アカデミア美術館所蔵
ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち |
2016年7月16日 国立新美術館
地下鉄の出口を出て中途半端な屋外通路のところに特設のチケット売り場が作られていた。こっちは美術館の裏口にあたるのに、正面から入館した人は、わざわざ館内を通り過ぎて、ここまでチケットを買いにこなくてはならないのか、そう思うと、なんとも利用者のことを考えていない施設であることを思う。売られていたのは、同じ建物の別の展示室でやっていたルノワール展の入場券だけのようだった。それにしても、人通りが多く混雑していると思ったら、このルノワール展の人ごみだったのかと了解した。美術館のポスターや旗もルノワール一色で、その人気のほどがうかがい知れる。私には縁のない画家なので、入場者がみんなそっちへ行ってしまっているのはありがたい。その人気の違いを美術館もよく分かっているのだろう、この「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」という展覧会とルノワール展は明らかに扱いが違って、ルノワール展は入り口すぐのわかりやすいところでやっていて、沢山の係員が揃いの半被を着て、誘導していた。こっちの方は2階のフロアーの端っこで、エスカレータが遠かった。そんなでたどり着いた展示室は、会期最初ということもあって、閑散といっていいほどの人の少なさ。それが、大型倉庫のような展示室に比較的大きな作品がポツリポツリと展示されていて(その大きさと余裕のある展示のため、となりの作品まで数歩あるといっていいほど)、その即品の前に鑑賞者が一人ずつくらいしかいない。ほんとに静かで、その静けさの強制されたような不自然なものでなくて、それぞれの人がじっくりと鑑賞していて、自然と静かになったようなほどよい緊張があって、疲れを強制されるものではない。一応の目玉となっていたティントレットの「受胎告知」では、広い空間をこの一作のみのためにとって、高い天井と相俟って、まるで教会の大聖堂の中にいるような空間をつくっていた。現代建築の無愛想な壁で囲われているので、荘厳さとか神々しさはなかったが、広い空間で、祭壇にあるように大きな作品を見上げて、その上に高い天井があるという展示は、それだけで絵画の見方が変わると思う。 そういう点で、内容とか、構成とかいったことは別にして、作品とじっくり向き合える、いい展覧会だと思う。展示作品も60点と、それほど多いとはいえないが、平均点は高いので、見ていると時間を忘れて、意外と時間が経ってしまう。 それでは、内容を少し見て感想を綴っていこうと思う。 いつもは主催者のあいさつを引用するのですが、今回はヴェネツィアのアカデミア美術館のコレクションから所蔵品の一部を展示するというものです。まあこんなものです。“テーマは、ルネサンス期のヴェネツィア絵画です。ルネサンス発祥の地であるフィレンツェの画家たちが、明快なデッサンに基づき丁寧に筆を重ねる着彩、整然とした構図を身上としたのに対して、ヴェネツィアの画家たちは、自由奔放な筆致による豊かな色彩表現、大胆かつ劇的な構図を持ち味とし、感情や感覚に直接訴えかける絵画表現の可能性を切り開いていきました。本展では、選りすぐられた約60点の名画によって、15世紀から17世紀初頭に至るまでヴェネツィア・ルネサンス開花の展開を一望します。ジョバンニ・ベッリーニからクリヴェッリ・カルパッチョ、ティツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼまで、名だたる巨匠たちの傑作が一挙来日します。” 私の個人の趣味では、ルネサンスの著名な絵画と16世紀フランスの古典主義からロココ、そして近代の印象派はどうしても苦手で、それらの画家の個性が見分けられないのです。私になりに総括すると、それらの作品は絵画表現の表層に特化しているように見えます。難しげな言い方をしましたが、絵画という画面だけを見ろという作品たちということです。その画面が、ものがたりをもっている(画家の伝記的事実のようなエピソードとは別です)とか、何らかの感情が秘められているということを切り捨てた上で、見えることだけで勝負しているというのが、これらに共通することです。いわゆる感覚重視ということでしょうか。悲しみに打ちひしがられていても、喜びに湧いていても、目の前にあるものは厳然とあるし、そういうように描かれている。その物体に光が当たって、それが視神経につたって、脳がそれを見る。そういう機械的な経路をたどって、いま、画面に在る、そういう絵画です。だから、その技法は、見えたものを、どのように、そのように画面に定着させるかというための方法と言えます。そこからは、だから抽象絵画などは生まれ得ないということができます。見えていませんから。ここで展示されているヴェネツィア絵画にも、そのような点もあります。しかし、フィレンチェの、どこまでも明快で、明るい太陽が隅々まで照らし出して、およそ陰などありえないような作品に比べると、多少の不純な要素が混じっているようで、私の場合は、その不純さにむしろ惹かれるところがあります。そのあたりを、主催者あいさつでヴェネツィア絵画の特徴を述べていましたが、その検証もしながら作品を見ていきたいと思います。
Ⅰ.ルネサンスの黎明─15世紀の画家たち
ジョヴァンニ・ベッリーニの「聖母子(赤い智天使の聖母)」(左図)という作品です。ベッリーニ一族の工房はヴェネツィアにおいてフィレンツェ美術の先進的な美術から刺激を受けて、幾何学的遠近法を用いた合理的な空間構成と人間的感情の表現を試み、当時のヴェネツィア絵画を牽引したと説明されています。ここで特徴的と感心するのは、油彩での鮮やかな色彩です。聖母子の肌の色の微妙な変化やマリアの被っているヴェールの青の深み、これに対する、背景の形式の青空の異なった深み。そしてドレスの赤。一方、背景に浮かんでいる天使たちの朱との差異。主催者あいさつでもヴェネツィア絵画の特徴として“豊かな色彩表現”ということをあげていますが、たしかに鮮やかで、ややもすると明るい単色が並んでしまうフレスコやテンペラにはない油彩ならではのグラデーションも見られます。それは、ひとつにはヴェネツィアが地中海交易の中心地で、各国の物資が集まってくる場所であることも原因しているそうです。世界中から集まってくる物資の中には絵の具の材料である顔料も含まれていたそうで、ヴェネツィアの一地区に画材を扱う商店が集中し、イタリア中の主要な画家たちが、ここで顔料を購入したらしい。これに対して、ヴェネツィアの画家たちは、その地元であり、わざわざ遠方から出かけたり、取り寄せる手間をかけることなく、その顔料を労なく手にすることができたし考えられます。その有利さは、替えがたいものだったと思います。 参考にはならないかもしれませんが、制作年代がほとんど同じ時期と思われる、レオナルド・ダ=ヴィンチの「リッタの聖母」(右上図)と比べてみると、一概には善し悪しは言い切れませんが、肌の色の違いが明らかではないかと思います。また、ダ=ヴィンチと比べるのはフェアではないかもしれませんが、聖母子の形態については、自然とか人体らしさの点では、明らかで、ベッリーニの聖母子は中世のイコンのパターン的な形態を残しているのが、比較をすることによって明らかに分かると思います。むしろ、形態に対して振り向ける注意を、筆遣いや色調に向けたのではないかと想わせるところがあります。
フランチェスコ・モローネの「聖母子」(右図)です。聖母像ばかりが続きますが、これも同じような年代に制作された作品のようです。聖母子ともに、フィレンツェのネルサンス絵画の自然主義的な人間の姿と比べれば、お人形のような印象は否めません。聖母の滑らかな丸顔が生き生きとした肌色で描かれていて、それが親しみ易さを覚えさせるのと、衣装の描写です。聖母が頭に被っている白いレースの精緻な描き方と、マントのような上衣の表面の黒く滑らかなのと裏面の光る生地の対比です。その裏面の生地のゴワゴワ これらの作品を見ていると、ルネサンス絵画の特徴として歴史の教科書で説明されていたような、自然主義的な人間の描き方とか、立体を平面に置き換える工夫とか、そういった努力は、あまり見られません。どちらかというと、画面に色を、具体的には絵の具を置いていって結果として何ほどかの形となっていく、そんな方向性に貫かれているような印象を受けました。対象を写そうとするよりは、画面に描いていて最終的には対象に合えばいいという、微妙な言い方ですが、そのような違いがあるようにみえました。
Ⅱ.黄金時代の幕開け─ティツィアーノとその周辺
ティツィアーノの工房で制作された「ヴィーナス」(左図)です。「鏡を見るヴィーナス」のヴァリアントつまり、それをもとに工房で制作されたものということでしょう。「鏡を見るヴィーナス」は1550年ごろの制作ということですから、ティツィアーノ後期から晩年にかけての時期の制作ということになるでしょうか。工房の制作なので、画家本人の筆が必ずしも入っているとは限りませんが、輪郭線は明確でなく、形態はぼんやりし始めています。それはダ=ヴィンチのスフマートのような明確に形態をしっかりと描いて陰影をつけていって輪郭線を見えなくしていくのではなくて、初めから形態を 同じティツィアーノの「聖母子(アルベルティーニの聖母)」(左図)で、比較的小さな作品です。この後で見る「受胎告知」とおなじころの晩年の作 「受胎告知」(右図)を見ていきましょう。4.1×2.4mという大画面です。展示は、この一作のためだけに、まるで教会の聖堂のような区画を設定し、そこに祭壇のような展示台をしつらえてありました。しかも、この美術館の倉庫のような高い天井が教会の高いドームのような効果をだしていて、神々 “ティツィアーノは、受胎告知の奇跡の瞬間を、晩年特有の力強く大胆な筆さばきと、金褐色を基調とする眩惑的な色彩によって、ドラマティックに描出した。大天使の出現に驚いたマリアは、読みかけの本を手にしたまま、身を引きつつも後ろを振り返り、耳元のヴェールを優雅に手でつまんで引き上げ、お告げに耳を傾けている。マリアのS字形の体の曲線、肉感的な唇、豊かな胸、マントの裾から垣間見えるつま先は官能的である。ティツィアーノが筆と油絵の具を自在に操り、色彩の表現力を最大限に引き出す様は、当時の批評家から「色彩の錬金術師」と評された、聖なる神の子が人間マリアのうちで生身の肉体を授かる神秘が、この世ならぬ輝きを放つ色彩そのものによって見事に表出された。”と説明されています。長い引用でしたが。
この構成や色調、とくにゴテゴテしたような過剰さと光と影の強烈な対比は、エル・グレコ(右上図)の作品とそっくりと思ったのでした。ちなみに聖母マリアの顔もグレコの描くのによく似ています。というより、グレコが真似たわけですから、グレコのユニークで迫力ある画面が、実はティツィアーノ ジョヴァンニ・ジローラモ・サヴォルドの「受胎告知」(左図)です。今見たティツィアーノと比べると、ほとんど同時期に、同じヴェネツィアで、同じ題材で、これほど異なる作品が描かれていたということに、驚かされます。それだけティツィアーノが過激に進めてしまったということなのではないかと思います。しかし、ここにも穏やかな形ではありますが、光と闇の対比は取り入れられ、フラ・アンジェリコのような光に満ちた画面ではなく、暗さを基調とした中に、天使と聖母が光を受けて浮かび上がっています。ちなみに、天使やマリアのポーズや天使とマリアを横並びにしている配置、細かく描きこんでいるところなど、後のラファエル前派の構成を連想してしまいました。 ボニファーチョ・ヴェロネーゼの「嬰児虐殺」(下図)という作品です。福音書の中のエピソードでイエスの誕生を知ったヘロデ王がベツレヘム周辺の2歳以下の男の子をすべて殺すことを命じた様を描いたものです。右奥に椅子に座ったヘロデ王がいて、画面では虐殺が実行されていますが、その一つ一つの場面が迫真をもって細かく描かれています。それぞれの場面の一人一人の表情もそれぞれに生き生きと説得力あるもので、その丁寧さには感心しました。そして、兵士や母親のポーズや赤、緑などの衣装の色彩の鮮やかさが華やかさ、豪華な雰囲気を作り出して、題材は残酷なものですが、飾り物としての豪華に飾ってしまうところにヴェネツィアの自由さ、あるいは貿易商人のたくましさが感じられます。おそらく、そういう風土の中からティツィアーノのような一筋縄ではいかないような画家が養われたのではないかともいます。この作品も、そういうヴェネツィアの幅の広さ、懐の深さをうかがわせるのではないかと思います。 Ⅲ.三人の巨匠たち─ティントレット、ヴェロネーゼ、バッサーノ
多分、ティントレットという人は近代的な個人とか、主体性といったことの認識がなかったのではないかと思います。さきの、「聖母被昇天」では群集の一人一人について丁寧に描いていながら、それはあくまでも画面を構成するパーツとて仕上げるということで、その一人一人の人物に個性を与えたり、それぞれが一人の人物として画面中で存在感を与えられるということにはならないのです。そのため、人物の内面とか感情といったことには顧慮されていません。あくまでも外形としての身体の動きなのです。そこがカラヴァッジョのような人物の内面が投影されるような、例えば宗教的な回心が起こる場面が人物のポーズや、そこに光があたることによって、画面を見る者にも実感できる、それによって共感を誘うということには至らないのです。ティントレットの場合には、劇的な画面に惹かれる、高揚する 次にティントレットのライバルであるヴェロネーゼは、ラファエロの様式を受け継いで、明るく華やかな色彩と調和の取
聖ヒエロニムスと背景の牧歌的な風景との間にも関連性がみられないし、聖母が空中に浮かんでいるのもちぐはぐで、パッチワークのようです。むしろ、この作品は、個々のパーツを見るべきなのかもしれません。背景となっている牧歌的な情景描写や上空で光に照らし出される聖母子や天使の姿は、エル・グレコの描く姿に似ていますが、グレコほどの劇的ではなく、平明さがあって親しみ易さが強くなっています。また、聖ヒエロニムスは他人を寄せ付けないような厳しさよりも、親近感を持たせるように描かれています。全体として、緊張感というより、穏やかで平明な身近な印象を与えるのではないでしょうか。それは、ティントレットの宗教画が見る者を高揚させて宗教的な感情を煽るようなのに対して、このバッサーノの作品は、より親しみ易くなっていると言えます。このようにして、ここで展示されているヴェネツィアの宗教画を見ていると、前のコーナーのティツィアーノも含めての印象として、次のようなことが考えられます。ひとつは、フィレンツェやローマのルネサンスで描かれた宗教画が、どちらかという、聖書の一節や聖人を単に視覚化する傾向があったのに対して、ここで展示されている宗教画は、よりものがたり性を包含させているように見えます。つまり、フィレンツェやローマの宗教画は聖母マリア像とか聖人像あるいはキリスト磔刑の風景といった画像の方向であるのに対して、マリアが受胎告知を受けているとか、聖母が昇天していくのを使徒たちが見守っているといった映像の方向になっています。そのため、画像では、その視覚的光景を忠実に再現しようとして写真のような客観的で写実的な、つまり、見る者がリアルと感じるように追求されるのに対して、映像では時間の経過という要素が入り込んでくるために、そこに動きの要素が入り込んでくるので、客観的な外形をなぞるだけでなく、それが動いているように見えてくるようになっています。それがダイナミックな動勢の表現で、そこに形をデフォルメするという操作が加わってきます。さらに、聖母と彼女が昇天するのを見守る使徒というように画面が単独の題材に限られず複数の題材を組み合わせるようになって、画面に表現される内容が複雑になってきます。そうなると、見る者は単独の題材を見たままで受け取るだけでは済まされなくなります。そこに見る者が画面に主体的に参加して自分なりに解釈するという機縁がうまれます。それは、客観的な画面の受け手から、作品に対する姿勢が主観的に変化しているのです。ここで展示されている作品には、見る者をそういう方向に導く工夫が施されていました。その最たるものが、ドラマチックな画面構成です。例えば、光と陰を対立的に扱い、暗闇に神の照らす光が届くとか、天使から受胎告知を受けるマリアが光を受けて神々しくなっていくとか。画面で展開されるドラマに見る者は惹き込まれ、主観的に参加していく、つまり、感情移入していくことになります。そこでは、フィレンツェの聖母像で表わされているような理想的な美の姿は、むしろ不要で、それ以上に市井のごくふつうの少女が天使のお告げをうけて聖母となるドラマの方が重要で、そこに近寄り難いほどの理想的な美は邪魔です。寧ろ、普通の少女がお告げをうけた戸惑いや畏れといったことを経て輝くという表現が重視されるわけです。そこで使われるのが、フィレンツェの絵画のような科学的なデッサンによる理想化された形態ではなくて、輪郭をあいまいにして、多彩な色遣いによって陰影をつくりだすことによって、例えば、顔を描く際に陰りをくわえることによって微妙な感情表現を可能にしていったのです。マネキン人形のような整った美しさがあるけれど冷たい顔よりも、多少の歪みはあっても哀しみを帯びている顔の方が感情移入できるわけです。そういう宗教画であるから、それを見る者は、ローマやフィレンツェの知識豊富で修行を積んだ僧侶や教養豊かな貴族、あるいはそのような人々を相手にする商人ではなく、ヴェネツィアでは一般市民や貿易によって来訪した世界中の人々であったと考えられます。そういう人々によりアピールするものであったのではないかと思います。この時、すでにバロック絵画の先駆的なもの手あったのではないかと思います。時には、宗教以外でも官能的な目的をも叶えるといった作品もあったと思います。 Ⅳ.ヴェネツィアの肖像画
ここでは、目に付いた作品をピックアップするだけにしておきます。 カリアーニの「男の肖像」(左図)というタイトルです。この作品は、男の髭のフワフワしたボンヤリした描き方に止めを刺します。 もうひとつ、ベルナルディーノ・リチーニオの「バルツォ帽をかぶった女性の肖像」(右図)というタイトルです。黒い衣装で、黒い帽子をかぶって、そこで目立つのは白い肌です。画像では目立ちませんが、現物をみると、その肌の色だけで見入ってしまいます。あとは、女性の視線の描き方です。 二つの作品とも、「男の肖像」では、手前の手がへんとか、「バルツォ帽をかぶった女性の肖像」では髪の毛がかつらみたいとか、いいたいことはたくさんあるのですが、そんなことは措いて、ここを見ろというところがありました。その他の作品は、依頼に応じてつくったものだ、ということで、それをわざわざとりあげてどうこう言うような性格の絵画ではないと思います。 このへんのところで、私の絵画の見方に対する偏見が端的に表われているのだろうと思います。 Ⅴ.ルネサンスの終焉─巨匠たちの後継者
パルマ・イル・ジョーヴァネの「聖母子と聖ドミニクス、聖ヒュアキントゥス、聖フランチェスコ」(右下図)という作品です。今まで見てきた宗教画の中で、もっとも色彩が鮮やかで明るく、見栄えがする作品です。明るいといっても、フィレンツェ・ルネサンスのフレスコやテンペラによる明澄さとは違い、原色に近い鮮やかな色が映える明るさ、例えば空の青。そして、光の金色の輝くさま。色彩が、色調とか陰影とか質感を通り越して、独立した価値を、それは装飾
レアンドロ・バッサーノの「ルクレティアの自殺」(右上図)という作品です。スザンナと同じようなエピソードを題材にした作品ですが、こちらは精緻なほど細かく描き込まれています。暗闇で右上からの光に照らし出された半裸の女性の姿です。この右上からの光の光源はハッキリしませんし、彼女が、その光のほうを向いているのは誰を見ているのか分かりませんが、これらはおそらく、彼女の顔と半裸の肌をよく見せるためのものでしょうか。上気して肌が紅潮している様を強調して、よく見えるように描いています。あるいは、結っていたのが乱れて流れ出したような髪の毛や衣装の肌合いなど、精緻に描き込まれています。 パドヴァニーノの「オルフェウスとエウリュディケ」(左図)という作品です。オルフェウスが亡くなった妻エウリュディケを冥界に連れ戻しに行って、振り向いてはいけないという約束を破ってしまったために、冥界に戻る妻を引き止めようとしているところです。というよりは、ギリシャ神話に名を借りて、逃げ去ろうとする若い女性を若者が必死で引き留めている諍いの場面と見ることができると思います。冥界という場所ということで暗闇という設定なのでしょうが、これも夜の諍いということになると、官能的な性格が強くなります。しかも、女性が身にまとっている衣装は透明で薄手のもので、僅かにまとわりついているだけで、その描き方は見事とは思いますが、今の視点でみれば、薄手のネグリジェが寝乱れてというように見えなくもありません。そして、この画家も輪郭を明確に描くことがなく、全体として形態がぼんやりした感じになっていて、ティツィアーノ以来のヴェネツィア絵画の特徴として定着したものということでしょうか。この作品では、それが、このような官能的な内容の生々しさを弱めることに結果的になっていて、神話のものがたりという弁解もあることから、夢幻的な雰囲気を作り出して、うまくごまかしている、というように見えます。これもぱっと見の刹那的な刺激の効果を優先しているように見えます。
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