生誕100年 髙山辰雄・奥田元栄
─文展から日展へ─
 

 
 2012年12月20日(木) 山種美術館

都心でセミナーが中途半端な時間で開かれるので、時間調整にちょうどいいと、以前から気になっていた山種美術館を覘いて見た。恵比寿の駅から坂を上がって、自動ドアを開くと、やたら係員が目に付く、美術品よりも建物と社員が前面にある感じがした。入ったロビーは喫茶スペースが大きな面積を占め、展示室は階段を下りて地下へ。大がかりな自動ドアが観音開きで展示室へ、ここでも係員が多い。そのわりに展示室は狭い感じで、コセコセする感じだった。日本画、とくに近現代の日本画の美術館として評判は高いと思っていたけれど、私の個人的印象はちょっと違った。私自身、日本画の展覧会へはあまり行ったことがないので、そういうものへの戸惑いかもしれない。平日というのに参観者は多かった。どちらかと言うと年齢の高い人が多いようだった。それも数人連れでおしゃべりしながら見ているようなので、静寂という雰囲気ではなかった。

肝心の展示について、展覧会のタイトルが高山辰雄・奥田元栄 文展から日展へとなっているので、この二人の作品を沢山見せられるものと思っていたら、全体の三分の一程度、19点だった。後は、約30点は美術館のコレクション。何か、コレクションを展示するのに、適当に組み合わせて体裁を整えたという感じがしないではない。そもそも、この二人を並べて美術展のタイトルにする必然性はどこにあるのか、未だに分らない。ひとつ思いつくのは、一人では展示点数が足りないので、二人にした。二人とも生誕百年だから、それだけで並べたという感じ。いままで、見てきた美術展でカタログも作っていないというのは初めてだった。驚いた。

とはいっても、二人の画家の作品は短い時間だったけれど、それなりに楽しめたので、それぞれ簡単な感想を少しばかり書いて行きたいと思います。 

 

■髙山辰雄「坐す人」     

 “「命あるものの、何をしたいのかを、絵の上に探している」と語り、人間の内面的実像を追い、深い画境を切り開いた”とチラシではコメントされています。展示されている作品は60歳以降の作品が9点。少し調べて見るとゴーギャンへの傾倒が強い時期があったりして、画風が変遷していた人のようですが、ここに展示されているのは、そういう苦労を通過して画風が固まった以降の作品のようでした。ここで展示されている作品には引用したチラシの文句も、それなりに言えてるものかもしれません。日本絵具の、光沢を抑えた特徴を生かし、無彩色の系統の色遣いが、一見モノクロームで禁欲的な印象を受けます。光沢を抑えた画面がまるで光を吸収しっ放しのようなイメージで見る人の視線を吸い寄せる感じがします。例えば、一見禁欲的な色遣いで、チラシの言うように“人間の内面的実像を追い”かけたということをイメージしやすいのが『坐す人』という作品もそうだと思います。花鳥画とか美人画とかいうような一般的な日本画のイメージとは違って、水墨画のような突き放した静謐さとも違う、修行僧が苦行している大きな画面で間近にとらえたアングルは、何かありそうな、訴えかける題材と言えると思います。「苦行荘のような表情で座して瞑想する人物は、周辺の岩肌に溶け込むように描かれ、静寂さを際立たせている。背後には一筋の滝が描かれ、唯一画面に清涼感と動きを与えている」と言うコメントを見つけましたが、まさに精神性とか内面性という言葉が好きな人は、そういうように見るのだろうと思います。苦行している修行僧ということで、あばら骨が浮いて見えるほど瘠せて、こころもち顔も縦長で通った鼻筋が目立ち、落ち窪んだ眼の奥に光っている印象を受けます。瘠せて縦長の人物は、そこまで極端ではありませんがジャコメッティの人物彫刻像のように贅肉を削ぎ落とした実存の真実を露わにした姿を連想するかもしれません。細長い腕の先の大きな掌が、そういうイメージを助長させるかのようです。全体をグレーの色調で統一し、岩肌と土気色の修行僧の肌が同系統の色遣いにより、まるで人物が背景に融け込んでしまうようです。それは厳しい修行で彼は我欲を捨て無の境地に近づいたのか、いずれにせよ人物全体は無機的に、まるで存在そのものになっているかのように描かれています。そのなかで、大きい両手だけがやけにはっきり描かれ目に付きます。その手は何かを握り締めているようで、それは捨てようとしても捨てきれない人間の業のようなものなのか。修行僧の表情が無表情に何も語ってくれないのが、観る者の解釈を煽るようです。高山はその後に描いた作品(少なくとも、今回の展覧会で展示された作品)では、このような人物の造形をベースに発展されているように見えます。

画家はどこまで自覚して意図的に描いたかは分れませんが、このような作品にある種の傾向を持った人を引きつけるトロがあると思います。最初に解説に書かれているようなことを追い求めているような人々です。いったい、人間の内命的実像っていのは果たして存在するのか、存在するとして明確な形象をもっているのか分かりません。絵と言うものに、個人がこのような形にならないものを読み込むことを求める、ということは近代以降の最近の傾向ではないかと思います。仮に、祭事に使われた絵画が何ものかを象徴させられることはあったにせよ、その場合は明確に意図されたものであったと思います。しかし、近代以降の孤独な近代的個人というものが生まれ、宗教とは切り離された世俗化が進んだ。その動きをさらに進めたのがデカルト以降の近代哲学ではないかと思います。なにもすべての人がデカルトを勉強したというのではなく、そこに底流する考え方が人々に浸透していったということです。例えば身体と精神を分けて考える二元論です。そこで人間の精神と言うものが個人のレベルで独立して考えられることが一般化したと思われます。神という絶対的な、そういうことも考えてくれていた存在が、もはや現実的でないとなったときに、神に代わって自分で考えなければならない。しかし、現実に手に取って確かめることができないことを考えようとすると、自分の頭の中で考えを弄ぶ傾向が進み、主観的で考え自体がどんどん先走っていく。そのようなものに形を与えようとしたのが理想というものでしょうか。語りえない、見えないものにできるだけ形を与え、現実の身体をそれに目指させようとする、あこがれ、という行為です。そこから、絵画は現実を映したり、現実をベースに空間を構成したりするものから、現実にない形なきものを表わすことを目指すことになったと思います。その流れで、かたちのないものを表わすのだから、形のない絵画だっていいわけです。抽象画もそういう視点で捉えることも出来ると思います。そういう抽象画が現われると、逆の動きとして敢えて形を与えようとする動き、具象という絵画が意識的につくられるようになったと考えます。この高山の絵は、本人が意識しているかいないか分かりませんが、観る方はそういう流れの中で見ていると思います。もともと、形のないものを形のある絵画として描こうとするところにもともと無理があるわけです。そのものズバリで、これが人生の真実という形あるモノがないのですから。そこで考えられるのは、象徴的な表現です。古代のアニミズムが神とか精霊といった見えないものを別のもので象徴させたように、シンボリックな表現をすることです。もう一つは、効果を最大限に活用する表現です。例えば寒暖は触覚で感じるもので、視覚では感じることができないものですが、象徴的な表現では雪を降らせることで寒さを想像させ、効果を活かした表現では寒色と言われる色遣いで寒い雰囲気を感じさせるというものです。

さて、この作品を見てみると、高山は、まずシンボルとして修行僧を題材として取り上げました。宗教者の一種ですが、一般的には真理を追い求めるとか、最低限、現実の生活から離れて世俗とは違う何かを追い求めるというように見られています。とくに、苦行というように修業は厳しいものと考えられているので、極限の状況に直面した時に、人間の上っ面の虚飾がはがれ剥き出しの人格が露呈するというイメージがあります。その剥き出しの人格こそが人間の内面的真実の一端。と言うストーリー。そこまで想像を働かせるかは分かりませんが、ある程度そういうイメージを持っていると思います。そういうシンボルとして修行僧を題材にして、そういうイメージを煽るような効果を巧みに施している。例えば、肌の色を背景の岸壁と同系統で、まるで融け込んでいるように同化させてしまっている。これは、自然から遊離した欲望や煩悩に満ちた社会的人間としての色を落とし、自然の一部であった本来的な人間にもどるというシンボルとも取れます。そこで現われてくる方向性が、「削る」という方向です。このような追及の場合、往々にして俗世間の垢を落とすとか、煩悩を振り払うという表現にあるように、現実の生活は余計な要素がどんどん追加されて身動きが取れなくなってしまっている。だから本来の人間の真実にアプローチするためには、後で追加された余計なものを「削る」ということが志向されます。だから、高山のこの作品では、「削る」という要素がそこここに効果的に使われています。例えば修行僧は肋骨が浮き出るほど瘠せています。また、顔つきもふくよかではなく面長に描かれ、縦長が基本に画面が構成されていると言えます。

こういう意味で、私は高山辰雄という画家は、効果ということに巧みで、その追求に努めた画家というようなイメージを強く持ちました。 

 

■髙山辰雄「緑の影」「春を聴く」「中秋」  

髙山辰雄の効果の画家ということを申しました。このような言い分には異論のある方も多いのではないかと思います。これはあくまで、私の個人的な感じ方と弁解をするのもみっともないことですが。このようにことを述べたことがよく現われているように見えるのが、彼の人物以外の風景や花鳥を題材にした作品です。例えば、『緑の影』(右図)という作品です。紫陽花が咲くさまを描いた作品です。ですが、『緑の影』というタイトルの通り全体が緑色で覆われていて、紫陽花の花だけが青みが入っている。しかも、背景の草や花は土植えの茎や幹があるのに、紫陽花だけは花瓶に挿してある。窓際に置いてあるのかもしれませんが、どうも変な感じです。しかも、言ってみれば自然の風景をバックに細長い花瓶(縦の線)に挿してある紫陽花は横に広がる横の線で、垂直と水平の広がりの交錯した形状は、の中で違和感ありありです。そして、全体が緑色の薄ら寒いようなグラデーションというのも何か変ですが、似た系統のさらに寒い青みかがった紫陽花の花が浮き上がっている。なんか異様な世界のように見えます。この絵を見る人は、この異様さに何かあるのではないか、とくに髙山辰雄という画家にある先入観を持った人は、何か裏読みをしたくなるような欲求を煽るのではないでしょうか。そういうこの作品、色彩でこのような効果を出すためには、同系統の色を目立たないように、しかし、違いがよく分かるようにというかなり繊細な配慮を求められるはずです。また、自然の草木の風景の中に花瓶に挿した紫陽花という人工的な形相を微妙な違和感を感じさせつつ、それが微妙に納まるように配置しなくてはなりません。また、普通なら紫陽花の花は5月から6月という暖かな時期に咲くものですから、画面全体にこのような寒い感じというのはちょっとおかしい。そこでの紫陽花の青を生かすという色遣いで、このような色調で、らしく作品をつくるのにも、かなりの配慮をしていると思います。そういう点で、この作品を見た時、何点もの画家の配慮(作為)を強く感じました。

『春を聴く』(左図)という作品では、二羽の鳩が薄い灰緑色の草原にうずくまっています。遠景には木々がシルエットになって、わずかな光がみえる。その間をつなぐのが、漸くそれと分かるほどの細くくねった小道。それを点描で描いています。点描の効果もあって全体として輪郭の線が隠れ曖昧になった中で、白かクリーム系統のグラデーションが全体にもやっとした印象を与えます。うずくまる鳩の姿勢とあいまって、何かが湧いてくるような印象を観る者に与えると言えるのではないでしょうか。ここでも、点描という非常に手間のかかる手法や白系との微妙な色の使い分けが十分な配慮のもとに為されているということを強く感じました。

『中秋』(右図)という作品では、金を大胆に使いながらも、不思議と素朴な雰囲気をつくっています。画面中央にぽっかりと浮かぶ大きな満月。全体を覆う金色は、その月明かりを意味しているのでしょうか。小さな川に一本の高木、そして人気のない一軒家。それらが全て音を立てないで静かに佇んでいます。そしてタッチはまるで点描画のように精緻です。また、『春を聴く』にもありましたが、前景と遠景をつなぐ道が何か、髙山をあるイメージで見る人にとっては、どこかに向かって分け入っていくような印象を与えるかもしれません。

これらの作品から、共通して感じられるのは、色彩に対する微妙な効果を醸し出そうする、繊細でしかしかなり根気強い努力の後です。どれもが基調となる色をひとつに絞り、同系統の色を配し、あるいはグラデーションを効果的に用いている。安易に対立関係の色を使って対立関係を利用することはせずに、グラデーションの効果を積み重ねて、じわりじわりと盛り上がるような効果を狙って、しかも一定の成果を上げている。このような点に気づく人は気づくけれど、そうでない人には何となく、というのでしょうか。そこが何かあるのかもしれないという、言いたいことを全部言わないで、一部だけ仄めかすと、もっと聞きたくなるという感じというのでしょうか。一種の飢餓感を見る人に煽り、画面から読み取らせようという効果が周到に計算されている、というように見えました。

かなり突飛な比較ですが、ドイツロマン派の画家、CDフリードリッヒ(左図)は風景に人間の内面を投影したような風景画を描いた人ですが、そのフリードリッヒの作品と比べて見ると、髙山の特徴が目立つと思います。出来上がった作品は全く違いますが、志向は相通じるところがあると思います。フリードリッヒの風景画は画家が選択する題材が、既に画家の意図を反映した特徴的なもので、廃墟だったり、峩〃とした山脈だったり、暗く深い森だったり、氷山の海だったりと、その題材が既にある何ものかを暗示しています。それに大胆な構図で強い印象を与えますが、手法とか技法の点では、特徴的なことは行っていません。それが、見る者にとって絵の間口を広げることになったのでしょう。これに対して、髙山の場合は、取り上げる題材は日本画という制約もあるのでしょうか一般的なものと言えます。しかし、フリードリッヒの場合とは逆に、手法とか色遣いとか描き方の点で特徴的といえます。それが、髙山を効果の画家と私が考えている所以です。

これ以外に、『聖家族』の連作が展示されていますが、これは別に綴りたいと思います。これで、展示されていた全部の作品を取り上げてしまうことになります。それだけ、私が髙山の作品を気に入っているということでしょう。 

 

■髙山辰雄「聖家族」         

髙山辰雄の聖家族の連作から5点が展示されています。これが今回の美術展の目玉ひとつでしょう。今回の美術展は、この5点のみが他所から借り受けた作品で、その他は自前の所蔵品からの展示です。悪意にとれば使い回しです。そういう意味で、敢えて借りてきたという作品ですから、美術館としても今回の展示に無くてはならないと思ったのでしょう。展示室に入るとすぐ目の前に展示されていました。この連作は、製作年代から言うと、これまでに感想を述べてきた作品から少なくとも7年以上後の作品で、それだけ晩年に近いというものでしょう。

一見モノクロのようですが、なとか絵の具を焼いたものだそうで、しかも画面におおきな凹凸があり、絵の具を塗るというより、物質化した絵の具を置くといった感じでしょうか。私の周囲にいた二人連れが、これは絶対に筆で塗ったものではないと議論していました。この効果としては、もともと流麗という感じの絵ではなく『坐す人』に典型的にゴツゴツした印象の強い作品が実際にもゴツゴツしてしまったということで、見の目の触感というのが全く他の作品と違う印象になったということです。そして、モノクロームに見える色遣いで、例によってグラデーションの使い分けを駆使していますが、画面に凹凸ができたことで、陰が生まれ、それがグラデーション使いと相まって複雑で微妙な段階を生じさせています。そして、少し茶系の色が出てきているようなところが彩となっています。これも、後日浮き上がってくるように画家が工夫したと展示の説明にあれましたが、そういう点も、この画家が効果ということに、かなり注意を払っていることの現れではないかと思います。

さて、聖家族という連作ですが、今までの作品を見た印象では、この画家が果たして関係を描き分けることができるのかということがありました。これまで感想を述べてきた作品は、たいていが単独のモチーフで、しかも背景に融合させてひとつの雰囲気としてしまうような構成をしていました。それは、人間の内面の真実を描くというイメージでいえば、往々にして、この場合の人間は個人、もっとも手近な私という個人を題材にするのが一番手っ取り早い。見る方も分りやすいわけです。

しかし、あえて家族と銘打って作品を制作するということであれば、家族とは一般的には一人の人間では成立しないので、複数の人間、つまり複数のモチーフを描き分け、それぞれの関係を表わす必要があります。全く同じコピーのような人が何人集まっても家族ならないし、違う人間をただ描いても、それらの異なる人間がひとつのまとまりとなっていないと家族とならないわけですから。複数の人間の内面の真実を描き分けるというのは、単独の場合に比べて、どれほど困難か。

そんなことを考えて、作品を見てみると、5点ありましたが、そのどれも、ポーズを見るとみんなくっ付いていることに気が付きました。つまり、一体化しているのです。ということで、他の作品は見ていないので軽々には言えませんが、これらの作品を見る限り、聖家族というのは一体化して、これ自体で一つということのようです。だから、描かれている人々は同じ顔をしているのでしょう。だから、髙山にとって、家族の人々を描き分けるとか、そう人々が相互に様々な場面で色々に関係を変化させていく場面を様々に描いて行くことで現われてくる真実を見せるというのでないようです。どちらかというと、家族が一体となって姿を様々な効果をつかって変化を持たせて描く、様々な角度から作品にしていくという連作のように見えました。

おそらく、私の個人的な想像ですが、真実はひとつというのでしょうか。ある唯一絶対的なものを追求するというイメージに近いものではないかと思います。おそらく、見る側もそれを期待しているのではなかったか。画家はそのことを敏感に感じ取っていたように思います。ニーズに応えなければ作品を供給しても受け入れられませんから。需要と供給です。

そういう意味で、髙山の姿勢は一貫していると思います。そして、これまで見てきた作品よりも、技法の熟練は進み、さらに探究心怠りなく、新たな技法も取り入れ、新たな効果も加味しています。作品の完成度を問うといった性質の作品ではありませんが、可能性をさらに進めた作品であると思います。

ただし、『坐す人』の直接性に比べて、何かが間に挟まって間接的になったような気がします。牙が鈍くなったとも印象です。しかし、これはこれで、他の日本画家の作品とは明らかに違うし、画家の差別化という点では、分かり易いし、特徴は鮮明だし、親しみ易さもあるし、いい作品ではないかと思います。

 
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