生誕140年 吉田博展
山と水の風景
 

2017年7月14日(金) 東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館

例年であれば梅雨の末期で強い雨が降り続くような時期なのに、東京は梅雨明け直後のような快晴で、猛暑の日々。都心はヒートアイランドの、ムッとした空気が肌にまとわりつくような暑さ。午後の新宿はの人波は、暑さをさらに昂じさせるようで、ほんとに暑い。この美術館は、初めて行くことになるので、不案内な地下道を避けて地上の道を歩いたので、電車を降りてJRの駅から美術館まで、10分足らずの距離を歩いただけで、かなり汗を絞り取られ、すぐには落ち着いて絵画を鑑賞する状態にはなれなかった。新宿西口の高層ビル街の入り口にあたるところの損保会社のビル、美術館の専用玄関が正面の裏手の少し奥まったところに回る。玄関を入るとロビーがあって、展覧会の紹介映像を流していたので、ここで少し涼んで、汗が引くのを待った。(コインロッカーはここのロビーと42階の展示室に上がったところにもある。大荷物でもない限り、あせってロビーで預けることはないと思う。)専用エレベーターで42階に上がると、小さな受付で入場券を買った。受付が小さいのは、前売りや招待券の人が多いからかもしれない。平日の午後で、こんな暑い日にもかかわらず、しかも、展覧会の会期としては始まったばかりであるにもかかわらず、それなりに人は多かった。これ以上増えると落ち着いて見られなくなるかもしれないというくらい。おそらく、会期の終わり頃には、かなり混み合うのではないだろうか。

さて、展覧会の会場に入っていくことにしましょう。美術の知識がほとんどない私には、吉田博という画家をしりませんでした。ポスターの画像と、都心に出か欠けるスケジュールと展覧会の会期が符合してので、寄って見たというのが、この展覧会を訪れた動機です。その画家の紹介も兼ねて、この美術展の趣旨について、主催者のあいさつを引用します。

明治、大正、昭和にかけて風景画の第一人者として活躍した吉田博(1876〜1950)の全容を紹介する展覧会を開催します。

福岡県久留米市に生まれた博は、京都の地で三宅克己の水彩画に感銘を受け、以来本格的な洋画修行を始めました。明治27(1894)年に上京して画塾・不同舎に入門、小山正太郎のもとで風景写生に励んで腕を磨きます。明治32(1899)年に渡米、言葉もままならない異国で自作を大いに売って生活の質を得るという快挙をなし、アメリカ各地からロンドンやパリを巡って明治34(1901)年に帰国しました。以後も外遊を重ねて東西の芸術作法を見つめ、内外の風景に取材して水彩画や油彩画を発表、太平洋画会や官展を舞台に活躍を続けました。

とりわけ高山を愛し、常人の足の及ばぬ.深山幽谷に分け入ることで描いた作品は、新たな視界や未知の美を発見した喜びに満ちています。大正後期からは彫師・摺師と組んだ木版画に軸足を移し、伝統的な技術に洋画の表現を融合したかつてない精巧・清新な造形で国内外の版画愛好家を魅了し続けました。

吉田博は生涯、世界における自らの位置を考え続けた画家といってよいでしょう。その思考の跡が、湿潤な日本の風景をみずみずしく描いた水彩画であり、雄大な自然美を登山家ならではの視点からとらえた油彩画であり、浮世絵以来の技術を新解釈した木版画でした。比較的早くに評価の定まった白馬会系の絵描きたちに比し、長く埋もれてきた感のある博の画業は、今の私たちにどう映るでしょうか。「絵の鬼」と呼ばれ、水彩で、油彩で、木版画で世界に挑みづけた画人の「これが日本の洋画だ」という答え─。生誕140年を記念し、代表作に初公開の写生帖などをあわせて展観する大回顧展を、とくとご覧下さい。

このあと、展示されている作品を追いかけるように見ていく際に、具体的に述べていこうと思いますが、吉田博の一連の作品の展示を通した見た全体としての感想を、大雑把に述べておこうと思います。この人は、一芸秀でた一点突破型の人ではないかという印象を受けました。その一点が突出しているので、それ以外のところは下手だったり凡庸なのですが、その一点の印象に引っ張られて、全体として気にならなくなっている。逆に一点を際立たせている、そういうタイプの画家だったように見えました。それゆえ、彼の方向性とか位置ぢけが限定されのは仕方のないことで、例えば、風景画家となったことについても、それ以外の道はなかったのではないかと言う感じがします。それは、作品をみての印象で結果論かもしれませんが。で、彼の突出した点について、最初に述べておきます。これから、彼の作品を見ていきますが、私はのその一点突出という視点てせ見ていくことになりますので、もし、この突出しているということに異論がある片は、この先を読んでも、何の収穫も得られないと思います。で、その突出点てせすかせ、それはスケッチです。そのスケッチのなかでも、建築物のような動かないもの、表面が硬い素材のものの外形を鉛筆で線を引くという点です。硬い線で引かれた輪郭による形の説得力がすごい。例えば、北アルプスの山岳を描いた作品であれば、岩稜のデコボコのひとつひとつの形に、それぞれ意味があるように形が捉えられて、描かれているのです。だから、描かれている山稜を見れば、それがどの山であるかは山登りをしたことのある人であれば、ひと目で分かるのです。それが、この人の山岳風景のすごいところで、他の画家であれば一般的な山の概念を描くのが精一杯のところ、この人は剣岳という特定の山を、その特徴をとらえて、その特徴に固有の意味があるものとして描かれた形にしているのです。おそらく、誰かに習ったというものでなく、画家の生得的な才能なのではないかと思います。しかし、その反面、山岳風景であれば、彩色された山岳の岩稜に、岩の固さとか重さが感じられない、また、その風景に光がさして影ができる、そういうところが感覚できない。形は説得力があるのに、彩色されると平板な画面になってしまう。また、スケッチにおいても、花や人物のような柔らかなものの柔らかさを捉えきれないし、さらに水面のように流れる、つまり動きがあるものの動いているということを捉えきれない。そのうえ、全体としての構図が、つまりは空間の全体の把握の仕方が陳腐で、画家独自の視点を、おそらく、この人は生涯持つことができなかったのではないか、だから、この人の風景画はどこかで見た、悪く言えば絵葉書のようなものになっているのです。ただ、ここで誤解してほしまないのは、だから、この人の作品はつまらないとか魅力がないと言うのではないのです。そういう文句はいくらで言えるにも拘わらず、突出した一点があるがゆえに、他の凡百の画家とは一線を画しているということなのです。

それでは、具体的に作品を見ていきましょう。

 第1章 不同舎の時代:1894〜1899

 第2章 外遊の時代:1900〜1906

 第3章 画壇の頂へ:1907〜1920

 第4章 木版画という新世界:1921〜1929

 第5章 新たな画題を求めて:1930〜1937

 第6章 戦中と戦後:1938〜1950

 

第1章 不同舎の時代:1894〜1899

吉田の修業時代ということになるでしょうか、不同舎という画塾に入門して、鉛筆によるスケッチに没頭していたといいます。この塾の主催者である小山正太郎という人の方針が「タンダ一本の線」というのだそうで、3本も4本も無駄な線をひくのではなくて、断然と決心して1本の線を引けという趣旨らしいのですが、何本も線を引いて撚るようにして線をつくったりとか、細かい線をひいて線を際立たせないようにして面として表われるようにするといったやり方であれば、最終的には輪郭線が消えて、物体の面とか立体が表われるといった西洋の素描とは少し違うようです。決然と1本の線を引くということは、その線が主張するものであるはずで、最終的には描かる物体には輪郭線など存在していないのだから描かれたものでも消える、というものではないことになります。その輪郭線が消えるのに代わって色彩とか光と影のグラデーションで、面や立体としての物体を表わすことになるわけです。しかし、ここで彼がやっているのは、線で輪郭を明確に描くということで、展示されているさくひんにも、それがよく表われていました。外形の輪郭が明確に捉えられていました。しかも、その捉えられた形は、正確なのだろうし、それ以上に見ていて意味があるといのが分かるものでした。

また、不同舎の方針というのが、もうひとつ「不同舎風道路山水」と言われていたそうで、一点透視の遠近法を基本として、中央に道、川、水路などを手前から奥へと伸ばし、周囲の風景とともに添景とともに人物などを配したとしいう構図です。例えば「冬木立」(左上図)という作品は、まさにその典型です。真ん中を道が手前から奥に伸びた、シンメトリーに遠近法の画面構成です。おそらく習作のような作品なので、構図に凝るとか、独自の視野といったことは想定していないのでしょうし、この構図は安定していて、描きやすい、格好がつきやすいので、まずは描くということなのでしょう。しかし、後年のアングルの陳腐さというのは、この時点ですでに胚胎していたかもしれないと、結果論的な見方でしょうが、見えてしまうのです。しかも、言わせて貰えば、折角水彩画で彩色しているのに、冬の空気感とか、乾いた光線とかいったことには全く無頓着なようなのが分かります。おそらく、吉田にとっては明確な形になっていないものには興味がなかったのかもしれません。しかも、道の土や両側の草の塗り方が雑といのかぞんざいで、その質感といったことが伝わってこないのです。それは、小さな画像では、分かり難いかもしれません。逆に、この画像では、木立の枝のしげる形とか、後方の民家の形がしっかり分かるので、とても見易い印象を持たれるのかも知れません。これらから、ひとつの想像をしてしまうのは早計かもしれませんが、吉田という人は、目に見える、明確な形以外のものは描く対象から、あえて外したのかもしれない、それを、すでにこの時点で自覚していたのかもしれないと、作品をみていて思いました。

「浅間山」(左図)という水彩画を見てみましょう。この作品の遠景に薄く描かれている浅間山がちゃんとした地形の浅間山として分かるというのは、このころから、地形としての山の形の意味を吉田という画家は分かっていたのだろうと思います。参考として、比較のために梅原龍三郎(右上図)と小山敬三(右下図)の浅間山を描いた作品と並べて見ると、彼等が浅間山を描いた作品には定評があるとのことですが、吉田の描く浅間山に比べると地形としての形はいい加減としか言いようがありません。この二人の場合には、地形などより火山のエネルギーとか画家の思い入れとかいった実体の形として表われないものを絵にしようとして、その素材として浅間山をつかっているので、絵としての評価と浅間山であることの必然性とは別に見ていかなければならないと思いますから、吉田の作品と比べて、どっちがどっちとう良し悪しをいうつもりはありません。比較はこのくらいにして吉田の作品に戻りましょう。この作品で目につくというのか、視線が集まってしまうのが、画面真ん中左に直立している1本の樹木です。吉田の風景画で横長の画面の作品では、よく、このような縦の線を印象的に挿入して、アクセントにしているケースがあります。結果時に、見る者の視線をこの縦の線に集めることになっていて、作品全体に締まりを与える効果があったと思います。吉田の作品を見ていると、この画家の視野はカメラで言えば、望遠レンズで見ているようなところがあって、この作品のような横にひろがっていくような画面であれば広角レンズのような広がりがあったほうが似つかわしいのでしょうが、この作品をみていても、そのような空間の把握をしていないようです。そこで、1本の樹木を挿入して視線を集めることで、望遠レンズの求心的な視線の方向性に導いていると思います。おそらく、吉田は無意識に、そこにある風景をそのまま写生しているのでしょう。しかし、この画面をもし、この樹木がない場合を想像してみれば、おそらく、焦点のない、茫洋とした締まりのない画面になっていたのではないかと思います。このように、吉田という画家は、視野においても、かなり偏ったところがある人だったのではないかと思います。これは、必ずしも悪い意味ではありません。

「雲叡深秋」(左図)という作品です。このコーナーでは唯一の油彩画で、当時の展覧会に出品された作品ということで、1989年という制作年代から考えれば、吉田にとって不同舎時代の集大成的な意味をもった作品だったのではないかと思います。この時期の水彩画の場合とは違って、拙いながら塗りも丁寧さがありました。縦長の画面で渓谷の深さを当てはめて、視野を狭くすぼめて、画面真ん中に焦点を絞るようにして、その焦点には渓谷のはるか源流の山肌を遠景で示して、奥深さをだしている。まさに望遠レンズに格好のアングルです。しかも、画面の両側に覆いかぶさるように屹立する岩は、細かいところに至るまで、きっちり形を描き込んである。ちょっと参考の意味で比較していただきたいのが、19世紀イギリスの風景画家ジョン・ブレッドの「ローゼンラウィ氷河」(右下図)という作品です。画面構成がとても良く似ている作品です。吉田は、この作品を見たとは思えませんが、ある種のパターンなのではないかと思います。しかし、ブレッドの作品は、この風景をこの世のものも思えない超絶的な景観として作為的な描き方がなされています。例えば、大小の釣り合いが極端に拡張され、個々の要素が切り離されているような感覚をおぼえさせられます。遠近法のよる立体表現においても、あえて消失点さえ定めずに画面を構成しています。左側の巨大な絶壁も作品を縁取る仕掛けというより、単に視界を遮るにすぎないようです。崖の頂に立つ針葉樹も、ありえないほど小さく見える。前景の一番大きい堆石にのしかかる氷河は、空間の広がりを遮り、視界を不安定にします。しかし、形だけを見れば手前の中央右に盛り上がる氷河の雪のピラミッドの形は、遠景にかすむドッセンホルンの山頂と呼応しあっているように似ています。また、左側の崖も画面の縁で欠けてしまっていますが、その形はピラミッド形の右半分のような形で、画面全体にピラミッドの三角形が前景、中景色、遠景にそれぞれ配置されていて、関連づけられています。それにより三角形が、はるか遠くから手前に向かってせり出してくるような動きを与えます。それが見る者にとっては迫力を感じさせることになります。しかし、その一方で、中央の手前には花崗岩や砂岩の石が、その向こうには片麻岩の彎曲した様子が、地質学上もそれとわかるほど精巧に描写されていて、手に取ることができると錯覚してしまうほどです。それが見る者にとっては画面の枠を超えて、自分が氷河のすぐ前にいるかのようなリアリティを与えています。だから、氷河が迫ってくる迫力が迫真のものとして感じられるわけです。これは、当時のロマン派の思潮における山岳の美の特徴的な性格としての“崇高さ”ということ、その崇高さというのは人が畏怖を感じるものですから、この作品の迫力は、その畏怖、崇高さに繋がるものとなっていると言えます。しかも、ブレットは崖の上に立っている小さな針葉樹、たぶんモミの木でしょうか、そこにキリスト教の救済の意味を負わせている。それらの木は、この世の終わりのような荒涼とした景観の中で、永続性を象徴させています。これに対して吉田の作品には、ブレッドのような作為がほとんど感じられません。画面をまとめているのは分かるのですが、“崇高さ”という雰囲気とか理念のようなことを風景に託して表そうという気がない。そこが、吉田の作品に一貫して流れている特徴で、この人の表現というのは、徹頭徹尾即物的なのです。それは、吉田の潔さと受け取るか、想像力の欠如と受け取るかは、見る側の好みによることになると思います。

 

第2章 外遊の時代:1900〜1906

1899年、吉田は友人と二人でアメリカにわたり、そこで立志伝のような波乱万丈のエピソードで当地の売れっ子画家となり、ヨーロッパを回って帰国します。そのエピソードには私興味がないので、作品を見ていきますが、外遊した影響が、ほとんど見られないことに、却って感心してしまいました。当時の欧米の流行の最先端の技法や絵画潮流を吸収して、日本に持ち帰るといった画壇の権威たちの傾向がまったくと言っていいほど、ありません。そんな権威付けをしなくても、日本の湿潤な空気と、例えば南欧のカラッと乾いた空気に明るい陽光の下で、風景が透明でくっきりと映るのを描くという絵画を学んで、それを日本に持ち込もうとして、空気や光の違いに愕然として、描き方に悩むというパターンも吉田には全く見られないのです。外遊前と後で、吉田の作品を見比べてみても変化が跡が見分けられません。もともと、吉田は外遊しても学ぼうと言う気がなかったのかと思ってしまうほどです。

おそらく想像するに、吉田の絵画にたいする基本姿勢というのは、前のコーナーで即物的と述べましたが、その根底には大和絵とん浮世絵の風景画のスタンスがしっかり定着していたのではないかと思うのです。いうなれば、吉田の絵画はスピリットは浮世絵のような日本の絵画で、その上に洋画のスケッチとか水彩画の技法を使っているというように感じらるのです。例えば、線で事物の輪郭を明確に画するという一貫した姿勢は、現実に線は存在しないという西洋のリアリズムとは別のものと考えてもよいのではないでしょうか。そのリアリズムでは、事物をみるというのは、光が事物に当たって、それを人間の網膜が捉えて、その情報を脳が処理して視覚となって認識されるのを、絵画の画面に再現しようとするものです。だから、光がとこから当たって、事物にどう反射して影ができることをとても注意します。従って、リアリズムのスピリットを持っていれば、光の質もそして光が通る空気ということを尊重せざるを得ないのです。しかし、吉田の作品を見ていると、例えば物体の影のつけ方はおざなりであることがよくあります。それは、事物が形があるということが了解されているからです。光があろうがなかろうが、あっても光がどう当たろうが、そこに事物の形があるのは当たり前で、その当たり前を描くのが絵画なのです。そこに事物があることは変わりはないのです。そこに光が当たるとか空気がどうとかは人の見方の問題であって、それは絵画の技巧の違いと同じようなものだ。それが吉田の即物性といえると思います。かなり極端な言い方をしましたが、そういう姿勢があったからこそ、吉田は外遊しても本質的なところで影響されて、その結果迷ってしまうということがなかったのではないかと想像します。それは、彼の作品を見ていて感じたことです。

「街道風景」(左上図)という作品をみていて、前のコーナーの「冬木立」と描法に変化を感じられるでしょうか。少し右によっていますが、シンメトリーに近い一点透視の遠近法は相変わらずです。しかも、横広の画面を締めるために、真ん中左手に火の見櫓の梯子を挿入して縦の線を描いているのは「浅間山」で行っていることと同じです。しかも、この街道風景は、どこかで見たような絵葉書のようなよくある風景です。ここには、画家の独自な視点でオリジナリティを出そうという姿勢が全く見られないと言っても過言ではないと思います。そこには、浮世絵などの日本の絵画にある姿勢が、吉田にあることのひとつの証拠ではないかと思います。画家の個性とかオリジナリティは西洋の近代絵画では、作品の価値の源泉のようなものになっていますが、吉田の作品を見ていると、その点では凡庸とか陳腐であることを全く気にしていないところがあると思います。吉田にとって重要なのは形を意味あるものとして、きっちり描き切ることだったのではないかと思うのです。ここで何度も述べていますが、吉田という画家の偏っているということと関連していることだと思います。それが結果として、吉田の画家の個性になっていて、こんな作品を描いてしまうのは吉田以外にはないだろうという強烈さになっていると思います。

「朝」(右上図)という作品ですが、タイトルはそうなっていますが、これが朝の光線か、と疑問です。朝霧にけぶるという湿った空気感もなく、ただ輪郭がボケているだけで、雰囲気の表わし方は下手です。これは、水彩絵の具の効果を生かしきれていないし、何よりも塗りがぞんざいなのです。しかし、そのようなことを抜きにして民家の形や樹木の枝の形はきっちりしているのです。

「霧の農家」(左上図)は「朝」に比べると、まだちゃんと塗っているようです。しかし、この二つの作品を画像でみると、こんなことを書いていても、そのまま受け取れないのではないかと思います。実物を見れば一目瞭然ですが、このように画像のようにコピーしてみたものでは、塗りの粗が見えてきません。おそらく、それが、吉田をして版画に向かわせた原因のひとつがあるのではないかと思います。ここでは先走りしたようです。

「ヴェニスの運河」(右上図)という油絵作品です。まるで「街道風景」の構成をそのままヴェニスの運河の風景に当てはめて描いたみたいです。吉田には、海外の画面をひとつの世界とか秩序のようなものとして画家がデザインして構成するという意識がほとんどなかったことを証拠づけるような作品です。しかも、油彩の特色という価値が全く分かっていなくて、その効果を生かしていない。単に色を塗っているだけにしか見えません。遠近法で画面が作られていても立体的な空間を感じさせないのです。おそらく、吉田にはヴェニスでなければならない必然性はなくて、日本橋の河岸であっても同じように描くのではないかと思います。それが吉田という画家の個性ではないかと思います。それは、もしかしたら、黒田清輝などに代表される洋画を輸入した画壇の権威たちよりは、むしろ当時の求めていた“和魂洋才”という姿勢をもっとも忠実に体現していたのではないか考えてもよいのではないかと思います。だいたい、吉田の作品をみていて、洋画であるとは、私には思えないのです。そんなことは、どうでもいいのです。それは、吉田の作品を見ていて思ってしまうのです。

このコーナーで印象に残った作品が「宮島」(右図)という橋を描いた作品です。水彩画ですが、この作品を見て、日本画と言っても変だとは思われないでしょう。安藤広重の「日本橋」のような橋を正面から見て、広重の横広の画面に対して、この人特有の縦の構図で視野を絞って、橋の向こう側の景色を隠してしまい、遠景の山の稜線をシルエットにして遥かな感じがとても良く出ている。これを見ていると、橋の見えない向こう側が何か、この世でない異界かもしれないと勝手に想像してしまう独特のものがあります。対照的に手前に揃えて並べられた履物がくたびれているのがリアルに描かれているのです。

 

第3章 画壇の頂へ:1907〜1920

吉田は外遊から帰朝して、国内の展覧会で相次いで賞を得たり、画壇での抗争を繰り広げて、成り上がっていった時期ということです。しかし、作品を見ていると、成り上がるために万人ウケを狙ったためか、もともと一点突破型の欠点は多々あっても突出した一点で魅せていた画家が、平均点の高い、つまりは展覧会の点取り競争でいい点をとるような作品を描くようになっていた、私には、そのように見えます。したがって、このコーナーで展示されている作品は山岳を題材にした作品以外は、別に吉田が描かなくても、別の画家が描いてもたいして変わらない作品という印象です。

「月見草と浴衣の女」(左図)という作品です。人物に焦点を当てた作品は、この作品以外には「裸婦」くらいしか展示されていませんが、画家自身には得意ではないという意識はあったのではないかと思います。依頼があって、しかたなく描いたのか分かりませんが、人間の感じがしませんし、生きていません。動きが全くない。この人の作品に共通していることなのですが、塗りがおざなりにしか見えなくて、要は、下手な塗り絵なのです(画像では、そうは見えないのが不思議です。でも、画像でマトモに見えても、他の画家っぽく見えませんか、例えば黒田清輝とか)。何かボロクソですが、何も、この画家があえて描いて作品に残す意味がどこにあったのか、と疑うのです。

「越後の春」(右図)という水彩画です。画面手前の垂直に屹立する杉の木がアクセントになって、遠景の越後の山並み(越後三山なのかしら)の形が、中景の緑の低山の緩やかな稜線と重層的にのぞんでいる姿を見ていると、この画家は地形の意味を本能的にわかっていて、それを忠実に絵画の上で形にすることに秀でていたという気がします。私の個人的な偏見かもしれませんが、浴衣姿の女性よりも、この遠景の山の方に存在感やリアルさを強く感じられるのです。

そして、北アルプスなどの山岳を題材として描いた風景画を、ここから見ることができます。「穂高山」(左下図)という油絵作品です。おそらく常念岳あたりから梓川ごしに見えた穂高岳の姿ではないかと思います。参考に常念岳の山頂から写真(右下図)を載せますが、吉田がいかに正確に穂高岳の地形を描いているか分かると思います。正面の奥から手前に吊り尾根の稜線が一直線に伸びてくるのを「不同舎風道路山水」と言われた一点透視の遠近法の道路に見立た遠近法で、その吊り尾根の突き当りから右方が奥になって前穂高岳の頂がピラミッド型になっていて、そのさらに右に雲に隠れた奥穂高岳で、それらの山に囲まれるように手前が凹んでいるのが涸沢カールと、少しでも登山をかじって、それらの地形を身体で分かっている人には、実感できる山岳の形が描かれています。写真と見比べると分かりますが、吉田は必ずしも、写真のように正確になぞって写しているわけではないのです。しかし、それが上で説明したように穂高という山であるとわかるのは、吉田が穂高という山の存在の意味を、山の形がこうなっているという意味を理解して描いていると思われるからです。しかし、残念なことに油彩の彩色が形のスケッチに追いついていないのです。緑色は植生にみえないし、茶色は岸壁のゴツコヅした硬さを表現しきれていないのです。だから、折角の穂高の山稜が、急峻さとか、岩稜の厳しさとか、人が山岳を見上げるときの畏怖のような感情は湧いてこないのです。

「槍ヶ岳と東鎌尾根」(左下図)という油彩の連作です。おそらく東鎌尾根を登って槍ヶ岳に近づいたところで左が槍ヶ岳、右が北鎌尾根でしょう。少し霧か雲がかかって薄ぼんやりした空で、黒い影のような槍ヶ岳のシルエットのようにのしかかってくる迫力は、実際に喜作新道を辿って行かなければ分からないものです。これで彩色がイマイチなのが残念としか言いようがありません。

その後で、自宅のバラを連作で描いた油彩の連作は、私にはつまらないし、日本画の掛け軸を制作しているのも、こんなのを見ている時間があれば、山岳の風景画を見ているというものです。ただし、当時の社会では登山は一般的でなく、山岳風景の価値は一般的ではなかったでしょう。そうであれば、職業画家としては一般に受け容れいれられる題材の作品の方がむしろ必要と言うことになります。吉田がプロとして、そういうことを意識して、本心は山岳風景を描きたかったのに、プロの画家としては人物やバラのような一般受けする作品を無理して制作したなどというのは事実ではないでしょう。現在の登山が趣味として一般化した時代から吉田の作品を眺めると、その趣味を先取りしていたかのような山岳風景にどうしても注目してしまうのです。おそらく、彼の同時代の評価は全く別だろうことは分かります。

考えてみれば、そもそも、山岳を風景画の題材として、意味があるものとして取り上げたのは、吉田が開拓者なのではないでしょうか。それまでの風景画では、山というば富士山が代表的で、葛飾北斎の「富嶽三十六景」がすぐに思い浮かびますが、それは富士山をピラミッド型の理想化された山の姿として様々な風景の中に当てはめたものです。富士山そのものでなくて富士山のある風景です。また、別の伝統として文人画などで中国の山水画の伝統を受けたものがあるでしょうが、それは特定の山そのものを写したものではなくて、ある思想とか雰囲気を絵にした場合の、その雰囲気をつくりだす素材とて用いられたものです。谷文晁の「日本名山図譜」なんかがあると説明されていましたが、富士山とか筑波山とか、いわゆる和歌に歌われたり信仰されていた名山で、地形を正確に描くというものではなかったでしょう。もっとも、山岳という地形を美術の対象として考えられるようになったのは、西洋においても、そんなに古いものではなくて、前のところで少し触れましたが、近代になってロマン主義の風潮の中で、アルプスの急峻な高山が人知を超えた存在として、また遭難という自己にあってしまう危険な存在として、人にとって恐怖あったことが畏怖に変質、それをあがめるようになる、それが「崇高」ということで捉えられます。例えば、エドマンド・バークは『崇高と美の観念の起源』の中で、奔放に荒れ狂う自然を目の当たりにするとき、人の心にわき起こる強烈な不安や恐怖に思索をめぐらせた。「崇高」には古典的な美に劣らないほど、人の心に強く働きかけ、精神を高める力があるとバークは論じた。美術の分野では、これが視覚的な刺激の追求となって表われた。鑑賞者は雪崩や地震、激しい雷雨や時化の海など自然の根源的な力を描いた絵を見て、身を安全な場所に置いたまま、危険を体験することになった。このような崇高さを風景画に持ち込んだ画家にイギリスのターナーがいます。彼は、当時の絵画のヒエラルキーでは最高位の歴史画に対して、風景画のステイタスを高めようと風景画も、歴史画と同じように、人の感情と知性に強く働きかけることができるということを実地に示そうと試みます。崇高な風景として彼が取り入れたのが山でした。この場合は、イギリスでは産業革命とともにブルジョワ経済社会が進展し、市民がスイスのアルプス登山を趣味として始めるという社会変化が背景としてありました。そのアルプスの登山が明治維新後の日本にも外国人たちによって輸入されたのが、日本アルプスへの登山ということになります。上高地の山開きをウェストン祭ともいいますが、宣教師W・ウェストンは日本で初めて、そういう登山を行った人ということになります。だから、吉田の登山というのは流行の最先端どころか、あまり人のやらないこと、何やら外人がやっている訳の分からないことことだったのであり、それを絵画の題材とすることは、普通では理解の閾を超えていたことだったかもしれません。そこで、ここに展示されている作品のような、現在の登山趣味の者の鑑賞に耐えられるような形に仕上げるということだけでも驚くべきことだと言い切ることができます。ある意味、それまでにない新しい芸術を開拓したと言っていいのですから。このことは、いくら言っても言い足りないことだと思います。しかも、吉田の山岳風景画が現代的なのは、ターナーの風景画にあったような崇高といった理念が感じられないということです。展覧会の説明では“日本人特有の自然への畏敬の念や愛着、人と自然との親しい調和を願い続けながら、自然の中に溶け込み、自然と一体となり。「仙骨」を自負して自然の中に自らを没することで初めて人を感動させる風景画が描けるものだとする生涯を貫いた。”となっています。これは、おそらく吉田自身が後年になって自身の山岳画を語ったのを、批評家や学者が広めて、人々がそうだというなった常識のようなものだ思いますが、写実的に山岳を描いて、共感を誘うというのは、こんな風に説明するしかないのでしょう。そして、おそらく現在の山岳風景を写真にしたりするときの視点は吉田が試行錯誤によって創り出していったものではないかと思います。現在の視点では、絵葉書的に映ってしまうのも、それは後年にみんながまねしたからで、当時は誰も思いつかなかった視点であったのではないかと思います。ただし、吉田のほかの風景画を見ている限りでは、もともと、絵葉書になりやすい視点をもっていた人であることは否定はできません。それが、この後、木版画を制作するようになって、ある程度の通俗性に通じるところが有利に働いたと言えるのではないでしょうか。 

 

第4章 木版画という新世界:1921〜1929

おそらく、このコーナーが核心部ということになると思います。吉田が木版画を始めたのは世話になった渡邊庄三郎から求められてことが理由と説明されています。しかし、吉田の絵画を見ていると、事物の輪郭の外形をとらえるのが巧みであるのに、それがキャンバスに描かれると、空間とか奥行きとか立体感のないペッタンコになってしまうように見えるのです。そのひとつの画面上のあらわれが、彩色が、塗り絵のように見えてしまって、事物の面の質感とか、光が当たってできる陰影で立体感をだすとか、空気が遠くは霞んで遠い感じがするといったようなことが色彩で十分に表現されていない。というよりは、彼には、その方向の視野が欠けているのではないかと思われるほど足りないように見えてしまうところです。それを木版画という、絵画に比べて表現上の制限があるところでは、そのような吉田のもの足りないところが、木版画の制約とかなり重複しているところがあって、彼の輪郭を描く特徴を、絵画よりも活かせる可能性があると思えるのです。ですから、吉田自身も、何らかの必然性を感じたのではないかと思います。

「穂高山」という大正10年の作品(左上図)です。渡邊庄三郎の求めに応じて下絵を描いたのを、渡邊のところで木版画にしたものでしょう。風景の木版画といえば、北斎や広重の浮世絵版画の伝統があるでしょうが、木版画という制約の上で出来てきた様式のようなものがあると思いますが、前景の木や水面の処理、水面に映った森などは、その様式に乗っていて、平面的なのでしょうが、むしろ、それを利点として樹木の形を精確に描写していて、その形だけでリアリティを感じさせられてしまいます。そして遠景の山岳の、岩稜の形の面白さはリアルであるだけに、なおさら興味深いものです。前のコーナーで穂高岳を油絵で描いた作品がありましたが、あの作品の山岳の形の面白さだけを抜き出したもので、油絵で感じられた存在感の不足といったことが気にならないので、ずっと興味深いものになっていると思いました。

吉田本人も、何か手応えを感じたのではないでしょうか。5年後に、同じ題材で制作し直(右上図)しています。木版画の経験を積んで、吉田は独自の木版画の制作方法を考案したと説明されていますが、ずっと洗練された画面になっています。例えば、山岳の表現が大胆な省略が為されていて特徴的な形が強調されるようになっています。色の使い方も、グラデーションっぽい使い方から対照によって各々の色が際立つようにして、全体のメリハリがはっきりしています。これは、山岳や樹木といったものの輪郭の形リアルなのでしょうが、それを際立たせるように演出するような画面構成をしています。それによって、山岳の地形的な形の意味、具体的には、穂高連峰の中でも、山岳を知らない人には、前穂高岳と奥穂高岳の違いが分からない。その違いを吉田は理解して描いていても、もともとの違いが分からないので、描かれた違いの意味を理解できない。それを理解できるように画面上で演出をするようになっていると思えるのです。山岳は単なる岩の塊ではなくて、その形に意味を人は感じることができるのです。ただし、それはすべての人とは限らない。登山をする人やその関係の人以外には、なかなか分かり難い。穂高岳や剣岳を単なる岩の塊と見分けて、そこに個性を見出し、険しいとか崇高だとか評するには、その理解がどうしても必要です。しかし、登山をしない普通の人には、その理解ができない。吉田も山岳風景を描いても、そういうことの理解がベースになければ、なかなか本質的なところを味わいきれない。それを大正15年の版画は、ベースのところを普通の人にも理解し易いように考えて画面を演出しています。これは、木版画ではじめてできたことではないかと思います。そこには吉田が手法を開発したことも寄与しているわけですが。

この大正15年の作品は「日本アルプス十二題」というシリーズのひとつですが、この他にも「剱山の朝」(右上図)という作品は、おそらく、黒部川の対岸である後立山連峰(唐松岳あたりではないか)からの剱岳の風景だろうと思います。参考の写真(左上図)と見比べてもらうと分かりますが、手前の尾根は剱岳よりも標高が低いので樹林帯となって、その樹木のせいで稜線のシルエットが滑らかでなく、細かいデコボコがあり、樹木の緑は一様ではないのですが、画面では、その細部を大胆に省略して、朝日を浴びて赤く染まる剱岳の独特な岩稜が際立つようになっています。

「白馬山頂より」(左図)は、夏山の残雪が残っているのと、明るい日差しの下で、杓子岳から白馬鑓岳(右図)の稜線を描いたものです。杓子岳の破風屋根のような特徴ある形や右奥の白馬鑓岳の丸みを帯びたどっしりとした山容との対照的なところが強調されているように見えます。ただし、形は正確に描かれています。これらを見ると、山岳の形を純粋に抽出した、吉田独特の世界ができていると思います。

このような姿勢は、実験的な試みに繋がっていって、それがヨーロッパのアルプスやアメリカの山岳風景を題材にした作品で大胆な試みに結実していると思います。「エル キャピタン」(右図)というアメリカのヨセミテ国立公園の風景です。100メートルの断崖で、現代ではクライマーのメッカになっているそうですが、浮世絵のような日本的な風景に見えてしまいます。広重の「箱根」(左下図)のような構図で、写真(右下図)に近いような写実的で正確な描写によって、西洋絵画を見慣れた者にも、違和感なく見ることができるようになっていました。

「マタホルン山」という作品は「マタホルン山 夜」という同じ構図で、色遣いを替えて夜の風景にするというバリエイションを作っています。版画という制約もあるのでしょうか、使う色が制限されてためか大胆なものになってきていると思います。

吉田の木版画の特徴を、展覧会では次のように説明されていました。

吉田博の木版画の他にない特質、あるいは人気の秘密として、概略、次の三つを挙げることができるだろう。

その一つは、いわゆる「大版」とよばれる大作である。これは渡邊版版画店の「新版画」にも江戸時代の浮世絵にもない、いわば博の技術へのあくなき執念と挑戦によって初めて実現したもので、多くの版画ファンを唸らせるものである。通常、木版画の摺りは紙が大きくなればなるほど、水分を含んだ紙の伸縮が大きくなり、「見当」がずれやすくなって摺りの困難さは倍増する。こうした状況の中で、博の大版、例えば“富士拾景”のなかの《朝日》とか《雲海 鳳凰山》などは摺りのズレなどは微塵もなく、まことに見事な完成度を見せる迫力満点の大作で、そのすばらしさに感嘆するばかりである。

二つ目は、平均30回以上といわれ、多いものでは《陽明門》のように96回を重ねるという他に類を見ない摺数の多さである。「とても木版画とは思えない」ような精緻な写実性は、薄い絵の具を何度も摺り重ねて深みを出したり、小さな版を巧みに重ね合わせて摺るという独特の技法から生み出さている。

最後は、同じ版木による“色替え摺り技法”とでも呼ぶ独自の技法である。その代表例は“瀬戸内海集”の《帆船》シリーズであろう。同じ版木を使って、朝、午前、午後、霧、夕、夜の六景の各々の光の表情を細かく摺り分けたもので、あたかもフランス印象派のモネがルーアン大聖堂にあたる太陽の光の刻々と変化する様を描き分けたように、瀬戸内海に浮かぶ小さな帆船にあたる光の変化を的確に捉えた博の新しい工夫であり、自信作であった。

ともあれ、日本の古い伝統を持つ木版画の世界に洋画の新しい視点を導入し、新しいシステムのもと、数々の新しい工夫と技術の高さを示した博の木版画は他に類例を見ない独自の創造として高く評価された。

この説明は木版画の世界での吉田の特徴ということでしょうが、吉田の作品の中で、木版画の特徴という点で見てみると、大きな点は塗りの意味の変化、というよりは転換ではないかと思います。いままで何度も触れてきましたが、吉田の絵画作品は塗り絵のようなペタッとしたところがあって、線描による精確なスケッチがすごいほどなのに、塗りで作品をつまらなくしているように見えて仕方がないのでした。なまじスケッチが突出しているので、それに比べて塗りが眼を覆いたくなるほどのもの、という感じがしました。それが、木版画になって、塗りを自身で行うことがなくなり、職人の摺りに委ねられたことで、全体の印象がどれほどまとまったものになったか。それは、前にも述べましたが、それだけでなく、塗りの画面上の働きが変化していることも感じられました。端的にいうと、色彩が独立して、装飾的に動いているようになったということです。具体的に言うと、吉田の絵画において色塗りとは、風景とか事物には色があるので、それを描いたものだから色もつけるといった程度のもので、描く対象の輪郭の形を描くことには集中するものの、それだけでは絵画として完成しないので、色を付けていた、という絵画が完成する必要条件のようなもの、言ってみれば嫌々、仕方なくやっていたと見えます。ところが、版画では、吉田は同じ版木で色を替えるなどのあそびを試みています。そこには、嫌々が感じられません。そこでは、風景画を完成させるために必要だから色をぬっているのではなくて、必要性からはなれて、風景を映すことから少し離れても、制作した画面の風景らしさを作る際に色が積極的な機能を果たすという意味に変わってきていると思います。

例えば海外の観光地を題材にした作品では、アングルや構図は陳腐など誰にでも分かるものですが、色彩の遊びによって、他の人にはできない独特の世界を作り出しているのです。吉田が元々持っている突出したスケッチ力と陳腐な構図によって、何が描かれているかは一目瞭然です。そこに、大胆な塗り分けと、あそびごころのある色遣いによって対象の形が際立ってきます。見る者は何が描かれているのかがすぐに分かるので、ある意味で安心できるので、余裕を持って画面を眺めて、色彩のあそびを余裕を持って楽しむことができる、という見方ができるようになっています。

例えば、「マタホルン山」(左図2番目)という作品では、麓のツェルマットの町の風景をいれた風景を前景に奥にマッターホルンの特徴的な山容を構図は、観光パンフレットのようです。しかし、マッターホルンの描き方は写真のように精確に見えます。それを全く同じ版木で、色遣いを替えることによって「マタホルン山 夜」(左図1番左)という夜景にしてしまうと、趣向が変わってしまいます。また「スフィンクス」(左下図左側)という作品では、これも観光パンフレットのような構図ですが、スフィンクスの頭部は写真と見比べてもらうと正確に描写されていますが、色塗りは図案化されたような塗り分けられていて、石像の肌の触感とか、立体の陰影によるグラデーションを、色彩の模様のように塗り分けています。そのせいもあって、初期のカンディンスキー(右図)が風景を色彩の塗り分けに一元化してしまったような抽象的な印象すら感じられます。また一方で、スフィンクスの頭部の図案化されたような印象は、アンディ・ウォーホルがスープ缶を連作で並べたものを連想させるところもあります。それは、同じ版木をつかって、色遣いを替えて「スフィンクス 夜」(左下図右側)という、全く趣向が変わってしまう作品を制作しているところからも感じられます。このとき、吉田にとって風景は実在している存在というよりは、その形を抽出したイメージのようなものとしてあったのではないか、と私には思えます。だからこそ、色彩を操作して画面の中に世界を創造することが発想できたように思えます。

それだけに、吉田の画面には形が第一要素で、形があってこそで、その形が不明確ではっきりと決まっていないといけない。たとえば、不定形なものや流動するもの、動くものを対象としたときに生彩を欠くように見えます。例えば、「渓流」(右下図)という作品を見ると、“川の流れは絶えずして、しかも同じ水にあらず”ではないですが、流動するものを静止した明確な形にしようと悪戦苦闘しているように見えます。つまり、その外形を正確になぞろうとするあまり、川が流れているという動きが感じられないのです。流れている一瞬を切り取って瞬間の映像とするということができそうですが、その外形を追求するあまり、渓流の形を模したオブジェを描写しているようにしか見えないのです。小さな滝が流れ落ちて泡立つ様は白く塗られた浮世絵の図案のような波型の模様です。このような水の流れだけでなく、人間を対象として描いた作品は、山岳や建築物の風景に比べると、途端に生彩を欠いて、類例的なパターンになってしまいます。それは、ある意味では、パターンから渓流や人物を描いたものとして分かり易いので、見る者は安心して見ることができます。

これまで、あまり触れて来ませんでしたが吉田の風景画は、見る者は安心して眺めることができるという要素があります。それが、展覧会の混雑具合に如実にあらわれていると思います。

 

第5章 新たな画題を求めて:1930〜1937

ここで展示されている作品を見ると、第4章のコーナーの延長で、基本的には描いていることには変化はなく、描く対象の目先を替えているという程度ではないかと思います。吉田博という人は、私には、技量は向上して行ったかもしれませんが、彼の絵画観とか、絵画に対する姿勢といったことは若い初心のころから変わることがなかった、変えることができなかった人ではないかと思います。ある意味、才能が限られた、不器用な画家という印象を強く受けました。

それは、新たな題材としてインドに向かったということですが、そこで吉田が描いたのは、タージ・マハルのような著名な建築物とヒマラヤの山岳風景に限られます。それは、日本やヨーロッパの観光パンフレットのような風景画と視点は同じです。「タージ・マハル」(左図)を描いた作品は、構図は絵葉書です。しかし、ここでタージ・マハルの手前に佇む人影は人間というよりは人の彫像のようで、意外なことにベックリンの「死の島」と構図が似ている感じがします。吉田はベックリンなど見たこともないかもしれませんが、動きとか生命感を全く感じさせない画面は、そんな受け取られ方のできる可能性はあると思います。

「ウダイプールの城」(右図)という作品でも、手前の二人の人物は添え物で、主役は前景の柱と遠望する城の建築風景です。「タージ・マハル」の場合のように連想する作品は思い至りませんが、これらの風景画は絵葉書とか観光パンフレットなどと辱めるような形容をしていますが、そこでは見る人にとってはエキゾチックな風景を分かり易く親しめるものになっています。その一方で、人物が彫像のようだったりと、近代西欧の風景画のような見る者が感情移入するような要素や、物語的な要素は全くありません。そこに、画家の感情とか理念のようなものが入り込む余地がない、と言えます。あくまでも風景の、表層の外形を画面にうつすことのみを行っています。これは余計な詮索かもしれませんが、当時の日本という国家の方向性がアジアへの進出を志向するような動きを始めているという環境にあると思います。吉田がインドや東南アジア、中国や朝鮮を題材としたのは、絵画の購買者である消費者の関心が欧米からアジアへと広がったか、換わった背景として、そういう全体の動きとは無縁ではないと思います。人々の関心の視野にアジアが入ってきた背景ということですが、吉田はそれに応えるということがあったと思います。そのような時代状況において、しかし、吉田の制作態度は、対象としては時代のニーズを掴んではいたとしても、吉田の関心は形に限られていたのではないかと思います。そこに感情移入ができないということは、吉田は先入観をあまり持たずに、ただ形を見るだけだった。時代状況のなかで、その状況に対してイノセントに形を描くことだけに没頭していた、という印象を持ちました。それは、「大同門」(左図)という朝鮮の風景や「北陵」(右下図)という満州の風景を、それまでと同じように、余計なことを考えずに形を捉えることに没頭しているような作品を残していることからも窺えると思います。

あるいは、このような作品の制作を対象の目先を替えて制作していて、(周囲がどう見ているかは別にして)マンネリに陥ることなく、制作を続けているということは、ある意味では鈍感であるし、この後に、戦時には戦争画を描いたり、その戦争が終わった後は外国人に受けしてしまうという節操のない軽薄なところは、形を写す以外には、イノセントであるということが吉田という人物の特徴であったのかもしれないと思います。

そしてまた、彼の節操のなさは、「弘前城」(右下図)や「陽明門」といった、精緻ではあるけれど、浮世絵版画と間違えられてもおかしくない作品を堂々と制作してしまう臆面のなさにも現れていると思います。

 

第6章 戦中と戦後:1938〜1950

このコーナーは、画家の回顧展で生涯を示すので、作品も残っているので、展示しているということでしょうか。明らかに、山岳でも建築物でもないという題材のためなのか、年齢的な限界によって制作意欲が衰えたからなのか、あきらかに、画家本人の愛がない作品として、今までの作品をみてきた身としては、残念な作品が並んでいました。

例えば「空中戦闘」(左図)という作品。吉田には珍しい油彩の大作です。しかし、動くものを描くのは得意でないとはいえ、正面の飛行機の主翼が左右でチグハグなのは、形をうつすことに没頭してきた画家としては信じられないようなプロポーションの歪みです。他の飛行機の描き方についても、飛行機になっていません。形の意味が不可解で不器用に形をなぞっていて、彼にしては無様として言えません。小松崎茂などと比べると、吉田は機械に愛情を持てないのではないか、と感じざるを得ません。

「精錬」(下図)という作品では、手前の人物が生きていないのは、いつものことですが、奥の炉から溶けた鉄が流れてくる炉や製鉄所の設備の描き方が、構築物の形として歪みがあります。そこに、出来栄えに妥協したのか、建築物のようなパターンを外れたものをもはや描く腕が落ちてしまったのか分かりません。

吉田の真骨頂としては第3章と第4章の風景の形をかっちりと描いた作品にあるのではないかと思います。

 
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