2025年10月16日(木)福田美術館
朝、修学院離宮を参観した。小雨模様の天気の下、しっとりと落ち着いた、静かな空間をかみしめる充実したひとときだった。1時間以上アップダウンのコースを歩き続けるのには、疲れたけれど。
そこから鉄道を乗り継いで、JR嵯峨嵐山駅へ。修学院離宮とその周辺の静かで落ち着いた佇まいから、観光客でごったがえすような喧噪に打って変わって、戸惑う。ひろがって道を塞ぐようにして、ちんたら歩く外国人観光客に、少しいらつく。私は速く歩くわけではないが、自分のペースで歩けないからだ。混雑は天龍寺門前の渡月橋への通りで、一段とエスカレート。道の両側は観光客向けの派手な店が軒をつらね、立ち止まって物色する観光客がひろがり、道がつまって、歩くことができない。だんだん苛々してくる。朝の充実した気分が、だんだんと萎えてくる。福田美術館は、そんな喧噪から一歩裏手に入った一画にあった。入口は分かりにくい。これは観光客が間違って入ってこないようにしたものなのかもしれない。でも、ちょっと不親切。それは予感だったかもしれない。
分かりにくい入口を入ると、小さなロビーに小さな受付。受付は二人いて、なんかお喋りしている。チケットを購入したが、展示室はどこだか分からない。受付では何も教えてくれないので、目の前の階段を上がってみる。通りかかった係員に場所をきく、ついでにロッカーの在り処を尋ねたら、受付の横にあるという。気がつかなかった。受付に引き返し、狭いロッカーを見つける。ロッカーがあるだけ。ロッカーに手荷物を預ける際には、バッグのなかから必要なものを取り出したりする整理スペースがほしいのだが、そういうのは一切なく、使いにくかった。展示室に行こうとして、展示リストがどこにもない。そういえば、主催者のあいさつ文もない。係員のきくのも面倒になり、展示を見るまえから、ちょっと疲れた。
2階に上がり第1展示室の案内に従っていくと、真っ暗な行き止まり。どうなっているのかと不審に思うと、突然、壁が動いて展示室が開けました。自動ドアでした。展示室は作品の保護のためなのか、室内は薄暗く、作品に照明があてられるというものでした。これでは、メモがとりにくい。
第1章 上村松園と近代に活躍した女性画家たち
上村松園の作品と思ったら、18世紀の浮世絵。宮川長春の「括り枕と美人図」です。このような作品を見ると、上村松園の美人画への影響が分かります。例えば、上村松園が17歳の時に描いた「四季婦女図」(右側)では同じような顔の描き方をしています。この作品の作者名を伏せた上で見ると、江戸時代の浮世絵と間違えてもおかしくないと思います。修業時代の習作のような作品でしょうか。ここには、上村が江戸時代の美人画の伝統に連なっているということが分かると思います。ただ、江戸時代の浮世絵では身体のバランスやポーズが不自然だったりするのですが、上村は近代的な視点で自然と思われるように描いています。そうすると、近代的であるように見える。当時では、そこが上村の美人画の特徴だったのではないかと思います。

それが、22歳の時の「一家和楽之図」という作品では、しゃがんでいる幼児は写実的に見えます。また、左で縫物をしている女性の顔は、それまでの浮世絵の顔とは明らかに違っています。このあたりで上村の顔ができてきたのだろうと思います。浮世絵での記号のような美人のお約束に則っていた「四季婦女図」とは異なり、記号的なお約束を追求するあまり、近代の科学的な視点では考えられないような歪んだ顔から、そういう視点で不自然と思われないような顔の形になっています。ただし、それは西洋画のような骨格の構造を踏まえたようなものではなく、浮世絵の顔を近代的な視点で不自然でないものにアレンジするというものです。近代的にアレンジされた浮世絵、それが上村の美人画ではないかと、ここでの展示を見ていて、思いました。
「浴後美人図」(左側)のような裸婦像では、上村が西洋画のような科学的な身体構造を把握したデッサンができていないのが分かります。骨格とか筋肉の構造が理解されているのではなく、便宜的に乳房が身体にくっついているという感じです。こういうのは、着物を着せてしまうと身体は隠されるわけです。そこでポロが出ることはない。上村に裸婦像が少ないのは、上村自身がそういう自らの弱点を自覚していたからかもしれない。この作品を見ていて、そんなことを思いました。
「人生の花」という作品。「浴後美人図」の次にこの作品を見ると、着物を着せることで、どれだけ身体描写を誤魔化せるかということが分かります。顔を描く時と着物を描く時とでは、線の太さが違います。そのことで、着物による形が強くなって、顔や身体の線は、両者が重なるところでは負けてしまいます。つまり、着物の下に埋もれてしまう。身体につ
いては、着物と重ならない顔とその周辺だけを描けばよいのです。そして、その貌についてです。顔には陰影がありません。立体として捉えられていない。鼻はくの字型の線で表現されています。当然、顔の筋肉とかそういうものは表現の対象になっていません。だから、顔の筋肉の動きでつくられる表情というものを描くことはない。そのことを上村は自覚しているのか、顔を描く際のアングルが決まっているようです。とくに多いのは、斜め後ろからの視点で顔を描くことです。そうすると、くの字でえがく鼻が不自然になりません。また、斜め後ろからでは、表情がよく分からないので、描かなくても不自然になりません。そしてまた、表情をつくるときの大事なポイントである目について、上村は瞳をあまり描きません。多くは伏し目がちというのか、睫毛を描いて目としています。それが、斜め後ろからの角度では、目を瞳まで描かなくても不自然になりません。総じて、浮世絵の美人画の文法で顔を描いているのですが、それが近代的な視点で不自然にならないために、斜め後ろからというアングルを多用しているように見えます。このことを、上村は意識的に行っているのかは分かりません。
「静御前」は努力して歴史考証を行い描いたという作品だそうですが、ほぼ正面から顔を描いていて、記号としての顔で、歴史的人物になっていないし、そもそも独立した人格がないので平板というか、歴史画としては退屈な作品になっています。一応のかたちは取り繕っていますが、サマになっていないのです。そういうことを上村は、ある程度自覚していたのではないでしょうか。私には、そう思えます。だからこそ、色々な試みをしていたのではないかと思います。そもそも、日本の伝統的絵画で人物の表情を細かく描いていたでしょうか。そもそも、表情というものがあったのでしょうか。当時の武士は、涙を見せるな、歯を見せるな(笑うな)と教育されていたといいますし、つまり無表情です。謹厳な武士というのは無表情と同じです。あるいは、当時の演劇である歌舞伎芝居は顔を厚く白塗りし、隈取りを施していました。これで表情をつくるのは無理です。そこでは、そもそも表情を必要としていなかった。面を被る能もそうです。表情というのは、独立した個人の自己表現です。しかし、それは近代西洋で成立した個人という極めて限定された文化というわけです。しかし、19世紀は、その西洋文化が世界を支配していた。当時の日本は国として生き残るために、西洋に追いつくことを必要とされていた。そういう風潮を、世相に敏感な上村松園は感じ取っていたのでしょう。だから、社会で評価されるためには、近代化=西洋化に乗っていかなければならない。それは、絵画では西洋絵画を取り入れるということでしょう。上村は、それを美人画(浮世絵)でやろうとした。しかし、そもそも浮世絵と西洋文化は土壌が異なる。ある面で、両者は水と油のようなところがある。とくに、この作品では静御前という特定の他の人とは違う一個の独立した個性ある人物を描かなくてはなりません。しかし、美人画は、もともと、人々が美人と思っている一般的イメージを視覚化した画像のようなもので、その画像に個人としての個性とか存在は求められません。むしろ邪魔なのです。上村は、この作品のような試行をし、失敗を重ねながら、表層のところで部分的でも妥協できる地点を探した。それが、顔を描くアングルといったことです。その後、上村は、この妥協点から、洗練を進めていくようになります。
「かむろ」という作品では、正面に近いアングルで顔を描いています。少女を描いているので、伏し目がちというのは似合わないのでしょうか。ここでは瞳を描いています。しかし、その瞳はこちらに向けられたものではなく、そこに意識の光を見出すことはできません。少女マンガの星の入った瞳のような、それ自体が美しさの記号とでもいうような瞳です。むしろ、この作品の主眼は、少女の着物の朱と帯の薄緑、そして襟と髪の毛の黒の配色にあると思います。朱の着物の下半分には梅の花が白く抜けるように描かれています。これ以降の作品は、浮世絵の美人画を近代的視点で自然に見えるように人物を描き、その人物の着物やアクセサリーに趣向を凝らすようになっていきます。いわば着せ替え人形です。そこでは、着物とアクセサリーのコーディネイトをいかにセンス良くこなすかが重点となり、絵はそれをもっとも映えるポーズをとらせて描くというものになっていきます。このとき、描かれる人物は、その着物を着せ、ポーズをとらせる、いわば服屋のマネキン人形のようなものです。それが上村の妥協点だったように思えます。これ以降の展示作品は、その方向での、さまざまなバリエィションと見ることができます。
例えば「雨を聴く」という作品では緑の着物が映えます。そして、「雨を聴く」という作品タイトルが情景を想像させます。上村の作品は、ほとんど背景が描かれず、人物の存在は抽象的で、空間に在るというものではありません。だから、作品タイトルがその代わりに、見る者の想像を喚起させ、勝手にその人物のいる場面を想像させるのです。これは、一種のプロデュースのセンスといっていいと思います。私が感心するのは上村のそういうところです。この人は、絵そのものというよりは、絵をいかに見せるかということに配慮した人だと思います。敢えて言えば、そこが上村の近代的性格ではないでしょうか。この作品を最初に見た宮川長春の「括り枕と美人図」と見比べると、その見せ方の違いは明白です。上村の作品が、いかにもモダンに見えます。
「初雪」という作品。“かじかんだ右手を袖の中に入れ、蛇の目傘を白く覆う雪の重みを感じながら支えている女性。左手では着物の褄をとり、転ばないように恐る恐る、高下駄を踏みしめつつ歩みを進めています。「いやぁ怖いわぁ」とでも言い
ながら笑っているのでしょうか。”という説明がありました。そのために、顔の造作が崩れています。浮世絵的なお約束のくの字型の鼻、おちょぼ口のバターン、線を引いたような目を顔にバランスよく配置することで美人の顔をつくっているので、表情をつくるために、それらのパーツの形をいじると、配置のバランスに影響し、顔が崩れてしまう。この作品を見ていると、美人の顔を維持しながら表情をつくることに、上村が悩んでいたことが想像できる気がします。それは苦悩に近かったのではないかとも思えて、どこか痛々しいとも思えてきます。
展示室は細長い部屋で、入って右側に上村の作品が並び、反対の左側には
「上村松園と近代に活躍した女性画家たち」のうちの、近代に活躍した女性画家たちの作品が並んでいます。ここに並んでいるのは、上村が妥協した点に飽き足らず、さらに進めようとした画家たちの作品が並んでいます。それは、私には袋小路に入り込んでいく苦闘のように見えます。
梶原緋佐子の「髪」という作品です。上村はおちょぼ口のパターンを脱することがありませんでしたが、この作品では口が写実的に描かれています。それがキリッとした表情を目と関連して造っている。しかし、この女性は必ずしも美人に見えるとは限らない。そして、栗原玉葉の「夕べ」では目がパッチリと開いて瞳が描かれています。
島成園の「舞妓」という作品は、顔が少し立体的に描かれ、リアリズムの兆しが垣間見えます。どこか竹久夢二を思わせるような不健康で退廃的な雰囲気がします。それは、舞妓という、いわば風俗業のもともともっていたものが写実的な描写によって表われてきてしまったと言えるかもしれません。これではもはや、脳天気に美人を眺めて楽しむというものではなくなっていると思います。美人というよりは不気味です。
第2章 東西で活躍した個性豊かな美人画家たち
階段を3階に上がり、第2展示室に向かいます。第1展示室と同じように、暗闇の行き止まりで、自動ドアが開いて、展示室に入ります。上村松園の作品は、もう出てきません。展覧会タイトルやチラシであれだけ前面に出していながら、展示の半分もないとは…。過剰な宣伝というか、上村目当てできた人なら“金返せ!”です。私も、ちょっとシラケてしまいました。結局は、所有している作品を手を変え品を変え、もっともらしいタイトルで並べて、客を集めている、と誹謗中傷を加えたくなります。
気を取り直して、とはいってもテンション低めですが、見ていきましょう。鏑木清方の「雪つむ宵」という作品です。何年も前に、東京の国立近代美術館で鏑木の回顧展を見たはずですが、まったく覚えていません。新たな気もちで作品を見ましたが、上村の作品と区別がつかない、と思いました。強いて違いを見つけると、鏑木の作品の方が描き込みが深い。そして、上村は背景を描かないのに対して、鏑木は背景を描いている、ということでしょうか。そのため、鏑木の作品は物語の一場面という動きが感じられるところがあります。つまり、上村が描いているのは、一般的な美人のイメージですが、鏑木の場合は背景がきちんと描かれているために、ある場面という限定がされて、そこに位置づけられているということです。つまり、美人の差別化がなされるのです。例えば、美人と言っても、庶民にとっての美人と上流階級にとっての美人は違いがあります。庶民的美人が、気高いのとは、なかなか両立しません。庶民的美人なら、気高いはお高くとまっているに価値が逆転してしまいます。鏑木は場面を特定することによって、庶民的か気高いかの区別のどちらかに限定するということをしました。それは、映画や演劇のヒロインのような、その背後に物語を想像させるような美人です。これに対して、上村の場合は、そういう背景のない、ただ美人という抽象的なものです。現代でいえば、化粧品の宣伝写真やあるいは男性向け雑誌のグラビアページのような、こういう顔が美しいとか、こういう身体が魅力的だとか、そういうものです。
伊東深水の「春の雪」という作品。上村の「人生の花」と似たようなポーズで、上村は後ろからのアングルであるのに対して、伊東は前からのアングルで描いています。前方からということは、顔が見えることになり、伊東は目、とのわけ瞳を描いています。しかし、伊東は美人の瞳の記号を作ろうとしているように見えます。少女マンガの星の入った瞳のようなパターンです。それは、上村のように個人を描くことと美人画のパターンという相容れないものの間で妥協を模索したのとは違い、時代の変化にそくした美人の記号の更新をしようとしていると言えます。だから、そのパターンの外にはみでるような、現代女性を描いた「海風」という作品では、女性は美人に見えません。
岡本神草の「追羽根」という作品です。羽根つきをしている女性の落ちてくる羽根を待ち受けて、今にも打とうとしている姿です。女性は上を向いているので、顔を仰角で描いています。これでは美人の顔を美人として描くのは難しい。美人画としては、かなり苦しいと言えるのではないでしょうか。これは、美人画の新しい試みと見ることもできます。この展覧会は美人画の軌跡というタイトルなので、そういう見方をすることになります。そのような視点では、この作品は、美人画に新たな方向性を与えようとするひとつの挑戦と見ることができます。しかし、それは結果として、その挑戦は美人画の方向性を限定してしまった。それが繰り返されると、徐々に袋小路に追い込まれていくように思います。その試みは挑戦的であると思いますが、結果として行き着くところは美人画の否定という結果になってしまう。中村貞以や谷角日沙春の作品には、美人画の否定と言ってもいい。
第3章 現在につながる「美人画」の軌跡
隣の第3展示室に移ります。もはやこじつけですね。いったい、美人画とは何を指すのか、その定義をはっきりしてほしいです。所有している作品で女性を描いた作品を展示してしまえ、としか考えられません。岸田劉生の「村娘之図」は美人を描いたとは到底考えられないです。この作品には、ここで展示されていた他の作品では見られない人物の存在感が濃厚に感じられる。人が重い肉体をもって、たしかに存在しているという作品です。そこには人々が考えている美人とか、そういうものとは無関係です。展示されている作品にはない迫力を感じました。
ちょうど昼を過ぎて空腹を感じていたので、美術館内のカフェで何か食べようと思ったのですが、入口にあるメニューをみたら食事はないみたいで、何から何まで、私には肌が合わない、と思いました。多分、ここへは二度と来ないでしょう。ここにとどまって余計なことを言っている時間がもったいない。さっさと帰ることにします。