ルドン─秘密の花園
 

2018年2月9日(金)三菱一号館美術館

久しぶりに都心に出かける用事があったので、そのついでに寄ることにしました。付近の美術館で開催していた展覧会は、私には惹かれるものがなく、それなら別にどこへも寄らなくてもいいのだけれど、折角の機会がもったいないと本末転倒なのかもしれないが、手近なところに寄って見ることにした。会期2日目という早い時期に入場するというのは、はじめてのことです。

さて、ルドンという画家については、私にはなかなかどのような作品傾向なのかというかということについて、まとまったイメージを持てないでいる。そこそこ情報や知識はあると思うのだけれど、この人の作品は端的にこういうものだと言い表せないでいます。それで、主催者のあいさつを一部引用します。

“オディロン・ルドン(1840−1916年)は、印象派の画家たちと同世代でありながら、幻想的な内面世界に目を向け、その特異な画業は、今も世界中の人の心を魅了して止みません。なかでも本展は植物に焦点をあてた、前例のない展覧会となります。本展の大きな見どころは、フランス・ブルゴーニュ地方に居を構えた美術愛好家のドムシー男爵が、ルドンに注文した城館の食堂の装飾画です。完成後、装飾画はドムシー城に秘蔵され、当館所蔵の《グラン・ブーケ(大きな花束)》を除く15点は食堂の壁から取り外され1980年には日本でも公開されましたが、1988年にフランスの“相続税の美術品による物納”制度により国家所有に帰し、現在はオルセー美術館の所蔵となっています。残された《グラン・ブーケ》は制作後110年目の2011年3月、パリで開催されたルドン展にて初公開され、今日まで当館の所蔵品として幾度か公開してきましたが、本展では、オルセー美術館所蔵の15点と合わせてドムシー城の食堂を飾ったルドンの装飾画が一堂に会す日本初の機会となります。”

ということで、何のかんのともっともらしいことが並んでいますが、この美術館で所蔵している「グラン・ブーケ」というのが凄いのだと、苦労して取得したのだから、利用しない手はない、それで周辺の作品を持ってきて集客しようということが、下心見え見えという、それに易々とのった私も愚かだね、という展覧会。私は口が悪いので、揶揄的な言い方になりましたが、ルドンという画家はどのような作品を、どのように制作していった、つまり、彼が何をどのように見ていったのが、というイメージが固めることができず、何か素人くさいとか下手というのが目立ってしまったという感想です。ちなみに下手というのは、学校で教えるような技能、例えば、遠近法の構図とか、デッサンといったようなことではなくて、画家自身が何をどう見ているのかということを自身で認識して、それを他者である絵を見る者に対して、それに適した仕方で伝えるということです。例えば、まるで写真のように写実的に対象を写した迫真の絵画でも下手な場合も当然あるわけです。写実絵画といってデパートで展示即売しているような作品に、そういうのを見受けます。素人くさいというのは、そういう下手さがあっても、結果的に伝わっている、つまり結果オーライであるような作品が時折並んでいたということです。それでは、作品を見ていきたいと思います。

1.コローの教え、ブレスダンの指導

初期というか習作期の作品が並んでいました。とりたてて悪口や罵倒の言葉を並べるつもりはありませんし、むしろ、私の絵を見る目がないことを白日のもとにさらすことになることなることも分かっていますが、このコーナーに展示されている作品は、子どもが学校のお絵かきの時間に課題で描かされて教室の壁に貼って作品、あるいは下手の横好きの日曜画家が家族に邪魔扱いされながら自宅の居間に飾って悦に入っているような作品にしか見えません。ルドンというサインがはいっているからこそ見る人がいる作品でしかない。後年の画家の片鱗がうかがえる作品なのかというと、そもそも私には、この展覧会でルドンとはどういう画家なのかが分からなかったせいもあって、それもかなわなかった。それだけです。簿用とか月並みという印象で、中途半端なところは、ちゃんと余白を残さないで描けよと叱責したくなるような。敢えて言えば、「ペイルルバードの小道」(右図)という作品の左上の空の青が展覧会パンフレットの作品の背景で塗られている青を想わせるくらいでしょうか。

2.人間と樹木

初期の版画や木炭画で、ルドン自身が“わたしの黒”と呼んだようなモノクロの作品を中心とした展示です。ルドンは1879年、39歳の時にリトグラフ集『夢のなかで』を発表し、実質的なデビューを果たします。空想的な怪物たちがうごめく世界は、同時代の印象派の画家たちが、明るい現実の光を留めようと求めた画面と一線を画すものでした。科学と空想、そして哲学が混在する「黒」の芸術と呼ばれるものです。

「兜をかぶった横顔」(左図)という木炭画というか木炭スケッチでしょうか。中世終わりかルネサンス初期のピエロ・デ・ラ・フランチェスカの作品の構成を想わせるのですが、背景が黒で塗り潰されて、横顔の肌がしろく浮き上がるようなのが、この画家の“わたしの黒”と自称する由縁でしょうか。たしかに被っている兜や後ろに流れ出ているような髪の毛、あるいは陰影といったものを黒の濃淡で描いているようです。しかし、その濃淡のつけ方は、とくに細かく描き分けられているわけではなくて、どちらかというと大雑把で、“らしい”雰囲気的なもの、それよりも、全体が暗いので人物や被っている兜の描き方が雑でも目立たずに済んでいる。悪意かもしれませんが、黒い画面をルドンが選択したのは、雑に描いても粗が隠れるからかもしれないと、この作品を見て感じました。それでも、雰囲気は作れる、ということでしょうか。ただ、そういう気分であっても、作ることができるというのは、それがルドンという人の才能なのかもしれません。

「キャリバン」(右図)という木炭画です。キャリバンというのはシェイクスピアの「テンペスト」に出てくるキャラクターだそうですが、グロテスクな形をした怪物ということになっています。この作品では、ハリー・ポッターのドビーのような不気味だけれど愛嬌があるキャラクターに描かれています。夜の不気味な暗闇に、キャリバンの白い顔が浮かび上がっています。キャリバンの目の描き方が少女マンガの黒目が大きくて中に星があるのと似ていますが、そういうデフォルメのセンスはたしかいいと思います。丁寧に顔を描いているとは思えませんが。そんな中でも画面向かって右の枝の付近に白い小さな花が咲いているのや、右上の背後に闇の中に葉っぱが微かにうつっている様子をさり気なく描いていて、それが夜の闇の深さを逆に印象付けているという舞台効果を生んでいる、ルドンセンスのよさを感じます。

「夜」という版画集から「U.男は夜の風景の中で孤独だった」(左図)というリトグラフです。線の粗さが、夜の闇の中で人の眼には詳細に見ることの出来ないという風情にうまく合っています。その粗さと暗い画面が画面の男性の姿がぼうっとしていて、どのようなポーズで立っているかがハッキリしていないこと、細長く頬が落ち窪んだ顔はわかるものの表情まではうかがい知ることができず、そのことがむしろ男性の孤独感を見る者に想像させることになっていると思います。おそらく、彼以前に夜の暗闇を描いた画家は少なくなかったと思います。例えば、バロック美術のカラバッジォやラトゥールといった画家たちは夜の室内を多く描いていますが、それは神の光や蝋燭の炎といった光を暗闇とのコントラストでより輝かしく映るためのもので、黒は光を効果的に引き立たせるための手段だったと言えます。これに対して、ルドンの、これらの作品には暗闇によって引き立たせられる光はありません。むしろ、夜の闇がメインで、この作品であれば、孤独な男は、むしろ夜の闇の深さを印象付ける手段と言うこともできるものです。そこに、ルドンの「黒」の芸術の他の画家にはない特徴的なところではないかと思います。

黒の絵画でない作品を、「黄色いケープ」(左図)という作品です。晩年に近い時期に制作されたパステル画です。黒い色こそ使われていませんが、明らかに夜です。画面向かって左の光の球、あるいは光輪の黄色と右側の人物のケープが同じ黄色で、背景の青が夜の雰囲気を作っていますが、その青が緑を経てケープの黄色に次第に変化していく色合い。それが、この作品の中心のひとつであると思います。それが、色彩を選択した理由でしょうか。この説明では夜の闇に対して光がドラマティックに際立つカラバッジォやグレコのようなイメージに誤解されてしまうかもしれませんが、そのようなコントラストはありません。パステル画たがらとはいいませんが、パステルの淡い色彩で、塗り残し(手抜き?)もあって、輪郭のはっきりしない、ぼんやりとした画面です。

この展示コーナーは「人間と樹木」だったのですが、展示リストにリストアップされている数点の作品が他のコーナーに展示されていたりして、展示の章立てなどの姿勢にいい加減さが垣間見えるような感じでした。それゆえに、人間と樹木という、この章の意図は不明のままで、展示されている作品に対する感想も、そのことについて触れることもできそうもありませんでした。

3.植物学者アルマン・クラヴォー

ルドンが描いた人間の頭部を持つ植物は、ボルドーの在野の植物学者アルマン・クラヴォーの影響ということだそうです。ルドンは石版画集『夢想』を、年上の友人に捧げたそうです。ここでは、そこからの作品を中心とした展示です。

『ゴヤ頌』より「U.沼の花、悲しげな人間の顔」(左図)というリトグラフ作品。ルドンの作品の中では比較的知られた作品で、ルドンという名を知らずに、どこかで目にしている人もいるのではないかと思います。不思議、怪奇、グロテスク、そして黒い画面といった特徴は、一度目にすると記憶に残ってしまう作品ではないかと思います。真っ黒な背景に対して、それよりも黒い植物が一本生えていて、その実が人間の顔で、それが光って周囲を照らしている。グロテスクな姿です。しかも、人の顔が、タイトルで「悲しげな人間の顔」とありますが、デフォルメされたマンガのような、別の言い方をすれば手抜きでスカスカの顔は、悲しいという表情を、タイトルからそのように感じようとしなければ、あるいは記号としてマンガの顔を悲しいと読み込む土台がなければ、そうとは見えないものです。虚心坦懐にみれば、空虚とか不気味といった感想が出てくると思います。おそらく、ルドンは人間の感情とか表情を繊細に表現する作品を、他に制作しているわけでもないので、悲しみとか表情といったことの表現の志向があったのか分かりません。ルドンが人を描いている場合は、顔はぼんやりして細かく描かない、したがって表情がないので、この作品のように目鼻がとりあえず描かれているのは珍しいのではないかと思います。『ゴヤ頌』という版画集のタイトルは何かしらゴヤを意識していたはずで、こじつけかもしれませんが、ゴヤの「巨人」(右図)とか「わが子を食らうサトゥルヌス」のような人間の表情など入り込む余地のないグロテスクな画面を意識していたのではないかと思います。ルドンの作品は個人的な感情とか内面といったことにこだわるとか表現するというものには、私には見えないで、これもゴヤの画面とかグロテスクさとか黒さといったことを取り入れた結果こうなったという感じがします。

『夢想』より「U.そして彼方には星の偶像、神格化」(左図)という作品です。男がいる球体は星なのでしょう。したがって、黒が基調の画面は夜と考えていいわけです。その暗い中で男の顔ははっきりせずに表情を読み取ることはできません。というよりもそういうように描いていないと言った方がいいと思います。端的に言えば、何かを描くということには興味がないのではないか。それは人でも物でもそうですが、対象とするということは自分の外部に自分との別のものが存在していることを認識することです。人であれば、それは他者として自分とは別の人がいて、表情を見ようとするのは自分と他者の関係を測ろうとすることです。その表情を描こうともしないということは、ルドンの画面には他者というものが存在しない。ルドンという人は他者に興味がないということが言えるのではないでしょうか。したがって、自分の外部の何かに興味をもって、それを対象として捉える、その結果としてそれを描くということにはならない。ルドンの作品は幻想的という言われ方をしますが、現実の世界は自分の外部で、自分とは異質で独立した他者がいて、その他者と関係を取り結んでいかなくてはなりません。そういう他者の存在が認められない。つまりは、自分にとって異質なもの、自分の外側を排除してしまったものが、ルドンの、この頃の作品と言えるかもしれません。それは別の面でも言えると思います。男がいる球体は星なのでしょう。したがって、黒が基調の画面は夜と考えていいわけです。星なのですから暗い夜空で瞬いてもいいのですが、そういう星の光は描かれていないようです。いったい、ルドンの“黒い絵画”と呼ばれるようですが、黒という色そのものが美しいとか、その色を画家が使いたいとか、そういうことは感じられないのが不思議です。“黒い絵画”といいながら、黒が魅力的でないのです。そこには、作品を描くということ、つまりは、ルドンという人は他者に対して表現するということに意欲がないように見えるのです。それゆえに、外部ということがない閉じたなかで、他者という異質な存在の入り込んでくることのない世界をつくる。この版画集は『夢想』というタイトルですが、夢という自身の内部で作られた世界。それがルドンの幻想というもの、言ってみれば閉じこもりです。そういえば、ちょうどルドンと同時代に文学の世界で、ロマン派とか象徴主義といった人たちが、例えばJKユイスマンスの「さかしま」という作品は主人公が城に籠もって、そこに自分の好むものだけに囲まれた空間をつくるという話です。ルドンの絵画は、これに共通する雰囲気があるように見えます。

同じ版画集の「W.かげった翼の下で、黒い存在が激しく噛みついていた・・・」(右図)という作品です。「U.そして彼方には星の偶像、神格化」では球体の中に男がいましたが、ここでは球体の外側で翼を生やしたものと、後姿のおとこが組み合っています。“噛みついた”というタイトルと二つの何ものかが組み合っていることから、少なくとも闘っているのでしょうが、そういう激しさは感じられず、他の作品も同じですが静けさ、クールに雰囲気になっています。それは、画面に対立といったようなダイナミックな要因が排除されている安定した世界だからかもしれません。

「若き日の仏陀」(左図)という油彩の作品。淡い色彩の明るい作品が、どうしてこのコーナーの展示になっているのか、展示意図がよく分かりませんが、この展覧会には、そういう戸惑わさせられる展示が少なくありません。その代表が、この展示の目玉であるドムシー城の食堂を飾ったルドンの装飾画が一堂に会すというのに、広い展示室にそれを全部展示しないで、分けて展示していることですが、そこには、あまり深入りしないようにしましょう。この展示の中で他の作品が“黒い絵画”ばかりだったので、この作品が唯一のカラー作品で異彩を放っていたので、その色彩が際立った印象だったのかもしれませんが、背景の青が印象的であったこと。その青と群青の背景にクリーム色が侵蝕するような配置となって、その諧調の敢えて言えば海底の珊瑚礁のような無秩序さが、おそらく作品の中心であろう仏陀との関係がよく分からず、したがって何かを表現しているとか、ということとは無関係に、ただそういう背景だという無意味さ、それゆえに静謐さを湛えているところが、不思議な感じがしました。けっして絵画的な美しさとは思えないのですが、絵の具の塗りは丁寧さを感じられないし、眼を近づけてみると汚いとか投げやりと思ってしまうところがあるので。そういう背景をバックにして、画面の中心であるはずの仏陀の顔が空虚であるのも不思議です。いや、むしろ、この画面では仏陀という中心が空虚であるからこそ、仏陀を中心とした画面の構成ができていなくて、背景や仏陀の衣装の色彩が、それぞれテンでバラバラになっている状態になっていて、それが独特の色彩の諧調を見る者に印象付けているという結果になっているのかもしれません。仏陀という人物の存在感がないゆえに夢の中のぼんやりとした光景のような、フワフワした雰囲気を作り出している。そういう実体のない空気のようなところがルドンの作品の特徴と言えるかもしれません。

4.ドムシー男爵の食堂装飾

この展覧会の目玉です。美術館の一番広い展示室の壁面に大きなパネルに描かれた作品が並んでいました。しかし、私にはつまらなかった。たんに大きいだけで、色はきれいでないし、描き方は塗り残しが目立ったりしてぞんざいにしか思えない。全体に薄汚れた印象でした。なにか安普請の仕事が、時間の経過と共に粗が見えてきたという感じしかしませんでした。したがって、グランブーケも含めて食堂装飾の作品は素通りします。おそらく、この展覧会の感想を他にネットでアップしているところでさまざまな賛辞とともに紹介されていると思います。

それゆえ、それ以外の展示作品で目についたものを見てゆきます。「ドムシー男爵夫人の肖像」(右図)という作品です。正方形に近い縦長の画面で、夫人は構図の右側に寄って椅子に坐り、ほぼ真横といってもいいくらいの向きで画面の中央の方を向いています。夫人が身に纏うヴェロアの質感も明らかな衣装は、黒にも見紛う深い紫で、構図の半分以上を占める明るい背景と対比をなしていて、画而を引き締めています。背景は、左下に植物らしきものが描かれている以外は、特に具体的なモティーフの認められない、光の散乱する空間になっています。この背景は夫人の肖像を取り巻く曖昧な空間を、光の効果で形成していることは明からです。全体は霧のようなものとなり、夫人の頭部の背後と画面左下の部分が暖色系で、その間に画面左上から夫人の肩に向けてちょうど雲の切れ目のような水色を基調とした部分が見えます。画面の左側の部分は、白や黄色の小さなタッチが放射状に重なって広がっています。水色を基調とする部分と暖色系の部分は、一見すると空と雲のようですが、実際にはこの放射状の広がりの効果ゆえにそこに白く光を発する空間が開けているように見えます。さらに左下隅には、黄色を基調とした草花のようなモティーフが空間に浮かぶかのように描かれています。この背景現実とも非現実ともつかない空間の出現に重要な役割を果たしているのは光の効果であり、三次元的な奥行を不確定なものとし、形態と質感を不明僚なものとしてイメージを融合し幻想性を誘発しています。この放射状に広がっていく藷のような光は、そこに何らかの光源があるようにすら感じられます。それは背景の壁に当たる光ではなく、中空から神秘的な何かが発生してくるように見えます。そこに感じられるのは、金地という平坦で無機的な面がもたらす普遍性や安定感ではなく、印象主義的な筆触と明るい色彩によって生み出される、変化や拡散です。それは飽くまで現実のものから乖離し、ある種の聖性を帯びてもいるが、決して金地のような永遠の聖空間ではないと思います。しかも、全体の構図が、そのことを意識したもので、夫人は正方形に近い画面の中央ではなく、右側3分の一ほどに寄って。むしろ背景を大きく見せています。だから、この光に満ちた背景は、この肖像画においては、むしろ主役で幻想的な空間への入口になっていると言えるかもしれません。ルドンの絵画としては珍しいと思えるほど、丁寧に写実の手法で描かれている夫人の姿は、実は、この幻想空間を引き立てるために敢えて、そのように描かれたと思えるほどです。とはいえ、夫人の視線はあらぬ方向にあって、こちらを向いているわけではなく、無表情で、生き生きとした肖像画らしくない姿とも言えるので、こういうところが、ルドンらしいとも言えると思います。

「神秘的な対話」(左上図)という作品です。「ドムシー男爵夫人の肖像」のように人物を写実的に描いていません。「ドムシー男爵夫人の肖像」は写実的な人物と茫洋とした背景を対照させた作品ですが、この「神秘的な対話」は、そのような対照をつくらずに、中間的なところで画面の描写に統一性をもたせ、段階的な変化をつけている作品ということでしょうか。画家本人は、「ドムシー男爵夫人の肖像」の背景部分に親近感をもっていたのかもしれません。しかし、それは、例えばバルザックの「知られざる傑作」にでてくる老画家フレンホーフェルの「美しき諍い女」のようなものになってしまいます。この作品では、画面の下部や雲の描き方のようなところで部分的に現実とも非現実ともつかない形態と質感を不明僚なところを当てはめるようにしています。そうみると、対話しているようなポーズの二人の人物や神殿のような建築は、それらを当てはめて、作品を見る人に絵画を見ていると思わせるように仕向ける形式的な枠組みであることが分かります。そう考えると、できれば、それらは画面の中で目立たないように平面的(薄っぺらくて)で、ぼんやりとしていた方がいいわけです。ルドンは初期の黒い作品から、色彩を用いることに移行したことによって、形ということを見ることの主要な要素から外して、絵を見る者の便宜として、ひとつのツールにすることができるということを覚えたのではないか、それをこの二つの作品を見て思いました。

5.「黒」に棲まう動植物

版画集『夢のなかで』より「T.孵化」(右上図)という作品です。おなじみの、いかにもルドンという作品で、球形の卵ということなのでしょうか、それが円形の断面の中は男の顔が出てこようとしています。そして、次の「U.発芽」(左図)という作品では、同じ顔が球形から出て真っ黒の円形に囲まれて中空に浮かんでいるように見えます。また、画面全体は、「T.孵化」では真っ白で無ということをおもわせるような何もないというイメージで、「U.発芽」では暗闇という世界があるという画面になっている。穿った見方をすれば、発芽したことによって顔が誕生したわけで、人間であれば意識が生まれたことになって、人の意識は自分のいるところを、周囲の環境を自分にとっての世界と認識して、そこにいる自分を置くということで実存するということを考えると、ここでは、発芽することで世界が生じる。その世界というのは暗い世界だったというわけです。もちろん、ルドンはそんなことを意識して論理的に考えたりはしていないでしょうけれど、そういう解釈も成り立ちうる。こころなしか、顔のほうも、「T.孵化」から、「U.発芽」になって、すっきりと整っているように見えます。

版画集『起源』から「U.おそらく花の中に最初の視覚が試みられた」(右図)という作品です。目玉が花ということなのでしょうか。そう考えたとしても、その目玉をべつにしても植物とは思えないのですが、仮にそうとして目玉の周りに針のようなのがたくさん出っ張って広がっているのが花びらのようなものなのか、さらに、その外周に円状に描写が段階をつけて変わっていくのは、「ドムシー男爵夫人の肖像」の背景部分で、光が円状に広がっていくことの先駆けのようなものとして見ることが出来るかもしれません。「ドムシー男爵夫人の肖像」では色彩の変化とタッチによるグラデーションで、それを幻想的に表わすことができていましたが、ここでは白黒の版画の画面であるので、草の描き方によって、同じような効果をあげている。つまりは描かれている草の変化によって、「ドムシー男爵夫人の肖像」であれば空気とか光であったのが、生い茂る草の変化で同じような幻想空間を作り出していると言えます。そう考えると、ルドンの作品というのは、一般的な絵画では対象物が画面の中心にあって背景があるというのとは違って、背景の方がむしろ画面のメインの地位にあると言えるのかもしれません。この作品では題名のとおりに視覚が生まれることによって、視覚の対象として見られる世界が生じてきた。その世界が生じるところがメインであって、視覚は、その契機に過ぎない。したがって、単なる契機であれば、そのために都合として描けば良いのでとくにリアルである必要もないわけです。単なるスイッチです。この場合は生い茂る草を世界として描くわけですから、スイッチはその中にある同じような草である方がいい。そして、視覚が生まれるために目を付け足してやればいい。あとは、作品の画面の中で、“らしく”はまってくれていればいいというわけです。同じ版画集の「V.不恰好なポリープは薄笑いを浮かべた醜い一つ目巨人のように岸辺を漂っていた」(左図)という作品です。この画面にはタイトルで触れている岸辺というのが何も描かれていません。一つ目の巨人は大きく画面の中心にありますが、その背景が不定形の波か雲のようなのが一部にあって、あとは空白です。これは「ドムシー男爵夫人の肖像」の背景のようなグラデーションなのでしょうか。版画のために色彩の変化を使うことができないので、何ともいえないのですが。タイトルで岸辺と言っていることだから、何かしら描いているか、それを見る者に想像させるか、いずれにせよ、「ドムシー男爵夫人の肖像」の場合と同じように、この作品では、ひとつ目の巨人が明確に描かれていて、その背景と対照的になっている画面と見ていいのではないか。しかも、「V.不恰好なポリープは薄笑いを浮かべた醜い一つ目巨人のように岸辺を漂っていた」という題名からは、この中心に描かれているのは一つ目の巨人ではなくて、ポリープ、つまり瘤かイソギンチャクのような海洋生物が、たまたまそのように見えたということを言っています。つまり、不定形な物体なのです。一方、背景については「ドムシー男爵夫人の肖像」のように背景の不定形の部分が画面上の多くの面積を占めているわけではありませんが、こちらも形をなしていません。この前の作品「U.おそらく花の中に最初の視覚が試みられた」が、目の前に存在が現われたという作品であるならば、この作品は何かが存在しているということ、それがたまたま風景として現われているという作品と言えると思います。変な言い方かもしれませんが、このような幻想的とか、あるいは抽象に近いような画面ですが、それは理念とか理論でたどり着いたのではなくて、ルドンは実際に見えていたものを描いていたように思えます。明確に分節化されたような輪郭のくっきりした、私たちがリアルとかんじているような、見えかたで見ていなかった。見えていたのは、明確な形をした堅固で、それぞれに分節化された物体ではなく、周囲との境目が曖昧で、たえず流動しているような不定形で実体をなしているかどうかわからないような、そんなように見ていたのではないか。それを見たままに描いたのが、ルドンの作品ではないかと思えてきました。

版画集『陪審員』から「U.入り組んだ枝の中に蒼ざめた顔が現れた…」(右上図)という作品。背景は黒で、左下には枝が入り組んだように見えるのが黒の中に隠れているように、それ以外の背景は、グラデーションのように不定形の細かな形がびっしりと描き込まれていねようです。これを見ると、最初のところで、“わたしの黒”という画家の言葉から黒い作品としてみてきましたが、黒という色がメインではなくて、不定形な画面で、輪郭といったものを描かないので、グラデーションによって、それらしい画面にするので、黒で画面を塗り潰すことになった。そういうことなのではないかと思いました。黒というのは、たまたまで、画面を塗り潰してグラデーションをだすというのがメインだった。この作品をみると、背景の黒く見える不定形の部分がメインで、それがそのまま画面に描かれるという作品ではないかと思います。説明にあるような死の影とか暗闇とかいったこと、見ている人が作品を見やすくするためにつくった物語のひとつではないかと思えるようになりました。

6.蝶の夢、草花の無意識、水の眠り

「花の中の少女の横顔」(左図)という作品です。ドムシー男爵の食堂装飾もそうですが、ルドンは花を描いた作品を多く残しました。この作品も、それらのうちの一つでしょう。しかし、ルドンの描く花は、例えば先日見たブリューゲルの描いた花のように、精緻に描き込まれた写実的な花ではありません。むしろ、今までルドンの作品を見てきて、その流れで見てみると、花というのは、事物としての柔らかく輪郭が金属や岩石のようにかっちりしていない、固体といっても流動的な要素もある、不定形になりそうなものと見えてくるように思います。花が多数描かれている背景は、淡い色調の多様な色で彩色されていているので、モノトーンのグラデーションで何もないように見えていた作品とは異なるような印象を受けます。そう多彩な色をつかっているので色の変化で、花が描かれていることが分かるということになっている。それがバックのグリーンのグラデーションの中に溶け込んでいるような画面の状態です。これは、ブリューゲルや他の画家もそうですが、花と距離を置いて対象化して、それを観察したものを画面に再現するという描き方をしていると思います。これは写実的な作風の画家に限らず、モンドリアン樹木抽象画にしたときも、樹木を観察していて樹木の形象を抜き出して、それを抽象化していったものです。これに対して、ルドンの場合は花と距離を置いて対象化するというのではなくて、花に囲まれた中で、捉えているという描き方をしているのではないか、ブリューゲルにあるように距離感がないのです。間近に花があるというのでしょうか。モノを目に近づけすぎると焦点を合わせられず、ぼんやりしてしますますが、ルドンの作品の輪郭が明確でないのは、それに近い目の感じと言えます。中央の少女の横顔は、この背景と対比させるためのものでしょうか、ルドンの描く人物はおしなべてそうなのですが、生気がなくて、また、先ほど見た「V.不恰好なポリープは薄笑いを浮かべた醜い一つ目巨人のように岸辺を漂っていた」の一つ目などの方が生き生きとしています。不定形の引き立て役程度のものでしょう。「神秘」という作品も同じように見ることができます。

「オルウェウスの死」(右上図)という作品。竪琴と一体化したようなオルフェウスの頭部が画面の中心にあります。しかし、この絵で視線が行ってしまうのは背景の白一色の世界で、そのグラデーションによって生い茂る何枚もの葉を描いているところですが、葉の丸い形は、おそらくオルフェウスが水面に浮いているだろうことから、水滴か泡か、どちらにも見えるようです。一方白い背景は、画面下の青と緑との境目が曖昧で、おそらく青は水面で、緑は水草かなのかなのでしょうが、そういう空も水も草地も境目がなく融合してしまっているような渾沌が、視線を上に上げると白のグラデーションが見えてくる。そういう意味では、多彩な色彩で描かれた不定形が溶け合うようにして渾沌となっている。見る人に渾沌とは思わせないのが、オルフェウスの頭部が中央に描かれているからではないかと思います。

「コンポジション:花」(左図)という作品は背景の部分を画面全体にした作品といえるでしょう。いわば、このコーナーで見てきた、背景の対比として人物の肖像を画面中央において、いわば空虚な中心となって背景との対比関係を作っていた。その人物の肖像を取り去ったのがこの作品で、背景の部分をストレートに出した作品です。それだけに、今までの作品よりもルドンの特徴が純粋に表われているのではないかと思ったりもしますが、何か全体の印象が、他の作品には感じられなかったゴテゴテした感じがします。そう考えると、逆に他の作品では、空虚な人物が画面の中心にあることで、抜きの機能を果たしていて、画面がゴテゴテした感じになる事を抑えていたかもしれないと思いました。

7.再現と想起という二つの岸の合流点にやってきた花ばな

「花:ひなげしとマーガレット」(右図む)という作品です。今まで見てきたルドンの作風は異なって、ちゃんとした静物画として見る事ができる作品です。絵の具もきっちり塗られていて余白が埋められています。暗闇で左手から光が照られ浮かび上がるという画面はボデコンの雰囲気すら漂わせています。とくに、マーガレットの花の白とひなげしの赤が対比的に暗い中で浮かび上がって、それぞれの印象を強くしています。ルドンにも、このような色彩の緊張関係をつくる作品があるとは、この最後近くにきて、初めて出会い、とても驚きました。その反面、こんなことは、他の画家でもやっているのだから、何もルドンがやることもないだろうに、と軽い失望を覚えたことも確かです。ブリューゲルのような圧倒的な精緻さはルドンに望むべくもありません。ルドンにしては月並みにうつるのです。

「日本風の花瓶」という作品は、ますますブリューゲル風になってきました。花瓶の磁器の冷たいはだざわりと花の柔らかさを描き分けているなど、およそ、これまでのルドンにはなかった印象です。ルドンもやればできるころを示したがったのでしょうか。ブリューゲルとはちがって、ここではルドンは花の色を同じ系統の赤やオレンジ色を集めていて、反対色による対比からうまれる緊張はありません。むしろ、似た色が隣り合って、ところどころ輪郭が曖昧になるところがあって、背景も同系統の色を基調にしているので、一部で混ざり合っているような、つまり、ブリューゲルの花の絵は、暗闇から花が浮かびあがるように、背景と緊張関係を作っていて、はれだけに花がくっきりと前面に出て強調されるような効果をあげています。これに対するにルドンの場合は、背景との緊張関係はなくて、花と背景との区分が曖昧になっています。これは、花が背景のなかに取り込まれるような印象を与えています。ブリューゲルは地と図の対立があるのに対して、「花:ひなげしとマーガレット」は地と図が全部にわたって対立することはなく、融合というか混ざり合うような印象を見る者に与えるものとなっていると思います。「青い花瓶の花」という作品も同じ印象です。

「野の花のいけられた花瓶」(右図)という作品は、隅々まで丁寧に描き込まれています。それはそれでいいかもしれません。これらの花の絵は、ひとつだけ取り出して眺めるにはいい作品かもしれませんが、ここでのように展示場に並べられていると、ルドンの作品しては版画のような突出した特徴がないので、飽きてくるものであることは否定できません。ルドンが好きな人は、このような作品を何枚も見ていたいのでしょうね。

このあと、装飾プロジェクトとしてタピスリーの下絵が並んでいましたが、私にはオマケのようでつまらなかったので、これで終わりにします。

 
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