生誕150年 横山大観展 |
2018年4月20日(金)東京国立近代美術館
で、会場で主催者あいさつは、どこに掲げてあるか見つけられずにいたし、展覧会チラシも見つけられなかったので、後でホームページを見ました。以下に引用します。“横山大観(1868~1958)の生誕150年、没後60年を記念し、展覧会を開催します。東京美術学校に学んだ大観は、師の岡倉天心とともに同校を去り、日本美術院を設立。新たな時代における新たな絵画の創出を目指しました。西洋からさまざまなものや情報が押し寄せる時代の中、日本の絵画の伝統的な技法を継承しつつ、時に改変を試み、また主題についても従来の定型をかるがると脱してみせました。やがてこうした手法はさらに広がりを見せ、自在な画風と深い精神性をそなえた数々の大作を生み出しました。本展では、40メートル超で日本一長い画巻《生々流転》(重要文化財)や《夜桜》《紅葉》をはじめとする代表作に、数々の新出作品や習作などの資料をあわせて展示し、制作の過程から彼の芸術の本質を改めて探ります。総出品数約90点を展観する大回顧展です。”まあ、何も言っていないに等しいような形式的なもの、横山の作品には、このような儀礼的なものいいが一番ふさわしいかもしれません。一応念のために断っておきますが、いつも展覧会では作家の呼称についてはラスト・ネーム(名字)で呼んでいるので、例えば、ベラスケスとかルドンといった具合にです。だから、この人の場合も大観というファースト・ネームでなくて横山というラスト・ネームで呼んでいます。日本人画家は雅号と呼ぶとな場合分けが面倒なだけなのですが。あと、横山には儀礼的なのが似つかわしいといったのは、良い意味でも、この人の画風を反映しているかもしれないと思ったからです。その変のところは、作品を見ていきながら明らかにしていきたいと思います。 第1章「明治」の大観
「寂静」(右上図)という作品です。有名な朦朧体があらわれはじめて全体に霧がかかったような雰囲気ですが、画面上部の竹林の竹が線画なのでしょうが、刷毛で引いたような太い線で少し異様な感じがします、それが突出していて、その上の葉が乱雑に塗りたくったような、竹の葉を一枚一枚描いていくのでなくモヤモヤした塊のように描いています。それが見ていてへんな感じ、違和感を与えます。しかも、下部の水辺の蓮が、全体的なモヤモヤの中で、ハッキリと輪郭が目だって、しかも塗り絵をベタ塗りするように描かれています。大きさの点でも蓮は突出して目だっていますし、ぜんたいのバランスを失してハッキリ描かれています。まるで、アンリ・ルソーの幻想的な植物風景を想わせます。タイトル「寂静」とは、全く似つかわしくない画面で、それを臆面もなく通してしまう。そして見る者に違和感を敢えて与えるように描く(そうとしか思えないところがあるからです)。ある種のアバンギャルドなところ、そういうところが横山の作品の特徴なのではないかと思います。た 「夏日四題のうち 黄昏」(左図)という作品です。これまで見てきた作品のようなチマチマした作品を描く一方で、小品ながら、このようなスケール感のある風景をあっさりと描いてしまうところ。この人は筋を通すとかいったところがないのか、と思ってしまう無節操なところが横山の作風と言えるのかもしれません。画面真ん中あたりに小さく鳥の飛んでいる姿が細かくハッキリとした輪郭で描き込まれています。それが小さいのですが、強調されるように目立ちます。それが、朦朧体で大雑把に描かれた森林のさまと対照的になっています。それが、風景の大きさを引き立てるようにスケール感を作り出しています。この作品を見ていると、朦朧体というのが、技法というよりも、ある種の手抜きというのか、丁寧に細かく描き込むことをしなくて、それが却ってスケール感を生んでしまった。そういう感じです。しかし。この作品の時点では朦朧体がひとり歩きして、技法のための技法になっていまで、画面にスケール感を作り出していると思います。
「杜鵑」(左図)という作品。ホトトギス一羽を、爽やかな初夏の新緑を舞う鳥としてではなく、深山を飛翔する孤高の鳥として描いている。ホトトギスを小さく描いたがゆえに、まるでその鳴き声が山に響き渡るかのように広く空間を獲得している。ほとんど点のように小さく描かれた鳥(ホトトギス)は風景の一点で、この小ささならば鳥という生命の存在を描き込む必要はなくなります。その意味で、横山の苦手なところを巧みに回避した戦略的な構成と思います。しかも、空に舞う鳥ということで余白を取ることができて平面的な画面構成が許されることになります。とは言っても、下方の木々の描き方がいかにも平面的で、図案化が中途半端です。しかも遠くの霞んだ木々と同じようにもやのように描かれています。ただし、このもやもやが、その森の奥の空にかかる雲のもやもやと連動しているので、そのもやもやが画面にリズムを生んでいるのも確かです。ここでは、朦朧体のもやもやが動きや画面を構成するところまで機能するものとなっていますが、惜しむらくは横山が論理的に画面を構築することに意欲的でなく、それを突き詰めようとしていないようで、中途半端に出たとこ勝負になっている点です。
「彗星」(右図)という作品です。薄墨で描いた夜空に、胡粉で彗星の核を、墨の塗り残しで彗星の尾を表現したといいます。「帰帆」と同じような朦朧で画面をいっぱいにしても、取り上げる題材によっては、うまくハマッて、こちらは見れる作品になっています。掛け軸の小さな画面の大部分を夜空にとっていて、月や星々では、それだけではもの足りないだろうし、雲では過剰なところがあって、彗星が尾を引いた様というのは、その意味では、ちょうど空の大きさを引き立たせて、画面に当てはまる格好の題材となったということでしょうか。 そして「山路」(左下図)という作品です。これは正直に言えば、汚い。乱雑に、絵の具をベタベタ塗りたくったような印象の作品です。“発表 第2章「大正」の大観 「夏並木」(右下図)という作品です。この作品は朦朧体のもやもやした画面は影を潜めて、それとは正反対の松の幹の表面の樹皮を太い線で、幹の輪郭よりも目立つように描いています。松の葉の繁っている様子ももやもやでなくて、輪郭をくっきりひいて塗り絵するようにのっぺり絵の具で彩色しています。掛け軸の小さな画面から描写が溢れ出してきそうな、朦朧体の作品の線のない画面とは正反対の線が過剰になって、詰め込んだ感じもしなくもない画面です。これは、また、朦朧体のときとは逆の意味で、奥行きを画面に感じさせない、空間の一部を切り取ってきたような場面です。そこから線が溢れ出るような描き方で、松の木の大きさが小さな画面で感じられるようです。しかし、それ以上に、この作品では、松の幹の模様のようになっている表面樹皮が割れたものが幹の上で反復するように描かれているということです。パターンの繰り返しになっているということです。松の葉を細かく描きこんでいるのも同じように繰り返しと見ることができます。これは、前のコーナーで見た作品とは180度方向転換したように見えます。ただし、横山という人は統一性とかそういうことはあまりこだわらないひとなのかもしれ 「焚火」(左下図)という三幅の屏風です。左右の人物は問題外なので無視して、中央の焚き火の部分です。燃やされている落ち葉が、同じパターンをコピーアンドペーストしたように繰り返しで描かれているようで、その上部の炎についても、くねくねした赤い色のパターンを反復させているようです。しかも、塗りはベタ塗りのようにグラデーションがなくて、貼り絵のようです。落ち葉は黒と茶色の2パターンで、これは葉の裏表の色分けなのかもしれませんが、その色のパターンは、左右に立っている人物の衣装の2色と同じです。このような細かいものを反復させて、画面を構成させる。また、これは屏風で金箔を貼った地に描いているので、背景を描く必要がなくて、画面に空間を構成させる必要がないので、奥行きとか平面的になるとかをあまり考えずに済むだろうから、パターンの反復をやり易かったのかもしれません。この大正期の作品展示では、屏風が増えてくるのですが、それが要因しているのでしょうか、平面的な画面にパターンの反復で構成するような作品が目立ってきます。
「柿紅葉」(右図)という作品です。右側の緑色から赤に徐々に色が変化していく様子を描いたといえると思います。緑色が青々と新緑で繁ってい 第二会場で「生々流転」という長大な水墨画の巻物の作品が展示されていました。よろしいんじゃないでしょうか。巻物を広げた長い展示のウィンドウの このコーナーの最後に「雪旦」(左図)という作品。薄闇の残る中に白い椿の花が。雀が一羽とまる。綿のような花びら。そして、立体感があって陰影まで丁寧に描き込まれた葉。この人も、ちゃんとした“らしい”日本画を描けるということが分かりました。やればできる人なのだということでしょうか。しかし、このような作品は少ない。従って、横山は、このような作品を描こうとしなかったということなのでしょうか。それよりも、上述のようなブッ飛んだ作品を描いていたということになります。その理由は分かりませんが、この「雪旦」という作品。たしかに、「やればできるじゃん」と言ってあげたくなりますが、この作品だけを取り出して眺めると「だからどうした?」と訊きたくなる作品でもあるのです。もっとハッキリ言うと「何が面白いの?」ということです。 第3章「昭和」の大観 このコーナーに入ると、作品は一気に陳腐化してつまらなくなりました。ただ、そういう陳腐な作品を臆面もなく量産したというところは、却って凄いのかもしれません。というわけで富士山を題材にした作品はすべてパスします。 「飛泉」(右図)という作品です。滝を描いた作品です。大正期のブッ飛んだ作品を見てしまった後で、このような作品を見ると、丁寧に描いているのでしょうが、無責任に見ているだけの側としては、別にこの人でなければならないとは思えて、敢えて言うと、お金持ちの床の間に、ありがたく飾られていて、本物であることの保証書がついていて、お茶でも飲みながら、感心して誉め言葉のいくつかももらって談笑している、そういう作品として、最適で、それとしていいのではないか、そういう印象です。このコーナーでは、他にとりたてて取り上げたいと思う作品もなく、数日前ですが、見たことも忘れてしまったので、この程度て端折ります。 私は横山のファンでもないし、私の見方は、かなり偏っているので、読んでいて違うと思う方は少なからずいると思います。明治期の日本画を変革していた頃の作品や昭和期の大家としての作品はどうでもいいから、大正期のポップな作品をもっと見たいと思いました。 |