アドルフ・ヴェルフリ展
二萬五千頁の王国
 

 

2017年6月6日(火)東京ステーションギャラリー

5月の終わりごろは、いつも真夏のような暑い日がある。かつての習慣では、6月に衣替えとなって、一斉に夏服に着替える。街の風景も、一日にしてがらっと人々の着ているものが一変したものだった。それで、衣替えをすると、梅雨の空で雲が多くなって、肌寒くなったものだった。最近はクールビズが一般化したため、そんな風景は見られなくなった。5月のはじめから薄着の人も多い。あまり、自発的に外を出歩きたいとは思わない季節に差し掛かってきた。また、ちょうど今頃は、各美術館で春からゴールデンウィークに開催していた大型の企画展が終わって、夏休みの集客を見込んだ企画展が始まる前の狭間の時期となっている。休館しているところもあるし、常設展というところもある。それで、外出の用事があって、そのついでに寄ることのできる展覧会を物色していたら、私のよく立ち寄る美術館は、そんな状況だった。この展覧会も、少し時期がずれて始まったため、終わっていなかった、というところ。おそらく、そうでもなければ、他の展覧会を見ることができるのに、それらより優先して見に行こうという展覧会ではないと思った。正直なところ。東京ステーション・ギャラリーという交通の便のよいところでやっていた、というのも理由の一つだろう。会期は終わりが近づいていたが、平日の夕方5時過ぎという時刻のゆえか、有名な画家ではないからか、会場は混み合うこともなく、閑散でもなかったが、静かで落ち着いた雰囲気で、リラックスした、いい展覧会だったと思う。

アドルフ・ヴェルフリという画家を、私はよく知らなくて、また、この展覧会についてのことも、簡単にパンフレットに紹介があるので引用します。“アウトサイダー・アート/アール・ブリユットの芸術家として世界的に高く評価されながらも、日本ではほとんど知られていないアドルフ・ヴェルフリ(1864〜1930)の、日本における初めての大規模な個展です。スイスのベルン郊外に生まれ、孤独で悲惨な幼少期を送ったヴェルフリが絵を描き始めたのは、罪を犯し、精神科病院に収容されて数年後の35歳の時。以後、病室で一心不乱に描き続け、生涯に描いた作品は25,000ページ。余白を残さず、絵と文字と音符で埋め尽くされた作品はどれも、既存の芸術や美術教育の影響を受けることなく生み出された他に類を見ない表現力と、奇想天外な物語性、そして音楽への情熱にあふれています。自分の不幸な生い立ちを魅惑的な冒険記に書き換え、理想の王国を築いて世界征服をたくらみ、音楽監督として作曲に没頭したヴェルフリ。彼が描いたのは空想の世界の出来事ではなく、すべて真実と疑わない自らの姿を投影したものでした。ヴェルフリの初期から晩年までの74点を厳選した本展は、アール・ブリュットの源流をたどる待望の機会です。緻密にして壮大、エキセントリックにしてファンタスティックな創造力を是非その目で確かめて下さい。”この紹介の最初でアウトサイダー・アート/アール・ブリユットと言っていますが、私の理解では、正規の美術教育を受けていない人のアート、とくに何らかの障害によって受けることができなかった人が描き始めたとか、そういったイメージです。ただ、作品を見る側としては、面白ければいいのであって、美術教育なんて人に面白く見せるためにどうすればいいのかを教えるものと、私は思っているので(西欧のアカデミズムはそれだけではないのだろうけれど)、教育を受けたか否かは、とくに関係ないと思っています。むしろ、その教育をうけていないということを殊更に強調するようなところが感じられて、私は、そのことを胡散臭く思っていました。正規の美術教育という段取りを踏んでいないので、型破りのインパクトとか、そこまでしても描きたいという情熱とか、そういうものを期待してのことなでしょうが。また、このヴェルフリや、あるいは話題になったヘンリー・ダーガーなんかも精神障害を抱えた人のケースが多いので、健常者とは違う、ある種の異常さとか、その裏返しで障害者に対する福祉精神とか同情のようなものをスパイスにして、それをウリにしているところが見透かされたりするところがあると思います。上の紹介文にも、そういうテイストが感じられます。どうしても、色眼鏡で見てしまうので、仕方のないことなのでしょうし、また、逆に、殊更にそういうストーリーを拒否するのも、結局同じことになると思います。そんな、めんどくさいことは嫌なので、この手の展覧会は、避けていました。しかし、この展覧会は、面白かったです。

展示は次のような章立てで、ヴェルフリは長大な叙事詩を書いて、絵はその一部だったようですが、私は、絵を見に来たので、それ以外の物語とか、彼が作曲をしたそうですが、それには興味がなくて、絵の部分だけを取り出してみました。展示の章立ては、そういう物語とか、絵も一緒に総合的な作品として、区分しています。しかし、絵の部分だけでは、ワンパターンが執拗に繰り返されるだけなので章立てて分けるのは意味がないと思います。

第1章 初期作品

第2章 揺りかごから墓場まで

第3章 地理と代数のノート

第4章 歌と舞曲の書

第5章 葬送行進曲

第6章 ブロート・クンスト

 

第1章 初期作品

普通、画家の個展とか回顧展というのは、最初は初期のスケッチとか誰々風とかいうような、基本となるものや既にあるスタイルの模倣から始まって、だんだん独自のものになっていく過程を見ることが多いのですが、この展覧会は、いきなり独創的なスタイルの作品から始まって、そのテンションが続くというものでした。これは、たしかに型破りのインパクトがありました。作品は、新聞印刷の用紙、つまり大判で安いザラ紙、白い紙でなく、昔のワラ半紙のようなパルプの繊維の色が残っているような紙に、鉛筆で、ときに色鉛筆が使われることもありますが、おそらく彼が生活した刑務所や病院では、紙と鉛筆くらいしか揃えてもらえなかったのでしょうか、モノクロの画面がほとんどでした。

「ニュー=ヨークのホテル・ウィンザー」という初期作品のなかにあった作品です。おそらく、この作品について語れば、ヴェルフリの作品について語ることができてしまうのではないかと思います。それほど、ワンパターンで、少しずつ作品は変遷していきますが、大きく変化することなく、このパターンで一貫しています。まず、この作品を見た印象は空間を埋め尽くすように描かれている、その物量です。しかし、だからといって、その物凄い物量が、画面の枠を乗り越えるように突出して、画面が一種の躁状態のようになってはいなくて、表面的には静かに落ち着いているのです。それが、ヴェルフリの最大の特徴ではないかと思います。彼の作品では、空間を埋めるといっても、単に余白を塗りつぶすといったことではなく、隅々までていねいに細かく何ものかが描きこまれているということです。それは、強迫観念で衝動的に描かれるということの対極に、この作品があるということではないかと思います。おそらく、ヴェルフリは冷静に個々の細部を丁寧に根気よく描いたのではないかと思います。それは、画面のどの部分でも同じように、集中して丁寧に描かれているからです。そして、ヴェルフリは空間の構成力とかデザインで優れている点に大きな特徴があると思います。この作品では、全体としてシンメトリーの文様のような全体デザイン構成で、そこに抽象のパターンやキャラクターのような形態の構成要素が、バリエイションを持ちながら、在るべき場所におさまるように描かれています。この構成要素は「ヴェルフリの形態語彙」としてパネルで説明されていて、紙にプリントされて展示一覧表とともに配布されていました。また、鉛筆で描かれているのですが、その鉛筆の線が整っているし、鉛筆での塗り方が、とても洗練されているのです。だから、全体として完成度の高さとか洗練という印象を強く感じました。

第2章 揺りかごから墓場まで

ヴェルフリがつくった物語が「揺りかごから墓場まで」というもので、そこで描かれていた作品が展示されています。しかし、一般に物語の部分として描かれた絵画というのは、その物語の場面を再現するものではないでしょうか。ここで展示されている作品には、そのような場面を描いたものはありません。いや、もしかしたら、見ている私がそのように見ていないからなのか。ヴェルフリは物語の場面として描いたのか、分かりません。

「ネゲルハル(黒人の響き)」という作品です。たしかに、「ニュー=ヨークのホテル・ウィンザー」が文様の組合せのようだったのに比べると、画面の下半分は円周上に建物や岩山のような形態が見分けられるようになっています。しかし、それは、物語の一部を切り取って、その中で起こっていることを、その物語の登場人物か、あるいはその人物を物語の中で近くで見ている人間の視点で写しているものには見えません。物語から距離をおいて、鳥瞰的に見渡して、物語の宇宙全体を描いているのか。あるいは、この作品のあちこちに頭に十字をのせた顔が描かれていますが、まるである種の神学の主張するような神が遍在するようなかんじで、あらゆるところに、この顔がいて、その顔があらゆるところから、あらゆるものを見て、それを画面に写し換えたとでもいうような感じがします。言わば、描いているヴェルフリは、物語でも現実世界でもこっち側でなく、あっち側に行ってしまって、そこからこっち側を描いているような感じです。それが、色鉛筆によって彩色されていると、絵の具と違って原色に限定されて、色を混ぜたり、グラデーションを施すことがほとんどないので、均一に塗られていると、極彩色に塗り分けられるようです。しかし、色鉛筆の色は、絵の具のような鮮やかさがなくて、彩色された極彩色はくすんだような、色褪せたような仕上げになっています。そのような色彩の感じられ方で、文様化された宇宙のような画面は、仏教の曼荼羅に似たものに見えてきます。「デンマークの島 グリーンランドの南=端」という作品では、山の形をした宇宙、まるで須弥山のかたちをなぞった曼荼羅のようです。また「氷湖の=ハル〔響き〕.巨大=都市」という作品では、おそらく湖を上から鳥瞰的に見下ろして、湖を楕円に文様化して、全体を描いていますが、まるで胎蔵界曼荼羅のようです。

実際のところ、このような複雑に構成されたものを、ヴェルフリは、どのようにして制作したのでしょうか。新聞用紙をそのまま使っているので、画面の大きさとしては、新聞を広げた大きさで、鉛筆で描いていくには、小さいとはいえない大きさです。そこに、曼荼羅のような複雑なものを描いていくわけですから、全体をこのように描くというイメージが固まって、それで画面全体を設計するというのが、普通、想像できます。しかし、そうであれば、下書きのスケッチとか、試し書きとかいったものが残されていてもいいはずです。そうでなければ、大雑把に下書きを施して、何度も修正をしながら、描き進めていくといったやり方でしょうか。ところが、実際の作品には消しゴムをつかった形跡が全く見られないのです。消しゴムを使えば、紙の表面が削られた跡が残りますし、消し切れない鉛筆のあとが残っているはずです。そのような痕跡がまったく見つからないのです。だから、ヴェルフリは下書きもしないで、修正や描き直しをすることなく、ぶっつけ本番で一気呵成に描いていったとしか思えないのです。実際の作品において鉛筆で引かれている線をみても、迷いなく引かれているようなのです。下絵をなぞったような中途半端さはなくて、勢いがあって、しかも、その勢いは一定しているのです。ヴェルフリは確信をもって線を引いているようにしか見えない、そんな線です。淡々として、疾るでもなく、かといって途中で止まることもない。ぶれることなく、真っ直ぐに伸びていて、力も一定で、途中で太さが変わることもない。定規にあてて引いたような機械的なところはなくて、おそらくすべてフリーハンドなのでしょうか機械的なところは全くありません。つまり、線が生きているのです。この線を見ているだけでも、この人が描くということについて高い技量をもっていることが分かります。そして、もしかしたら、この複雑な構成を一発勝負で描いてしまったのであれば、かれは、その点だけでも天才だったと言ってもいいのかもしれません。それほど、ちゃんと表現として出来上がっていると思います。

第3章 地理と代数のノート

作品は絵だけじゃなくて、文字も数字も加わってきます。この前に作品でもレタリングした書かれた文字が構成要素としてありましたが、ここでは絵の部分ではなくて、同格になるほど画面にびっちりと書かれています。それだけでなく、音符とも幾何学パターンともつかないものが多数入り乱れるように画面に溢れるようになっています。

「二冊目の大きな本=行進曲」という作品では、色鉛筆は用いられず白黒ですが、音符と数字の0が大きく画面にフィーチャーされて、画面全体にリズムを作っています。これが、画面構成の骨格を作っています。

「小鳥=揺りかご.田舎の=警察官.聖アドルフU世., 1866, 不幸な災=難」では、横長の長方形の画面の形態に当てはめられるように、まるで楽譜のような文様が、楽譜だからというわけではありませんが、音楽的な画面のリズムを作り出すような構成を作っています。こうなってくると、何かを、対象となる事物を写すということが描くということではなくて、そういうことと切り離されたかたちで表現ということが行われている。そこに、この人のユニークなところがあると思います。これを、美術教育を受けなかったとか、苛酷な環境にいたとか、精神障害とかいったようなストーリーを当てはめて、特殊なものだからとして捉えるものか、作品自体がユニークなので、その作品で見ていくかは見る人の志向によるものでしょうが、そういうストーリーに収斂させて、納得して終わりというというものに作品をおさめてしまうのは、もったいない気がします。

私の好みでいうと、ここまでが展示の核心部で、この後はコラージュが加わったり、画面がこなれていくように見えますが、その反面、これまで述べてきたような特徴が薄れていきます。敢えて言ってしまえば、手抜きのテクニックを覚えた、といえなくもありません。そういうこともあって、もう少し、ここで、書き洩れたことを少し書いていきたいと思います。細かいことかもしれませんが、いくつかの点を、脈絡なくアトランダムに気がついた点としてあげていきたいと思います。まず、ヴェルフリの鉛筆で引かれた線についてです。彼の鉛筆の線についは、何度もふれましたが、具体的な点で、書き洩れている点があるので、追加の意味合いで少し述べたいと思います。これまで見てきたように、彼の作品は一部の隙もないほどにぎっしりと描きこまれていますが、それらはすべて鉛筆による線描です。色鉛筆で彩色されている場合でも、油絵のように下絵で引かれた線の上に絵の具を重ねて、線を見えないようにしてしまう(描写する対象の現実には線というものが実体として存在しないという考え方ですね)のとは反対です。むしろ彩色は塗り絵のようなものなので、画面に何が描かれているのかという形は線による輪郭で成り立っています。したがって、彼の作品で溢れんばかり描かれているのは、実際には線なのです。つまり、画面の中に宇宙とか世界を創造するということで、そこにおいて線が構成要素としてあるということで、線に存在の意味がある、そういう世界なわけです。そして、世界の輪郭をつくる構成要素という特別な意味があるということだろうと思います。それで、その特別であるというその線について、ヴェルフリは、たぶん柔らかい芯の鉛筆(日本の鉛筆であればBとか)で太い線を引いています。しかもハッキリと。これは、輪郭を形づくるという役割を果たしていることから、その役割の線を差別化して、一律に引いているためではないかと思います。おそらく、色鉛筆の場合も含めて鉛筆ででも塗るということが施してあるところも、それは面として塗られているのではなくて、線が集まった結果として面に塗られている。色塗りと言っても線を引いたのが集まったものになっている。従って、伝統的なアカデミックな絵画のデッサンのような面で捉えて、線を消そうとする発想とは異質な発想で描かれていると思います。だからこそ、デッサンの場合のような線を使い分けして、細い線から太い線、あるいは濃淡とか、線を布でこすってぼかしてみたりするような緻密な使い分けをしていません。ヴェルフリの作品は細かく描きこんでありますが、決して細密でも緻密でもありません。それゆえに、沢山のものをぎっしり詰め込んだような画面のはずなのに、渾沌とした感じではなく、秩序があって静かなのです。

そして、また、画面上の宇宙、または世界が線で構成されているのは絵の部分だけに限られることではなくて、線で書かれた文字や音符も例外ではないわけで、画面、というより、紙の上で引かれた線によって宇宙、つまり、コスモス、ということは秩序、には、絵、文字、音符がひとしく含まれている、とみることができると思います。だから、紙に文字が書かれているのは、そこに言葉が綴られていることはもちろんですが、文字という線で形成された形態は絵と同じように形態としてみることができると考えていいわけです。

第4章 歌と舞曲の書

ここの展示では、画面上に絵以上に音符や文字が増えてきたり、雑誌に掲載された写真やカットを切り抜いて貼り付けてあったものもでてきました。

第5章 葬送行進曲

「無題(キャンベル・トマト・トープ)」という作品では、スープの缶詰の公告のコラージュの余白に文字だか、音符だか分からないような記号が延々と書き連ねてあります。まるで呪文だか、お経のようなものにみえてきます。その記号のパターンが繰り返しのような感じが画面にリズムを与えているのか、それに対してコラージュとして貼ってある缶詰の広告が、書き連ねてある記号の列と全然あっていない、不釣合いな感じが、なにかとっても変です。そこに、これ以前のコーナーで展示されている作品にあったようなコスモス=秩序のバランスがきっちりしていたのが、ここでは崩れ始めた作品になっていると思います。それに伴って、絵を描く部分が減って、コラージュとか、記号を書き込むことの比重が大きくなってきているためでしょうか。文字のような記号を書き連ねるのであれば、横書きにしてそのまま記号を書いていけばよいので、構成をデザインする必要がなくなります。その代わりに、記号の並びやレタリングの変化をデザインしていて、それが画面にリズムを作り出させていると思います。それは、“歌と舞曲の書”ということで、空間を創造するのではなく、一定時間の区切りの中で時間を過ごすということに、目的の重点が移ってきたのかもしれません。ヴェルフりが、作風を変化させていったということなのか、叙事詩のストーリーをつくることから、“葬送行進曲”と銘打ったシリーズを書くことに関心が移ったということかもしれません。そのヒントは、次の第6章 ブロート・クンストに見ることができるかもしれません。

第6章 ブロート・クンスト

ブロート・クンストとは日々の糧のための作品という意味だそうです。例えば、アウトサイダー・アットの巨匠ヘンリー・ダーガーは死ぬ寸前まで作品が発見されませんでした。つまり、ダーガーは他人に見られることを想定せずに、ひたすら自分のために膨大な作品を描いたといわれています。このダーガーに比べると、ヴェルフリは生前から絵が評価され、彼は絵を売るために描いた。作品サイズも新聞紙用紙よりも小さな手頃な大きさで、複雑な構成をとらずに、シンプルになっていく傾向が見えます。コラージュも使われています。

今まで書いてきたように、線によって構成された宇宙、世界という見方で接すると、コラージュは、そこから後退しているように見えました。画面全体として線の稠密さが薄れてきたと思います。その分、この後の展示作品は親しみ易いかもしれません。私の好みとしては、最初に展示されていた初期のものがもっとも稠密で、文様とも抽象画とも挿絵のどれでもあって、どれでもない作品の方が好きです。

全体としてみていくと、ヴェルフリの作品はユニークな現代アートのひとつとして見てもいいのではないかと思います。彼の作品を、殊更に、アウトサイダー・アートとかアールブリュッケといって特別扱いをする必要はないと思います。

 
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