英国ロマン派展
ジョージ・フレデリック・ワッツ 
 

   

ロンドンの貧しいピアノ職人の家に生まれ、病弱で繊細な子供だったと言います。独学で素描を習得し、アカデミーに入学、コンクールで入賞した賞金でイタリアに留学し、ミケランジェロやティツアーノを研究して帰国後、1850年以降から作品を盛んに発表し始めたといいます。この時期や趣向はラファエル前派、とくにロセッティに通じるところが見えるようです。とくに晩年近くなって、ここで展示されているような寓意的な主題を、生命の不確かさ・儚さを、生命と進化のダイナミックなエネルギーを画面の中で合わせて表現していくような作品を多く残したといいます。ロセッティの影響も多少あったようで、彼の肖像も描いていますが、ただし、ワッツはラファエル前派と交わることはなく、彼らのような細密描写には行かず、逆に輪郭性をぼかした描法で幻想的なイメージを作り出しています。「希望」という寓意的な作品が割合に有名で、日本では、知る人ぞ知る画家という位置づけになっているのではないかと思います。職業画家としてのワッツは公共的な壁画をフレスコで描いていますし、肖像画の注文を多数引受け、ナショナル・ポートレート・ギャラリーでその多くを見ることができるということです。

 

■「進歩」

ワッツ自身は、“白い馬は、精神と知性の理想の進歩を表現している”と説明しているそうです。画面下の地面に腰を下ろしている人々は、理想の進歩に対する人間の様々な反応を、寓意的に表現したものだと説明する人もいます。この人々のうち、膝の上に本を開いて研究に没頭する哲学者は頭上の光り輝く幻影に全く気付いておらず、同じように金持ちと怠惰な男性のどちらも経験したことがないほど大きな存在を象徴するものに、どのように反応していいか分らず呆然としていて、それらに対して、若者だけが驚いた様子でいぶかしげに仰ぎ見ている、というゆうに見ることができると言います。

ここで展示されている作品の多くは、輪郭をはっきりと描いて、とりあえず描いている題材(表現しているものではなく)が何であるか、一見で分かるように描かれています。それに対して、ワッツは輪郭をはっきりさせず、色彩のグラデーションを巧みに使って、なんとなく形態を想像してもらうような描き方をしています。この作品でも、それぞれの人物の顔が判然とせず、表情を知ることはできません。このような未知の存在に遭遇した場合に、人々が表わす表情というのは画家にとっては腕の見せ所であろうし、その表情によって人々の受け取り方のヴァリエイションをもっと判然と描き分けられるかもしれないのに。これは、観る人の想像力を喚起することで、むしろ想像の範囲を狭めてしまうことを画家は良しとしなかったのかもしれません。逆に、はっきりと描き込まれていないことで、人々は作品をよく見ようとし、あれやこれやと想像をしようとするかもしれません。このような作品を見ていると、ラファエル前場の象徴的な作品は描き込み過ぎで、観る者には分かり易いかもしれないけれど、作品をみて想像することは制限されてしまっている気がします。それたけ、ワッツの大胆さが際立っているのかもしれません。

 

■「開かれた扉」 (右図)

若い娘が半開きになった戸口に立ち、嵐が来そうな風景を一瞥しています。白い蝶が、扉の開いた所を飛び交っている様子です。

これについて解釈は、鑑賞者の想像に任されているのでしょうが、例えば、伝統的に蝶は、人間の魂のシンボルと考えられてきたもので、これは魂が未知の天空へと旅立つとき、つまり死の瞬間の予知を暗示しようとしている、あるいは愛と安らぎの使者の到着を示そうとしている、と説明する人もいます。

全体として暗い色調で、室内の暗さと嵐の雲によって陽光が遮られた暗さとで、そして、ドアの木材の黒っぽい色、娘の着ている衣服も黒いエプロンと鈍い赤系統と、全体に暗く鈍い色調で、よく見ないと、何が描かれているのか判然としません。暗さに塗り込められたような全体の印象のなかで、画面右側の小さな白い蝶が印象的に目立つのは確かです。黒系統の鈍い色でないのは、この蝶と娘の顔の周辺だけです。しかし、娘の表情は暗さの中でよく分りません。虚ろな表情のようにも見えるし、無表情にも見えます。「進歩」は画面の上下で別の世界という二元論的な構成がされていましたが、この「開かれた扉」では、題名からイメージするような、扉を開いた向こう側とこちら側という二元論的な構成は採られておらず、むしろ暗くて物事がよく見えない世界で統一されているようです。そのような中でも、ちゃんと輪郭が分かるように同系統の色を使い分けるのは見事ですし、白い蝶が印象的といっても、過度に浮かび上がらないように白を鈍くしている加減は微妙だと思います。

 

■「パオロとフランチェスカ」

ダンテの「神曲」地獄篇第5歌のパオロとフランチェスカの物語をもとにしたもので、これはドローイングですが、フレスコで描かれた色彩鮮やかな同名の作品(左図)の方がよく知られています。パオロ・マラテスタとその兄嫁フランチェスカ・ダ・リミニの禁断の抱擁の場面で、二人は互いに愛し合ったがゆえに、永劫の罰として地獄の業火の中で苦しんでいるのを描いているというものです。しかし、二人の表情をみていると恍惚しているように見えて、地獄の業火に苦しむというより、官能的な世界に溺れているように見えます。観念的な象徴的な作品を描いているのでしょうけれど、この表現が観念を超えてひとり歩きを始めてしまったような感じです。それこそ、理念でしなく、自然とそうなってしまった唯美主義の作品と見てもいいのではないでしょうか。彩色をしていないドローイングだからこそ、却って見えてくるのかもしれません。

 


 

 
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