ラファエル前派の画家達
エドワード・バーン=ジョーンズ
『黄金の階段』
 

 

「黄金の階段」は1880年に発表された、それまで主として水彩画の小品を制作してきたバーン=ジョーンズにとって、初めての大型の油彩画です。しかも、アーサー王の伝説やギリシャ神話の物語を題材として連作を描いたバーン=ジョーンズには珍しく、物語性のない作品です。これは、当時の唯美主義の画家たちの特別な主題を持たない絵画、美そのものを追求する姿勢に影響を受けたものと考えられます。

では、作品を見ていきましょう。2.m×1.mという縦長の画面には、象牙色の装束に身を包んだ少女の一群が楽器を手に螺旋階段を降りて来る姿が描き出されています。これは、それまで、水平な横一線に人物を配置させる構図で、動感を抑えてスタティックな画面をつくる傾向にあったバーン=ジョーンズとしては、初めての試みで、画家の作品の中でも珍しいタイプと言えます。少女たちの似通った物憂げな表情や様式化された緩やかな衣紋が、大きく弧を描く階段の側桁や一段一段の連なり、穏やかな中間色を基調とする色彩構成と呼応して、音色が響き合うような効果を高めています。画面に音楽を感じさせるような動きが生まれているのです。具体的に見ていくと、まず階段上部、戸口から下りる4人目の円錐形フレンチ・ホルンを持った少女の足元の部分で、奥行きが解消されています。それは階段の描かれた位置とあわせてみるとより明らかになるのですが、階段は戸口のある壁面を背景にしていても、この壁面が鳩の停まるひさしのつけられた袋小路状に窪んだ壁面を背景にしているのです。つまり、ひさしのある壁面は、戸口のある壁面より奥にあるのです。しかしホルンを持つ少女の足元あたりで、この二つの壁面が同一面上に現れます。そしてこの足元部分の階段はひさしのついた壁面に備えつけられたかのように描かれています。次に階段の真中あたり、板型キタラを持つ少女のところでは、踏面に奥行きがなく、階段は梯子のように現れています。このためこの箇所は、直線描写になってしまい階段の捻りを表現できずにいます。まるで遠視で捉えられたような踏面の描写のようであるにも関わらず、キタラを持つ少女は、階段を下りる他の少女と同じ大きさで描かれていて、さらに、バイオリンを持つ少女の描かれた階段は画面に向かって右から眺めた描写となっていますが、この少女は正面からの視点で捉えられています。つまり階段を下りる少女達は、階段を捉えた視点とは全く異なる別の視点によって描かれているのです。

しかし、この階段と少女の両者を描くにあたって、視点を一致させなかったことが、この画面全体に曲線の流れを作りだしていると言えます。それは、直線描写になっている階段部分において、その構図を全く無視した女性像の配置によって顕著になってきます。ここでは、キタラを持つ少女と彼女の右肩に触れようとする少女が描かれています。キタラを持つ少女が直立像であれば、垂直状にあらわれた階段の効果と、その後ろでタンバリンを持つ少女とバイオリンを持つ少女との関係から、この3者は直線状に並んでしまい、またこの少女たちの連なりに角度が生じてしまうことになりかねません。しかし、彼女を少し中腰にさせることで、それらを回避し、また彼女の肩に触れようとする少女の動きによって、階段では描ききれなかった曲線、円弧を描いているのです。もっとも、この肩に触れようと楽器を持たない少女こそは、この画面に曲線という流れを生み出さすために描かれたと言えると思います。彼女とキタラを持つ少女との間には、およそ6段の段差があります。しかし、彼女は、階段からの落下という危険も感じさせず、踏面をしっかり踏む下半身は重量感たっぷりですが、6段もの段差を怯むことなく易々と女性の肩へ触れようとしているのです。

このように少女たちの動きや彼女たちの連なる構図によって生み出された円弧を見ると、この画面では、螺旋階段という形によって曲線を描いていないことが明らかとなります。また、少女たちは、曲線を描くために、建物やある部分の階段の描写における奥行きを解消していくのである。この少女たちには全く距離感がない。階段下部での、シンバル、フレンチ・ホルン、オーボエをそれぞれ持つ少女たちは、3次元描写であるが、その量感を無視するかのように距離感なく並びたられ、さらにはパターン化した構図を見て取れる。このように18人の少女は3次元の描写であるにも関わらず、彼女達の間に量的な空間が見られず、連なり自体が平面性を帯びています。それは、少女たちが曲線を描きだしていることに加えて、同時にこの群像が曲線という一つの線へと近づこうとしているようにもみえるからです。それぞれの少女は3次元の量感あるものとして描かれていますが、曲線へ向かおうとする連なりにおいて、少女に備わる量感をも解消していくのです。また少女の衣服の衣紋は、等間隔で細かく入念に描き込まれ、この衣紋は、少女の下半身の肉付きや動きを無視するように、衣紋の描線それ自体が律動感に溢れています。この画面では、線描の持つ律動感によって2次元の空間が確固たるものとして現れているのです。

また、少女たちは曲線を描くように配置されていますが、その少女たちの投げかける視線は、様々な方向へとむけられているのです。階段上部から6人までの少女たちの視線は、それぞれ上空に向けられ、開かれたひさしとともに、この空間が上空へ向かうような開放感が感じられます。またバイオリンを持つ少女の視線は斜め下に投げかけられ、彼女の視線によって少女たちは地上へ下りようとしているようである。つまりこの少女たちは、ただ曲線を描きながら、階段を上から下へ下るという流れを示さずに、視線の向けられた位置によって、この曲線は上へ向かおうとする流れと下へ向かおうとする2つの流れを同時にあわせもっているのです。また彼女達は、音楽を演奏することに昂じることなく、顔を向かい合わせ視線を交し、彼女達だけに通じ合ったやり取りをしています。

しかも、この少女たちには、バーン=ジョーンズの描く女性に共通している内省的な、あるいは見方によっては虚ろな表情ではなく、晴れやかな笑顔を見せたりするような生き生きとした表情をしています。それが、画面全体に活気を生みだしているのです。

つまり、横長の水平のスティックな配置による画面構成とは反対の縦に人物を配置して、階段を降りるという下方向への動きを与えたこと。階段を降りようとする少女たちが曲線を描くように配置され、下に降りるだけでなく円を描く動きが、彼女たちの配置と姿勢から生まれていること。そして、少女たちの視線が様々な方向に向けられ、彼女たち相互に視線を取り交わしていること。これらが全体として、樹木に喩えれば、下方向への動きが太い幹で、その幹を円を描いて回り込むような大きな枝が張り、その枝から様々な方向の視線という小枝が縦横に伸び広がっていく、そういう動きが画面から生まれているのです。しかも、少女たちは生き生きとした笑顔を見せて、全体に活気を与えている。それは全体としての盛り上がりです。実際に、少女たちのうちでは画面の外、つまり見る者に視線を向けている者もいるのです。つまり、この活気は画面の中だけでおさまるものではなく、外に向けて開かれている。それが、喩えていえば、音楽の響きのように、大木の複雑に絡み合った枝ぶりのように、響きあって聞こえてくるようなものを見る者に感じさせる画面となっているのです。

この少女たちの生み出す曲線は、階段の最下段のシンバルを持つ少女で終わることなく、曲線は新たな捻りを見せて、振り返る処女へと続きます。シンバルを持つ少女から、振り向く少女まで、その間を埋め込むかのように距離感なく3人の少女を並べています。これら4人の少女たちは、戸口から階段最下部までの曲線だけでは、上下に揺れてしまう観者の視線を一点へと導くことになります。そして、振り向く少女によって、この曲線が上空と地上の間に揺れる線ではなく、天上的な旋律を地上へ響かせる曲線であるかのようです。

 
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