ラファエル前派の画家達
エドワード・バーン=ジョーンズ
『ピグマリオン』の連作
 

 

キプロス人の彫刻家ピグマリオンは自身の制作した美しい女性の彫刻に恋してしまい、ヴィーナスが彫刻に命を吹き込み、彼は恋を成就させるというギリシャ神話を翻案して、ウィリアム・モリスが「ピグマリオンと彫像」という物語詩を制作します、バーン=ジョーンズは、その詩の出版にあたり挿絵を依頼されます。その後、出版の計画は頓挫しますが、バーン=ジョーンズ、そのなかから4つの場面を抽出して連作油彩画として仕上げました。それが「ピグマリオン」の連作です。この連作には二つのヴァージョンがあり、最初の連作は1870年に完成したパリ版(個人像)と1878年に完成し、グロウヴナー・ギャラリーに展示された大きなサイズのイギリス版があります。二つのヴァージョンは、人物の配置やポーズ、構図等の大部分が共通していますが、イギリス版は再制作であるだけに、様々な点でブラッシュアップが図られています。小ぶりな画面で暗くくすんでいたパリ版に対して、ほぼ倍のサイズに拡大され、繊細なディテールの表現と明るく冷ややかな色調を有しています。以下、イギリス版をもとに4つの作品を見ていきたいと思います。

(1)「恋心」

現世の女性の醜態に辟易しながら独身生活を送っていた彫刻家ピグマリオンが、アトリエの中で顎に手を当てて佇む様子が中央に描かれています。パリ版とイギリス版の大きな違いは背景の右側の群像彫刻です。パリ版では4体で、左側の玄関の外を歩く町娘を模したような姿で、あたかもピグマリオンを挑発するような視線を投げかけていたのが、イギリス版では古典的な三美神に置き換えられています。この変化により、世俗的な女性たちに背を向けて超越的な美を求めるピグマリオンの内心の願いがさらに際立ったものになっています。細かく見てみると、三美神はギリシャの女性裸体像における古典的比例の規準に則った均整のとれた肢体となっています。これに対して背景の左側のキプロスの町娘は古典的比例による身体の構成を無視して描写されています。着衣にすっぽり覆われたその身体は、露になった娘の腕が顕著に示す如く、身体の構造がまるで無視された身体表現であり、それは意図的なものと言えます。つまり、彫刻家ピグマリオンによる彫像が理想的な規準に則して描かれながら一方で、現実の娘に対しては構造的身体性の欠如を示す描き方がされていて、現実と理想の対照が強調されているのです。

(2)「心抑えて」

ピグマリオンが自ら作り上げた彫像に対してまさに恋心を抱いている場面です。両手に鑿と槌を持ったまま、左手を顎にあてがい物憂げな表情で、出来上がった彫像を見つめる姿が描かれています。このピグマリオンの姿は、パリ版、イギリス版とも同じようですが、彫像の方に変化があります。パリ版の右手を首元にあて、目を閉じているガラテアの彫像は眠りの状態にあるようで、その眠っているような姿は恍惚の最中にいるかのように見えます。ピグマリオンにとってガラテアの彫像は、恋焦がれる対象であると同時に肉欲の対象でもあるのですが、パリ版の眠りを示唆するガラテア像は、欲望の対象としての一方的な側面しか示していません。また、パリ版のガラテア像はその眠りにあるかのような状態に加えて、左腰のねじれにおける肉付きが生身の女性の肉付きに近いかたちで描写されていて、このような描写は、彫刻家の理想美と欲望の対象としての女性の身体が密接な関係にあることの表れであり、性愛へ向かおうとする男性の欲望が形象化されたものであると言えます。彫刻家は理想の女性を象牙において作り上げたものの、その欲望と強く結びついた彫像は、彫刻家に対し性愛の対象としても現れていると言えます。パリ版のガラテア像は、その形態が彫刻家の理想的美であることを示さずその像自体が恍惚感に浸っているかのようで、彫刻家のイメージや欲望が昇華されることなく、欲望の対象としての姿が顕にされてしまっています。

一方、イギリス版のガラテア像は、右手の位置が下がり、向きが彫刻家に直接向かうことなく挑発的な位置からずらされています。顔の表情は冷たく彫刻材料の物質感が明確になっています。しかも、彫像の足元には彫刻の削った破片が散らばっており、物質であることが強調されています。ガラテア像が数的秩序によって形象化された彫刻家の抱く理想美によって形態化されたものとなっています。これは、ピグマリオンの欲望が昇華された形象としてではなく、欲望が抑制されたものとしての形象です。このガラテア像には大理石の彫像としての物質的な冷ややかさが感じられ、しかも。官能性が潜在化しています。それが、女性の裸体に対して、当時のイギリス社会の男性のアンビヴァレントな姿勢が反映している。

(3)「女神のはからい」

連作のクライマックスとも言える作品で、女神ヴィーナスがガラテア像に命を吹き込む瞬間を描いたものです。ここでは二つのヴァージョンの相違はいくつか見られますが、最大の違いは、腕を絡ませながら彫像に命を与えるヴィーナスの衣装がピグマリオンと同じように暗い色のものから半透明の薄衣に変えられていることです。それは、他の場面とは違った眩い輝きを画面にもたらすと同時に、左手に加えられた銀梅花の枝ともどもヴィーナスの神秘性を高めるのに寄与しています。身体に密着した薄衣は、その衣紋の流れによってより肉体美を際立たせる効果があり、同時に肉体的欲望をも掻き立てる表現手法であるにもかかわらず、このヴィーナスはその肉欲が抑制されています。薄衣が透明であることで、より肉体美を強調できるはずが、透けて露となるヴィーナスの身体構造は、その肉付きの輪郭線がぼやけている。また左右に流れる無数の衣紋が身体構造を覆い隠そうとするかのように機能していると言えます。これは、ボッティチェルリが「プリマヴェーラ」で描いた人物像と非常に近いものと言えます。このように肉体美が抑制されていることによって、官能性が潜在化されていると言えます。

また、パリ版では、戸外でヴィーナスの像に祈りを捧げるピグマリオンの姿が描かれていましたが、ここでは削除されてしまいました。原典に沿えば、パリ版のピグマリオンはガラテアの彫像に似た生身の女性を妻として迎えることが叶うよう、祭壇に向かって祈りを捧げているわけです。このピグマリオンを背景にすると、まさにピグマリオンの願が受け入れられアプロディテがガラテアに命を吹き込む場面が前面に描かれていると解釈することができます。つまりパリ版では物語の時間経過を1つの画面で物語っているのです。これに対して、イギリス版ではピグマリオンは描かれず戸外の風景は建物のみで、腕をからませたヴィーナスとガラテアしか描かれておらず、ピグマリオンの願が女神によって叶えられるという文脈が取り除かれています。肉体を得た裸体のガラテアは、もたれ掛かるように女神ヴィーナスに向かい女性同士の同性愛を喚起させるような異質な雰囲気が漂い、生身の女性を得ようとする男性の性愛を描くことが回避された結果となりまた。物語の文脈が除かれたこの絵画では、その標題からヴィーナスがガラテアに魂を吹きいれようとした場面であることが予想できるようになっています。しかし薄物の着衣の人物像が女神ヴィーナスであると分かるのは、床から突如として湧き出たような水と戸口から飛んでくる数羽の鳩、そして頭とその手にあるオリーブといった記号によってです。これらの記号によってその女性像が女神ヴィーナスであると名称付けることができます。人物の性格や実体に先行したこのような記号の働きかけが、その人物像が何者であるかと示す絵画描写は、初期のラファエル前派のロセッティやミレイの作品でよく使われていた手法です。

(4)「成就」

恋焦がれていた彫像が生身の女性へと変身することで、彫刻家はその女性を我が物とし、肉体的な結合を成就できる女性が裸体の姿で現れたという場面です。ここでは、二つのヴァージョンの違いは少なく、生身の人間の女になったガラテアとその足元に跪くピグマリオンノのポーズをはじめ、画面構成はほとんど同じです。

恋が成就したはずのピグマリオンですが、彼のガラテアを見上げる視線によって、彼が愛する主体であることがここで初めて読み取れるものの、欲望の対象であるガラテアの視線は逸らされ、誘い込まれることから逃れようとするように見えます。うつろな視線の女性を前に跪くピグマリオンの視線には、欲望がその対象へと受け入れられないことへの悲壮感が滲み出ているようなのです。これは、同じ画家の「眠り姫」連作で眠りに落ちた姫君を目覚めされようと野いばらに挑んだ王子が最後に姫君をくちづけで目覚めさせる場面を描かなかったことと通底しているように思えます。

 

これは観念的と言えなくもない屈折した欲望のあらわれとも言えるのではないか。精神分析ではピュグマリオニズムなどと呼ばれる人形偏愛性、生身の人間の女性ではなく心無い対象である人形を愛する性癖、広義に捉えれば、女性を人形のように愛する性癖を指します。つまり、生身の人間の女性は、いくら美しい女性であっても自我がある独立した一人の人間です。だから、こちらの思い通りにはならないし、時には諍いもある。人と人との付き合いですから、そのような煩わしさを嫌い、人形のように自分の思い通りにしたいという性癖のことを指します。これがすすめば変態者になってしまいます。このような例は小説や戯曲では少なからずあり、ピグマリオンをベースに、バーナード・ショーという劇作家が「マイ・フェア・レディ」と言う作品を書いています。上流階級の言語学者が下層階級の少女を淑女に仕立て上げるという作品は、オードリー・ヘップバーンの主演で映画化もされました。こじつけでいえば、「源氏物語」で光源氏が紫の上を引き取って育てるのもそうでしょう。

だから、ピグマリオンという題材を取り上げること自体に、とくにどうということは言えないのでしょうけれど、別のところで取り上げた「眠り姫」でも、眠りについて意識を失っている少女は人形にも通じるものです。これについても、エスカレートしたものはネクロフィリオという変態嗜好に通じるものと言うことも出来ます。

そして、この「ピグマリオン」の連作で描かれている女性は人形であるが故に、表情が描き込まれていません。女性を好んで描く画家なら、生命のない人形から、女神によって命を吹き込まれて女性となったときの生命に輝く姿への変化を描くのでしょう。しかし、バーン=ジョーンズにはそのような劇的な変化には興味がないようです。むしろ、生き生きとした表情がないところで一貫しているようです。それよりも、彫像から人間になったとしても、その女性の外見的な美しい姿に、彫像の硬さや冷たさから、人間となったことによって柔らかさや人間の肌の肌触りが加わったことを嬉々として描いているように見えます。そこに、制作者であるピグマリオンの支配の対象としては彫像でも、人間となっても変わらない描かれ方をされているように見えます。人間となってもピグマリオンに導かれるのに素直に従う様子で描かれているわけです。しかも彫像からの連続ということで、女性の裸像を恥じらいのない露わな姿で現している。

ピクマリオンをベースにした「マイ・フェア・レディ」という物語がありますが、この陰画として、マルキ・ド・サドに「ジュスティーヌ」という物語があります。ナイーブで純粋無垢な乙女のジュスティーヌを、悪意の男たちが寄ってたかって汚して調教していくというポルノグラフィの古典というべき作品です。これは後の団鬼六の「花と蛇」もそのパターンを踏んでいますし、ポルノグラフィの王道パターンのひとつになっているのです。

べつに、バーン=ジョーンズのこの作品では、縛ったりとかしているわけではありません。それぞれの作品は、ギリシャ神話や中世の伝説を描いたということなので、表面上では、上に書いたようなポルノグラフィのような捉え方はされないのでしょう。しかし…

 

 
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