ヨークシャーのスカボローで医者の家に生まれ、幼い頃から母親の健康のために、フランス、イタリアなど外国で過ごすことがおおく、教育は外国で受け、行く先々でアカデミーや美術学校で教育を受けたといいます。当時のイギリスの美術家は、ロイヤル・アカデミーで学んだのに比べて、レイトンは一種の国際性と広範な海外の画家との交際を持っていた点でユニークだったと言えます。レイトンは、当時の大陸での新思潮である新古典主義や芸術のための芸術といった理念を持ち込んだと言われています。レイトンの作品を個性的にしているのは外光の扱いで、イギリスの他の画家たちに比べて、まるで地中海地方の輪郭のくっきりとした乾いたものを想わせる、明瞭で明るい陽光です。そしてその陽光に照らしだされた、人の肌やものの表面の滑らかな感触のような描き方、そしてその存在の量感です。それは、人物のふくよかで、どっしりとした肉体の表現にも現れています。レイトンはアカデミーの会長に推薦され、叙勲も受けるまでになりました。しかし、そのあまりに滑らかな仕上げが、非現実的として、キレイゴトのように受け取られて死後、急速に忘れ去られてしまい、近年再発見されてきたといいます。
■「祈り」 (右図)
女性の踊り子あるいは歌手が、そうすることでインスピレーションを受けられるように彼女のミューズに祈りを捧げている、とでも言うのでしょうか。その少女(というには、かなり逞しい感じもしますが)は、透き通ったヴェールを持ち上げ、ミューズをまっすぐに見つめているように映ります。少女の力強く逞しい腕は、その白い衣服に対して暗いシルエットで示されています。少女がいる空間は、神殿と思われる建物の軒の斜めの線と円柱の垂直の線によって区画されたものです。少女の身体は構図の下で唐突に切断されるように途切れているので、これによって見る者と少女の近さを印象づけるような工夫がされています。
とくに、この作品は少女の着ている白い衣装と被っているヴェールの作り出す襞の表現が大きな魅力となっています。白い色は画面全体を明るくして、古代風の景色をギリシャの明るい陽光で引き立てています。そしてその強い陽光と白い色故の透きとおる様が、例えば、少女の掲げた腕の一部を透明なシルエットに見せる効果を出しています。そこに、少女の肉体を暗示させる効果を作り出しています。さらに、衣装の襞そのものが、まるで波打つように画面全体に対してさざ波のような動きを作り出しています。この襞の表現が多様で、襞の作り出す波が一様でなく、それが一見単純な構図であるにもかかわらず、見る者を飽きさせない工夫になっています。そしてまた、白い衣装と背景の建物の大理石の白、また少女の白い肌と、白い色の描き分けで、白の表面の感触の違いが、見事といっていいものであると思います。
しかし、この少女には、生気があまり感じられず、まるで彫像のようです。一方、ヴェールと衣装を着ているのですが、その布は少女の身体に貼り付くようで、身体の曲線を想像させるようです。そしてまた、白い衣装の透けた表現が、実際のところ腕の一部を透けて見えるように描いているところから、少女の身体に対しても、そのような可能性の暗示が為されていて、そこに案に少女の身体の曲線が暗示されています。だから、これは衣装を着せているとはいえ、裸体を暗示していなくもない、微妙なエロチシズムを、見る者によっては想像させるようなところがあります。その時に、少女が生き生きと描かれていると、あまりにも生々しくなるのと、身体全体が逞しくて華奢とは言えないところなので、そのものズバリの少女の裸体の暗示となっていないところで、配慮がなされている。レイトンの作品には、そういう上品さを装ったエロチシズムの暗示のようなところがあるように、私には思えます。レイトンが、ヌードの女性を描くことが多かったのには、それなりの理由があるのではないか。