アカデミア美術館所蔵
ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち

 

2016年7月16日 国立新美術館

梅雨後半の不安定な大気の状態で一瞬の集中豪雨に、ここ数日来見舞われている。こういうときの外出は傘の持参に迷う。折りたたみの傘は重宝なのだけれど、強い雨では大きい傘が欲しいし、一度使用して塗れてしまった折りたたみの大きさは中途半端で傘置き場で使えない不便さもある。とくに、国立新美術館は地下鉄乃木坂の駅から専用通路があるのに、建物のデザインの都合で一部傘をささなければならない、なんとも利用者の便宜を無視した通路がある。慣れないせいもあるかもしれないが、この美術館は使い勝手が悪いし、空間の無駄遣いが著しい(たとえば、こんなだだっ広い空間に空調を利かせていて、電気代と外気への温室効果を、どう考えているのだろう)、人が歩くことを考慮されていないようなフロアでかなり歩かされる。そんなこともあって、あまり行きたいとは思わない美術館、というのが私の中での位置づけ。今日、寄ったのは、他になかったから、という単純な理由。

地下鉄の出口を出て中途半端な屋外通路のところに特設のチケット売り場が作られていた。こっちは美術館の裏口にあたるのに、正面から入館した人は、わざわざ館内を通り過ぎて、ここまでチケットを買いにこなくてはならないのか、そう思うと、なんとも利用者のことを考えていない施設であることを思う。売られていたのは、同じ建物の別の展示室でやっていたルノワール展の入場券だけのようだった。それにしても、人通りが多く混雑していると思ったら、このルノワール展の人ごみだったのかと了解した。美術館のポスターや旗もルノワール一色で、その人気のほどがうかがい知れる。私には縁のない画家なので、入場者がみんなそっちへ行ってしまっているのはありがたい。その人気の違いを美術館もよく分かっているのだろう、この「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」という展覧会とルノワール展は明らかに扱いが違って、ルノワール展は入り口すぐのわかりやすいところでやっていて、沢山の係員が揃いの半被を着て、誘導していた。こっちの方は2階のフロアーの端っこで、エスカレータが遠かった。そんなでたどり着いた展示室は、会期最初ということもあって、閑散といっていいほどの人の少なさ。それが、大型倉庫のような展示室に比較的大きな作品がポツリポツリと展示されていて(その大きさと余裕のある展示のため、となりの作品まで数歩あるといっていいほど)、その即品の前に鑑賞者が一人ずつくらいしかいない。ほんとに静かで、その静けさの強制されたような不自然なものでなくて、それぞれの人がじっくりと鑑賞していて、自然と静かになったようなほどよい緊張があって、疲れを強制されるものではない。一応の目玉となっていたティントレットの「受胎告知」では、広い空間をこの一作のみのためにとって、高い天井と相俟って、まるで教会の大聖堂の中にいるような空間をつくっていた。現代建築の無愛想な壁で囲われているので、荘厳さとか神々しさはなかったが、広い空間で、祭壇にあるように大きな作品を見上げて、その上に高い天井があるという展示は、それだけで絵画の見方が変わると思う。

そういう点で、内容とか、構成とかいったことは別にして、作品とじっくり向き合える、いい展覧会だと思う。展示作品も60点と、それほど多いとはいえないが、平均点は高いので、見ていると時間を忘れて、意外と時間が経ってしまう。

それでは、内容を少し見て感想を綴っていこうと思う。

いつもは主催者のあいさつを引用するのですが、今回はヴェネツィアのアカデミア美術館のコレクションから所蔵品の一部を展示するというものです。まあこんなものです。“テーマは、ルネサンス期のヴェネツィア絵画です。ルネサンス発祥の地であるフィレンツェの画家たちが、明快なデッサンに基づき丁寧に筆を重ねる着彩、整然とした構図を身上としたのに対して、ヴェネツィアの画家たちは、自由奔放な筆致による豊かな色彩表現、大胆かつ劇的な構図を持ち味とし、感情や感覚に直接訴えかける絵画表現の可能性を切り開いていきました。本展では、選りすぐられた約60点の名画によって、15世紀から17世紀初頭に至るまでヴェネツィア・ルネサンス開花の展開を一望します。ジョバンニ・ベッリーニからクリヴェッリ・カルパッチョ、ティツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼまで、名だたる巨匠たちの傑作が一挙来日します。”

私の個人の趣味では、ルネサンスの著名な絵画と16世紀フランスの古典主義からロココ、そして近代の印象派はどうしても苦手で、それらの画家の個性が見分けられないのです。私になりに総括すると、それらの作品は絵画表現の表層に特化しているように見えます。難しげな言い方をしましたが、絵画という画面だけを見ろという作品たちということです。その画面が、ものがたりをもっている(画家の伝記的事実のようなエピソードとは別です)とか、何らかの感情が秘められているということを切り捨てた上で、見えることだけで勝負しているというのが、これらに共通することです。いわゆる感覚重視ということでしょうか。悲しみに打ちひしがられていても、喜びに湧いていても、目の前にあるものは厳然とあるし、そういうように描かれている。その物体に光が当たって、それが視神経につたって、脳がそれを見る。そういう機械的な経路をたどって、いま、画面に在る、そういう絵画です。だから、その技法は、見えたものを、どのように、そのように画面に定着させるかというための方法と言えます。そこからは、だから抽象絵画などは生まれ得ないということができます。見えていませんから。ここで展示されているヴェネツィア絵画にも、そのような点もあります。しかし、フィレンチェの、どこまでも明快で、明るい太陽が隅々まで照らし出して、およそ陰などありえないような作品に比べると、多少の不純な要素が混じっているようで、私の場合は、その不純さにむしろ惹かれるところがあります。そのあたりを、主催者あいさつでヴェネツィア絵画の特徴を述べていましたが、その検証もしながら作品を見ていきたいと思います。 

 

T.ルネサンスの黎明─15世紀の画家たち

展示はクワトロチェント、つまり15世紀から始まります。ルネサンスの歴史で言えば、15世紀初頭にフィレンツェではマサッチオが出てきて、フレスコで中世のパターン的な祭壇画やイコンから訣別するような自然な人間表現を試み、遠近法をとりいれた「楽園追放」などをすでに残していた。中頃にいたって、フラ・アンジェリコやピエロ・デラ・フランチェスカが活躍し始めます。ここで展示されている作品は、15世紀と言っても後半の、しかも終わりごろで、フィレンチェでは、ボッティチェリが現われてキリスト教から離れた異教的な題材の作品を描いています。

ジョヴァンニ・ベッリーニの「聖母子(赤い智天使の聖母)」(左図)という作品です。ベッリーニ一族の工房はヴェネツィアにおいてフィレンツェ美術の先進的な美術から刺激を受けて、幾何学的遠近法を用いた合理的な空間構成と人間的感情の表現を試み、当時のヴェネツィア絵画を牽引したと説明されています。ここで特徴的と感心するのは、油彩での鮮やかな色彩です。聖母子の肌の色の微妙な変化やマリアの被っているヴェールの青の深み、これに対する、背景の形式の青空の異なった深み。そしてドレスの赤。一方、背景に浮かんでいる天使たちの朱との差異。主催者あいさつでもヴェネツィア絵画の特徴として“豊かな色彩表現”ということをあげていますが、たしかに鮮やかで、ややもすると明るい単色が並んでしまうフレスコやテンペラにはない油彩ならではのグラデーションも見られます。それは、ひとつにはヴェネツィアが地中海交易の中心地で、各国の物資が集まってくる場所であることも原因しているそうです。世界中から集まってくる物資の中には絵の具の材料である顔料も含まれていたそうで、ヴェネツィアの一地区に画材を扱う商店が集中し、イタリア中の主要な画家たちが、ここで顔料を購入したらしい。これに対して、ヴェネツィアの画家たちは、その地元であり、わざわざ遠方から出かけたり、取り寄せる手間をかけることなく、その顔料を労なく手にすることができたし考えられます。その有利さは、替えがたいものだったと思います。

参考にはならないかもしれませんが、制作年代がほとんど同じ時期と思われる、レオナルド・ダ=ヴィンチの「リッタの聖母」(右上図)と比べてみると、一概には善し悪しは言い切れませんが、肌の色の違いが明らかではないかと思います。また、ダ=ヴィンチと比べるのはフェアではないかもしれませんが、聖母子の形態については、自然とか人体らしさの点では、明らかで、ベッリーニの聖母子は中世のイコンのパターン的な形態を残しているのが、比較をすることによって明らかに分かると思います。むしろ、形態に対して振り向ける注意を、筆遣いや色調に向けたのではないかと想わせるところがあります。

アントニオ・デ・サリバの「受胎告知の聖母」(左図)という作品。実は、彼の伯父のアントネッロ・ダ・メッシーナの作品(右中図)の模写だそうです。たしかに、オリジナルと比べてみると、聖母の被っているヴェールは布ではなくてプラスチックのような硬さがあるように見えます。聖母の顔も心持ち面長で柔らか味が少ない感じがします。というようなオリジナルとの比較は措いて、見たいと思います。タイトルから言えば、処女マリアが神の使いである大天使から神の子を身ごもったことを告げられるのが受胎告知です。しかし、ここには、その大天使も聖霊の鳩の姿もありません。マリアの純潔の象徴である白百合もありません。ただ、真っ黒な背景にお告げをうけるマリアの姿だけが肖像画のように描かれているだけです。前方やや左上からの光に照らし出されて、右側のその影になって、背後の黒に融け込んでしまうようですが、その光は天使から照らされたことを暗示し、光と闇の対比が、現われていると見ることも可能です。そうであれば、フィレンツェの画家たちにない要素といえそうです。しかし、この作品の核心は、告知を受けたマリアの表情を正面から描いていることです。おそらく、マリアの正面には大天使がいることでしょう。(ということは、この作品を見ている我々は、大天使と同じ視点にいることになります)マリアは、視線を左下に落として、口をしっかり閉じて、微笑むともなく曖昧な形です。ここに、驚きや戸惑いを隠そうとして、神に対する畏れと、恭順しなければならないという葛藤が、その内側に秘められていることを想像させるに難くない表情のようなのです。表面的には穏やかなのですが。そこに、レオナルドフラ・アンジェリコの有名な受胎告知の神々しいマリアにはない、人間的な要素が見る者に訴えているように見えます。当時としては、大胆な構図なのではないでしょうか。

フランチェスコ・モローネの「聖母子」(右図)です。聖母像ばかりが続きますが、これも同じような年代に制作された作品のようです。聖母子ともに、フィレンツェのネルサンス絵画の自然主義的な人間の姿と比べれば、お人形のような印象は否めません。聖母の滑らかな丸顔が生き生きとした肌色で描かれていて、それが親しみ易さを覚えさせるのと、衣装の描写です。聖母が頭に被っている白いレースの精緻な描き方と、マントのような上衣の表面の黒く滑らかなのと裏面の光る生地の対比です。その裏面の生地のゴワゴワな感触のシワの寄り方と光の反射、そして、下に着ているドレスのこれまた光りものの赤。そのゴワゴワした感じが、抱いている赤ん坊のキリスト肌の柔らかさを際立たせることになっています。

これらの作品を見ていると、ルネサンス絵画の特徴として歴史の教科書で説明されていたような、自然主義的な人間の描き方とか、立体を平面に置き換える工夫とか、そういった努力は、あまり見られません。どちらかというと、画面に色を、具体的には絵の具を置いていって結果として何ほどかの形となっていく、そんな方向性に貫かれているような印象を受けました。対象を写そうとするよりは、画面に描いていて最終的には対象に合えばいいという、微妙な言い方ですが、そのような違いがあるようにみえました。 

 

U.黄金時代の幕開け─ティツィアーノとその周辺

ヴェネツィア独自の絵画は16世紀初めにジョルジョーネとティツィアーノによって確立されたということです。ジョルジョーネは若くして亡くなってしまったので作品も少なく、日本に作品が持ってこられることはおそらく無理でしょうから、ここでは、もう一人のティツィアーノの展示が中心ということになりました。その作風は“初期から中期の鮮やかな色彩による官能性豊かな自然主義的作風から、後期の悲劇的感情をはらんだパセティックな宗教画様式まで大きな振幅を示している”のですが、“その本質は、フィレンツェ派のレオナルド・ダ=ヴィンチやミケランジェロから刺激を受けつつ、光と影の効果や色彩の調和に対する素晴らしい感覚にある。彼はこうした表現力を駆使することで、柔らかい光に包まれた風景や官能的な女性像を若々しい詩的な感性で描き出した”と説明されています。

ティツィアーノの工房で制作された「ヴィーナス」(左図)です。「鏡を見るヴィーナス」のヴァリアントつまり、それをもとに工房で制作されたものということでしょう。「鏡を見るヴィーナス」は1550年ごろの制作ということですから、ティツィアーノ後期から晩年にかけての時期の制作ということになるでしょうか。工房の制作なので、画家本人の筆が必ずしも入っているとは限りませんが、輪郭線は明確でなく、形態はぼんやりし始めています。それはダ=ヴィンチのスフマートのような明確に形態をしっかりと描いて陰影をつけていって輪郭線を見えなくしていくのではなくて、初めから形態を明確にしようとしないという行き方のように見えます。しかし、ヴィーナスの豊満な肉体がドカッと画面に存在しているので、その量感とか質感で、見る者はヴィーナスをはっきりと認識できるのではないでしょうか。そして、それを見る者に認識させるべく、彩色において、陰影を巧みに施しています。工房作ということで仕上げは粗いというのか、顔の頬の赤みなや髪の毛の描き方などグラデーションの精緻さに欠けるところがありますが、上半身ほぼ全裸でベッドに腰掛けている女性は、身体は正面向きで、顔だけを右側に振り向けて、左手で胸を、右手で下腹部を隠しています。このポーズ、「恥じらいのヴィーナス」と呼ばれる古代ギリシャの彫刻に由来するものだそうで、本来は水浴する前の恥じらいのポーズだったものだそうですが、この作品では、豪華な衣装を身体の一部にまとわせることによって、豊満な裸体を隠そうとするようにも、衣装を脱いで美しい裸身をあらわにしようとしている、その両方にもとれる曖昧な身振りになっています。それだけ、見る側にとってはエロティックに映ることになるわけです。しかも、この女性は、耳に大粒のピアスをつけ、左手の小指に目立つ指輪をはめて、右手首に細い金の鎖を巻きつけて、下半身を豪華な衣装で包んだ当時のヴェネツィアの女性の姿です。ティツィアーノの描く官能的な女性像のひとつと考えてもいいのではないかと思います。ちなみに、ティツィアーノは、同じようなポーズで「悔悛するマグダラのマリア」(右図)という官能とも回心ともとれる作品を残しています。当時の社会情勢はプロテスタントに対してカトリックの側では対抗宗教改革が始まり、締め付けが厳しくなっていったころですが、ヴェネツィアは独立した自由都市であり、とりわけ他所に比べて性に対する自由があり、16世紀以来買春を目的とする旅行がフランスやイギリスから来ていたという資料が残されているそうで、そのような風土ゆえに検閲が緩やかであり、抑圧や弾圧に悩まされることなく、生の悦楽に満ちた絵画表現、つまり、この作品のようなエロティシズムの表現が可能であったといえます。ティツィアーノの女性の裸体作品は模倣や称賛の対象であり続けたのも、それゆえだろうということです。

同じティツィアーノの「聖母子(アルベルティーニの聖母)」(左図)で、比較的小さな作品です。この後で見る「受胎告知」とおなじころの晩年の作品です。晩年の作風を特徴づける “素早く粗いタッチや震えるような光の表現”があらわれているといいます。たしかに全体にぼんやりとしていて輪郭がハッキリしないのです。左奥の背景は旧約聖書に語られる預言者モーセが目撃した燃える柴ということですが、マリアの純潔を象徴とする らしい、その燃える柴の明るさが光源となって、左上から柔らかな光によって、暗い中から聖母子の姿が照らされるように浮かび上がってきています。それは、闇に光をもたらすようにも見えます。そして、そういう描かれ方をした聖母の被っているヴェールはどうでしょう。まるで宙に浮いていてるような軽くて薄い透き通るような表現が、下を向いて幼児を見つめる表情をヴェールに隠すことなく明らかにしています。全体にぼんやりした中で、キリストを見守る聖母の表情、そしてそれに応えるように聖母をみつめる幼児のキリスト、両者の視線が浮かび上がってくるのです。ここには、マリアの象徴である青いヴェールや赤いドレスはくすんで色褪せてしまっている感じで、聖母子の聖性を表わすシンボルは殆どありませんが、その光に浮き上がるところや二人の視線や表情の高貴さによって、それとわかるように描かれているといえます。晩年のティツィアーノはそこまで内省的な表現をつきつめたというとでしょう。

「受胎告知」(右図)を見ていきましょう。4.1×2.mという大画面です。展示は、この一作のためだけに、まるで教会の聖堂のような区画を設定し、そこに祭壇のような展示台をしつらえてありました。しかも、この美術館の倉庫のような高い天井が教会の高いドームのような効果をだしていて、神々しさを引き立てていました。ひろい展示室で、遠めに見上げる戸、その奥に高い天井が広がっているというのは、なかなか他の美術館では味わえない、この美術館ならではの光景でした。日ごろは敬遠しがちな美術館でしたが、この展示に関してはここでよかったと思います。想い起こせば、過去にグレコやラファエルの聖母像なんかも、このような展示で見たかったと、今更ながらに思いました。

“ティツィアーノは、受胎告知の奇跡の瞬間を、晩年特有の力強く大胆な筆さばきと、金褐色を基調とする眩惑的な色彩によって、ドラマティックに描出した。大天使の出現に驚いたマリアは、読みかけの本を手にしたまま、身を引きつつも後ろを振り返り、耳元のヴェールを優雅に手でつまんで引き上げ、お告げに耳を傾けている。マリアのS字形の体の曲線、肉感的な唇、豊かな胸、マントの裾から垣間見えるつま先は官能的である。ティツィアーノが筆と油絵の具を自在に操り、色彩の表現力を最大限に引き出す様は、当時の批評家から「色彩の錬金術師」と評された、聖なる神の子が人間マリアのうちで生身の肉体を授かる神秘が、この世ならぬ輝きを放つ色彩そのものによって見事に表出された。”と説明されています。長い引用でしたが。

ここで、盛んに言及されているティツィアーノ晩年様式について少し触れてみたいと思います。ちょっと教科書的なお勉強に近くなります。初期から中期にかけての若い頃のティツィアーノは細かな筆致で入念に描きこまれていて、近くで見ると、その精緻さに驚かされるものでした。これに対して、晩年になってくると、大づかみに対象を捉えるようになって大まかな斑点で絵の具を叩きつけるように描かれるようになります。そのため近くで見ると何が描かれているかわからなくなってしまうこともあるのですが、離れて見ると完璧な絵に見える。ただし、この大まかな斑点と言っても、何度も筆が入って、何度となく絵の具が塗り重ねられた結果であり、その結果、対象の輪郭は消え去り、描かれた事物は濃密な大気と溶け合い、震えているかのような動きが生まれます。暗い背景の上に無造作にばら撒かれた明るい絵の具の筆触は、内から発するような不思議な光を帯びて輝いている。そこではルネサンス絵画のような対象の自然主義的な再現を超えて、バロックに近いような神秘的な絵画空間が形作られているといえます。例えば、中央の光に照らし出された天使たちの輝くさまはどうでしょう、そして、光から遠ざかる天使たちの輝きのグラデーションは、大づかみでありながら精緻に光が伝わっていく様が体感できます。

それは、描き方だけでなく、全体の構成、空間デザインについても、フィレンツェ派のルネサンス様式のリアリズムに基づく清澄で古典的なものに比べて、神秘的で、ゴテゴテしていて過剰ともいえる要素の横溢、暗めの基調で光と闇の対比を強調したところなど、聖母の無垢さとか厳かさといった=ヴィンチフラ・アンジェリコ(右上図)の受胎告知とはまったく異なる印象を与えます。受胎告知の奇跡の瞬間をひたすら劇的に盛り上げようという、それを見る者に強く印象付けようという画面です。それは、信仰を持たないものですら圧倒するような迫力で押し切るような力を志向しているところがあります。

この構成や色調、とくにゴテゴテしたような過剰さと光と影の強烈な対比は、エル・グレコ(右上図)の作品とそっくりと思ったのでした。ちなみに聖母マリアの顔もグレコの描くのによく似ています。というより、グレコが真似たわけですから、グレコのユニークで迫力ある画面が、実はティツィアーノによるところが大きいということは、この作品を見ると、よく分かります。

ジョヴァンニ・ジローラモ・サヴォルドの「受胎告知」(左図)です。今見たティツィアーノと比べると、ほとんど同時期に、同じヴェネツィアで、同じ題材で、これほど異なる作品が描かれていたということに、驚かされます。それだけティツィアーノが過激に進めてしまったということなのではないかと思います。しかし、ここにも穏やかな形ではありますが、光と闇の対比は取り入れられ、フラ・アンジェリコのような光に満ちた画面ではなく、暗さを基調とした中に、天使と聖母が光を受けて浮かび上がっています。ちなみに、天使やマリアのポーズや天使とマリアを横並びにしている配置、細かく描きこんでいるところなど、後のラファエル前派の構成を連想してしまいました。

ボニファーチョ・ヴェロネーゼの「嬰児虐殺」(下図)という作品です。福音書の中のエピソードでイエスの誕生を知ったヘロデ王がベツレヘム周辺の2歳以下の男の子をすべて殺すことを命じた様を描いたものです。右奥に椅子に座ったヘロデ王がいて、画面では虐殺が実行されていますが、その一つ一つの場面が迫真をもって細かく描かれています。それぞれの場面の一人一人の表情もそれぞれに生き生きと説得力あるもので、その丁寧さには感心しました。そして、兵士や母親のポーズや赤、緑などの衣装の色彩の鮮やかさが華やかさ、豪華な雰囲気を作り出して、題材は残酷なものですが、飾り物としての豪華に飾ってしまうところにヴェネツィアの自由さ、あるいは貿易商人のたくましさが感じられます。おそらく、そういう風土の中からティツィアーノのような一筋縄ではいかないような画家が養われたのではないかともいます。この作品も、そういうヴェネツィアの幅の広さ、懐の深さをうかがわせるのではないかと思います。

 

V.三人の巨匠たち─ティントレット、ヴェロネーゼ、バッサーノ

16世紀半ば、ティツィアーノに続く世代としてヴェネツィアで活躍したヤコポ・ティントレットとパオロ・ヴェネローゼという2人のライバル、そして2人を尻目に独自の制作活動を展開してヤコポ・パッサーノの3人の画家に注目した展示ということです。著名な3人を並べたということでしょうか。

ティトレットの「聖母被昇天」(左図)です。ティントレットはマニエリスム様式から大きな刺激をうけ、劇的な空間構成、人物の力強い動勢、強烈な明暗表現を特徴として、その特長を生かした高揚を煽るような宗教画を次々と描いたと解説されていました。この作品は聖堂に飾られていた祭壇画で、埋葬された聖母マリアが昇天しようとする場面を描いたもので、取り残される地上には使途たちが画面下半分いっぱいに集まっていて、その上では聖母が両手をひろげ、衣をひるがえして上昇していきます。画面の下半分は、地上で聖母の昇天を見送る使徒たちの群像ですが、同じ群像で比べれば、前のコーナーで見たヴェネローゼの「嬰児虐殺」の赤ん坊を殺そうとする兵士ち守ろうとする母親たちの群像で、いくつもの攻防の場面がありますが、それぞれが画面を見る者に対して正面を向いて、それぞれが主役のようにポーズをとっています。それぞれが“らしく”サマになって描かれています。これに対して、「聖母被昇天」の下半分の群像は昇天する聖母を見ていて、見る者に半身になっていたり、背中を見せています。しかも、聖母の方を見上げるポーズをとるのと、画面上の構成の都合から多少無理な姿勢をとっているものもいます。例えば、画面の一番手前の左右の2人の人物などは、まるで、ミケランジェロの「最後の審判」の審判をうける人々のようなギリギリに近い姿勢を強いられているもののようです。この使徒たちの無理に身体をひねったような描き方はマニエリスム様式の影響と思われます。また使徒たちが一様に昇天する聖母に視線を向けているために、この画面を見る者は自然と、その使徒たちの視線に導かれるように聖母に視線を向けていく画面構成になっています。その一方で、これだけ多くの人々が描かれている中で、全身を全部描かれているのは画面中央上の昇天する聖母と画面手前の左右のさっき紹介した2人の人物で、画面ではこの3名が目立ちます、その目立つ3名はちょうど二等辺三角形の形にレイアウトされています。これが、見る者の視線を上に集めるのに対して、画面は全体として安定して、どっしりとしているのはそのためで、このような複雑な構成となっています。そのような安定した画面であるからこそ、画面中の人々が不安定なポーズをとっていても、全体の秩序が乱れない工夫がなされていると思います。また、昇天する聖母の衣装をみると、風に翻っているようですが、よくみると、シワの方向が上に向かって渦巻いてるようなのです。そのことによって、聖母のダイナミックな運動が表わされていて、それぞれの人物に躍動感があります。それが、人々の視線だけでなく、全体として上昇していく動きを画面に与えています。そういう、人々の身体の動きや、それを画面に統合していくところに、この作品の特徴があると思います。同じ題材でも、例えば、スペイン・バロックの画家ムリーリョの作品(右上図)と比べると、この作品の特長が分かります。

その一方で、聖母をはじめとして顔の描き方が丁寧さに欠けるというのか、ティントレットという画家は人体を描くほどには顔や表情を描くのに巧みではなかったようです。

同じティントレットの「アベルを殺害するカイン」 (左図)という作品です。旧約聖書の創世記で、楽園を追放されたアダムの2人の息子、カインとアベルがそれぞれ農作物と子羊を神に捧げたところ、神がアベルの捧げた子羊のみを受け取ったため、カインが嫉妬にかられてアベルを殺害するというエピソードです。この作品での2人の筋肉隆々の男性が、かなり身体をひねって絡み合うのは、ミケランジェロの「最後の審判」(右図)や、後のカラヴァッジョの劇的な斬首を描いた作品のポーズを想わせます。しかも薄暗い森林のなかで、二人に光が当てられることによって劇的な効果を高めています。ここでも、格闘する2人の顔の表情は描きこまれておらず、画面の明暗や二人の身体のダイナミックなポーズや絡み合いが中心となっています。

多分、ティントレットという人は近代的な個人とか、主体性といったことの認識がなかったのではないかと思います。さきの、「聖母被昇天」では群集の一人一人について丁寧に描いていながら、それはあくまでも画面を構成するパーツとて仕上げるということで、その一人一人の人物に個性を与えたり、それぞれが一人の人物として画面中で存在感を与えられるということにはならないのです。そのため、人物の内面とか感情といったことには顧慮されていません。あくまでも外形としての身体の動きなのです。そこがカラヴァッジョのような人物の内面が投影されるような、例えば宗教的な回心が起こる場面が人物のポーズや、そこに光があたることによって、画面を見る者にも実感できる、それによって共感を誘うということには至らないのです。ティントレットの場合には、劇的な画面に惹かれる、高揚するところまで、そこから先は、自分で考えなさいという作品なのです。それは、どちらがいいとか悪いとかという話しではなくて、時代背景も違えば、絵画をみてもらう対象となる人々も違うので、そういう外部的な影響も考えられますし、画家の資質、態度の違いもあると思います。すくなくとも、カラヴァッジョよりもティントレットの方がストレートに見る者に効果を与えることは確かです。野球であれば、ティントレットは速球一本勝負、これに対してカラヴァッジョは速球とチェンジアップの使い分けで、速球をより速く見せるという違いです。

次にティントレットのライバルであるヴェロネーゼは、ラファエロの様式を受け継いで、明るく華やかな色彩と調和の取れた古典主義的造形感覚を特徴としていると解説されています。まず、「レパントの海戦の寓意」(左図)という作品を見ましょう。画面は雲を境界にして、下半分はレパント海戦の戦闘場面、上半分は聖母マリアのいる天上の世界ということです。上部は天上の世界ということで輝かしく、明るく描かれています。これに対して下部は、とくに右半分は暗い世界です。みれは、海戦の敵側であるトルコ軍船のいる部分は暗さが支配し、左側のキリスト教側には、ちょうど上の左手で立っている聖母の真下から光がさして照らされている、つまり、聖母の加護が及んでいるので多少明るくなっているということでしょうか。この戦闘場面については、沢山の軍船と兵士や船漕ぎ人夫たちを頭数として数を描くこと、船の場合はマストを林立させることで、その数の多さと海上で錯綜している様子を表現している、つまり、構図で見せています。ティトレットに比べるとダイナミックな表現はとっていないようで、動勢の表現はそれほどやっていません。それは上部の描き方に一目瞭然で、ティントレットの「聖母被昇天」の使徒たちの不自然な一方でダイナミックな描き方と比べると、ヴェロネーゼの方は、一人一人は不自然なポーズをとっておらず、それぞれ人々がいるという感じで、赤い衣装を着ている聖母に視線があつまり、聖母がことさらに中心になって画面が構成されているわけではありません。ここでは、上と下の対照、そして、したの方でも左右の対照が中心で、聖母の称揚と、その加護によりトルコとの海戦の勝利したことが寓意的に描かれているといったものだろうと思います。ここでは、そういうバランスがあって、ティントレットのような高揚を誘うものではありません。

次に「羊飼いの礼拝」(左図)を見てみましょう。これはヴェロネーゼの工房で制作されたものです。聖母子を羊飼いたちが囲むようにしている場面ですが、ティントレットの「聖母被昇天」との様式の違いが、より明確に分かると思います。聖母子に光があたり明るくなっていますが、それが劇的効果をあげているわけでもなく、明暗の対比が強調されているわけではありません。全体として、平明な色調で穏やかに描かれていて、輪郭線をはっきりさせていないので、悪く言えばメリハリがなくて、刺激が少ないので、地味な印象です。しかし、聖母子を羊飼いたちが礼拝するという場面が誰にでも分かりますし、穏やかに聖母子を囲む平和な風景と見ることもできます。この作品はヴェロネーゼ本人というわけではないので、平均点以上でしょうで、特徴は継承しているとは思いますが、際立つほどではないかもしれません。しかし、聖母や人々の赤、青、黄色といった衣装の色の明るさや清らかに澄んだところなどは、見ていて心地よいもので、今でいえば癒し効果というのでしょうか、強烈に視線を集めるのではないが、見ていて邪魔にならず、しばらく眺めていたいと思わせるところがあります。それが、ティントレットとヴェロネーゼの様式の違いではないかと思います。ティントレットではありませんが、エル・グレコの同じタイトルの作品(右上図)と比べるとヴェロネーゼの特長がよく分かります。

最後に、バッサーノについては、ヴェネツィア内陸領土の町で活躍したので、ティントレットやヴェロネーゼとは離れていたところで、ジョルジョーネの流れを汲む情緒豊かな田園風景に託して聖書の主題や風俗的な連作を描いたと解説されてしました。「悔悛する聖ヒエロニムスと天上に顕れる聖母子」(右図)という作品です。幾つかの場面をつなぎ合わせて最終的にひとつの幻想的な画面に出来上がったと思えるような作品です。ここでは、下にいる聖ヒエロニムスは上の聖母子を見ているわけでもなく、聖母子が聖ヒエロニムスを見守ってもいません。また、この画面では、どちらかがメインというのでもなく、上と下を対照させているわけでもありません。修道院の祭壇に飾られていたということも考えれば、ティントレットの作品のような見る人を高揚させ、ひとつの方向に引っ張っていく効果を狙ったものではないし、バッサーノには、そういう志向は少なかったのではないかと思います。

聖ヒエロニムスと背景の牧歌的な風景との間にも関連性がみられないし、聖母が空中に浮かんでいるのもちぐはぐで、パッチワークのようです。むしろ、この作品は、個々のパーツを見るべきなのかもしれません。背景となっている牧歌的な情景描写や上空で光に照らし出される聖母子や天使の姿は、エル・グレコの描く姿に似ていますが、グレコほどの劇的ではなく、平明さがあって親しみ易さが強くなっています。また、聖ヒエロニムスは他人を寄せ付けないような厳しさよりも、親近感を持たせるように描かれています。全体として、緊張感というより、穏やかで平明な身近な印象を与えるのではないでしょうか。それは、ティントレットの宗教画が見る者を高揚させて宗教的な感情を煽るようなのに対して、このバッサーノの作品は、より親しみ易くなっていると言えます。このようにして、ここで展示されているヴェネツィアの宗教画を見ていると、前のコーナーのティツィアーノも含めての印象として、次のようなことが考えられます。ひとつは、フィレンツェやローマのルネサンスで描かれた宗教画が、どちらかという、聖書の一節や聖人を単に視覚化する傾向があったのに対して、ここで展示されている宗教画は、よりものがたり性を包含させているように見えます。つまり、フィレンツェやローマの宗教画は聖母マリア像とか聖人像あるいはキリスト磔刑の風景といった画像の方向であるのに対して、マリアが受胎告知を受けているとか、聖母が昇天していくのを使徒たちが見守っているといった映像の方向になっています。そのため、画像では、その視覚的光景を忠実に再現しようとして写真のような客観的で写実的な、つまり、見る者がリアルと感じるように追求されるのに対して、映像では時間の経過という要素が入り込んでくるために、そこに動きの要素が入り込んでくるので、客観的な外形をなぞるだけでなく、それが動いているように見えてくるようになっています。それがダイナミックな動勢の表現で、そこに形をデフォルメするという操作が加わってきます。さらに、聖母と彼女が昇天するのを見守る使徒というように画面が単独の題材に限られず複数の題材を組み合わせるようになって、画面に表現される内容が複雑になってきます。そうなると、見る者は単独の題材を見たままで受け取るだけでは済まされなくなります。そこに見る者が画面に主体的に参加して自分なりに解釈するという機縁がうまれます。それは、客観的な画面の受け手から、作品に対する姿勢が主観的に変化しているのです。ここで展示されている作品には、見る者をそういう方向に導く工夫が施されていました。その最たるものが、ドラマチックな画面構成です。例えば、光と陰を対立的に扱い、暗闇に神の照らす光が届くとか、天使から受胎告知を受けるマリアが光を受けて神々しくなっていくとか。画面で展開されるドラマに見る者は惹き込まれ、主観的に参加していく、つまり、感情移入していくことになります。そこでは、フィレンツェの聖母像で表わされているような理想的な美の姿は、むしろ不要で、それ以上に市井のごくふつうの少女が天使のお告げをうけて聖母となるドラマの方が重要で、そこに近寄り難いほどの理想的な美は邪魔です。寧ろ、普通の少女がお告げをうけた戸惑いや畏れといったことを経て輝くという表現が重視されるわけです。そこで使われるのが、フィレンツェの絵画のような科学的なデッサンによる理想化された形態ではなくて、輪郭をあいまいにして、多彩な色遣いによって陰影をつくりだすことによって、例えば、顔を描く際に陰りをくわえることによって微妙な感情表現を可能にしていったのです。マネキン人形のような整った美しさがあるけれど冷たい顔よりも、多少の歪みはあっても哀しみを帯びている顔の方が感情移入できるわけです。そういう宗教画であるから、それを見る者は、ローマやフィレンツェの知識豊富で修行を積んだ僧侶や教養豊かな貴族、あるいはそのような人々を相手にする商人ではなく、ヴェネツィアでは一般市民や貿易によって来訪した世界中の人々であったと考えられます。そういう人々によりアピールするものであったのではないかと思います。この時、すでにバロック絵画の先駆的なもの手あったのではないかと思います。時には、宗教以外でも官能的な目的をも叶えるといった作品もあったと思います。

 

W.ヴェネツィアの肖像画

もっともらしい説明はできますが、わたし的には間奏曲のような、ひとやすみの展示として、それまでの緊張を緩めてリラックスして眺めました。サイズも宗教画に比べてコンパクトだし、それほどのオカズを画面に加えるわけにも行かないので、画家の技量をこれ見よがしに発揮する場でもないので、巧拙の違いは明確に出ますが、画家の個性をみるとか、そういうのを気にすることなく、流して眺めました。

ここでは、目に付いた作品をピックアップするだけにしておきます。

カリアーニの「男の肖像」(左図)というタイトルです。この作品は、男の髭のフワフワしたボンヤリした描き方に止めを刺します。

もうひとつ、ベルナルディーノ・リチーニオの「バルツォ帽をかぶった女性の肖像」(右図)というタイトルです。黒い衣装で、黒い帽子をかぶって、そこで目立つのは白い肌です。画像では目立ちませんが、現物をみると、その肌の色だけで見入ってしまいます。あとは、女性の視線の描き方です。

二つの作品とも、「男の肖像」では、手前の手がへんとか、「バルツォ帽をかぶった女性の肖像」では髪の毛がかつらみたいとか、いいたいことはたくさんあるのですが、そんなことは措いて、ここを見ろというところがありました。その他の作品は、依頼に応じてつくったものだ、ということで、それをわざわざとりあげてどうこう言うような性格の絵画ではないと思います。

このへんのところで、私の絵画の見方に対する偏見が端的に表われているのだろうと思います。

 

X.ルネサンスの終焉─巨匠たちの後継者

16世紀の終わりになると3人の巨匠たちが次々に他界し、次の世代の継承者たちが現われます。彼らは、いわばルネサンスからバロックへの橋渡しの役割を果たし、豪華で装飾的なヴェネツィア絵画を定着させたといいます。

アンドレア・ヴィチェンティーノの「天国」(左図)という作品です。とにかく、この描かれた人の多さ、その人々が折り重なってうごめくような構図に圧倒されました。これが果たして天国の光景なのか、天国的とはこのようなイメージなのか、キリスト教徒でない私には何ともいえませんが、同じような光景を諸星大二郎の「妖怪ハンター」(右上図)というまんがでみたことがあります。東北の寒村で、隠れキリシタンがいて、キリストに擬せられた若者に従って村民たちが昇天していくというストーリーですが、この「天国」という作品には、同じような数の迫力を感じました。描写としては、この人々のひとりひとりを丁寧に描いているわけではなくて、マスとして彩色を巧みにするとで、とにかく頭数を強調することと、画面上方からの天国の光に人々が照らし出される、その光のグラデーションで見せているという作品です。ちなみに、このヴィチェンティーノという画家は大群衆の作品を何点も描いているようで、戦争の場面で多数の兵隊が戦っているところといったスペクタクルを得意としていたのかもしれません。

パルマ・イル・ジョーヴァネの「聖母子と聖ドミニクス、聖ヒュアキントゥス、聖フランチェスコ」(右下図)という作品です。今まで見てきた宗教画の中で、もっとも色彩が鮮やかで明るく、見栄えがする作品です。明るいといっても、フィレンツェ・ルネサンスのフレスコやテンペラによる明澄さとは違い、原色に近い鮮やかな色が映える明るさ、例えば空の青。そして、光の金色の輝くさま。色彩が、色調とか陰影とか質感を通り越して、独立した価値を、それは装飾としての独立性と言えるかもしれませんが、色彩の鮮やかさを見るという視点で、作品を見ることができるように進んでいると思います。聖人たちや聖母子、天使たちの描き方にはソツがなく、まとまっていますが、動勢はほとんど感じられず、これまでの画家たちによって描かれたポーズを上手くとりいれているように見えます。ただ、それはパターン化のきらいがあり、かたちはそれらしいのですが、生き生きとした表情とか、見る者に感情移入を起こさせるような点は薄まっているのではないかと思います。その代わりに、装飾的である点では、以前の画家たちを凌ぐと思います。そして、全体として、ティツィアーノのころから、色塗りで画面を仕上げていくことを進めてきたからでしょうか、輪郭線が消えて、形態があいまいになり、はっきりしなくなる傾向が強まってきているように見えます。それが、徐々に基本的なプロポーションが崩れてきたような印象もでてきます。最初は基本的なプロポーションか決まっていて、それをデフォルメして変形させていたのですが、ここに至ってくると、その元もとのプロポーションが崩れて、デフォルメしたものがデフォルトとして継承されて、それにアレンジを加えていくことによって、もともとのベースの形の感覚がなくなってきている、という印象です。

それは、現在で言えば、まんがやフィギアでロリ顔の巨乳というキャラ(少女の顔で身体つきは華奢であっても、その身体に不釣合いなほど乳房が巨大な姿)と同じような発想で、女性の身体をパーツごとに分けて、それぞれを好みの姿にして、あとでそれぞれのパーツをつなげるという一種のフェテシズムのような発想で描かれているように見えます。前のUのところでティツィアーノが同じようなポーズをマグダラのマリアとして描いていますが、そのバランスと比較してもらえれば、このスザンナの異様さがよく分かります。ここに至って、私にはルネサンスの基本的な姿勢の崩壊のあらわれと見えます。とくに、ダ=ヴィンチの作品などに特徴的に現われていると思いますが、ネルサンスの特徴として古代のギリシャやローマを模範としたところがありますが、この考え方のひとつとしてカオスに対するコスモスという考え方があります。カオスとは渾沌で、それに秩序を与えたのがコスモスということで、古代の人々はそれを理想としたといいます。コスモスという言葉は現在では宇宙という訳語が当てられていますが、この世界全体を整合性ある秩序と見ていたのです。同じように人に対しても、宇宙の縮図のようなミクロコスモスとして捉えられていました。人体がひとつの統一された秩序であるとして、仮に、その秩序のバランスが崩れるとそれは病気という状態としてあらわれるという考え方です。この場合、医学というのは、そのような人に秩序ある状態に戻してあげるということになるわけです。そういう古代を範としたルネサンスでは、絵画で人を描く場合には、バランスの取れた統合された全体として捉えようとしたわけです。ダ=ヴィンチが解剖を頻繁におこなって人体の骨格や筋肉などを知ろうとしたのは、統一体としての人体の秩序をしくみから理解して、それをもとに人を描くことを目指したからだと言えます。だから、ダ=ヴィンチの描く人物は、統一が取れていて見るからに自然で無理がありません。しかし、人というのは個性があって一様であるといえません。例えば、肥満体のひとは理想の秩序あるバランスからは逸脱しているかもしれませんが、人とはそういうものでもあるのです。そこに明らかな個性もあるのです。そういう様々な人がいることによって、人々の関係があり、そこにドラマが生まれるのです。人間の社会が常に安定した秩序が保たれているわけでもありません。戦争はしばしば起こります。しかし、そこに多くの人間ドラマがうまれ、例えば、バロックの画家たちは、そういうドラマを誇張しても、その劇的なところを描こうとしました。したがって、ルネサンスの理想としたコスモスは次第に保てなくなっていきます。そのひとつのあらわれが、ここで描かれているようなスザンナのようなコスモスを逸脱した部分の独走です。それは、おそらく、絵画を見る姿勢も変化してきていることにも原因していると思います。じっくりと絵画を鑑賞するということから、ぱっと見て刺激的な効果を期待するように方向に変化があったのではないか。そのために刺激的な効果を優先していくうちに、このような描き方になっていったのではないかと想像しています。これは、私の好みということなのでしょうが、私は、ここにひとつの頽廃を見ます。

このような傾向は同じ画家の「スザンナと長老たち」(左上図)を見ると、さらに顕著です。美しい人妻スザンナに浴場を抱いたユダヤの長老たちが、水浴中の彼女を襲って関係を迫ったところ、彼女の拒絶されてしまいます。長老たちは、その露見を恐れ、偽証によって彼女を断罪しようとしますが、若者ダニエルによって偽証を暴かれ、処刑されるという旧約聖書のエピソードです。暗闇に浮かび上がる、スザンナと二人の長老はぼんやりしていて、スザンナの白い裸体は目立っていますが、胸などの豊満さが強調されすぎて、人体のようには見えません。

レアンドロ・バッサーノの「ルクレティアの自殺」(右上図)という作品です。スザンナと同じようなエピソードを題材にした作品ですが、こちらは精緻なほど細かく描き込まれています。暗闇で右上からの光に照らし出された半裸の女性の姿です。この右上からの光の光源はハッキリしませんし、彼女が、その光のほうを向いているのは誰を見ているのか分かりませんが、これらはおそらく、彼女の顔と半裸の肌をよく見せるためのものでしょうか。上気して肌が紅潮している様を強調して、よく見えるように描いています。あるいは、結っていたのが乱れて流れ出したような髪の毛や衣装の肌合いなど、精緻に描き込まれています。

パドヴァニーノの「オルフェウスとエウリュディケ」(左図)という作品です。オルフェウスが亡くなった妻エウリュディケを冥界に連れ戻しに行って、振り向いてはいけないという約束を破ってしまったために、冥界に戻る妻を引き止めようとしているところです。というよりは、ギリシャ神話に名を借りて、逃げ去ろうとする若い女性を若者が必死で引き留めている諍いの場面と見ることができると思います。冥界という場所ということで暗闇という設定なのでしょうが、これも夜の諍いということになると、官能的な性格が強くなります。しかも、女性が身にまとっている衣装は透明で薄手のもので、僅かにまとわりついているだけで、その描き方は見事とは思いますが、今の視点でみれば、薄手のネグリジェが寝乱れてというように見えなくもありません。そして、この画家も輪郭を明確に描くことがなく、全体として形態がぼんやりした感じになっていて、ティツィアーノ以来のヴェネツィア絵画の特徴として定着したものということでしょうか。この作品では、それが、このような官能的な内容の生々しさを弱めることに結果的になっていて、神話のものがたりという弁解もあることから、夢幻的な雰囲気を作り出して、うまくごまかしている、というように見えます。これもぱっと見の刹那的な刺激の効果を優先しているように見えます。

 

 
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