ラファエル前派の画家達
エドワード・バーン=ジョーンズ
『ヴェヌス』を主体とした作品
 

 

ギリシャ神話のアプロディテ(ローマ神話ではヴェヌス)は愛と美の女神として、ルネサンス以後でも多くの絵画や彫刻の題材として取り上げられてきました。ラファエル前派の画家たち、例えばロセッティは、ヴェヌスを男性を誘惑するファム・ファタールとして、官能的で美しい肉体に焦点をあてて表わしていました。これに対して、バーン=ジョーンズは内省的で、美の理想を形にしたものとして描いています。

ケネス・クラークは『ザ・ヌード』の中で“太古より、肉体的欲望という人間につきまとい悩ます非理性的本性は、イメージに救いを求めて来た。そしてこれらのイメージに形式を与え、それによってヴィーナスを低俗なものから天上的なものへ高めることがヨーロッパ芸術のつねに立ち還る目標のひとつとなって来た。”と述べています。この“低俗なものから天上的なものへ”と高められるヴィーナスには2の種類があり、これらを「植物的ヴィーナス」、「結晶的ヴィーナス」lvとして名称付けています。ケネス・クラークは、豊饒への信仰と密接にある女性の生殖機能を象徴化させた像を「植物的ヴィーナス」とし、数的秩序によって形態化させた女性像を「結晶的ヴィーナス」としています。その「肉体的欲求」は、身体そのものの美とかかわりながら、更に肉体を通じて子孫を存続させようとする欲求が自然的な形象へと昇華されたものであるとしています。一方の「結晶的ヴィーナス」ではその欲求が、先の肉体における美を超えてはるか普遍的な美へと上昇すべく昇華され形象化されたものだと言います。このように2種類のヴィーナス像は、肉体にそなわった官能的欲求を一方では昇華させながらも、その一方ではけっして逃れることのできないものとして示しています。バーン=ジョーンズのヴェヌスは数的秩序によって形象化された「結晶的ヴィーナス」であると言えると思います。

(1)「海から上がるヴェヌス(ヴェヌスの誕生)」(1870年)

神話の物語ではヴェヌスは海の泡から生まれ出たとされていて、その場面を描いたものです。有名なボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」なども同じ場面を描いた作品です。そういう他の作品とは違って、バーン=ジョーンズの作品では、誕生したばかりの女神は孤独な姿をしています。縦長の画面に登場する人物は彼女だけで、ボッティチェリのようなニンフや他の神の姿はありません。女神は一人で、人知れず、ひそやかに海が現れたのです。だからというわけではないでしょうが、画面の大部分は女神が占めて、背景はその余白に最小限に抑えられ、しかも描き方はラフで海の風景というよりも渾沌としていように描かれています。それに対して、女神は強く揺らぎのない線で輪郭がはっきりと描かれていて、そこから生まれ出た海の渾沌と明確に区分されている、つまり、女神は母胎である海から生まれ出た瞬間に切り離され(見放され)てしまっていることを画面で見てとることができるようになっています。

生まれたヴェヌスの描き方については、ボッティチェリのような艶々とした肌色ではなく、むしろ土気色のような、生き生きとしたところ感じられず、輪郭が強すぎる身体は固く感じられ、顔の表情はうつろで視線はそらされて固い感じで、むしろ女神の彫像のように見えます。その一方、彼女の肌の色は背景の渾沌した色合いと混ざり合っていて、彼女の髪は彼女の顔から吹き飛ばされ、唯一動きがありますが、背景の渦を巻く動きに同調しているように見えます。また、彼女の身体、特に肋骨の周りの曲線は、空のパターンに似ており、自然との一体性をさらに強めています。彼女の足は、彼女が立っている地面にも溶け込み、それによって絵画の中心的な場所を固め、同時に女神に期待されるような壮大さを彼女に与えます。

この作品でのヴェヌスは、世界に現われ、しかし世界とは異質の孤独な存在です。ここには、人間的な女性の魅力とか、官能性といったものよりも、理想の究極として超越、それゆえに弧絶している姿です。

これには、ラファエル前派よりも、むしろ同時期に活躍した、フレデリック・ワッツ、たとえば「クピドに置き去りにされたプシュケ」などといった作品との類似性が指摘できると思います。

(2)「ヴェヌス・エピタラミア(祝婚歌のヴェヌス)」(1871年)

前年の「海から上がるヴェヌス(ヴェヌスの誕生)」と同じようなポーズの女神の裸体作品ですが、印象は異なります。開いた間口から、奥の部屋の様子が伺えます。一番奥には階段があり、そこを蝋燭や讃美歌集を手にした人々が並んで降りてくる。中央の俯き加減の女性ひとりだけが、ヴェールを被っていることから花嫁であると想像できます。その手前の光がさしている部屋では、戸口の手前に梯子をかけて、裸体の少年が花綱を飾ろうとしています。一番手前の部屋では、少し脇に隠れるように裸体のヴェヌスが立って、炎の燃え盛る長い棒を後ろ手に持っています。彼女が身を持たせかけている台座には、目隠しをしたクピドが矢をつがえようとしている彫刻があります。このようなのぞき見の構図は、二つの物語を奥で進行する事件と手前の人物の心理という二つの要素を効果的に結びつけ、ふたつの物語の進行を併行して叙述することで、見る者に両者の関係性を強く意識させる効果をもたらすものです。ここでも、ヴェヌスと花綱を飾る裸体の少年という神話的な存在は、作品を見る者には見えるものの、花嫁をはじめとする婚礼の行列の人々にその存在が認識されているわけではないことが明らかです。さらに、目隠しされたクピドの彫像がヴェヌスと同じ神話的存在としてでなく、あえて彫像という形をとっているので、婚礼を祝うヴェヌスと恋の危険を喚起するクピドとの間に存在のレベルのあり方の差を設けることで、意味のレベルが重層化しています。

神話によれば、ヴェヌスの婚姻の相手は、愛と美の女神に相応しいとは言えないような鍛冶場の神ヴェルカヌスで、神話では不幸な結婚(もっとも美しい女神と最も醜い神との結婚)のニュアンスで語られているようです。その不幸の物語の悲劇的な雰囲気は、この作品にも影響していると言えます。ウェヌスは「海から上がるヴェヌス(ヴェヌスの誕生)」の場合と同じ裸体で、脚、胴体、そして腕の輪郭を強い線で描いていても、身体の輪郭は丸みを帯び、同じようなポーズをとっていても腰のくねらせ方は深くなり下肢の丸みを強調するようになっています(このポーズはエドワード・ポインターの「アンドロメダ」と左右が逆転している以外はそっくりです)。その身体部分においても、胸はより整形され、腹部はなめらかになり、鎖骨はハイライトされ、そして足は左下足の輝きに示されるように若々しい活気を印象付けるように描かれています。しかも、彼女の曲線を描く体の柔らかさは彼女の後ろの建築の直線の堅さと対照的です。しかも、肌の色は背景の壁の冷たいと対照されています。戸口にぶら下がっている花輪だけが、彼女の体の柔らかさと流動性を反映しています。これは、ヴェヌスが、婚姻という喜ばしい場面にいるのに、画面全体の基調、たとえば、画面右奥の階段から降りてくる女性の敬虔な雰囲気から彼女だけが浮いている。そこに、彼女の抱いている違和感、不安、不快感が表われています。彼女は壁の影に隠れようとしている行為にも明白です。ヴェヌスが官能的に描かれているのは、結婚により家庭におさまるという全体の基調から彼女が逸脱している表われであり、彼女は結婚に相手に向かわず、自身の内心に問うている、自分自身の欲するところを問いかけている。彼女の視線は画面の外に向かわず、俯いて自身に向けられています。その点で、例えばロセッティの魅惑的で見る者を誘惑するヴェヌスとは一線を画するものとなっています。バーン=ジョーンズのヴェヌスの官能性は、後の悲劇を予見する性質を持っていて、それゆえに美しいといえます。

神話の中で、結婚した後、ヴェヌスはマルスと恋に落ちることになります。この作品でのヴェヌスの官能性は、そういう未来を暗示するものであるとともに、周囲から浮いてしまい、そのような彼女にとって苦痛な状況を作り出していることを暗示しています。そして、彼女の不幸な恋愛が、そういう状況が招いたものとして、けっして恥ずべき出来事ではない。バーン=ジョーンズはヴェヌスを孤立した位置において、そして彼女を内省的に描いたことで、見る者が不幸な愛の痛みを垣間見ることを可能にします。ここで、バーン=ジョーンズは絵画の中で神秘的な前提とヴェヌスの孤独の両方を使用して、美しさが生み出すより暗い、より悲しい瞬間を表現しています。

後に、バーン=ジョーンズは同じ構図で、「真鍮の塔が建設されるのを見るダナエ」という作品を制作しています。この場合は、女性は着衣であり、隠れているのではなく、覗き見しているので、意味合いが変化しています。

(3)「ヴェヌス賛歌」(1873〜75年)

この作品は、スウィンバーンの「ヴェヌス賛歌」から想を得とされています。その詩は、中世のロマンス「ヴェヌスベルク」(ヴァーグナーのオペラ「タンホイザー」を思い出すといいと思います)キリスト教の騎士がヴェヌスに恋をするというものです。ここでのヴェヌスは官能へ誘惑し騎士を堕落させる異教の神です。スウィンバーンに詩は官能的なエロティシズムが濃厚です。

眠っているのか、目覚めているのか、なにしろ彼女のうなじは

強い接吻を受け、まだ紫の痣が残っていて、

吸われて苦痛を覚えた血がそこにとどまっているかと思うと消えてしまうので。

男のくちびるで柔らかく刺された柔らかきうなじ。その痣ゆえになおさら美しい。

そこで恋人のようにくちびると手足を重ね合わせて

彼らは横たわる。生命の甘い果実を摘み、口にする。

だが私をこの暑く飢えた日々が貪り食い、

私の口のなかでいずれの果実も甘くはない。

 

騎士たちが集まる。寒さのため馬を急がせて。わたしにはわかる、

道と森が大雪で息もできぬことを。

そして短い歌で乙女らは座って紡ぐ、

キリスト生誕日の夜まで、百合のごとく、並んで。

しかし、バーン=ジョーンズは、スウィンバーンのようなエロティシズムを追求してはいません。バーン=ジョーンズは不幸な騎士たちの背景に冷たい青を用いて、哀感を漂わせています。

作品の画面を見てみましょう。この作品はラファエル前派の手法と古典的なイタリアのルネサンス芸術の両方を使用しています。実際に、ヴェヌスはラファエロ前派の伝統に則って描かれています。例えば、ヴェヌスは彼女は長く、活気に満ちた髪、強い首、そして古典的には美しくない特徴を持っています。彼女の周囲はよりラファエル前派風に、つまり、衰退したタペストリーと壁の装飾のように描かれています。これらの異なる手法の並置は絵画に深みを与えています。ラファエル前の手法で描かれたヴェヌスは強い女性の代表です。これに対して、彼女の周囲は異なる時間と態度を示しています。この2つの時間枠を融合すると、絵画は時代遅れの雰囲気になりますが、絵画の一般的なテーマとストーリーを伝えるのに効果的です。

画面の中央奥には窓が開いていて、その向こうを騎士が通り過ぎていくところですが、彼らは室内の女性を窓越しに見ています。彼らは、女性たちに魅了されているようです。しかし、彼らの憧れの強さは、おそらく彼らの状況が絶望的であることを示す、窓を囲む氷のような青い枠によって冷や水を浴びせられているようです。室内の壁には神話の出来事を暗示する絵画が飾られています。壁の左側の角には、先のとがった赤い翼を持つ、天使に囲まれた、長いブロンドの髪と強い特徴を持つ女性のラファエロ前派の伝統を彷彿とさせるセイレーンの裸婦像が見えます。セイレーンのポーズは、「海から上がるヴェヌス(ヴェヌスの誕生)」のヴェヌスに似ていますが、この作品の前景の乙女と一緒に座っているヴェヌスとは異なり、よりラファエル前派の方法で描かれています。このセイレーンはギリシャ神話では甘い歌声で船乗りを海中に誘惑して生命を奪う恐ろしい存在です。ここでは、騎士たちを誘惑するものの暗示です。また、壁の右側には、鳩が率いる戦車に乗るヴェヌス描かれています。ウェヌスは豪華な金色の服で着飾っていて、長くて流れるような金髪をしています。それはあたかも彼女が自分の頭の上に神の光雲を持っているかのように見えます。

このような壁画で囲まれた室内は狭く、濃密な空間に従者たちの弾く音楽に慰められているヴェヌスに擬せられている女王が描かれています。4人の従者たちは濃い赤や青の鮮やかな色のドレスを着て、窓の前で楽譜の周りに集まっています。彼女たちはロセッティの描く女性のような強い顎と鼻の顔つきですが、その表情のうつろさと顔色の蒼白さは極端な退屈を示唆しています。一方は視聴者に背を向けて楽譜をめくり、他の3人は離れたとろから楽譜を見ています。一見すると、彼女らはこちらの方を向いているように見えますが、実は見ていません。これに対して女王(ヴェヌス)は、青白く遠くの視線で横になっています。彼女の流れるようなドレスの赤は壁画の赤よりももっと印象的ですが、彼女の淡い肌と長い、かなり鈍い、茶色の髪に対してほとんど不適切に明るく見えます。彼女は冠を外し、膝の上に乗せて、ピンクのバラが椅子の下に落ちるようにしています。

この横向き腰掛けて退屈そうにしているポーズは、ロセッティの「レディ・リリス」と似ていますが、同じポーズでも、全く印象が異なります。レディ・リリスも男を誘惑して破滅させるのですが、ロセッティの描くリリスは、退屈そうな表情そのものが官能的です。これに対して、この作品のヴェヌスには、レディ・リリスのような官能性が感じられません。むしろ、窓の外の誘惑される騎士たちは、彼女に誘惑されるというより、そういう悲劇的な運命を背負っていて、その運命に抗いようもなく陥っていくのを、ただ眺めていて、自身の無力を痛感して虚ろな表情となって表われているといった風情なのです。

(4)「ヴェヌスの鏡」(1898年)

この作品は、特定の物語に基づいたものではなく、ヴェヌスと女性達が、水に映る自らの鏡像に見とれるところを描いたものです。いわば唯美主義の物語によらない純粋な視覚的効果による絵画と言えるかもしれません。ヴェヌスと9人の女性が小さな池の中に自分自身の姿が映っているのを覗いているのが見えます。背景は月面の風景とほとんど同じような荒野で、女性たちと対照させられています。彼女らのドレスの鮮やかな色彩と夢のようなムードはラファエロ前派の絵画と一致していますが、人物の優雅さとスタイル自体はイタリアのルネッサンス様式、特にボッティチェリの影響が見られます。

もう少し見てみましょう。背景がまばらなので、見る人は10人の女性に視線を集中することができます。茶色の岩の多い広大な土地が女性たちの背後にひろがっています。2つの同じように岩が多い丘と葉の落ちた黄色の木の塊が風景を切り詰めます。空は背景の中心に見える地平線に向かって明るくなり、見る者の目を引き、風景の無限の存在(そしてその結果として、その永遠の存在)に気づかせます。このように背景は荒涼としていて、女神がどこにいても美しさと活力を生み出すかのように、ヴェヌスと他の女性の周囲だけ小さな青い花と苔が見えます(この花は、水面のうつる彼女たちの鏡像では、ちょうど彼女たちの冠となっています)。

画面手前には鏡のように池があり、その水面を見つめる9人の女性が立っているヴェヌスを囲んでいます。水辺にひざまずくことから水面に向かってわずかに上半身を乗り出すまで、さまざまなポーズでこれらの女性を巧みに描かれています。彼女たちは、赤、濃い青、緑といった様々な色彩の、美しく折り畳まれた「疑似古典的」な服装で描き分けられ、その服の色とひざまずくポーズは彼女たちをしっかりと地球に結び付けているようです。しかし、彼女らの顔は、強いあごと鼻のラファエロ前派の理想を呼び起こし、互いの個性を示さないで、同じように見えます。それは、女性たちが同一の女性が時間差をもって現れているようにもみえます。少し気をつけてみればそれぞれ違うと分かる女性たちを、ことさらに同じに見せて、連続するイメージのように感じさせている。このように共通したイメージの並列は繰り返しによるリズムを生み、それらの中のわずかな差異は連続写真のように動きの継続と時間の流れを感じされるものとなります。それが水辺に映るということで、その動きが閉じ込められるような形になっています。ここで注目すべきは、彼女たちの視線で、誰もが自分の水面に注目し、1人だけヴェヌスに懸念の視線を向けています。これらの外見の猛烈な強さは、主に絵画に憧れる気分を生み出します。

また、バーン=ジョーンズは、ウェヌスと9人のひざまずく女性とを明確に区別しています。9人の女性たちの頭部が一定の高さに達する(前景に地平線を描く)のに対し、ヴェヌスは一人だけ立ち姿で彼女たちの上方に頭が飛び出ている格好になっています。その姿は、岩が多い背景から立ち上がる丘と細い木の強さを思い出します。ヴェヌスはまた、他の女性だけでなく、主に茶色の背景からも彼女の姿を区別して、他の女性たちよりもはるかに軽い服を着ています。他の女性は、鈍重な服の色と地面に張り付くような姿勢で、地球に縛られているように見えます。ヴェヌスの視線は9人の女性たちとは違って、池の水面に向かわず、また、彼女を見つめる女性に視線を返すわけでもありません。このヴェヌスの、どこか特定のところに向いているのではない視線は、彼女自身にも返ってくる内省的な性格があります。「ヴェヌスの鏡」と名づけられた作品の女性たちは、その鏡の中に自身の美しさを見ようとしています。しかし、ヴェヌスは、その鏡でもあるので、彼女は水面を見ることがないのです。

 

 
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