからさまに磔刑のポーズを取る漁師に託して描かれているのが、「人々の魂を漁るキリスト教信仰(漁師)が異教と官能(セイレーン)の誘惑に溺れようとしている」ところであるという含意を解釈できます。ドレイパーはさらにひねって、海中にいるときは人魚、船に乗り込むときは人間の女性にしました。腰のあたりにまとわりついている海藻も、船中では薄布に変化しているのが面白さといえましょう。3人のセイレーンたちのポーズはレイトンの人魚と同じようにS字にくねる曲線をあらわなヌードです。しかし、レイトンとは違い、歌声でオデュッセウス(ユリシーズ)を誘惑するという伝説に従うように、マストに磔になっているオデュッセウス(ユリシーズ)には直接抱きつくことはせずに、視覚的に誘惑を表現しています。ドレイパーは、セイレーンを人魚の姿だけでなく、船上にあがったセイレーンは人の姿にして裸の脚を描きました。ヴィクトリア朝時代には、脚という言葉を使っただけで不謹慎と言われ、椅子の脚にまで靴下をはかせたというほど厳格でした。つまり、セイレーンに娼婦のイメージを重ね、男を惑わし破滅させる女という官能のイメージをレイトンから、さらに発展させました。とくに船上のセイレーンは、レイトンの海中の人魚に比べて、海水にぬめった艶めかしさが増しているような見えます。その感触を表現しているドレイパーの筆致は練達のものといえると思います。

夜明けの門(1900年)

この作品は、夜明けを擬人化したローマの女神オーロラを描いた作品です。金色に輝く門を開けて立っているのが女神で、その足元と頭には、彼女のシンボルである花が描かれています。彼女の後方には空と雲が薄紫色に染まって、夜明けを迎える瞬間が捉えられています。

これには、現代女性の絵が新しい夜明けを象徴しているという新世紀の楽観主義を部分的に表している、そこには女性の思慮深い美しさを持ちながらも、誇り高い美しさを賛美しているという解釈もあります。他方で、たしかにオーロラは魅力的で魅力的で壮大な美しさと誇りを持っていますが ギリシャ神話の神です。彼女は、マルスを誘惑したことでアフロディーテに罰せられたのです。その罰により、オーロラは若い男を追い求めることで、落ち着きがなく破壊的になることを宣告されました。後年、ドレイパーは、オーロラのティトナスへの愛の物語の一場面を描くことを考えた。ティトナスは、永遠の若さを持たずに不老不死を与えられた人間であり、彼の美しさが衰えた後、バッタに変身してしまいました。オーロラの足元の床に散らばるバラの花は彼女の無尽蔵の情熱を表し、髪の毛に寄生した束縛草の花もまた、彼女の首を絞めるような強迫観念を表しています。彼女はセイレーンのように美しく、エロティックで、貪欲で、男と一緒にいても幸せには生きられない。オーロラは、彼女の性的な飢えを満たすために、恋人たちが眠っている間に催眠術をかけてレイプする準備さえしていた。この作品には、そういう多面性があります。

金の羊毛(1904年)

ギリシャ神話のイアソンという英雄の物語です。イアソンは伯父のテッサリア王ペリアスからアイエテス王が所有する不思議な力を持つ金の羊毛を獲得することを命じられます。彼には数多くの無理難題が課せられるが、彼はそれらを次々に切り抜け、結局羊毛を獲得する。彼と仲間のアルゴ船の乗組員はそこで、祖国への帰途に就いた。イアソンは恋に落ちた魔女メディアを連れていた。アイエテス王は彼らを追ったが、メディアは彼の息子アプシュルトスを捕虜にしていた。アイエテスが彼らに追いつこうとすると、イアソンとメディアはその少年を殺し、彼の手足を海に投げ捨てた。アイエテスは船を止め死んだ息子の身体を拾い集めた。その間に、イアソンとその乗組員たちは逃れることができた。この作品は、イアソンたちが、アイエテス王から逃げるために、アプシュルトスを犠牲にしようとする場面を描いています。ここで、ドレイパーは実際には神話の内容を変えて、少年アプシュルトスを残忍な手足を切り離した姿ではなく生きた五体満足な姿で表しています。つまり、この神話の内容の凄惨な側面を避けています。しかし、この絵は切迫した瞬間の緊張とドラマを捉えていて、アルゴ船の船員はアイエテスの追跡─水平線に見える大きく張った帆でそれとわかる─を逃れるために力いっぱい漕いでおり、海の渦巻きが少年の生存の可能性を打ち消すかに見えます。少年は必死に最後の嘆願をするが、メディアは動かされません。

 
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