2.株主総会とは何か (3)日本の株主総会の特徴 |
これまで、全体として企業形態の変遷と、これに伴う株主総会の意味合いの変化を追いかけてきました。ここでは、一般的な株主総会に対して、日本の企業風土や環境によって、どのような特徴のあるものになっているのかを見て行きたいと思います。 @株式会社制度の輸入 明治政府の開化政策で、欧米では個人では調達することが難しい巨大な資本を終結して事業を営むことが導入されます。その典型が、国立銀行であり、その後鉄道や海運、紡績、保険などの多額の資金、とりわけ設備投資のための長期資金、を必要とする事業で株式会社に類似した団体が作られていきました。この場合、例えば国立銀行条例といった特別法によって官庁の許可制により設立されていました。この動きに続くように1890年商法が制定されますが、会社の設立は、当時の欧米の傾向とは逆に会社設立は特許制がとられました。殖産興業政策を進める明治政府にとって、そのための資金供給者として想定していたのは、次の三つの層でした。第一に江戸時代以来の富を蓄積させてきた商人層、第二に華族層、そして第三に地方を中心に存在する地主層です。明治初期は海外の資金に依存することが少なかったこともあり、長期的な資金調達はなかなか進みませんでした。そのため短期資金を提供する普通銀行が長期資金の提供も担うこととなり、その手法として株式担保金融、株式抵当金融が行なわれました。また、株式の払い込みについても分割払込制度がありました。設立時に引き受けられた株式にいて、株金額の4分の1は最低限遅滞なく払い込む義務があるというもので、会社は資金需要に応じて株主に未払金部分を請求して資金調達を行なうというものでした。この制度を前提とすると、会社が事業を展開する中で新たな資金需要が生じ、株主に対して未払金の払込請求を行う場合、株主は事業の状況や新たな資金によって事業がどうなるのかの成否をよく考えた上で請求に応ずるかどうかを判断し、時には請求に応じない選択もできます。これは、株式会社形態で営まれる事業のリスクが高い反面、これに提供される資金が長期的に固定されると、資金提供者のリスクが最低限にとどめることができます。このリスク回避の観点から見れば、これに株式担保金融が組み合わされて、銀行から資金の融通を受けた投資家が株式を購入し、その株式を銀行への担保にする場合、その投資家はより少ない元手で投資が可能になるわけです。これは、当時の資金の社会的な蓄積が低いレベルであったため仕方のないことだったと言うこともできます。これによって相対的に資金の少ない層でも株式の投資に参加できたわけですから。しかし、このような人々は充分な資産を持っているわけではありませんから、株式投資が熱を帯びれば銀行借り入れによって積極的に株式を取得しますが、ひとたび株価が暴落すれば、担保価値がおちるので直ちに株式を売却します。これでは、株式を投機の対象とすることになってしまい、企業からすれば株式を通じた資金調達が困難になってしまいます。このような株主は、株主総会等で会社の意思決定に関与することなど期待できないわけです。 A日本の資本主義の成長 1904年の日露戦争以降、政府は外債による資金調達によって戦後経営を積極的に進めました。この時期に経済基盤の整備が進み、日清戦争後からの電信電話事業、日露戦争後の電力事業の展開は、鉱山から産出する銅への需要を高め、これに応じて電線製造の事業が勃興します。これに伴うように、機械工業や金属工業等の重工業部門は会社数が著しく増加しました。これらの事業が多額の資金を必要とする性格のもので、そのために株式会社制度が用いられてと言うこともできると思います。この後景気高揚と不景気を循環的に繰り返しながら、ヨーロッパでの第一次世界大戦勃発によって特需景気によって急速な産業発展がもたらされます。 1899年に商法が改定され、株式会社設立に際して特許主義から準則主義に方針を転換しました。商法の改正はありましたが、株式会社制度についての基本的な思想の点では変化はありませんでした。その大きな特徴として指摘できることは所有と契約の原則が希薄であったと言うことがあげられます。もともとヨーロッパで形成された株式会社という制度は商人が資金を集めて自由に事業活動を展開させていくための団体、制度として発展、変遷してきたものです。これに対して、日本が導入したのは19世紀の産業革命が進んだ準則主義に則って大規模な資金調達によって経済成長を進めていくのに便利な制度となっていた完成形に近い株式会社制度でした。それが、明治政府の殖産興業政策を進めるにあたって民間の企業を育てていくのに便利なツールとして、その形式を導入したという経緯によるものではないか思われます。つまりは、巨大な資金終結機構として、多数の株主が団体を構成するという形態を導入したというわけです。そしてさらに、所有の面で考えれば、出資者の所有に基づく権利が弱く、会社財産は出資者の共有財産という考え方ではなく会社という独立した存在の固有の財産であるという議論が生まれてきます。つまり、出資者個人の権利と機関としての企業に対する権利が切り離されたという特徴を帯びることに成りました。 そこで株主総会について考えてみると、多額の資金を当時の日本ではそれほど数が多くない資産家層から集めるための便宜として政策的に利用するためのものだったというのが実態と考えられます。そこには契約と所有に基づく株主による自治などいうものは経営にとって邪魔でしかなかった、ということです。
財閥は頂点に合名会社の財閥本社を置きその下に株式会社化された直系会社もそして傍系会社の網によるコンツェルンが形成され、特徴的な資金の流れを生みました。例えば、傘下企業の資金需要に応じて株式を通じた資金調達を行う場合には、財閥本社に未払込株金の支払請求を行なうか、資本増加の株式を引き受けてもらうことになる。一方、財閥本社にとって、そのための原資は傘下企業株式か、ここからの配当金に限られます。そのため、財閥内の他の傘下企業に資金的余裕がある場合には、その企業から本社に特別配当を行なわせ、その資金を当の傘下企業に払い込む。また他の傘下企業に資金的余裕がない場合には、傘下企業株式を担保にして本社が財閥内の系列銀行から長期借入を受け、この資金を傘下企業に払い込むというものです。これらのうち、配当を資金調達の原資に用いる場合、資金供給者は原則として財閥本社となり、それは大きな目で見れば財閥における内部留保資金による。他方、長期借入で系列銀行を通じて資金調達が為される場合は、その原資は預金であり、その資金供給者は零細な資金を提供した家計だということになります。 これに対して、非財閥系の企業は昭和期に入ると好景気と軍需による重化学工業の成長が多額の設備投資を招き、そのための資金調達として株式や社債の発行が盛んになりました。この資金の出し手は、従来の資産家層のみならず法人投資家が大きくなってきます。 このような状況の中で、1938年に商法の大改正が実施されました。これまでの説明の通り、財閥系企業と非財閥系企業では資金調達の構造が全く異なり、両者の「所有と経営」の関係には相違がありました。財閥系企業の場合には、早くから所有と経営の分離が進み、本社は内部昇進者を中心とする傘下企業の経営陣に経営を委ねたうえ、報告を受けた重要案件を審査・決裁するという分権的な制度を採用したのに対して、非財閥系企業では、大株主層が役員をかねるケースが多く見られたといいます。 このような中での株主総会の位置づけとしては、財閥系企業では、内部での資金配分と専門経営者に経営を委ねるに際して財閥本社の影響力を確保しておく必要があり、非財閥系企業では、経営監視の観点から、大株主が影響力を確保しておく必要がある。このようなニーズの中で株主総会は会議体として位置づけられていたと考えられます。
1945年に日本は敗戦国となり、連合国軍に占領され、GHQによる占領統治を受けます。このとき、アメリカを中心としたGHQは日本が専制的な体制となって侵略戦争を起こすことがないように、日本の社会政治体制を作り直そうとしました。それが民主化政策と呼ばれるもので、経済の分野に限れば、農地改革で不在地主による大土地所有を解体し自作農を育成し、企業に対しては財閥解体により資本の独占と集中から市場で企業が自由に競争できる環境を作ろうとしました。また戦争協力者の公職追放に関連して大企業のトップ経営者は戦争に協力したとして、その地位から退くことを強制され、経営者の世代交代が一気に進みました。このような動きの一環として、昭和25年に商法大改正があり、会社法関係についてはアメリカの商慣習が大幅に導入され、授権資本制、無額面株式制の採用、社債発行限度の拡張、経営機構合理化のための取締役権限の拡大および株主地位の強化のための諸方策が織り込まれました。これらの諸策は、他方で戦争により枯渇した資金の調達、その一環として外資(主にアメリカ資本)導入の便宜をはかる狙いもありました。 そして、株主総会については株主の地位強化が図られたという意図とは裏腹に、資本主義経済組織の下での株式会社制度の本来的な機能の一つ、つまり支配集中機構としての機能の発揮を可能にするものとなったと言えます。株主総会については、改正前は、文字通り会社に関する一切のことについて決議することができ、その決議は当然取締役または監査役などの他の機関も拘束することとされ、会社の最高かつ万能とされていました。これが、改正商法では、定款に定めがない限り業務執行に関する権限はなく、法令または定款で株主総会の権限と明記した事項以外のものについては権限がないなど、実質的に権限を制限され、一切の業務権限は取締役会制度を設けて、担わせ。外部監査機関としての監査役の権限を会計監査権限のみに縮少させ、取締役ないし取締役会および代表取締役など会社経営機構の権限を著しく巨大化させました。その反面この巨大化した経営権限なチェックするものとして株主地位の強化を図りました(例えば、株主代表訴訟制度の創設)。 現在、株主総会が形式化していますが、そのスタートはここに始まるというわけです。
日本経済は、敗戦後の混乱から復興経済政策を経て、高度経済成長を遂げ、企業経営についても成熟し、多様化していく一方で、復興のために無理をしてきた弊害も現れてきました。例えば、護送船団方式といって官民一体となって経済発展を進めてきたものが、海外からは閉鎖的とみなされ、日本経済が世界でも一定の地位を占めるようになったからには門戸開放を迫られることとなりました。中でも日本企業の閉鎖性が指摘され、企業の情報開示について企業会計制度にも触れながら根本的な見直しが行なわれた。そして、当時の上場会社の株主総会を跋扈していた総会屋は必要悪とみなされる時期もありましたが、企業の健全な経営を阻害するものとして本格的に対策が始まったのが、この時期でした。 その一連の商法関連の法改正が昭和56年の商法改正です。主な項目として、総会屋への利益供与を禁止し、株主総会での株主に対して取締役や監査役の説明請求権や提案権を認めた。また、単位株制度を導入し、会社間の株式の相互保有が規制され、子会社による親会社の株式保有を禁止しました。とくに株主総会関係については、株主総会における取締役および監査役の説明義務、株主提案権、監査役の監査権限の強化(会計監査に留まらず取締役の適法性監査の拡大)、会計監査人による監査の拡充強化等を上げることができますが、とくに、営業報告書、附属明細書、監査報告書などの記載方法・事項の充実等による企業内容の開示、つまり企業公開の充実が重要です。 株主総会に関しては、総会屋対策の一環でもあり、書面投票制度(議決権行使書)が創設され、その書面投票のために参考書類を整備することが義務付けられ、その詳細が参考書類規則に明文化されました。 いわば、現在の株主総会や情報開示制度は、ここに始まると言えます。 参考文献 松井秀征「株主総会制度の基礎理論」
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