恋焦がれていた彫像が生身の女性へと変身することで、彫刻家はその女性を我が物とし、肉体的な結合を成就できる女性が裸体の姿で現れたという場面です。ここでは、二つのヴァージョンの違いは少なく、生身の人間の女になったガラテアとその足元に跪くピグマリオンノのポーズをはじめ、画面構成はほとんど同じです。
恋が成就したはずのピグマリオンですが、彼のガラテアを見上げる視線によって、彼が愛する主体であることがここで初めて読み取れるものの、欲望の対象であるガラテアの視線は逸らされ、誘い込まれることから逃れようとするように見えます。うつろな視線の女性を前に跪くピグマリオンの視線には、欲望がその対象へと受け入れられないことへの悲壮感が滲み出ているようなのです。これは、同じ画家の「眠り姫」連作で眠りに落ちた姫君を目覚めされようと野いばらに挑んだ王子が最後に姫君をくちづけで目覚めさせる場面を描かなかったことと通底しているように思えます。
これは観念的と言えなくもない屈折した欲望のあらわれとも言えるのではないか。精神分析ではピュグマリオニズムなどと呼ばれる人形偏愛性、生身の人間の女性ではなく心無い対象である人形を愛する性癖、広義に捉えれば、女性を人形のように愛する性癖を指します。つまり、生身の人間の女性は、いくら美しい女性であっても自我がある独立した一人の人間です。だから、こちらの思い通りにはならないし、時には諍いもある。人と人との付き合いですから、そのような煩わしさを嫌い、人形のように自分の思い通りにしたいという性癖のことを指します。これがすすめば変態者になってしまいます。このような例は小説や戯曲では少なからずあり、ピグマリオンをベースに、バーナード・ショーという劇作家が「マイ・フェア・レディ」と言う作品を書いています。上流階級の言語学者が下層階級の少女を淑女に仕立て上げるという作品は、オードリー・ヘップバーンの主演で映画化もされました。こじつけでいえば、「源氏物語」で光源氏が紫の上を引き取って育てるのもそうでしょう。
だから、ピグマリオンという題材を取り上げること自体に、とくにどうということは言えないのでしょうけれど、別のところで取り上げた「眠り姫」でも、眠りについて意識を失っている少女は人形にも通じるものです。これについても、エスカレートしたものはネクロフィリオという変態嗜好に通じるものと言うことも出来ます。
そして、この「ピグマリオン」の連作で描かれている女性は人形であるが故に、表情が描き込まれていません。女性を好んで描く画家なら、生命のない人形から、女神によって命を吹き込まれて女性となったときの生命に輝く姿への変化を描くのでしょう。しかし、バーン=ジョーンズにはそのような劇的な変化には興味がないようです。むしろ、生き生きとした表情がないところで一貫しているようです。それよりも、彫像から人間になったとしても、その女性の外見的な美しい姿に、彫像の硬さや冷たさから、人間となったことによって柔らかさや人間の肌の肌触りが加わったことを嬉々として描いているように見えます。そこに、制作者であるピグマリオンの支配の対象としては彫像でも、人間となっても変わらない描かれ方をされているように見えます。人間となってもピグマリオンに導かれるのに素直に従う様子で描かれているわけです。しかも彫像からの連続ということで、女性の裸像を恥じらいのない露わな姿で現している。
ピクマリオンをベースにした「マイ・フェア・レディ」という物語がありますが、この陰画として、マルキ・ド・サドに「ジュスティーヌ」という物語があります。ナイーブで純粋無垢な乙女のジュスティーヌを、悪意の男たちが寄ってたかって汚して調教していくというポルノグラフィの古典というべき作品です。これは後の団鬼六の「花と蛇」もそのパターンを踏んでいますし、ポルノグラフィの王道パターンのひとつになっているのです。
べつに、バーン=ジョーンズのこの作品では、縛ったりとかしているわけではありません。それぞれの作品は、ギリシャ神話や中世の伝説を描いたということなので、表面上では、上に書いたようなポルノグラフィのような捉え方はされないのでしょう。しかし…