「レンブラントとレンブラント派
─聖書、神話、物語」展
 

2003年10月 国立西洋美術館

かなり、通俗的な先入見ですが、レンブラントという画家のイメージは有名な『夜警』(今回、展示されていません)という作品の、夜の闇に松明の不安定な灯りに浮かび上がる夜警の人々の姿。その暗い闇が立ち込める中で、松明の焔が時折浮かび上がることにより、夜の闇の深さがより印象的に迫ってくるような画面。そこで感じられる闇の深さが、まるで観る者を引き摺り込んでしまうような深淵に見えるようなイメージ。そして、夜の闇ですから、黒を主とした重厚感あふれる画面全体の印象が、どっしりとした落ち着きをもたらす。画集でこの作品を見たのは、十代の高校か大学生のころでしが、まるで長老から人生の深淵を語りきかされるような印象を持ったものでした。

その後、ウジェーヌ・フロマンタンの『オランダ・ベルギー絵画紀行』(マルセル・プルーストに影響を与えた人で『失われた時を求めて』のなかで、この著作の見解の影響が多く見られる)で、2人の巨匠としてルーベンスとレンブラントをとりあげ、ルーベンスは一貫して高い評価しているのに対して、レンブラントに対しては微妙な評価で、しかも『夜警』を散々に批判しているのを読んで複雑な思いに捉われました。フロマンタンは、レンブラントには現実の「観察者としての側面と絶えずこれから離脱し、夢想へと向かうもうひとつの側面」があると言います。そして、『夜警』は、その両者によって引き裂かれ、混乱した作品であるというのです。私は、その見解に対して反論することもできませんでした。『夜警』以外のレンブラントの作品を知らなかったのです。レンブラントがどういう画家であるか、たぶん17世紀ころのオランダの画家と言えば、フェルメール等の有名な画家が、風景画や静物画を盛んに描いていたのと同じようなものだろうと、漠然とイメージしていました。それに、さっきのフロマンタンの言っていることは、私の理解を越えていました。風景画や静物画で、なぜに夢想が入り込む余地があるのか。それから、私にとってレンブラントは不可解な画家という感じで、なんとなく捉えられていました。相変わらず『夜警』は好きな作品でしたが。

そして、この「レンブラントとレンブラント派─聖書、神話、物語」という展覧会ですが、レンブラント本人による作品は版画が多く、油絵は10点ほどで、しかも未完ではないかと思わせる仕上げが十分でないものがあり、あとは工房の作品がほとんど、という展示でした。そして、描かれていた多くが、物語と肖像画でした。それは、さきにすこし述べた、17世紀のオランダ絵画が、新興のブルジョワジーが自分たちの文化として日常を写実的に作品にしたものとして、静物画や風景画が代表的なものして盛んに描かれたと思っていました。しかし、その渦中にいたレンブラントは、肖像画や物語を中心に描いていた、というのは意外に思いました。もっとも、 『夜警』は集団の肖像画であり、写真が未だ発明されていなかった当時、また勃興するブルジョワジーが自身の姿をとどめるという自己確認とアピールという点から肖像画へのニーズは納得できるものでした。ところが物語画とは…。

でも、考えてみれば16世紀に活版印刷が本格的に始まり、宗教改革が起こり、ルターが聖書のドイツ語訳を出版し、活版印刷によって広く普及し始めると、各国で同じような動きが起こったはずです。とくに、オランダはカルヴァン派を中心としたプロテスタントの普及したことによって、宗主国であるスペインから独立した国です。プロテスタントはカトリックのような典礼よりも日常生活の中での信仰生活の実践を重視します。例えば、出版された聖書に挿絵が挿入され理解の助けに使分けますが、カトリック教会に壁画として大々的に描かれた聖書の物語画とは違うものとなっていました。教会の壁画が典礼的で、壮大で荘厳なものであったのに対して、聖書の挿絵は日常生活に近く、聖書の物語内容を忠実になぞるとともに、日常的な教訓や道徳を汲み取りやすいものとなっていたと言います。そのためには、日常生活とかけ離れていない身近さが必要だったと思います。

そして、それまで活字というものに日常的に触れることのなかった人々に聖書という出版物が普及するにつれて、聖書の中にある様々な物語が、人々を魅了したとしてもおかしくはないでしょう。そこで、聖書を読む人々が、その物語の登場人物に感情移入したり、物語に手に汗握って没入するときに挿絵が大きな役割を果たしたに違いありません。そう考えれば、聖書の物語を絵として提供することに対して、人々の間にニーズあったと考えてもいい。そこにレンブラントと彼の工房が多くの物語画を描いたとしても不思議はありません。

また、今回の展示で版画が多いということは、聖書の挿絵に使われたことや、各家庭で、聖書の傍らにおいて、それを見られていた。それを対象として制作されたと考えてよいのではないか。そして、前に戻りますが、フロマンタンのレンブラントに対する指摘である二人のレンブラントということも、聖書の物語を教会の壁画のような神話とか伝説的なものとして描くのではなく、現実に日常生活に身近なところで起こったもののように描いていたゆえではないか。つまり、現実をありのままに描く「写実の画家」と、虚構の中に自由に想像を繰り広げる「構想の画家」という二つの面が、そこに必要だったのではないか、ということです。そうなると、フロマンタンが『夜警』に対して行った批判というのは、本来、この両者のうち前者の画家が必要だったのに、後者の画家が顔を出してしまった、ということでしょうか。実際に『夜警』という作品には、物語の一場面であるかのような演出的な作為が見られます。そして、レンブラントの描く肖像画にも物語化の作為が見られます。そこに現実と物語の境界が曖昧となり、渾然とした作品世界が現出する。たぶん、それがレンブラントという画家のせかいなのではないか、というのが、今回の展示のテーマではないか、と思います。

何か、学生のレポートのようなものになってしまいました。

これから、実際に作品を見ていきますが、全体をみての印象としては、ルーペンスの作品に感じられたようなオーラをレンブラントの作品からは、ほとんど感じることができなかったということです。ベンヤミンが言うように複製芸術では、現物にあるようなオーラが消失するということですが、版画として複製が流布されることで稼いだということだけでなく、レンブラントの作品自体の性格としてオーラの弱さということがあったのではないかと思います。そのひとつの証拠として、レンブラント本人の真筆の作品と工房の弟子たちの作品との区別がつきにくいということです。工房のシステムの違いにもよるかもしれませんが、ルーベンスの場合には、あまり問題にならないことではないかと思います。だから、レンブラントという人は、自分で絵筆を持って描くという以上に、企画とかプロデュースといったことの方が得意だったのではないか、と想像してしまうのです。
 

今回の展示の目玉といっていい『悲嘆にくれる預言者エレミア』を見ていきます。レンブラントの代表的な作品ということで、洞窟のようなところで暗いところに老人の姿がほのかな灯りに浮かび上がるという、『夜警』で見せていたような闇と光のグラデーションで見せる真骨頂が現われている、といってもいいと思います。悲嘆にくれる老人の姿は真に迫っていると言えます。しかし、私には印象に残りませんでした。前回述べたようなオーラを感じられないということが大きいのだと思います。すごく巧く描かれていると思います。聖書の有名な預言者の物語であるのに、独りの老人として的を絞って、あえて物語の要素を絞って老人の嘆きにポイントを集中させるようにしています。画面全体を使って右上から左下へと対角線上に老人を配置し右側が洞窟の闇に融け込むようで、その反対の左側から光線が差し込み、老人がスポットライトを当てられるように浮かび上がる。俯き加減の顔には光が当たる左側に対して、右半分は影に半分隠れてしまう。その効果として、顔全体の陰影が深くなり、さらに光が一方向から当たることによって、顔に刻まれた皺の影が深く映ります。また、老人の顔の下半分は白い髭に覆われてしまっています。全体の俯き加減の顔の大半が影で隠されて、このような効果から、見る側は想像を働かせるように煽られます。その時の援けとなるのが、俯いていること、顔が陰になっていること、深い皺、左手が添えられて顔を支えていること、そして、身体全体が脱力したように伸びていることから、力を落とし、悲しいのか、後悔しているのか、とにかくネガティブな感情に深くとらわれているのが想像できます。聖書の物語では、ネブガドザル王に攻め落とされるエルサレムをみて悲嘆にくれるというになっています。しかし、この作品を見る限りは、大きな悲しみに際して悲嘆にくれる老人という、もっと普遍的なものとして見ることもできるように描かれています。ということは、この作品は預言者エレミアの悲嘆という物語の世界から、身近な老人が悲しんでいるというように身近に感じることが可能になります。例えば、エルサレム落城を嘆くというのではなく、老人が長年連れ添った妻を失った悲しみに沈んでいるというのなら、比較的よういに想像できるとともに、共感できる、つまり、感情移入しやすくなります。巧いと思います。

しかし、それなら、と思うのです。何か仕上げがぞんざいに思えるのです。はじめから、ザラザラした手触りを狙っているというのならいいのです。例えば、中心の老人の顔の描き方だって、もっと細かく描けるじゃないですか。それ以上に背後の洞窟と思われる岩肌などはぞんざいに描かれているといってもいいのでは。ここをもっと重厚にすれば、のしかかられるような感じや、閉塞感がでて、老人の悲嘆をさらに強調できて、切実感が増すと思うのです。何か、途中で放り投げてしまったような印象なのです。作品の完成度という点で、折角のパワーが無駄に拡散してしまっている感じで、それがオーラが足りないという印象に結びついていると言えます。

カタログの説明では晩年の傑作ということですが『モーセと十戒の石板』(左図)という作品です。イスラエルの民が黄金の仔牛の像を作ってそのまわりで踊ったり、歌ったりしているのを目撃して、その偶像崇拝の姿に怒りにまかせて、神から授かった十戒の石板を叩き割る場面を描いたということです。参考に16世紀イタリアのベッカフーミの描いた『十戒の石板を叩き割るモーゼ』(右図)を見ていただくと、ここで説明した聖書の物語の要素が全て盛り込まれています。だから、例えば、教会の礼拝で聖職者がその絵を見せて説明しながら説教をするのには適していると言えます。これに対してレンブラントの場合は、老人が板状のものを振り上げているところをクローズアップして、その一瞬をピックアップしたというもので、まるで映画の一場面のようです。老人が板状のものを振り上げていても、それは下に叩きつけようとしているのか、高く掲げて人々に見せようとしているのか、この絵を見る限りでは区別がつきにくいと思います。説明では“激しい怒りとそれを越えた神の戒めを提示しようとする強い意志とがひとつにまとまったモーゼの姿を画面一杯に描いた”ということですが、たしかに画面一杯に老人の姿が描かれています。しかし、私には老人が怒っているようには、どうしても見えないのです。それは顔の表情が雑すぎて分らない。そして、石板を叩き割ろうとするなら、反動をつけようとして力を溜め込む筋肉の動きがあるはずですが、そういうものが描かれていない。それよりも、全体の老人のポーズというのか人体の構成が、不自然でバランスを欠いているような変な感じがします。少し首を傾げているように見えますが、怒り心頭に発して、石板を叩き割ろうと力を込めている老人が、そんな不自然な格好しますか、そういう不自然さがすごく目についてしまう。それに石板にはヘブライ語の文字が読めるほど明晰に描かれているのに対して、他の部分は曖昧というのかハッキリと描かれておらず、さっきも言ったように、老人の表情を窺い知ることはできません。そして、背景は手抜き以外の何ものでもありません。省略している以前でただ塗ってあるという感じです。私が、こんなことを言えるような専門家ではないのですが、晩年の傑作といわれる前にシラケてしまうのです。手を抜くな、完成させろと。

このように、今回の展示を見て、画集の『夜警』を見て抱いていたレンブラントのイメージはたんだんと悪化してしまいました。

 
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