ターナー展 |
2013年10月29日(火) 東京都美術館
夕方という時刻と雨という天気のせいか、予想された混雑はなくて(とは言っても、ひとはそこそこいたけれど)、落ち着いて作品を観ることのできる状態ではあった。ただ、閉館1時間前という制限があったので、どうしても限られた時間を考えてしまい、また閉館時間前のアナウンス放送も何度か入って、最後は急き立てられるように作品を観ることになってしまった。時間をかけてゆっくり鑑賞するとか、何回も会場に足を運んで、気に入った作品を繰り返し鑑賞するということもないので、一発勝負。カッコよく言えば一期一会。だった。今回の展覧会は、スケッチや習作の類もおおく、ターナーの作品は似たようなものが多いため、一回目で見たい作品を絞って、二回目以降でじっくり鑑賞するというやり方は適していると言えなくもない。 さて、主催者のあいさつの中では、次のように紹介されています。”1775年に生まれたターナーは、10代で英国各地の風景や名所旧跡を描く地誌的水彩画家として出発しました。そして、26歳で早くも英国美術の最高権威であったロイヤル・アカデミーの正会員に選ばれるなど、若くして成功を掴みました。生涯にわたって風景表現の可能性を探求し続け、「崇高な」自然を描き出そうとした作品や、光と色彩に溢れる幻想的で詩情に満ちた作風から、ロマン主義を代表する画家の一人と称されています。…西洋美術史において風景画の可能性を広げ、英国絵画の地位を飛躍的に高めた巨匠の作品を間近で鑑賞し、その神髄に触れていただければ幸いです。”ここに主催者の意思が感じられるか、微妙な気がしますが、とりあえず優れた風景画家としてターナーを捉えているようなのは、ターナーのスタンダードな伝記にしたがって網羅的なのだろうと想像できるだろうからです。 私にとって、ターナーという画家は晩年の茫洋としたような、輪郭の判然としないような、靄のような、ほとんど抽象画のような、数点の風景画を描いたということに尽きます。偏った見方であることは自覚していますが。それが、今回の展示を見てみると、作品は大半は絵葉書のような風景を紹介するような、型にはまった風景画というものでした。それが、晩年の作品を描いた画家と同じ人物とは到底思えないのでした。例えば、最初絵葉書や挿絵のような風景を描いているうちに、徐々に作風が変化してきたという軌跡は見つかりませんでした。では、何か転機があって晩年に突然画風が変わったのか。それとも、生計の糧を得るための絵と自分が描きたい絵を区別して、いうなれば二重生活のようなことをしていたのか、そんなことを想像したくなります。そんなことを頭の片隅に置きつつ、作品を観ていきました。
Ⅰ.初期│BEGINNINGS
次の「ダラム大聖堂の内部、南側廊より東方面を望む」(左上図)という水彩画。これを見ると、後の船もそうなのですが、ターナーという画家が建築とか船とかの人工の構築物の描写が抜群に巧かったということが分かります。先に見た、「ウォリスの岩壁付近のエイヴォン川」でも、樹木や森などの植物の生命感のあるものよりも、背景の岩壁の無機的な物体の方がキチッと巧みに描かれているように見えます。形態がカチッと決まって輪郭が明確な物体、揺らいだり、動いたりなどして形態が変化しないもの。柔らかさとか微妙さ陰影のようなグラデーションによるのではなくて、どちらかというと白黒のハッキリとした物体。これに太陽の光線が差し込むと、物体自体が固く表面に素材上の変化がないために、光線の反射を法則的に考えて、光線だけに留意して描くことができる。陽光の差し込む効果だけを考えて、つまりは光を抽象化させることができるわけです。ところが、人物では、皮膚の表面が微妙に変化していて、その変化の不規則さが生命感を醸し出すことになるのですが、ターナーは多分、それを表現するセンスに欠けていて、それを自覚していたのではないか、と私には思えます。むしろ、この作品のようなゴシック様式の複雑に建物の構造であっても、構成するパーツは単純なので、描くときは単純なパーツの組み立てとしてパターン化させることができます。だから、ターナーの風景画は構造とかパースペクティブを表現する志向が高くなっていきます。その反面、細部にこだわるような超細密のような方向性はありません。それは、水彩画という初期のターナーが盛んに描いたものの影響もあるかもしれません。
Ⅲ.戦時下の牧歌的風景│TUNER’S PASTORALVISION IN A TIME OF WAR
ここでいう戦時下とはナポレオン戦争のことで、現実の世界が動揺しているのに対して、泰平、静穏な日々の営みを彷彿させる牧歌的な景観をターナーは描くようになったと言います。前章の「崇高」さを求めて大自然の厳しい姿を描いていたのと、180度方向転換したのでしょうか。美術史の教科書をみれば、ターナーと同時代のコンスタブルはバルビゾン派の先駆けとなるような牧歌的な田園風景を穏やかに描き、これに対してターナーはロマンチックな激しい風景を描いたとなっていましたが、これは、コンスタブルへの歩み寄りということなのでしょうか。このことは、後で触れたいと思います。
そして、もしかしたら、これは後から思えばという発想の見方ですが、このような言葉による、視覚から出て来たのではない、気分のようなものから作品をつくっていこうとすることが、後年の靄のような作品に遥かつながっていくのではないか。そして、光と陰の移ろいや揺れる水面を描こうとした書法が突き詰められていって茫洋とした靄のような光景を描く筆遣いに発展して行ったのではないか、と想像してもおかしくはないと思います。
Ⅳ.イタリア│ITALY
ナポレオン戦争が終わり、イギリスにとって平和が戻った1819年、ターナーは43歳になって、初めてイタリアを訪問したそうです。当時のイタリアは、芸術・文化の先進地域であり、古代からの豊富な文化遺産に溢れ、グランドツアーの憧れの地でもあったでしょう。そこで、ターナーは多くの先人の遺産に触れたり、南欧の陽光を目にしたのかもしれません。また、画家の商売ということを考えればイタリアの名所旧跡を描いて帰国後に売ることは、目論んでいたとのではないか、個人的には、そうであったとしたら、理解しやすい人ではあると思います。
「ヴァティカンから望むローマ、ラ・フォルナリーナを伴って回廊装飾のための絵を準備するラファエロ」(左図)は1.7×3.3mの大作の油絵です。手前のヴァティカンの回廊の有り様を前景として、下に広がるサン・ピエトロ広場を見下ろすような中景になり、遥かにローマの街並みからアペニン山脈を遠景として見晴らすという三段階の平面を重ね合せたような構造で、細長の大画面を見飽きさせない工夫が為されているように見えます。前景の回廊は、まるで凸レンズで見るような真ん中がへこんで周囲の回廊に囲まれている様が見て取れるようになっていて、回廊に施された文様の装飾が見えやすいように、回廊の天井に描かれた壁画まで細かく描写されています。それは、そのさらに手前に赤い模様の入った布で覆われたテーブルを配し、あたかもその絵を観る者の目前にテーブルがあるかのようにテーブルを手前を省略して向こう側、つまりは絵の側の半分だけを描き、描かない半分は観る者の側にあると言わんばかりに、観る者が臨場感を以って絵に入り込みやすくする工夫が為されています。その点に立って目の届く回廊を見渡す、見えてくる光景が凸レンズで見たようなものになってくるというわけです。そして、回廊の手すり近くには人物を配し、その人物が見下ろすようなかたちでヴァティカン広場の様子が鳥瞰的に描かれています。つまりは、手前の細かな装飾まで観る者に臨場感を持たせるように描かれた前景から、今度は、その前景に描かれた人物の視線に乗り換えて、回廊の下に広がる広場を望むという構造です。ここで、中景という異なる平面にスムーズ移るために、視点の移動を人物を配することによって巧みに行っているように見えます。その橋渡しをしているのが、画面左側の建物です。ここが前景と中景の転換点で、これがなければ、前景と中景に断絶が生まれてしまうようになっています。以前に見たようにターナーは建築物とか船舶とか生命の温か味とか柔らかさを持たない、冷たいほど明瞭な輪郭を有したものを描写するのに巧みで、石造建築が密集しているヴァティカンからローマの光景は、田園風景よりも、ターナーには描き易かったのではないか、と思います。しかし、このようなものは、かっちりと描くことができますが、下手をするとそれで終わってしまう。逆に樹木とか川といった自然の曖昧な輪郭は、ある意味描く側がいくらでもスパイスを利かすことができる。前のところでも、ターナーの作品はコンスタブルのような見たままを描写するのではなくて、それに付加価値をつけて、例えば物語を想像させるといった何かつくりものめいたものであるところに特徴があるとおもうわけです。いうなれば、観る者を惹きつけようとする、よく言えばサービス精神のようなものです。それを、この作品では、視点の移動を巧みに用いることで観る者を飽きさせない工夫を施しているといえるのではないか、と思います。そして、実際のところ、ターナーの作品は平面的に見えることが多いのですが、それで書き割りのような立体性を持たせていると思います。さらに、こんな工夫をさせたのは、画面の3分の1を占める、抜けるような青空と、物体の形状をはっきりさせずはいられない燦々と降りそそぐ乾いた陽光です。イングランド重く湿った空気と光は背景に暈しを入れることができますが、この風景では、それができない。はるかに、遠景のアペニン山脈が遠く霞むようなのが、かろうじて暈しが使われているというところでしょうか。全体として、工夫が凝らされた大作ではあるのですが、制作期間が短かったのでしょうか、薄塗りで素早く描かれた感じがします、それが、どこか仕上げが甘いというのか、どこか大作の重厚感に欠けた印象もないではありません。
そして、「チャイルト・ハロルドの巡礼─イタリア」(左図)という作品も今回の目玉のひとつということでしょう。イタリアの風景を描いているのでしょうけれど、全体の感じは、以前にイギリスの風景を描いた「イングランド:リッチモンド・ヒル、プリンス・リージェントの誕生日に」と似通っています。つまりは、この時点で描かれた風景の違いよりも、風景をどう描くか、どう演出するか、ということにターナーの主眼があったことの証になっているのではないか、と思います。ここから、描く対象となる風景そのものがなくなってもいいではないか、と考えることとは紙一重です。 展示は以下のように、細かく章立てられていました。
Ⅴ.英国における新たな平和│BRITAIN;A NEW PEACE
「三つの海景」(左図)は、とにかく完成した作品と言えそうです。そして、何が描かれているのか分らないようなものになっているので、目立つのでしょうが、タイトルの通りに海岸の波がうちつけてくる様子を三つ並べた、ただし中に上下逆になっているのがあるらしい、というもの。発表を前提にしていたかどうか。 ヨーロッパ大陸の旅行の際に描かれた「ハイデルベルク」(右下図)という作品は、風景画というよりも幻想絵画に見える作品になっています。1.3×2mという大作です。その大きな画面で、これまで見てきたとは違うターナーが迫って来るようでした。今回の一連の展示で、私には馴染みとなったV字型の構図に、焦点となる中央には太陽の黄色い光がぼんやりと描かれ、このように太陽が目立つということは、全体に暗く淀んだような基調になっている。画面全体を見回して、明確な輪郭を持ったものは一つも描かれていない。すべてのものが隣との境界がぼんやりとしてしまって、まるで溶け合ってしまっているような薄ぼんやりして、人物すらも背景のなかに融けてしまっているような、実在感のないものになっています。そこに人間の生気は感じられず、現実の世界というよりは、冥界、死者の世界にいるような、幻想の世界に見えます。画家の大陸旅行を基にして描かれているのでしょう
Ⅹ.晩年の作品│THE FINAL YEARS
いよいよ、晩年のモヤモヤの作品です。これまで見てきた作品は、ここでの作品と比べてみれば、たしかによく描かれた風景画とは言えます。でも、いうならば、その程度、別にターナーでなくても、その力量を持った画家なら描くことは出来たかもしれません。私の独断と偏見でいえが、これまで見てきた風景画は、英国でも、日本でも、どこでもいいで 「平和─水葬」(左図)という作品。海景画の体裁をとっています。燃え上がる船のシルエットは、とくに帆柱や帆のところ等はきっちり形がとられていますが、左奥の白く描かれたのは船なのかどうか、また、中央の船が燃えて黒い煙が立ち上っているためか、また、船の影が伸びて そして、そのような試みを様々に繰り返しながら、出来て画面をみていると、今度は視覚的な面白さを発見した。そこで記号の逆転が起こった、とは考えられないでしょうか。悲しさを表わす涙が、いつか逆転して、涙を見せることが悲しんでいることを表現することになり、さらに嘘泣きというものに発展していく。そのプロセスで悲しいという感情はなくてもよくなっていく。ターナーのもやもやは悲しいという中心を虚った涙のようなものとは言えないでしょうか。つまりは、視覚的効果の塊です。
そして、展示の最後にあったのが「湖に沈む夕陽」(右上図)という作品。タイトルをみれば、そんな感じとも思えるかもしれませんが、形らしきものは何もありません。赤系統の色と黄系統の色によるグラデーションと見ることができると思います。これは、例えば、マーク・ロスコの描く雲のような形態がモノトーンでグラデーションを施してあるのを連想させます。ターナーの方は2色使っているので、より派手で明るい感じがします。ロスコの作品が画面に吸い込まれて様な、静けさを湛えているのにたいして、ターナーの作品は動きがあって輝いているように見えます。もっと開かれた感じで、アピールするものが強い感じです。 |