ラファエル前派の画家達
フォード・マドックス・ブラウン
『ペテロの足を洗うキリスト』
 

 

この作品は、最後の晩餐となる前に彼の弟子の足を洗ったというキリストの物語を聖書の記述(ヨハネによる福音書13章4−5、15)に忠実に、奇跡ではなく歴史として描こうとしたものです。この作品を全体として見てみると、視点の異常な低さと、特に垂直方向に圧縮したように押し詰まったスペース空間が特徴的です。これにより、作品の中で描かれている登場人物たち、とりわけ主役の二人の人間関係が強調されることになります。これは、同じ場面を描いたほかの作品と比べると際立ってきます。例えばティントレットの「使徒の足を洗うキリスト」は異常に横長で、ブラウンと同じように垂直方向が相対的に圧縮されていますが、ティントレットは直線的な遠近法だけでなく空間遠近法、つまり奥の方ぼかして描くことで、奥行きを表現していて押し詰まったような圧迫感を感じさせることはありません。それと、足を洗うキリストが右端に配置されているため、ブラウンのように足を洗うキリストと洗われるペテロの二人に見る者の視線が集中することはあまりないと思われます。その代わりに、二人以外の使徒たちがそれぞれに描き分けられていて、最後の晩餐に続く群像劇がここで演じられている、ドラマが進行している、と言えると思います。それは、描き分けられている人物たちの視線の交錯しているさまからも分かります。

ここでブラウンの作品に戻りましょう。ブラウンはティントレット(右下図)のような群像のおりなす複雑なドラマではなく、キリストの行為とそれを受けるペテロに焦点を絞り、それを取り巻く使徒たちという求心的な構造のドラマを作ろうとしました。垂直に圧縮した画面いっぱいに、ひざまずいて弟子の足を洗い、ぬぐうキリストの謙虚さ、師に召使の仕事をさせることに非常に困惑しながらも、儀式に黙従するペテロ。絵の中では、これがペテロの脚の強張りと、いかにもおずおずと水に浸かる左足の様子から示唆される。ペテロの背中は猫背になって首をすくめているような窮屈な姿勢です。これは、同じような理由なのでしょうが、画面の縁から圧迫されているとも画面上は受けとれます。さらに、主役の二人に焦点を絞るだけでなく、垂直方向の圧縮は視線を低くすることとなりますが、このことはキリストの謙虚さが単に人格的なものに留まらず、神が人の視線に下りてきたことを暗示していることになります。従って、ペトロの足を洗うということは、人間全体に対して、罪深い人間の罪を洗い清めるという行為を示唆していることになります。そうであるとすれば、ペテロは師に足を洗ってもらうことへの恐縮にとどまるものではない、ペテロは手を合わせて祈っています。

さらにまた、視点を低く定めた効果はまた、主役二人の大きさがさらなる強調となり、段の縁でぐらつく水をたたえた銅のたらいと同様に、画面からこちらにはみ出してきそうにさえ見えてくることになります。手前の段から遠いテーブルのへりまで繰り返される水平の帯は、キリストがペテロの脚を握り、目を伏せて自らの謙虚な行為を見つめる点で交差する対角線2本によって遮られます。こうした構図の配置は、聖書の記述ではこれに続く「最後の晩餐」と関連づけることによって、この出来事の「普遍的な真実」を表現しようとする画家の関心から生まれました。キリストの四肢を血肉をそなえたものとして描くことにより、(パンとぶどう酒の)聖餐式を暗示することにつながり、そのためイエスの受難の伝統的なシンボルに頼る必要がなくなるので、彼の謙虚さに集中することができるようになるわけです。

他方、主役の二人から周囲に目を転じると使途たちのうち7人がカンヴァスの狭い上部に押し込まれ、左でサンダルの紐を調整する背信者のユダと釣り合いをとるように、右端には「イエスの愛された」敬虔なヨハネが描かれています。登場人物の様々な心理的な反応を導き出すことによって、ブラウンは説話の中の主要な人々の個性を際立たせようとします。例えば、画面右端のヨハネはうっとりした視線でペテロの肩越しに首を伸ばすようにしてイエスを見つめています。ヨハネの唇はわずかに開き、手を握っているのは目の前のキリストの行いに引き込まれていることを表わしています。正面のテーブルの向こうに座っている二人の使徒のうち、左側の金髪の男は途方にくれたような表情で、目前の事態が理解できないのでしょうか。この使徒の右奥の黒髪で髭を生やした男は金髪の男の腕を穏やかに手を置き、顔を向けて力づけているように見えます。いずれせよ、この二人はキリストの行為に注意を集中しています。その二人の左側の影になっている4人の使徒は見え難いのですが、それぞれのポーズが大きい。真ん中より使徒は不愉快そうな表情をしているように見えます。彼の深くしわを寄せられた額と顔の前で組まれた両手は、気がかりな混乱だけでなく、悲しみも示します。 まるで彼がイエスがペテロの足を洗うのを止めるためにテーブルから立ち上がりたいように、それはほとんど思われます。彼の隣に着席する男は視界からほとんど完全に隠されます、それでも、彼は考えにふけって見ているように見えます。そして、深い熟考のジェスチャーにおいて彼のあごを彼の手の上に載せるようです。このグループの三人目の使徒は、残りの使徒よりはるかに目立ちます。彼の手で頭を抱えて、キリストが使用人のような惨めな行為をしているのを見るのにほとんど耐えることができない様子です。4人目の使徒は、この一群の中静かではありますが、腕を組んで、睨みつけるように強い視線をイエスとペテロに送っています。疑惑を感じていぶかしげにみています。最後に画面左端で、テーブルからはみ出るようにして、キリストの背後にいる男はサンダルの紐をほどいていて、ペテロの次にキリストの行為を受ける準備をしているのでしょうが、彼はユダです。彼には、興奮も困惑も表情が表われていません。そういう異質さがあります。

しかし、この作品の中心はキリストとペテロの二人で、ユダのドラマは垣間見ることができる程度です。それがゆえなのでしょうか、この作品の中で唯一、非現実的な部分がキリストの頭部の周りに光輪があることです。これは意図的なはずで、キリストの行為に視線を集めるために敢えて描き加えたのではないかと思います。

 
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