ラファエル前派の画家達
エドワード・バーン=ジョーンズ
『コフェチュア王と乞食の娘
 

 

コフチェア王の物語は、エリザベス朝の古いバラッドをもとにして、テニスンが1833年9月に書いた「乞食乙女」という詩によるものです。トマス・パーシーが1765年に出版したReliques Of Ancient English Poetryの第1巻にはKing Cophetua and the Beggar-Maidという1612年のリチャード・ジョンソンから引用した詩が入っている。その内容は次のようなものです。コフェチュアは女性に興味のない人だったが、ある日、盲目の少年(キューピッド)の射た矢が胸に突き刺さり病の床についた。やがてその病を癒す方法はただ一つ,窓から見かけた灰色の服を着た乞食を妻にすることだと気付き、外に出ると乞食たちに自分の財布の中味をばらまいて与えた。その場にいた乞食たちは地面に落ちたものを拾って走り去るのだが、みなの最後になった乞食を王は呼び止め、お前は私の妻になり最後は同じ墓に入ろうと言った。この詩は全体が120行である。テニスンはその内容をわずか16行に凝縮した美しい詩に仕上げました。

両腕を胸に重ね、

言葉で言い尽くせぬほど美しい、

乞食の娘は素足にて

コフェチュア王の前に来たり。

ロープを纏い王冠を戴いた王は降りる、

彼女を迎え、会釈せんとて。

臣下らは言った。「不思議はない。

この上なく美しき娘ゆえ」。

 

曇り空に月が輝くように、

娘は貧しき身なりで見られた。

一人はその踝を称え、一人はその目を、

一人はその色濃き髪と麗しき物腰を称う。

かくも甘美な容貌、天使さながらの優美さは

国中でかつてなかった。

コフェチュアは王の誓いを発する。

「この乞食、わが王妃となるべし」。

バーン=ジョーンズの作品は、残されているスケッチによれば、この絵の最初の構想は、王が玉座から乙女のもとに下り、彼が彼女に恩恵を施すといったもので、それは王が美を前にして無となり、彼女の足元にひざまずくという、二人の関係が逆転した最終的なヴァージョンとはまったく異なっているものでした。最初のヴァージョンの、王が乙女を見つけ、彼女を得ようと手を伸ばすのは、彼女の本質的な純粋さを犯そうとするかのように見えてしまう。それゆえ、最初のヴァージョンは破棄されました。

もとになっているのは初期ルネサンスの画家マンテーニャの「勝利の聖母」で、マンテーニャのその絵は聖母子の回りを四人の聖人が両側に二人ずつ囲み、また甲冑をつけた寄進者が彼女の座る台座の足元にひざまずいているという構図のものです。遠近法がその場面を下から見上げるように解釈することを求めるために、絵を見る人は寄進者の立場、つまり聖母子を仰ぎ見る位置に置かれるようになっています。その結果生じる畏敬の念こそがバーン=ジョーンズの望んだもので、彼は自分の絵にこれと同じ視点を再現しようとしました。寄進者と聖母の関係と、王と乞食の娘の関係が酷似しているのが、乙女と見る者との間に畏敬の念を生じさせる距離をさらに出すために、付き添う人物たちを彼女の傍らに配する代わりに、構図の上方にもってゆき、彼女を見下ろすようにしました。そのため、「コフェチュア王と乞食の娘」は、全体として縦長のキャンバスに垂直の構図になっています。最初は、マンテーニャを踏襲して、バーン=ジョーンズは四人の少年たちを、両側に二人ずつ配したようですが、すぐあとで、二人を外し、もっと心地よい非対称のデザインに直しました。

縦長の画面は、また、その中で美しい物乞いの乙女が、王の真上、画面の真ん中に位置し、彼女の社会的地位の明らかな上昇を非常に視覚的に示す効果もあります。彼女、この予期せぬ来事のせいで、王宮の贅沢な環境の中で戸惑うように広く目をそらして座っているようです。あるいは、もととなった聖母子像の聖母と同じような無表情、つまり、この場合は美の理想の姿であるために人間的な表情を排除している、とも受け取ることができます。それゆえに、王は彼女の美しさに等しく気絶した彼女の足元に座るわけです。これは美の理想のために物質的富のような現世的な社会関係を棚上げするという姿勢が底流のように表われていて、このような姿勢はバーン=ジョーンズの他の作品にも共通していて、当時の画家たちにとって重要な意味を持っていたと考えられます。彼らは、世俗的な考えによって精神的価値が侵食されてしまうことを察知し、富などの現世的な価値をやみくもに追及することが社会と個人にとっていかに危険なことであるかを理解していたと言えます。もっと高いレベルで、彼らは科学的物質主義が想像力をむしばんでいることもわかっていた。それで精神の力を強調することによって、つまり世界を見かけ通りに受け入れることをしない美の創出を強調することによって、彼らは外に現われた現象を自在に解釈し、変容し、さらにはそれを拒むことまでしてみせました。

乙女の着ている衣装は非常に興味深いもので、いつものバーン=ジョーンズの作品にありがちなゆったりとしたローブではなく、乞食という物語の設定なので、それらしい格好となるのでしょうが、美しくないといけない。それで、画面のようなバーン=ジョーンズには珍しい服装となったのでしょうか。彼女が右手にもっている花はアネモネで拒絶された愛の象徴で、明らかに絵の物語と一致しないのですが、おそらく彼自身にとってもっと意味のあるものである。

コフェチュア王は、魚の鱗を模しているかのように見える神話的な鎧の装いで跪いています。彼は、より高い存在の前にいるかのように、王冠を外して膝の上で抱えています。

上方2人の少年は歌手は、楽譜を手にしていて、音楽を暗示しています。それは当時の純粋に美を追求するという絵画が音楽を理想としていたこともあるでしょうが、この作品の場面が、時間が止まって世界が永遠の静けさに変えられた時の、魔法の一瞬なのだということからではないかと思います。つまり、偶然に自分の理想を見出した王と、実世界と精神世界の間で揺れる美しい霊的な乙女が画面にいて。蜃気楼のように、この乙女はわれわれが近づくと消えてしまいそうな感じがする。コフェチュアはこれを察知し、彼女の存在に静かに没頭しながら座っているのです。

 
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