塩谷亮 刻を描くリアリズム
 

 

2026年2月6日(金) 佐藤美術館

佐藤美術館へは総武線・中央線各駅停車の千駄ヶ谷駅で降りて、信濃町の方向に進む。坂を下りるようにして、線路をくぐって、道なりに進むと、二つ目の信号で信濃町方向に進むように右折すると、すぐ、道の右側のビルに佐藤美術館の看板が見つかります。入口は小さくてわかりにくいのですが、エレベーターで2階に上がり、入場受付をします。2階が受付とミュージアムショップになっています。なお、ロッカーは設置されていないので、大きな荷物があるような場合には、受付で預かってもらいます。展示室は3階から5階で、エレベーターで移動します。エレベーター待ちが面倒な人は、エレベーター右手の鉄のドアを開けると階段(非常階段みたい)があるので、そこで上下します。各階の展示室はビルの一室です。部屋の真ん中にソファーが置いてあって、アンビエント・ミュージックがBGMで流れていて居間に飾られている絵画を見ているような雰囲気です。

塩谷亮という画家のことは写真みたいなスーパリアリズムの画家ということ以外は知らないので、その紹介を兼ねて主催者のあいさつを引用します。

“このたび佐藤美術館では、現代写実絵画の第一線で活躍する画家・塩谷亮(1975年生)による初の大規模回顧展を開催いたします。

塩谷は11歳の時に松本竣介の《Y市の橋》に心を打たれ美術に開眼、西洋古典絵画の画集と出会った中学時代を経て、武蔵野美術大学油絵学科に現役で合格。古典技法の習得に情熱を注ぎ、現代美術志向の波にも流されることなく、自らの信じる道を貫きました。

卒業と同時に二紀展へ初入選し、2002年には27歳で初個展を開催。その透徹した写実力は瞬く間に注目を集め、やがて訪れる写実絵画の再評価の潮流とともに、写実画壇の中心的存在となっていきます。

塩谷の目指すリアリズムは、単なる「写し取り」ではありません。対象を深く見つめ、古典技法を土台に、気配や空気感といった目に見えないものを描き出すことに本質があります。人物や風景、静物に至るまで、すべてのモティーフに丁寧に向き合い、その背後にある自然観をキャンバスに結晶させていく――その姿勢は、万物に魂が宿るとする「アニミズム」の精神とも響き合っています。

塩谷は15年前に念願の田舎へ転居し、海・山・川・田畑に囲まれた環境の中で、日々の暮らしや散歩を通して自然や動物の生命感に圧倒され、人間もまた自然の一部であることを実感しながら制作しています。制作の合間、アトリエに程近い畑の家庭菜園で土いじりをし、時には収穫したての自然の恵みを絵の中に登場させています。

2009年には文化庁在外研修員として滞在したイタリア・フィレンツェでは、ボッティチェリやレオナルドの模写を通して西洋古典技法の根源に触れ、日本人としての感性をより明確に見つめ直しました。

写実画家の多くが17世紀オランダ〜近代フランスの技法を用いる中で、塩谷は15〜16世紀イタリア・ルネサンス期の技法に基づく制作を行っています。過渡的な油彩技法ながら、支持体となる板に乾性油による層を重ねることで、独特の奥行きや透明感、塩谷ならではの気品漂う芳しき色彩と柔らかなアウラに包まれた空間が生み出されるのです。

今回の展示では5歳で描いた絵から高校・大学時代の習作、デビュー以降の代表作、最新作まで約50点を一堂に展観します。さらにアトリエの再現や公開制作も行うことで、写実絵画の創作の現場に迫ります。

写実とは何か、いのちある存在を描くとは――30年にわたり一貫して問い続けた画家の軌跡を多面的にご紹介する本展は、デジタル化が進む現代だからこそ、修練を積んだ手わざでしか掴み取ることができない存在の神秘や生命の息づかいを感じるはずです。

塩谷亮の未来に向けての新たなる決意を示す珠玉の絵画世界を、是非この機会にご堪能ください。”

写真のような写実的な絵画は、書店でも画集が平積みにされているなど一定の人気があることなどから、平日の夕方という(私が訪れたのは閉館前の1時間ほど)時間にもかかわらず、館内には人の波が途切れず、広いとは言えない室内で、常に一つの作品の前に数人がいました。上野界隈の美術館とは違い、カップルの姿はなく、一人の客がほとんどで、そのせいかおしゃべりする人はなく、静かでした。きているひとは、スマートフォンで撮影すると、足早に立ち去る人が多く、絵の前で立ち止まる人は少なく、人の流れはスムーズでした。

では、展示されている作品について述べていきたいと思います。

 

まず、3階から見て行きます。

「第1章 刻を描く」というコーナー。“戦争やパンデミックという現代の混乱の中でも、変わらない人間の尊厳と生きる実感を描き続ける。時代を映しながらも、個人の内面に深く寄り添った近年の作品群。”ということでした。

「ウクライナの少女」という作品。髪の毛の一本一本まで緻密に描かれていて、人物の背後の石壁の窪みのひとつひとつまで細密に描き込まれています。筆の後は見つからず、スフマートとは違うのだろう、写真みたいだ。ウクライナの少女という作品タイトルが“戦争やパンデミックという現代の混乱の中でも、変わらない人間の尊厳と生きる実感を描き続ける。時代を映しながらも…”ということなのだろうか。でも、これって作品タイトルを知らなければ、この女性がウクライナの人だということは分からないし、さらに戦争という混乱の時代を映していることまでは気がつかないのではないだろうか。そういう情報を抜きにして、この画面だけから“変わらない人間の尊厳と生きる実感”をどうやって、見る者は感じ取ることが出来るのだろうか。たんに、私が鈍感なだけということかもしれないが。写真みたいで巧みだ、とは思う。

「地の脈動」という作品。静物画ということでしょうか。赤蕪の土のついた株を白地に置いたもので、土の一粒まで描き込まれているかのようです。これも写真のような緻密な描写です。でも、私にはそれ以上でもそれ以下でもない。ここに題名のような「地の脈動」を想像することはできませんでした。精密な赤蕪です。どうも、この人は、画面に過剰な意味づけをしたいようです。そのわりには、画面を構成としようとか、そういうことで画面で語ろうというところはあまりないようです。

Resonance(左側)そしてDaria(右側)という作品が並んでいました。同じモデルさんを描いた作品ですね。写真のように忠実に描かれているので、そういう識別が容易です。これは、人を理想化するとか、画面をつくる中で人という存在とすることはかえって難しいのではないか。この二つの作品は、赤い布が人物のバックにあること、そして、人物が仰臥して、それを上から見下ろすアングルで描いている点が共通しています。展示されている作品では、このアングルの作品が目立ちました。この作家は、モデルを見下ろす、上から目線が好きなんでしょうか。

KANON-15years oldという作品を見ると、髪の毛だけにとどまらず、顔や腕のうぶ毛まで描き込まれています。それゆえ、15歳の少女の肌の柔らかさの感じを表わすことが出来ていると思います。その近視眼的な微細さは凄いと思います。しかし、背景に目を転じると、窓の外の風景は書割のようです。たしかに、形態は正確なのかもしれませんが、類型的に見えてしまい、屋外の感じ、空気感というか、家屋の存在感がない。背景が遠いという感じがしない。この人の描写というのは室内の手の届く範囲内と、屋外とではレベルが異なる。空間の広がりということがないのです。

同じ3階のフロアで、「第2章 気を描く」というコーナーの展示もされていました。“目には見えない「気配」や「空気感」を、いかにして画面に写し取るか。形や色彩を超えた、移りゆく感情と時の流れを描く塩谷特有の抒情性に迫る。”と説明されています。

「奥会津霧景」は風景画ですが、この人の写真のような精密な描写は、風景では書割のようになるようです。私が思い出すのは、ルネ・マグリットの描く騙し絵のような、らしいけれど、わざとらしい風景です。マグリットの場合は、仕掛けをしていると、見ている者に分からせるように、あえてそのゆうに描いているところがありますが、この人は大真面目に描いているように見えます。“目には見えない「気配」や「空気感」”というより、あくまで表層の形で、霧も幻想的というよりは、霧の粒子の一粒一粒が明確に描かれているようで、図鑑とか科学の教科書の図を見ているような印象です。

「花韻」は静物画の一種なのでしょうか。このような近景では、この人の細密な描写は生き生きとしてくる。構図は17世紀スペイン・バロックの静物画、ボデコンに似ているのですが、ボデコンに感じられる神秘性はなく、明確そのもの。それが、この人の味なのでしょう。

フロアを4階に上がります。

「第3章 初期作品」というコーナー。“少年時代から絵画を愛した青年の出発点。オランダ絵画に影響を受けた高校時代から美術大学での形成期まで、画家としての基礎を築いた貴重な作品群”

「静物(17歳)」(右側)を見ると、この人は、最初から写実一辺倒ではなく、画面を想像で創るということもやっていたことが分かりました。ただし、画面で使われていた各パーツの描写は上手に写されたものでした。この方向へは進まず、写実的な方向に進んだわけですね。分かる気がする。

同じフロアで「第4章 揺らぎの中で」というコーナー。“美術大学卒業後、三次元空間の再現に新たな視点から挑む。平面的な構成や、ダブルイメージを用いた作品など、表現の可能性を探求した転換点の作品群。”ということです。

「午後の陽」(左側)は郊外の風景ですが、生い茂る草の葉の一枚一枚を明確に描き込んでいるようですが、それが見る者にはハッキリしすぎて、かえって現実感がなく、またその先の家屋は定規で引かれたような几帳面な直線で描かれているようにみえて、これもまた現実感がない。ここに人影がないのも分かるような気がして、生命感がないのです。精巧に作られたミニチュア模型のような感じです。それは、意図的にとのように描かれたというのではなく、そうなってしまったように見えます。

「朝の情景」(左側)は、「Daria」と同じように仰臥した女性を、上から見下ろすアングルで描いた作品です。並んで展示されていた「晩夏」も同じようなアングルです。しかも、このアングルの作品は、どれも大画面です。何でしょうか。女性を見下ろしたい願望があるのか、と勘繰りたくなります。

「明日」(右側)という作品は、女性が鏡に映った自分を見ているのを描いたという、この人にしては、凝った構成の作品です。ちょっと奇を衒っているようにも見えます。この人の魅力は、微細に写実的に描くことを突き詰めれば、突き詰めるほど、描かれたものが現実感を失っていくところにあると私には思います。つまり、描写を追求するほど、嘘くさくなる。それが魅力だとおもうので、構図で凝ったりすると、その魅力を殺いでしまうと思えるのです。

そして、このフロアでは「第5章 東洋と西洋」のコーナーもありました。“イタリア留学を経て「日本人が描くリアリティとは何か」を深く探求。自然信仰の象徴・那智の滝を描いた代表作を中心に、東西の精神性や様式美が融合した作品群。”

「颯」(左側)と「月華」(右側)は裸婦像です。写実的に忠実に描いてると思うのですが、「月華」の女性は頭部と身体のバランスがチグハグに見えてしまう。この前に見た小出楢重の裸婦像は大胆にデフォルメしていましたが、こちらの方が自然に見えてしまいました。

最後の5階は、「第6章 絵の生まれる場所」というコーナーで、アトリエが再現されていたりしましたが、とくに印象に残ったものはありません。 

この画家は写実絵画ということですが、以前に見たスペイン・リアリズムの画家アントニオ・ロペスのような風景画を見ていて、実際に、その風景の前に立っているような錯覚に陥る、ということはありませんでした。あくまでも、上手な写実的絵画なのです。例えば、「地の脈動」という作品で、土が一粒一粒描かれていますが、その土は殺菌消毒された土の外形で、実際の細菌やバクテリアが蠢いているような土ではないのです。要するにキレイゴトで、現実の生々しさとか存在感が稀薄なのでした。私には、アントニオ・ロペスの作品はすごいと感嘆したのですが、この画家にはそういうことはありませんでした。

 
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