ルーベンス 栄光のアントワープの工房と原点のイタリア展 |
2013年3月11日 Bunkamuraザ・ミュージアム
週明け早々、昼前から都心に出て午後1番から機関投資家を3社とのミーティングを次々にこなして、神経が擦り減り疲労困憊の状態。月曜のしかも夜間に開館しているので、近くまで来たからと、思い切って行ってみた。地下鉄でむっかた渋谷は、駅周辺の都市再開発が進んでいるとはいっても、猥雑で汚ない街の雰囲気は変わらない。辺境のエネルギーと流入する若年者たちによって活気があるのは、一時の新宿を彷彿とさせるのは確かだと思う。でも、感覚的に肌に合わないのか正直なところ、偏見とん先入観と言われればそれまでだが、山手線の新宿より南の繁華街である渋谷、原宿、恵比寿、どこも何となく敬遠したくなる。そんな渋谷の街を足早に歩いて道玄坂を上り東急百貨店のあたりで少し落ち着き、BUNKAMURAのエスカレーターを下る。実は、BUNKAMURAのスノッブさもあまり好きでなく、ここの映画館やオーチャードホールというコンサートホールも肌に合わない。オーチャードホールは響きがデッドなわりに音の分離が悪く、アンサンブルにもソロにも中途半端な響きが時にフラストレーションを起こさせる。実は、ザ・ミュージアムも…、と愚痴が際限もなく出てきそうなので、今日は疲れているのだ。 今回はルーベンスの回顧展です。かなり、私的には驚きで、このところ、グレコ、ラファエロと泰西名画のブランドの展覧会を見て回るなどと、好みと必ずしも一致しない美術展に行ったりするなど、そのたびに、いつからこんなミーハーになったのかと自問を繰り返しながら、今度はルーベンスです。「フランダースの犬」のあの聖母像のルーベンスです。豪華絢爛な北方バロックの、壮大とか豊満とかそういう形容が似合う、大寺院やお城の大広間に飾られるゴージャスな画家です。どちらかというと敬遠していたタイプです。またまた、愚痴に近いものを書いてしまいました。どうして、そんなものまで見に来てしまったのか。それは、考えるに二つあって、一つには、このように感想を文章にしてウェブでアップしているうちに積極的に美術展に足を向けるようになってきたこと、そして第二には、このところグレコやラファエロのような今までなら絶対に行かないような美術展に行っても発見があって、いままで知りえなかったこの画家たちへの糸口のようなものが掴めた気がしたこと、そんなことから、言って見てみれば何かあるかもしれないと、肩の力を抜いて展示を見ることが出来るようになったことからだと思います。 私の個人的な先入観なのですが、フロマンタン『オランダ・ドイツ絵画紀行』やそれを敷衍したプルースト『失われた時を求めて』でルーベンスと隣国のレンブラントを比較するように扱っていて、レンブラントに対してはこき下ろすような低い評価をしているのと対照的にルーベンスを称賛しているのを読んで、多少の反発を覚えていたということもあるでしょう。何となくイメージとしてレンブラントは「夜警」のイメージから暗い画面の画家でこれに比べてルーベンスの画面は脳天気なほど明るいとか、作品そのものを見る前に様々な言葉の情報によって先入観を持っていたのは確かです。 このところ、続けざまにエル・グレコ、ラファエロ、そしてルーベンスの美術展を見ていて、あらためて肖像画の面白さに気付かされました。肖像画などというのは、貴族や金持ちの注文で多額の金をせしめて注文主に似せて、こころもち実物より立派に書いてあげて、構図や書き方は似たり寄ったりだから、今でいえば葬式の遺影や履歴書の写真のように決まったパターンに当てはめて一丁上がりっと、コストをかけずに効率的に量産するようなものだと思っていました。それゆえ、後世における写真の勃興によって廃れていってしまった類のものと。しかし、この3人の描いた肖像画を見ていると、それだけにとどまらない、そんなものを遥かに超えた作品としての面白さを見つけました。それは、彼らは画家であると同時に工房の主催者でもあったわけで、教会や王宮に飾られている彼らのモニュメンタルな大作は彼一人で描いたのではなく、工房の職人のような画家達との共同作業により、彼らの指揮のもとに多くの人間を参加させて完成されたものです。だから、現代のアーチストのような見方とは違って、まんが家が多数のアシスタントを使ったプロダクションのシステムで作品を作っていくのと同じようなものです。だから、ルーベンスやラファエロ自身が自ら筆を執って描いた部分はすくなく、かれらは工房の職人たちの指揮監督にあたっていたというのが実態ではないかと思います。だから、何か工夫したいとか、新しいことに挑戦したりとか試行錯誤や模索を繰り返しながら作品を制作していくのは、このようなシステムでは難しくなります。完成した作品は不特定多数の人が見ることになり、多くの人が受け入れられるようなことが求められます。これと対照的に、肖像画の場合には、規模が小さく画家が独りで描くのに大作のような手間を要しません。また、注文主は出来上がった作品を他人にも見せるでしょうが、注文主本人が納得すればいいので、広く受け入れられることは大作ほど求められません。そうなった場合に、画家たちはこのような特徴を利用したのではないか。つまり、ルーベンスにしてもグレコにしてもラファエロにしても大家となってからも他人の模写はするし、大作でもないのに馬鹿丁寧に細部を微細に描き込んだり、大作の違ったタッチで描いたりと、効率的とは程遠い仕事しているのです。多分、肖像画の全部にそんなことをしているわけではないでしょうが。ということは、画家たちは新しい技法とか新機軸とか、今までとは違った試みというような挑戦的な試みを肖像画でやっていたのでしないかと思えたのでした。それだけ、この3者の展覧会で展示されていた肖像画は力が入っていたし、展覧会の目玉として喧伝されていた大作よりも興味深かった。また、従来より抱いていた画家のイメージを覆すような創意や斬新さが感じられたのでした。それは、ルーベンスの肖像画でも十分に当てはまるものでした。そんなことも含めて、私がルーベンスを、あらためてどのような画家と受け取ったかは、以下で個々の作品に即して書いて行きたいと思います。 この美術展は次のような構成で展示されていました。 1.イタリア美術からの着想 2.ルーベンスとアントワープの工房 3.専門画家たちとの共同制作 4.工房の画家たち 5.ルーベンスと版画制作 といっても、前半の展示が面白く、閉館時間の近くなって後半の展示にはそれほど興味を覚えていません。具体的な作品を取り上げて感想を書いて行きますが、前半中心で、後半は素通りに近くなります。
1.イタリア美術からの着想
ルーベンスは若い画家として独立して間もなくイタリアに向かい、その地で8年間イタリア美術を学び、本国に帰ってからも、折あるたびにイタリアやスペインでイタリア美術に触れ模写を何点も残したといいます。ここでは、そういう作品が展示されていました。展示点数は多くありませんが、脳天気に明るい、ゴージャスとかいささか空疎に響かないこともないルーベンスにもっていたイメージとは少し違う作品がありました。 まず、『毛皮をまとった婦人像』(左上図)を見てみたいと思います。これは、ルーベンスが50歳を過ぎた成熟期に訪れたスペインで見たティツィアーノの『毛皮の少女』(右図)をもとに制作した(模写した)作品だそうです。たしかに、そっくりで上手いです。しかし、二つの作品の微妙な違いがルーベンスの特徴を浮き上がらせています。まず目に付くのは、ルーベンスの作品の画面のサイズが相対的に横広ということです。これによって画面全体に余裕が生まれています。ティツィアーノの作品は単独で見ると感じることはないのですが、ルーベンスのと比べると少し窮屈な印象を受けます。このことはルーベンスという画家の透徹した眼ということを感じざるを得ません。そして、画面に余裕ができたぶん婦人の肉付きをよくしてふっくらした感じにして、目を心もち大き目に描いて。大きな目がパッチリと開かれていると顔の表情が明るくなり、顔にスポットライトがあったように印象が変わります。二つの画像を見比べてみるとルーベンスの作品が明らかに、ゆったりしていて、明るい、違いがはっきりと分かると思います。これが、ルーベンスの作品が脳天気なほど明るく、ゆったりした印象を生み出すひとつの要因かもしれないと思います。そして、このようなルーベンスの作品の婦人は生き生きとして実在の人間としての存在感、具体的に誰と名指しができるような実在の人間のような生気が溢れています。これに対して、ティツィアーノの作品の少女は影が薄いのです。暗い背景に埋もれているような印象で、ルーベンスの婦人に比べると、模写したものとされたものですか似ているはずなんですが、こちらは整った顔立ちになっています。その分冷たい感じがして、生気があまり感じられないせいもあって、実際に息づいている人間という感じは、ルーベンスに比べると薄くなっています。もっとも、ルーベンスの画期漲る作品と比べるから、そう見えるのであって、これ一つだけを取り出して見れば、そんなことは思いもよらず、自然に見ることができでしょう。例えば、眉の付け根の描き方を比べて見て下さい。ティツィアーノの場合はスゥッと眉が半円のスッキリとしたラインとなって描かれているのに対して、ルーベンスは付け根の始点を強調し、そして眉の眉毛が生えていることをキチンと毛根が見えるかのように描いています。これは、ティツィアーノが人間の顔の形態に目が行っているのに対して、ルーベンスは実在の生きた人間の生々しいリアルさに目が行っているという違いによるものでしょう。これは、ティツィアーノがマニエリスムの影響から抜け切れず理念的というのか理想の女性像のようなものとしてこの少女を描いているように気がします。ティツィアーノの少女の表情をみると湛えている微笑みは人間のというよりはニンフや天使のような印象です。そうして比べて見ると、ルーベンスという画家がイタリア美術の様式や技法に習熟していたが、ベースはリアリズムの人であることが明らかです。しかし、私の好みは影薄いティツィアーノ描く少女の方です。だからルーベンスは苦手…とはいっても、そういう苦手を自覚している人をも惹き付けるものを持っているのです。 『聖ドミティッラ』(左図)。これは祭壇画の準備のために描かれた下絵のようなものです。最終的な祭壇画ではここでの描かれ方と異なる描かれ方をしています。白いシャツを着て、腹部に毛皮を掛け、編み上げた頭髪を宝石の帯とリボンで飾り付けた女性は、右手に殉教者のアトリビュート(持物)である棕櫚の葉を持った姿で描かれ、視線を下方に向けている。あたかも柔らかい肌の感触が見て取れるかのような現実感を備えた生身の女性の描写が達成されている。その一方で、彼女の顔は厳格な横顔として表わされている。つまり、その顔の表現は、メダルやカメオに表わされた頭部を想起させるような威厳をも有しているのであり、古代美術の造形を強く意識しながら、生身のモデルに基づいて制作された作品ということができる。首飾りと棕櫚の葉が、直線を形成するように配されている点からも強い構成意識が見て取れる。とカタログで説明されているのは、その通りで、イタリア留学中にうけた注文でルーベンスはこのような下絵でそれまで学習したことを様々に試みていたのだろうと思います。顔の描き方をみるとタッチはけっこう粗目であるにもかかわらず、棕櫚の葉を持つ手の指先の丁寧な描き方や、カタログでは古代のカメオのような厳格なプロフィールでありながら、首の線の肉の弛みが肉感的に見えるなど、形式的な構成とリアルな視線の交錯がはっきりと表われていて、ルーベンスという画家が複数の方向性を持っていて、それらが拮抗してなかなかまとまらず、作品の中に対立的な要素が入っているのが大変興味深いです。ルーベンスの作品から放出されるあのエネルギーの源のひとつに、このような葛藤が原因しているのではないか、と少し考えさせられました。 そして、イタリア美術の学習の集大成という位置づけで、ここに展示されていたと思われるのが『ロムルスとレムスの発見』(右下図)という比較的規模の大きな作品です。展覧会の入場チケットやチラシにもこの作品がフィーチャーされていましたから、おそらくこの作品が目玉ということになるのでしょう。ローマの建国者であるロムルスとレムスの伝説を題材にしたものですが、構成が凝っていて正面に描かれた樹木によって左右に画面を分けて樹の根元に横たわる狼によって区切られる下の部分をまた区切ると、都合3つの部分に画面を分割しています。向かって左側はティベレ川の精で彼が寄りかかっている甕から流れ出ているのがローマの中心を流れるティベレ川になぞらえられているので、人間には見えない不可視の世界です。そして右側は羊飼いのファウルトゥルスという現実の世界で生活をしている人間です。だから、樹木を挟んで左と右で不可視の精霊の世界と羊飼いの生活する現実世界が樹の幹によって区分させられている。その間に狼が横たわり、それに区切られた下部の中心になっているのが、狼の乳で育てられたという幼い兄弟です。兄弟は羊飼いに発見され、人間の世界に戻っていくことになるのですが、ここでは下部に位置することで、人間の世界と不可視の精霊の世界の境にいるわけです。実際、レムスは手を挙げて人間には見えないはずの川の精を見ています。しかし、羊飼いを二人の幼児を見つけています。ルーベンスはここで異質の世界を一緒に描き、それらが元々は異なる世界でありながら、幼い兄弟の存在を通して連続していることも示さなければならいわけで、ここで対立矛盾する要素をまとめることが義務付けられています。また、ここでの様々な要素、川の精や兄弟を育てた狼の構図などはルーベンスがイタリア滞在で学習した古典的な構図や古代の彫刻の知識が使われているとされています。その形式的な図案に生き生きとしたリアリティを与えるという、これまた相矛盾する課題です。そういう対立的な課題を抱えての作品で、結果的に上手くまとまっているとは思えず、ルーベンス自身解決しきれていないで、画面の大きさに対して何か窮屈さを感じます。画面にそういう要素が入り過ぎて整理しきれていないというのか焦点が絞り切れていない印象です。部分をとってみれば画面上の品質が統一されていなくて、狼の毛並みなどは見事なほど描き込まれているのに対して、羊飼いの顔は明らかに仕上げが雑で平面的です。しかし、それらを補って余りあるのが、少し触れた狼の今にも動き出しそうなリアルな描き方と、画面でも光が当てられて、神々しさを与えられている二人の幼子の皮膚の柔らかさや縮れた毛で描かれた愛らしさと存在感でしょう。そういうムラは、後のアントワープ工房によって制作された傑作群では解消されていくのでしょう。だから、この作品はルーベンスの大作の秘密が露わになっているとも言えると思います。
2.ルーベンスとアントワープの工房
ルーベンスがイタリアでの滞在を終え、母国に戻ると、アントワープに工房を構え、本格的な制作活動にはいり、作品を量産していきます。この展示はそのころのものを集めたということで、今回の展覧会の核心部といっていいと思います。 まず目に付いた、というより印象が強かったのは、肖像画でした。今回のルーベンス展に関する記述の最初のところで書きましたように、肖像画というものの画家にとっての位置づけを考え直さされたものでしたし、それだけ気合入った作品を見ることができたし、画家の素の息遣いが画集に取り上げられるような大作よりも、むしろ強く感じられるとともに、今まで思っていなかったような新しい発見があったためです。 『髭を生やした男の頭部』(右図)。「東方三博士の礼拝」のための油彩スケッチとして描かれたものだそうです。前回に見た『聖ドミティッラ』もそうでしたが、モデルの人間を筆写して理想化(パターン化)を加えて作品素材として図案化のような作業していって、実際に使われたらしいそうです。つまり、工房で働く画家たちが大作に描きいれる人物のお手本として使われたらしいです。技量がルーベンスに届かない画家たちは大作の中の部分を担当した時に一定レベルを求められので、ルーベンスの描いたお手本を写して利用することで、そのレベルをクリアしていた。そのように、他人がコピーして使いまわすための図案集のような機能を果たすためには、特定の人物の特徴をとらえていることよりは、老人の一般性が現われている方が利用範囲が広まるし、写しやすい。そのような実用的な要求が、実は作品に入ると理想化された普遍性をもった表現になっている、なんと効率的な事か。とはいっても、実際にこの作品を、今、見ると、すごく斬新な感じがしました。男の頭部といっても、額は狭く、落ち窪んだような目と鼻以外は髪の毛と髭に覆われている。激しく波打ち、巻かれた、もじゃじゃの髪の毛と髭に強いハイライトが入り、まるで金属のような質感とダイナックな躍動感があるのは、素早い筆遣いと、色遣いによるものでしょうが、この髪の毛の様を見ているだけで水際立った手際の良さにうっとりしてしまうのです。ルーベンス本人が、このようなスピーディーな筆遣いでさっと作品を仕上げてしまう様子を何となく想像してしまいました。 『兄フィリプス・ルーベンスの肖像』(左図)は上で想像したような画家自身の手による肖像画。顔の部分にハイライトが当たり、明暗のコントラストが強く、少し上気したような肌の柔らかな質感が触って分かるほど生々しく感じられるのに対して、髪の毛は流れるようにさっと描かれでサラサラ流れるよう、そして衣服や背景は筆致が明らかなほど粗いのかサッと描かれている。そそのメリハリとスピード感。これを見ると、それほど大きな作品ではないはずなのに、シンプルな肖像画であるのに、ルーベンスは画面構成を緻密に考えて制作しているのがよく分かりました。その密度は大作と少しも変わらないと思います。こういうものを見てみると、ルーベンスという人の特徴は、画家としての技量の見事さにあるのは当然ですが、それ以上に画面のデザインとか構成とか設計者のようなところの才能に秀でていたことを強く実感しました。それは、単に描くこと以前のメタレベルのところで、絵画を如何に描くかという問いをいつも強く持っていたということが、代表的な大作よりも、むしろ、このような肖像画を見ていて、よくわかりました。 『男の肖像(ニコラース・ロコックス)』 (右図)も下絵のような粗さのある絵ですが、暗い背景と黒っぽい衣装と対照的に描かれた白い襟、ハイライトの当たる横顔のコントラスト。このようなものを見ていると、カラバッジォの劇的な明暗の対比を、巧く取り入れて、強いインパクトを見る者に与える肖像画を描いている、これも手際の良さと緻密に設計されたロジカルな感じをすごく受けます。 『復活のキリスト』(左下図)は、今回の展示の目玉の一つではないかと思います。これまで、肖像画を取り上げてきましたが、ルーベンスという画家のイメージからすれば、教会に飾られるような大規模で荘厳な大作です。そのようなものは美術館の回顧展のようにところに展示するのは不向きで、実際に現地の教会に出掛けて行って見るしかないでしょう。それならば、そういう作品に準ずるものしかないということになれば、この作品のようなものが格好の対象となるでしょう。実際、画家の壮年期の充実した作品という評価になっているのではないかと思います。2m近い縦横の大きな画面のほぼ大半を占める大きさで、見ているこちら側に迫ってくるようなポーズで迫力があり、当のキリストは死んで3日後に復活(蘇生)したにしては、血色がよく肌が艶々していて、逞しく描かれています。磔刑にされたキリストの絵の多くは瘠せさらばえた姿で描かれていますが、それがこんなに逞しく、まるでスポーツ選手のように筋肉質の逞しい身体つきになっています。これは復活というスタートを祝福するということなのでしょうか、死に対する勝利を語っているとカタログの解説にはありましたが、そういう死を克服した力強さを称えていると言えるかもしれません。キリストの肌は周囲の天使の幼児のような瑞々しさです。このような、肌の瑞々しさと身体の逞しさを備えた人々が織り成すエネルギーが作品から溢れるようなところがルーベンスの真骨頂といえるでしょうか。これまで見てきた肖像画が、背景を暗くして全体のトーンを落として人物にハイライトを当てて、落ち着いた感じの中に人物が静かに浮き上がって来るのに対して、この作品では、全体が明るくエネルギーが溢れんばかりです。とは言っても、この全体の明るさはハイライトが当たっているキリストが画面全体に占める面積が大きなところからきていると考えられます。画面左側は暗い色で塗られていて、これはキリストが復活する前の夜の名残ということでしょうか。キリストの頭部には背後から後光が差していて、これが復活したキリストが光を周囲に放っているという、そのコントラストということでしょう。つまり、単に復活の光だけを描くのではなくて、左側にあえて暗い空間を描くことで、復活の劇的なところを出している。キリスト本人のポーズや3人の天使を配した構図も比較的シンプルで、単調になりがちなところを光と闇のコントラストの効果を入れて劇的要素が加わることで、免れているということでしょうか。この辺りに、イタリアの明晰な絵画を学びながらもバロック的な特徴が出てきていると思います。以前、「暗のレンブラント、明のルーベンス」という私の偏見を申したことがありましたが、展示されている作品を見ていると、ルーベンスは巧みに明の中に暗を取り混ぜて作品の劇的要素を高めているのが分かります。この作品など、それがさりげなく生かされていると思います。それは、カラバッジォのような露骨な使われ方ではありませんが。そして、ルーベンスの取り扱っている題材が比較的ダイナミックな動きを取り入れているので、その動きが劇的な構成の中で生きて、さらに溢れんばかりのエネルギーがそれに加わり、生き生きとして、見る者を捉えて離さない作品を作っているということが分かります。 そして、この作品では顕著なのですが、ルーベンスの大作となっている規模の大きな作品は複雑な構成になっていても、シンプルな方向を希求していることが今回分かりました。求心的と言ってもいいと思います。この作品で言えば、長方形の画面の対角線を引いた交点、つまり中心にキリストがいて、そこで区切られる四つの空間がそれぞれ描き分けられている。左側は暗闇で、上はキリストの後光と天使が月桂冠ょ被せようと飛んでいる、右側は赤い衣をまとった天使がキリストから白布を取り去ろうとしていて、下はキリストが寝かされていた棺で光が未だ届いてきていません。つまりは、四つの空間が中心のキリストに向かって収斂していくような構図になっていて、これを見る人の視線も、そこに集まるように巧みに構成されていいます。これを例えば、同時代のエル・グレコの作品と比べると、グレコの作品は様々な要素がごった煮のように画面に溢れ、それぞれが勝手の自己主張して競い合うような存在感アピールの競争をしているようです。その結果、画面全体は躁状態のような異様な盛り上がりを呈している。これに対して、ルーベンスの場合は、エネルギッシュであることは似ていますが、もっと秩序づけられて、それがひとつのストーリーに収斂され劇的なドラマに見る者を引き込むところがあります。このドラマチックな要素が人々の共感を呼び起こす、ひいては宗教的な共感に繋がる効果を生んでいるのではないかと思います。 ここで、若干、ドラマチックな要素について一般論的な説明をしたいと思います。美術史的なおさらいなりますが、中世からルネサンスに移り絵画技法として遠近法が発見?されます。それは、平面である画面に三次元の立体的世界にある奥行を与えたものでありました。それと同時に、消失点に向かって、つまり画面の奥に行くにしたがって世界は縮小して、最後は点に収斂するというものです。これは、人間が見る時に二つの眼でステレオにみて、ふたつの目の焦点を合わせて立体的に見ていることを平面であるキャンバスに移し替えたということが言えます。だから、これは人間という主観が捉えた空間を写したということに他なりません。そこで表わされる空間で、絶対に表わすことが出来ないものが生まれます。それは見ている本人です。そこに主観と客観の分離、つまりは、見ている人間の主体が生まれるということが起こったわけです。幼児にお絵かきをさせると、たとえば家族を書きなさいというとそこに自分も同然のように描きますが、幼児には描くものと描かれるものの分離はなく、描いている自分は自由に画面の中に入り込んでいる。そこに客観的に世界をとらえるということはありません。ルネサンス以前の中世の絵画を見てみれば、画面の構成は幼児の描くお絵かきによく似ています。神と人間が同列に並んだり、人間と動物の区別がなかったりという具合に、これは人間の主体とものがなくて、神様の前でみんな一律平等だったからです。だから、中世の絵画に立体を平面に移すとか、奥行とかいうような、人間の視線に近いような絵を描くという発想が生まれなかった。そこで、遠近法がうまれ、人々がそれに気づいたということは、そこで主観が発見されたことなるわけです。(この辺の議論は倒錯していますが、いまの、この方が読みやすいと思います。)その結果、ルネサンスの絵画作品は人間から見た世界を忠実に画面に写す、リアリティを獲得することになったと言えます。しかし、ルネサンスで発見された主観というのは、あくまでも客観に対する主観ということになります。だから、ルネサンスの作品は誰が見ても客観的にリアルです。つまり、周囲の環境を距離をおいて対象化しているのは、普遍的な人間ということになります。だから、ルネサンスの絵画は客観的で写実的なのだけれど、何となく整いすぎているとか、冷たいという印象を受けることがあります。それに対して、普遍的な見方はあるけれど、そうでなくては一人の個人が独自の視点で見たということが加わったのがバロックの作品ということができます。ある特定の個人が周囲の環境を見たときには、視点は限定されるので、客観的には存在するものが見えない場合が出てきます。逆にその人が見たいところはクローズアップされるように見えることもあります。いわゆる主観的な視線です。その視線に写った風景は、その個人の目に特有の風景ということができるため、それを作品として画面に写し取ったものは、その人と同じ風景を見る、つまりは視線を共有することができることになるわけです。その時に、普遍的な視点ではいので、写し取られる世界は客観的なものから離れて、時には歪んで見えることになるかもしれません。しかし、視線を共有することは、その視線の持ち主と共感することに繋がっていくことになります。 ルーベンスの壮大な大作の構図には、そういう点での共感できる特徴が備わっていると思います。 |