ラファエル前派の画家達
エドワード・バーン=ジョーンズ
『ペルセウス』の連作
 

 

ペルセウスはギリシャ神話の英雄で、その冒険物語は、ヘシオドスの「神統記」、オウィディウスの「変身物語」などでも取り上げられ、ルネサンス以来の多くの画家に題材を提供してきました。その物語を大雑把に述べると次のようになります。

アルゴス王アクリシオスの娘ダナエは黄金の雨に変身したゼウスの子ペルセウスを孕み、孫に殺されるという神託を恐れたアクリシオスによって追放される。ふたりはセリポス島に漂着し漁師に救われるが、ダナエに懸想した島の王ポリュデクテスはペルセウスを疎み、見た者を石に変えるメドゥーサの首を持ち帰るよう命じる。アテナやヘルメスといった神々から姿を隠す兜、鏡の盾、剣、翼のあるサンダルを借りたペルセウスは、冒険の末メドゥーサの首を切り落とすことに成功する。帰路、海神ポセイドンの怒りを買って怪物の生贄にされそうになったエチオピアの王女アンドロメダを救い出し、彼女と結婚してセリポス島に帰還後、ポリュデクテスの手から母を取り戻す。その後、ある競技大会でペルセウスが投げた円盤が偶然アクリシオスの命を奪ってしまい、神託は成就する─

この神話についても「クピドとプシュケ」や「ピグマリオンと彫像」と同じくモリスによって物語詩に翻案され、後に挿絵詩集『地上の楽園』に収録されました。バーン=ジョーンズが、その挿絵を描きました。この連作の出発点は、この挿絵からです。そして、1875年に邸宅の装飾の依頼を受けたバーン=ジョーンズはペルセウスの主題に基づく連作絵画の構想を立てました。最終的には10点を予定されていたうち、完成作として発表されたのは「禍をなす首」「運命の岩」「果たされた運命」「ペルセウスとグライアエ」の4点だけで、あとには大量のスケッチや下絵が残されました。

では、順番でそれぞれの場面を見ていきましょう。

(1)「ペルセウスの召還」

ペルセウス・シリーズは、本作《ペルセウスの召喚》から始まる。これはアテナとペルセウスによる二つの場面を描いています。左側では、どうやってメデューサの頭を手に入れることができるのかを小川を見つめながら考えているペルセウスに、アテナが近づく場面が示されています。アテナは女神と分からないように、頭巾を身を隠しています。一方、右側では、アテナは通常の服装に戻っており、石に変えられることなくメデュサを見るための鏡を彼に与えています。他の画家はこの鏡を印象的な円形の盾として描いてきと言いますが、この連作では全体を通して、バーン=ジョーンズはそれをはるかに小さな円形の手鏡として描いている。

この作品の構成は、同じ人物を繰り返し描くことで二つの場面を同時に描くという珍しいものになっている。これはルネサンス美術への意図的な回帰と言われています。

(2)「ペルセウスとグライアエ」

ペルセウスは、メドゥーサを殺すのに必要な道具を持っているニンフたちの居場所を聞くためにメドゥーサの妹であるグライアイ三姉妹の元に行きます。彼女たちは生まれつき醜い老女で、三人でたった一つの眼と一本の歯しか持っていませんでした。ペルセウスは、彼女たちが居場所を教えてくれないために、この眼と歯を奪って脅すことで無理やり聞き出すという場面です。

灰色で、荒涼とした風景は、スティクス川(冥界との境界)のほとりであり、波形のパターンのような背景の描き方は3人姉妹の服のひだと連なっていて、重く鈍い、雰囲気を作り出しています。その画面手前に3人姉妹がしゃがんだ低い姿勢で手を伸ばして繋ぎ合っています。暗い画面で3人姉妹は水平に並んでいるため、中央奥のペルセウスの上半身が水平線の上に突出したようになり、そこに見る者の視線が集中することになります。ペルセウスは右手を伸ばし、向かって右端の女性から目玉をつかんで奪おうとしています。一方、グライアエは、「老婦人」または「灰色の魔女」で、伝統的に老婆に描かれますが、ここではその代わりに若くて美しい乙女として描かれています。それぞれの人物は明らかに女性的で、その優雅な手は彼らの若々しい人物の輪郭を注意深く描く服の下から現れています。うち1人だけ顔が見えますが、彼女の繊細な特徴は姉妹の美しさを創造させます。

なお、参考にウォルター・クレインという人の同じ場面を描いた挿絵です。

(3)「ペルセウスと海のニンフ(ペルセウスの軍備)」

ペルセウスは海のニンフを訪れ、彼女たちから翼のあるサンダル、キビシス(袋)、ハーデースの隠れ兜を借りる場面です。「ペルセウスとグライアエ」と同じような舞台の書割りのような様式的な背景だが、色合いが暗いグレーではなく深いブルーなのは海ということなのでしょうか。その波のような背景と、ニンフたちが水の上に立っている(水面に彼女たちの足は沈んでおらず、波立ちもしていません。しかも、水面には彼女たちの足が映っています)。ペルセウスとニンフは背景から飛び出しているように描かれています。ニンフたちはグライアエのように3人同じに見えて、優雅なイタリア風のゆったりとした服を着ています。その服の豊かな質感はペルセウスの堅い装甲のそれと対照的です。グライアエがしゃがんで水平だったのに対して、ニンフたちは3人が並んで立っていて垂直で、しかもペルセウスを見おろしています。その3人の立った姿は三美神を想わせます。彼女たちは彼にヘルメスの翼のあるサンダル、見えないヘルメットとゴルゴンの頭を置くための魔法の袋(キビシス)を彼に提供します。彼女たちと対照的に、ペルセウスはぎこちなく不自然な座り姿勢をしています。つまり、海のニンフたちは優雅に立っているのに対して、ペルセウスは無骨な鎧を着て、不自然に座っているという対照を示しています。ペルセウスの不自然さは、これから怪物メドゥーサと闘うという決意と、その闘いが生きて帰ることができるかどうか分からないものであるという不安の状態にいることを表わしています。バーン=ジョーンズは極端にペルセウスの混乱を煽りたてるような表現はしていませんが、ニンフたちの穏やかな雰囲気の中で、彼の内心が表われてしまったというように描いています。

(4)「メドゥーサの発見」

彼女の姉妹のゴルゴンと共にメドゥーサを発見する場面で、ゴルゴンの洞窟の中で、ペルセウスは、目に見えないためにハデスのヘルメットをかぶり、アダマンタンの刀を振り回し、そして鏡の中でその場面を見ています。この作品は完成度が低いので、未だ描かれていない部分が多く残されています。メドゥーサは左側に立って、彼女の身もだえする蛇の毛は大まかに示唆する程度で、姉妹のゴルゴンは翼で覆われて下に座っています。ウィリアム・モリスの詩の中では、女神アテナによる呪いの結果、メドゥーサはかつて美しかった髪を失うことに苦しんで泣いている、としています。バーン=ジョーンズはあたかも彼女が後ろから侵入者ペルセウスの存在に気付いたかのように彼女の強力な凝視だけを強調しています。彼女の姉妹ゴルゴンは、若々しい体と肌の色合いで描かれています。それは、モリスの「二人の女性が曲がっていて老いている」という「しわのある手」の説明とは異なります。メドゥーサの構図は、「眠り姫」の逆転を表しています。

なお、参考としてイタリア・バロックの画家カラバッジォが描いたメドゥーサの首を上げておきます。こちらは、たしかに美人だったのは分かりますが、恐ろしい怪物の顔になっています。蛇の髪の毛も気持ち悪い。

(5)「メドゥーサの死T」

ペルセウスはメデューサの頭を切り落とし、左手でそれを絵画の右端で真上に保持しています。彼は右手に剣を持って、そしてキビシス(袋)は彼の首の周りに振り落とされています。 全体として、まるでコラージュになっているかのように、切り離された首から出てくるのはペガサスとクリサールであり、後者は関連人物として示されており、彼を特徴づける湾曲した黄金の刀は描かれていません。メデューサの頭から3人の蛇が離れて地面に落ちています。バーン=ジョーンズはここに示されたそれぞれの図の名前を刻んでいます。おそらくこれはシリーズの中でもともと浅浮彫りのパネルであることを意図していたからです。

(6)「メドゥーサの死U」

前の「メドゥーサの死T」で首尾よくメドゥーサを仕留めたペルセウスが生首を肩に掛けた袋に押し込みながら足早にその場から逃げ出そうとする一方、妹の死に気づいて怒りに燃えるふたりの姉ステンノとエウリュアレが殺害者を捕らまえようと巨大な翼を広げて舞い上がる瞬間を描いています。連作の中で、最も劇的でダイナミックな作品ですが、最初の構想では人物たちは横長の構図に配置されていたが、ここに見るような縦長の構図に変更されることで場面の緊迫感とダイナミズムが格段に高められることになりました。

バーン=ジョーンズは、ここでは背景をほとんど目に見えないままにします、というより背景を描く余地を作らないように、人物を詰め込んでいるように見えます。マンガであれば余白には動線やオノマトペで満たされてしまうところです。また、バーン=ジョーンズは、非常に小さい遠近感を使用して、翼と手足の寄せ集めが構成の大部分を占めます。腕は特にぎこちない短縮のために奇妙に見えます。このように閉所恐怖症的な感覚の構成をしています。

(7)「運命の岩」

見事メドゥーサを退治したペルセウスは、その首をセリボス島へ持ち帰る途中、美しい若い女性が岩につながれているのを見つけます。これは、母親が彼女の美しさを誇りにし、ポセイドンの怒りを招いたため、海の神ポセイドンの怒りを買い、生贄にされた王女アンドロメダでした。ペルセウスはすぐに恋に落ち、彼女を救う決心をします。その場面です。

この連作では、はじめて具体的な背景が描き込まれています。精巧に描写された街並みを遠景に、手前は海中の岩にアンドロメダが鎖でつながれています。暗くて厳しい環境は彼女の淡い、明るい肌とは全く対照的です。この連作に、これまで登場した他の女性は不思議な、怒りっぽい美しさで不毛の風景を横切って漂いますが、アンドロメダは裸で露出して岩に鎖でつながれ、必死に救助者を待っています。ペルセウスが目に見えないヘルメットを外して自身の姿を現した瞬間に焦点を当てています。アンドロメダは、後の「眠り姫」の連作の受動的な、待っている美女の原型と言えます。眠れる森の美女のように、アンドロメダは主人公に見られるまで受動的に存在するようです。ヒロインたちは自分たちの世界に基づいて行動することを許されておらず、代わりに行動を待つ存在です。

当時のイギリスでは、絶体絶命の窮地に立っても尊厳を保っているアンドロメダの姿は教育的である、というようなことで正当性のお墨付きを得られたということで、多数の裸婦像が描かれたということです。例えば、アーサー・ヒルの「囚われのアンドロメダ」。鎖で拘束されてもがきもだえる肢体は、全身が前面に出てきて、多少弓なりのポーズになれば、乳房や下腰が強調されています。また、威厳を保っているとコメントされているにしても、描かれているアンドロメダの顔は俯きかげんで、鎖でつながれていることと相俟って、被虐的なエロティシズムを醸し出しているとは言えないでしょうか。

(8)「果たされた運命」

メドゥーサとの対決と並ぶ物語の見せ場です。ペルセウスはアンドロメダを鎖から解放し、彼女を救うために海の怪物と戦う場面です。ペルセウスは、モリスが「灰色の房で髪を彩っている、古くからの木/苔で丸められている」と説明している海の怪物と戦います。甲冑姿の騎士と怪物の戦いを美女が見守る図式は、巨大で禍々しい怪物とアンドロメダの眩い裸身のコントラストを際立たせます。アンドロメダの描写は、古典的な彫刻を強く思い起こさせ、恐ろしげには見えません。むしろ、理想的な肉体の美を誇示しているように見えます。

(9)「禍をなす首」

連作の最後は、美しく実り豊かな庭園の中で平和にペルセウスとアンドロメダを示しています。アンドロメダにゼウスの息子であることを説得し、結婚で彼女の手を主張するために、ペルセウスとアンドロメダの右手が手首を食いしばって、メドゥーサの頭を見せ、水の反射だけを見るように気をつけています。これは穏やかな庭園の中にあり、背後には果実が生えたりんごの木があり、その下の草から花が湧き出しています。八角形の井戸の幾何学的投影法にはある程度のぎこちなさがあり、その反射がもっともらしく見えるようにするために構図が歪んでいますが、それは光学系にも当てはまると思います。

ペルセウスがメドゥーサを殺害し、アンドロメダを救うことによって彼の任務を完了した後、彼は彼の以前の不安と不確実性の代わりに全身の男性的な力を醸し出しています。眠り姫の物語のように、服従的で受動的な女性の行動は結婚で報われます。ペルセウスの物語の根底にあるのは、男性による救助が必ずしも解放と同義ではないという仮定です。前のシーンの荒々しい、際立った設定の後、「禍をなす首」の花の咲く古典的な庭園は際立って印象に残ります。豊かに粒状にされた滑らかな大理石の表面は、このシリーズの前のシーンの荒々しい岩の多い地形とは全く対照的です。

 

この連作の「果たされた運命」の場面は多くの画家が描いていて、それらと比べてみるとバーン=ジョーンズの特徴が見えてくるように思います。例えば、ギュスターブ・モローの「アンドロメダ」です。両者を比べて、まず思ったのはバーン=ジョーンズの作品には空間が感じられないということです。ギリシャ神話によれば、アンドロメダは海辺の崖に逃げられないように鎖で縛られているはずです。しかし、バーン=ジョーンズの作品にはそれが感覚として感じられない。強いて言えば室内のような感じです。たぶんラファエル前派の作品に少なからず共通しているので、前期ルネサンス以前にもどれということから空間として全体を把握するという鳥瞰的な観方を意識して排除しているのかもしれません。例えば、ミレイのオフィーリアという有名な作品も小川に身を投げたというよりも室内プールのような空間なのです。(ただし、ミレイはラファエル前派べったりの画家ではなく、後には距離を置くようになり、それなりに空間の広がりを感じさせる作品も描いています。だから、「オフィーリア」の場合は意図的にそういう空間の描き方をされていたとも考えられます)

次に感じられるのは、怪物である大海蛇に恐ろしさとかおぞましさのようなものが感じられないことです。モローの作品では海蛇とか大きさかないのですが、何となく見たくない、近くに来てほしくないようなものとして描かれているように感じます。しかも、曰く言いだけというのかハッキリとは描かれていないのですね。たぶん、神話としては大海蛇という具体的なものというよりも、人々に災いをもたらす恐ろしいもの。アンドロメダを生贄として要求するようなおぞましいもの。そういうものとして捉えられていたのではないか、と思います。だから、人々は恐ろしくて‘それ’を見ることはできないし、見たくもない。‘それ’の正体を知る者は生贄になった者だけなので、誰も知らないし、‘それ’そのものを語るのも恐ろしい。だから、せめて想像の範囲内にとどめて海蛇の大きなのとして、とりあえず詮索しないということなのではないかと思います。「ゴジラ」という怪獣映画で最初にゴジラが姿を現わすまで、映画の半分を要します。それまで、漁船が被害に遭ったことが出てきたり、魚の動きが異常だったりと何かがおこるという無気味な雰囲気を盛り上げて行きますが、ゴジラが姿を現わすにしても、尻尾の一部とか全体像はなかなか姿を現わさないのです。それが恐怖感を煽っていく効果をあげていたわけです。ところがバーン=ジョーンズの作品では、海蛇がまるで標本のように、それと分かるように描かれている。これでは、神秘性とか恐ろしさといったものを感じられません。

そして、画面を構成する個々の人物が非常に細かく丁寧に描かれていることです。例えばペルセウスの装束の説密な描かれ方は、足首についている羽根について羽の1本1本が丁寧に細かく描き込まれているようだし、着ている鎧の細かな襞までもが描き込まれているようです。それだけに神秘性がかじられない。まるで神話の英雄というというよりもコスプレのように見えてしまうのです。

もう一人の主要登場人物であるアンドロメダについても神話上の高貴な王女というよう、神秘化、理想化された姿ではなくて、実際の憧れの女性を裸にしてリアルに描いたヌード写真のように見えます。ペルセウスがコスプレなら、アンドロメダはグラビアのヌード写真のようなのです。それだけ人物が現実の人物に近くリアルに描かれていながら表情がないのも大きな特徴です。神話上の登場人物なら半分神の様なもので、人間を理想化された姿として卑近な表情を敢えて描かないことにより神々しさを醸し出す効果があらわれます。しかし、バーン=ジョーンズの作品では人物は具体的でリアルに描かれていて、表情が描き込まれていないと虚ろな感じを受けます。ペルセウスには怪物を前にした怒りとか必死さのような表情はなく、アンドロメダにも怪物を恐ろしがったり、ペルセウスの勝利を祈る表情もありません。

これらは思うに、表情をつけることでアンドロメダやペルセウスの顔の造形が崩れることを画家が嫌ったのではないかと思います。後に、ピュグマリオンという人形の女性に命を吹き込む神話や眠り姫というテーマを描きますが、これらは人形であったり眠っていたりと表情がない顔と言うことになります。生き生きとして表情というよりも顔の造作に画家は引かれていたのではないか、と思われるのです。それは、だから今でいうと雑誌のモデルのグラビアに近い印象です。その付属品として衣装とか装身具といった細部を細かく描くことはグラビアを引き立てることになります。逆に空間という全体像を提示して、そこに位置づけるとモデルは全体の一部になって後景に退くようなことになってしまいます。つまりは、この作品で言えば2人の美男美女、もっというとイケメンとアイドルを描きたがったではないか、彼らを引き立てるために神話の舞台装置が適していたのではないか、ただし神話が前面に出ると彼らが霞んでしまう。そのバランスを考えて、このような作品として出来上がったのではないか。ということを感じるのです。

 
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