「クララ・フォン・ボルク」「シドニア・フォン・ボルク」
バーンジョーンズは水彩絵の具を独特の方法で用いたが、一対をなすこれらの作品にその典型を見ることができます。出典はヨーハン・ヴィルヘルム・マインホルトが1847年に発表したゴシック小説「修道院の魔女シドニア・フォン・ボルク」にあり、英国では1849年にジェイン・フランチェスカ・ワイルドの翻訳により「魔女シドニア:ポメラニアを統治する公爵家を全滅させたとされる者」と題して刊行されたものです。実在のシドニウ・フォナ・ボルクは16世紀後半から17世紀初頭にかけて生きたポーランドの貴族です。彼女は、晩年に修道院での政治的扮装に巻き込まれ、魔女として告発されて、処刑されました。それが、ゴシック小説として脚色された物語が当時のイギリスでカルト的な人気がでて、オスカー・ワイルトやラファエル前派のロセッティなども傾倒したといいます。その影響で、バーン=ジョーンズが作品の題材として取り上げることになったそうです。
バーン=ジョーンズは、クララとシドニアという二人の女性を対極的な存在として描いています。クララ・フォン・ボルクはシドニアの策謀の生贄となった女性です。彼女は、おとなしいが勇気のある女性で、鳩の幼鳥を手にかくまい、虎視眈々と隙をうかがう魔女の黒猫の襲撃をふせぎながら、気高く超然とした表情をしています。そんなクララとは対照的に、シドニア・フォン・ボルクは首につけた鎖をたぐりながら、狡猾そうな流し目をくれています。シドニアの性悪さは、画面左下のクモと、ドレスの全面を覆うひしめき絡み合う蛇の図柄によって暗示されています。ハンプトンコート宮殿の所蔵するジュリオ・ロマーノの肖像画にヒントを得たというシドニアのドレスの不吉な図柄は、彼女の思惑の底に流れる邪悪な意図をほのめかし、さらにクララの足もとの絨毯に反転した柄となって現われて、クララもまた魔女の邪悪な罠にかかることを予感させます。
バーン=ジョーンズは、これを描くために、2枚の厚手の包装用の紙をストレッチャーに巻き付けて用いました。絵の表面には、水彩絵の具とグワッシュにアラビアゴムの薄い層が積み重なって、シロップのように濃密な表面になっています。ロセッティの水彩画と同じように、仕上げではなく作画の初期の段階でゴムを塗布するのは当時としては珍しくウィリアム・ブレイクがテンペラで描いた「蚤の幽霊」のような作品の特徴をなす粘性の強い質感を思い起こさせるものとなっています。なかでも、シドニアの肖像の方は、黒と白の鮮明な対比が目立つのですが、バーン=ジョーンズこのために、亜鉛白をより明るい部分に用いて、シドニアのドレスの裾のハッチングに固定しました。そして、ループ状の布の部分では、まず模様を描き入れ、それから絵の具の表面を、彫版をするように深く削り落とし、下に埋もれた白い紙を露呈させました。その上に濃い色の線を重ねて、蚊のようにとぐろを巻く物が、不吉にのたうつ姿を表わそうとしたのだそうです。これはまるで七宝細工のように模様が盛り上がっているのは、バーン=ジョーンズが素材の枠を越えた作品制作に関心を抱いたことを示しており、これが彼の作風の顕著な特徴となっています。同じような色彩の調和と、大胆に組み合わされた魅惑的な形態は、彼が早くに手がけた絵入りの家具やステンドグラスにも見られる特徴でもありましたが、それらが再び平面に翻案され両作品の背景に用いられています。
「慈悲深き騎士」
これは自分の命を奪おうとして宿敵に対して憐みを示した騎士が、磔刑のキリストによって祝福を与えられるという空想世界を描いた作品で、その着想はケネルム・ヘンリー・ディグビィが1822年に出版した著作『名誉の砦』の中の叙述から得たものです。
そのエピソードは次のようなものです。ある聖金曜日のこと、フィレンツェの騎士ジョヴァンニ・グアルベルトは武装した従者とともにフィレンツェに向かっていた。その道中、自分の兄弟を殺した男と出会った。彼は復讐としてその男を殺そうとした。男は、武器を十字架の形に広げてひざまずき、その日に磔刑に処せられたキリストの御名において慈悲を請うた。ジョヴァンニは男を許した。ジョヴァンニはその後、立ち寄った教会で祈りの最中に、木造のキリスト像が手を差し伸べられ祝福を受ける。
バーン=ジョーンズが、この作品を描くにあたって、構想過程で描かれたスケッチには、磔刑のキリストから祝福を受けようと跪く騎士の前に祭壇が描かれていました。ところが完成された作品からは、スケッチでは描かれていた祭壇が消えてしまいました。完成された作品では、鑑賞者がそこに目に見えない祭壇の存在していることを確信させられるように暗示する構図が工夫されていました。祭壇を実体として存在していると描写する代わりに、聖性の空間と世俗世界との間の隔たりを距離によって表現することによって、作品を見る者に、そこに祭壇が存在していることを強く意識させているのです。
さらに、画面には存在していない祭壇があるべき場所には4本の柱が描かれていて、あるべき祭壇を取り囲むよう配置されています。その柱の上部には、天使の像が取り付けられています。それは木造の質素なものですが、聖堂内の内陣の最奥に位置する祭壇を覆う天蓋のようにも見えます。磔刑のキリストの木像から祝福を受けようとする騎士が、この空間に足を踏み入れることはなく、その縁に跪いている姿も、至聖所とそれ以外の空間との明確な分離を強く印象づけています。磔刑のキリスト(足が釘付けられていることから分かります)が上体を大きく前に屈めて、乗り出すようにして騎士を祝福する構図も、聖域と世俗魔間に介在する境界の存在を暗示するとともに、救い主イエス・キリストの祝福が大胆にその境界を超えて世俗世界に及ぶ瞬間を劇的に捉えています。キリストのひげは、騎士の額と言い表せない悲しみの表情の盾となっていて、キリストの手の聖痕は、騎士のむきだしの手の弱々しさを引き立たせています。
また、平面的な画面全体を覆うグリーンの美しさに目を奪われますが、陰影の処理や人体の立体感などにラファエル前派にはない独自性が芽生え、甲冑の光沢感、周囲の幻想的なまでの草花など、後のバーン=ジョーンズの作品を彩る要素がすでに表われています。