恩地孝四郎 展
 

 

2016年2月20日(土)東京国立近代美術館

近代美術館へ行くには、私の場合は、交通の便のいまいちで、閉館時間も早いので、行き難いというのが正直なところ。いつも、何かの用事のついでに美術館に寄るような私には、近代美術館というのは行きたいと思う企画展示があっても、余程のことがないと足を運ぶことがない。今回は、海外出張の帰りが、飛行機の便の都合で昼過ぎに羽田空港着だったので、帰宅に前に出張の疲れは残っているものの、無理して寄ることにした。強い雨の中、出張の大荷物を抱え、疲れの残る身体で、よくまあ、と我ながら思った。天候のせいか、企画のせいか、土曜の午後というにもかかわらず、混雑からは免れ、落ち着いた雰囲気ではあったが、抽象的な作品が大半で、しかも、展示の点数が多かったので、正直なところ、体力が続かず、途中で、見ている私が息切れの状態を起こして、展示作品の全部をちゃんと見たとは言えない。ただし、私自身のせいもあるが、展示されている作品に対して、強く惹かれるように感じられることがなく、無理して見ようとしていたことも、その理由としてあると思う。これは、展示作品がどうこうということではなく、私との相性の問題といえる。そのため、ここでは作品に対してネガティブなコメントを並べることがあると思うけれど、それは作品自体の価値ということからではなく、私との相性によるものと受け取ってほしい。

恩地孝四郎という画家とその作品について、私もほとんど知識がないので、主催者のあいさつを引用します。 日本における抽象美術の先駆者であり木版画近代化の立役者でもある恩地孝四郎の、20年ぶり3回目、当館では実に40年ぶりとなる回顧展です。恩地は抽象美術がまだその名を持たなかった頃、心の内側を表現することに生涯をかけた人物です。彼の創作領域は一般に良く知られ評価の高い木版画のみならず、油彩、水彩・素描、写真、ブックデザイン、果ては詩作に及ぶ広大なもので、まるで現代のマルチクリエイターのような活躍がうかがえます。本展では恩地の領域横断的な活動を、版画250点を中心に過去最大規模の出品点数約400点でご紹介いたします。

400点にもわたる展示のうち、多くが版画でした。よくまあ、これほど多数と呆れる反面、版画だからこそ、これほど多くの作品を残すことができたのではないか、とも考えることができます。そけは、恩地の作品の制作方法が主として版画であるということから、油絵をメインとして制作する画家とは、制作方法が違ってくることによる。そして、さらに、恩地の作品のあり方が、版画という一種の複製の要素が入った手法に拠っていることで、手描きによって個々の作品のオリジナリティーを際立たせなければならないという、一種の強迫観念のようなものを、多少は免れている、と言えるのではないかと思います。それは、肉筆の油絵であれば、画面のすべてを絵筆によって描かなければなりませんが、木版画であれば、画面の一部のある部分、例えば、重要と思うパーツを版木で一度作ってしまうと、それを何度でも流用できるわけです。そのパーツを画面真ん中に位置させた作品と、右隅に位置させた作品を、そのパーツを寸分たがわずに使うことができて、それをいちいち絵筆で描く手間をかけることが省略できるわけです。その手間が省略できる分、様々なバリエーションを試みることができるわけで、そのなかで、思いもかけなかった即興的な成果も生まれるかもしれない。すくなくとも、描く前に、頭の中で考えて、構想してだけでは追いつかないようなものも出てくる可能性もないわけではないでしょう。しかし、版画であれば、版木をスタンプのようにして様々なパターンを実際につくって試すことができて、それをそのまま作品にできてしまうわけです。分かり易くいえば、パソコンの描画ソフトで様々なパターンをモニター上で試すようなものです。恩地の時代はパソコンがなかったので、版画の手法を応用して、そのようなことをやった、などと考えるのは想像を飛躍させすぎなのかもしれません。しかし、実際に美術館の展示室に似たような作品がずらっと並んで展示されているのを見ていると、ひとつひとつの作品がどうのこうのというという対峙の仕方には、そぐわないように思えて仕方がありませんでした。抽象絵画にも、似たパターンを様々に試す画家は多いです。例えば、モンドリアンの一連の『コンポジョン』は直線と四角の組み合わせで、色も限られているのですが、完成した一つ一つの作品は、すべて独立しています。だから、それぞれの作品に対して好き嫌いが分かれるのです。しかし、展示されている恩地の作品を見ていて、そのような気は起こりませんでした。言ってみれば、恩地の個々の作品は、それだけを見るという一回性が稀薄になっていると思います。強いて、似たものを探すとすれば、ウォーホルのキャンベルのスープ缶のシルクスクリーン作品でしょうか。ちょっと意味合いは異なりますが。そのため、これから、具多的に作品を見ていきますが、この作品として、とくに作品をピックアップするという、従来の私の書き方とはニュアンスが変わってきます。たまたま、ある作品を取り上げているとして、他の作品と代替可能という程度、一種のサンプルのようなものとして、見ていただきたいと思います。

なお、恩地孝四郎という画家のことは、よく知らないので、解説を引用しておきます。“恩地孝四郎は10代で竹久夢二に私淑し、1914年に東京美術学校に通う田中恭吉・藤森静雄とともに木版画と詩の同人誌『月映』を創刊、表現者の道を歩み始めました。また装幀家としても人気が高く、萩原朔太郎詩集『月に吠える』や室生犀星詩集『愛の詩集』などに恩地の活躍を見ることができます。昭和期になると、ヨーロッパの新思潮に共鳴して構成的な人体像やクラッシック音楽に想を得た〈音楽作品による抒情〉シリーズを制作する一方、イメージと言葉とデザインの総合を目指した数々の詩版画集や、油彩画にも匹敵する重厚な肖像版画などを発表しました。戦後は、GHQ関係者として来日した外国人コレクターたちの理解と励ましを受けて、抽象美術に専念するようになりました。晩年の10年間に作られた版画作品の半数以上が海外の美術館や蒐集家の手に渡っています。”

 

T.『月映』に始まる1909〜1924年 

展示室に入るとすぐに目に入ってくるのは、18歳のときの「自画像」(左図)です。画像で見ると、稚拙ながら、青年ゆえの荒々しさというのか、勢いのようなものがあるように見えます。これを、実際に見た印象は、それとは少しずれていて、荒々しく絵の具が塗りたくられているようで、その割にはマチエールが感じられないのです。つまり、絵の具を塗りたくっているのではなく、このように絵の具を丁寧に置いているのです。荒々しい筆触のように見えるのは、顔という立体を筆で引いた長方形の平面の集まりでできた形態のように捉えて描いているように見えました。色遣いは、画像の荒々しい印象とは裏腹に、淡色系が主体で、唇の赤を除いて、どぎつさというほどの強いインパクトを持っていません。そこに、実体としての人物のどっしりとした存在感が稀薄なのです。この自画像を見ていると、普通の(?)油絵を描く見方ではなくて、デザイン画の見方に拠っているように思えるのです。分かりやすい類似例は、マンガの雑誌で連載の表紙の色塗りしたコマで、普通の白黒のコマと異なって色付けし、陰影をつけられているものです。これが、私の恩地の第一印象で、以降の展示作品を見ていくと、そのような印象が強まっていきました。

引用した解説にあるように“恩地孝四郎は10代で竹久夢二に私淑し、1914年に東京美術学校に通う田中恭吉・藤森静雄とともに木版画と詩の同人誌『月映』を創刊、表現者の道を歩み始めました。”という『月映』を通じて発表された作品がたくさん並んでいました。

例えば、「めぐみのつゆ」(右図)という作品を見てみたいと思います。木版画の作品ですが、私が一般的に木版画というものに対して抱いているものとは、いささかイメージが異なります。私が抱いている木版画のイメージは棟方志昴の作品(左下図)のような版木となる木という素材による制約を受けて、また木の特性を活用した表現を追求していこうとする作品です。具体的にいうと、木という材の硬さと柔らかさのゆえに、彫刻刀によって切り刻んだ跡が明確に形に残すことができて、それによって表わされるものは、ペンや筆で描かれたものとは異なった独特の感触を見る者に与えることができるわけです。この棟方の作品を見ると、彫刻刀によって刻まれた直線が、線そのものは鋭い切り込みがあるものの、真ん中あたりが曲線的な丸みを帯びたふくらみをもっていて、鋭いだけでない温かさも併せ持っているのです。この棟方の作品では、仏像の身体の輪郭や、その姿勢から生じる襞が、彫刻刀によって刻まれる線で表現されて、肉体の肉付きを連想させるような太さを持った線と、彫刻刀の勢いよってうまれる動きを感じさせる線となっていて、独特の官能的な味わいを醸し出しています。また、仏像の形態は、版木を彫刻刀で削るという技術的な制約による形態を活用して、その制約ゆえに独特のデフォルメを施したような単純化が、結果として写実では見えてこない素朴で宗教的な雰囲気を作り出しています。木版画という手法が作品の表現と一体化しているといってもいいのではないでしょうか。これに対して恩地の木版画では、棟方とはまったく異なる表現が行なわれています。この月と女性の姿は、棟方の作品の仏像のような木版画ならではのものとは違います。恩地の作品は一種の図案のようで、木版画にしなければならないということが、棟方の作品のように感じられません。例えば、彫刻刀によって刻まれる特徴的な線は、左下の草葉で用いられていますが、葉をこうしなければならないというものではありません。趣向の域を脱していないと言えます。ではなぜ、恩地は木版画などという絵筆で描くことよりも手間のかかる(彫刻刀で版木を削る手間もありますし、一度削ったら描きなおしはできないというリスクもあります)ことを、わざわざ手法として選んだのでしょうか。それは、ひとつには半楕円の背景の黒い部分が均一な平面にしたかったのではないかと考えられることです。版楕円のまわりは紙の白い地の部分で、黒い楕円の先端部分には大きな弓形の月が白く平面に広がるようにあります。それらが白−黒−白の色の対比と平面という共通性の基にある、という効果が、たしかに、この作品ではあるのです。そのように面としての均一性を確保するために、簡単な方法として木版画を選んだのではないか。そして、描かれているのは図案化された月と女性の形態です。私が思うに、恩地は版木の扁平な面を使って均一に彩色された面が欲しかったのではないか。

「泪」(右図)という作品では、図案化が進んでいます(私には、よりマンガらしく見えてしようがありません)。この作品では黒い三角形と四角形が交わる鋭角的な隙間に白く人の顔の一部を図案化したものが垣間見えています。その直線で区分された白と黒の対象に、目の丸い曲線が対比的に表われています。しかし、このような対照を表わしている作品であるにもかかわらず、対立の緊張感とか先鋭さは感じ取ることができません。それは、木版という素材によるものが原因していると思います。例えば、鋭い直線や曲線を均一に刻むのは難しいということでしょうか。この作品での線が素朴であるように鑑賞者の目に映るようになっていて、それが鋭さとか対照の緊張感を和らげているようです。それは、先ほど述べたこととは矛盾するようですが、木の表面が一様ではないので、版木を摺った黒い部分にムラがあって、それが却って人間臭さを見る者に感じさせています。この鋭くならないことによって、モダンでスタイリッシュな図案でありながら、それを徹底していないことで、温みのようなものとして受け容れ易くなる。イメージ的な言い方ですが、スタイリッシュという言い方からイメージされる先鋭性ではなくて、オシャレという言い方にある先進性と通俗性が綯い交ぜになったような、そのような雰囲気をつくり出していると、私には見えました。それが、恩地という作家のセンスであり、作品の肝ではないでしょうか。そのことは、恩地の作品のタイトルを追いかけていくと納得できるのではないかと思います。これまでに見た「めぐみのつゆ」「泪」それから「裸形のかなしみ」(左図)「抒情」といったような、およそ感傷的、自意識過剰、大げさなタイトルが並んでいます。そしてまた、流行の最先端のようなモダンで先鋭的なデザインと木版の温もり、そしてまた、タイトルの自意識過剰なセンチメンタリズム。それぞれが相容れない要素が混在して、というと格好良く聞こえますが、節操もなく、まるで流行を追い求めているような軽佻浮薄さが、そこには感じられます。今まで見てきている恩地の作品には、どこか浮ついた感じがしてなりません。

このことを、彼の生まれた時代背景とか状況で考えることを試みたいと思います。ここで、話を脱線させますが、恩地と少し世代がずれますが、ほぼ同じ空気を吸っていると思われる川端康成の『伊豆の踊り子』という小説をネタに考えていきたいと思います。この短編小説は登場人物である踊り子を時代の少女アイドルが演じて映画化されたことが何度もあり、一般によく知られている作品だと思います。しかし、この小説の主人公は踊り子ではなく、映画では踊り子の相手程度の位置づけにされている旧制一高の学生で、彼の一人語りの体裁となっています。かいつまんで粗筋を言えば、過剰な〈自意識〉に堪え切れずに伊豆の旅に出た一高生の「私」が、偶然に出会った旅芸人一行と共に旅する中で、社会的階級意識に起因する彼らへの偏見が無化され、肉親らしい愛情でつながり合った家族的共同体秩序の中に溶け込んでいき、純粋な幼さを失っていない踊子から「いい人」と思われることによって精神の健全さを自覚し、それまでの苦悩から解放されて素直に人々と関わり合えるようになる。そういう、言うなれば教養小説、悩める青年がさまようといった話です。

これは明治維新から始まった近代化政策が成熟期に達し、それに伴った社会の変化のなかで、人々の意識構造も当然変化していくことになります。その新しいあり方を体現していたのが明治の終わりに、生まれたときから近代化した環境に囲まれて育った、この主人公のような人々(川端も恩地も同じでしょう)です。彼らは、江戸時代以来の共同体的な人間関係の中で安定的に育まれはずの自己というものが、近代的な<都市>という従来の共同体文化を解体してしまった上に立った環境で育ちました。しかし、その一方で、人の意識はその変化に追いつくことができず、都市のような近代的になりえないため、時代環境に齟齬を抱き、そこに生じた葛藤を負うことになったのです。従来の家族や地域社会といった共同体は、彼らにとって安住できるものではなくなり、むしろ、そこから脱出すべきものと位置づけられていきます。それゆえ、彼ら自身としての個人は、共同体にいることができず、かといって近代的な自我を確立させ個人として独立することもできない。いうなれば、根無し草のような状況に置かれ、自己の拠り所を求めてさまよう。それが『伊豆の踊り子』の主人公の伊豆山中の彷徨であったといえるのではないかと思います。

ただし、このような悩みを抱えるというは贅沢でもあったわけです。『伊豆の踊り子』という作品では、このような悩みを抱えているのは主人公だけです。この小説は、主人公が踊り子と出会うことにより、癒され、自分の殻に閉じこもっていたのを、自己を開くように導かれていくというストーリーになっています。この主人公のような自己の殻に閉じこもるというのは、苦しいと感じる反面、甘美なものでもあるはずです。それがセンチメンタリズムというものの本質ではないかと思います。生活、もっというと生存の実体が伴わない机上で、小難しい概念とか知識をこねくりまわして堂々巡りに陥る、身も蓋もない言い方ですが、『伊豆の踊り子』の主人公の悩みを、この小説の彼以外の登場人物からは、そのようなしか映らないでしょう。

さて、ここで恩地の作品に戻ります。そこで、かなり短絡的な議論の進め方ではありますが(呆れられてしまいそうです)、恩地の作品の軽佻浮薄さは、上で紹介した『伊豆の踊り子』の主人公と同じような境遇から生まれてきたものではないか、と思われるのです。そして、恩地の作品を後世である現代の我々が受け容れて鑑賞しているのは、我々が、ここで紹介した大正期の根無し草の青年たちを引き継いで、現代でも同じようなあり方を続けているからに他ならないのではないか、と思われるからです。

そして、恩地の作品のタイトルの大仰で自意識過剰なところは、ここにあるような心象のなかで、恩地や彼の周囲に漂う雰囲気に敏感に反応したものではないか、と私には思えてきます。ぶっちゃけて言えば、ウケ狙いです。それは悪いことではありませんが、後世の人が、そのタイトルのものものしさに、過剰な意味づけをしてしまう危険はあると思います。

 

U.版画・都市・メディア1924〜1945年

展示は、3章に分けられていましたが、恩地の作品をひとわたり見わたすと、画家の生涯の時期的な区切りで作風が変化していくとか、成長していったとか、そういうことがあまり感じられません。むしろ、幾つかの方向性が同時併行で進んでいて、それが多少の紆余曲折はありながらも、ずっと続けていたというように見えます。そして、恩地という人は、ある種の軽快さ(軽薄さ)をもっていて、時々の流行に敏感に飛びついていたので、そういう作品が突拍子もなく現れるといった具合です。それで、400点という物量でした。ひとつひとつの作品は、どっしりとした重量感があるわけではないのですが、正直いって、これだけ並べられると疲れました。しかも、同じ傾向が延々と続くようで、さすがに、終わりの方では、疲れもあって、飽きを感じ、退屈にもなりました。

前のところで述べたかもしれませんが、展示されている恩地のひとつひとつの作品に対して、私は、とりたてて、この作品でしかありえないといったような作品の個性とか、この作品といった突出したものを感じることはなく、どの作品もそれなりなので、ここでも、これはという作品を取り上げて感想を話す、というのではなく、たまたま、恩地の作品群を語るためのサンプルとして、ここで語っていこうと思います。これは、恩地の作品全体に個性がないというのではありません。コンスタントにレベルの高い作品を生み出し続けるというのは、実はたいへんなことで、それを膨大な量でやっているというところに、実は恩地という作家の一番の凄いところではないかと思えるところもあります。

「裸婦白布」(左図)という作品です。このような裸婦のポーズは西洋美術では定番のポーズで、恩地と世代が近い藤田嗣治の似たようなポーズの裸婦(例えば「眠れる女」(右図))と比べると、恩地の特徴がよく分かるのではないかと思います。藤田の場合は、彼のトレードマークである透明感のある白がシーツ、猫そして裸婦の白い肌で使い分けられ、それぞれの使い分けられた白がグラデーションを付されて、シーツの波打つ様子や裸婦の肉体の陰影を映えるものとなっています。そして、背景の漆黒とのコントラストによって、いっそう白が妖しく輝いて見え、裸婦の肉体の凹凸のつくりだす陰影に視線がひきつけられてしまいます。これに対して、恩地の作品はどうでしょう。藤田が白を基調に作品を作っているのは明らかですが、藤田の作品にはピンク色が多用されているようです。しかし、藤田に比べると、ノッペリとした感じを免れません。シーツや裸婦に陰影はつけられていますが、藤田のような精緻さはなく、例えばシーツの襞や皺は図案のようなパターン化されているようにみえます。裸婦にも動きがなく、硬直しているように見えます。二人の画家の巧拙は別にして、こうして見ると、藤田と比べてみると、恩地の作品は肉体の存在感とか皮膚の柔らかな感触といった方向には興味が薄く、裸婦の形態とかシーツの織り成す文様とか色彩の意識的な構成とかいった要素を追究しようとしているように見えます。それはまた、「ダイビング」(左図)という作品では、水面から見上げたような視点で、水面に飛び込もうとする女性の胴体の黒い水着部分を切り取ったような構図が作品のメインで、(多分)若い女性の飛び込む際の肉体の躍動とか、筋肉のつくりだす陰影などは、ノッペリと絵の具が塗られてしまって見えてきません。これは、こじつけかもしれませんが、木版画の発想が影響しているのではないかと考えてしまうのです。木版画では、微妙な色彩のグラデーションで陰影を表現することはできないと言っていいでしょう。版木の面に塗料を塗って紙に摺るので、単純化が求められるわけです。その分、明確な形で、デザインの点で表現を追求するということになると、どうしても図案化の方向に寄ってしまう。屁理屈かもしれませんが、恩地の作品を見ていると、そのようなことを漠然と考えてしまいます。

これは、私が恩地の作品を見ていて勝手に妄想したことですが、初期の作品のタイトルが、裸形のくるしみ、抒情、死によりてあげらるる生、などと言った観念的なポーズをとっているのは、もともと恩地が内省的な傾向と、そんな恥ずかしいほど大仰なタイトルを臆面もなくつけてしまえる気障な性向があるように思えました。間違っても対象に心奪われて、それを衝動的に描きたくなるといった、いわゆる才能に突き動かされるタイプには見えません。恩地の作品には、純真に描くということとは別の動機があって、その手段として描くという傾向が感じられます。その一番分かりやすい具体例は売れっ子になって名誉と富を得たいというものですが、あるいは自己表現の手段として、とか様々な動機が考えられますが、それらに共通していることは、描くということと必然的に結びつかないということ、つまり、描くということは、目的のために、たまたま選択された手段にすぎないということです。いい意味でも、悪い意味でも、恩地の作品には、そういうことが感じられました。そのような恩地は、学校の友人に誘われてか分かりませんが、木版画の同人誌を共同で発刊します。その時に、木版の手法が、油絵の職人芸のような手法に比べて、工業的な効率性にあるように見えたのか、工業デザインの図面のような機能性のシンプルさのような図案のような傾向に流れていき、恩地自身、そこに現代のマーケティング用語でいう差別化の契機を見出したのではないかと妄想を逞しくしています。それが、恩地の裸婦像にはからずも表われていると、私の勝手なもうそうですが、そう思います。だから、このような具象画でも、これから見ていく抽象画でも、恩地にとっては、あまり、変わらないのではないかおもうのです。

「音楽作品による抒情 ドビュッシー「金色の魚」」(右図)という作品です。パット見で、地味なパウル・クレー(左下図)といった印象です。幾何学的な図形のようなパーツをレイアウトしたようなモダンさがあるのですが、それぞれのパーツは図形のようにスッキリしていない。輪郭などの線はバラついているし、塗りにはムラがある。何より、使われている色が地味で鈍クサい。全体としてユルいんです。私が抽象絵画というと真っ先に思い浮かべるのはカンディンスキーやモンドリアンといった画家ですが、彼らの作品は、もっとキチッと描きこまれていて、何よりも画面のすべてを隅から隅まで支配しつくそうとする強い意志が行き渡っていると思います。例えば、この「音楽作品による抒情 ドビュッシー「金色の魚」」を彼らが描いたとすれば、画面の真ん中右の黒い半楕円のような形について、左側の輪郭は定規で引いたような明確さで垂直な直線をカチッと引くでしょうし、黒い図の部分と背景のグレーの境界を明確な線でキチッと分けるでしょう。そして、その上から描き足されている金色の水玉に紛れて黒の輪郭が曖昧になることを許さないでしょう。そのことによって黒い部分と背景の間に対立的な緊張関係が生まれ黒い部分が浮き上がって、一方、背景のグレーの地の部分にも、そこに描かれていないという意味が生まれてきます。しかし、実際の作品は、黒い部分はキッチリしていなくて、真ん中左の薄いグレーの半円は、形も歪んで、塗りも中途半端で、あるかないか分からないようです。カンディンスキーやモンドリアンの基準では、作品として完成していない、というよりも、下書きとかスケッチ程度でそもそも作品としての形を成していない、という代物ではないかと思えてきます。それは、前回のところで触れましたが、恩地の作品に早くからあって、ずっとあり続けた基本的姿勢として、『伊豆の踊り子』という小説の主人公に典型的に表われているような、悩める自己、といういささか自意識過剰な意識です。この場合の自分は、未だ何者にも成っていない中途半端で、一種の過渡期、つまり、どっちつかず、の曖昧な状態にあると捉えられています。そのような視点で、この作品を見てみると、描かれている形は、手描きの不安定な描線のザラザラした触覚をそのまま表わすような曖昧さで、形の中身も中途半端な塗りになっていて、形が成り立っていない経過状況の宙ぶらりんのような在り方に見えてきます。むしろ、恩地は、意識的にそのように描いているように見えます。そのように描くことによって、どのような効果が生まれてくるのでしょうか。カンディンスキーやモンドリアンのような完結した世界を構築できていない、中途半端な、未だ完成していない印象すら与える恩地の作品を見ると、どうしても見る者は想像力を働かせることを促される、そうして補完して作品を眺めようとするのではないでしょうか。そのことによって、作品が見る人によって揺らぎを生むことによって、不安定さ=移ろいやすさ=はかなさ、を生じされる。それが、この作品に独特の抒情性を与えることになっているのではないか。別の言葉で言えば、余韻でしょうか。

これは、「音楽作品による抒情No_4山田耕筰「日本風な影絵」の内「おやすみ」」(右図)の淡い色遣いと、それぞれが透き通るように塗られた形態が、頼りないほど揺らめいた輪郭線などによって、全体としてはかなげな移ろいやすさと余韻を生んでいるように見えます。

展覧会ちらしに使われている「春の譜」(左図)という作品は、色彩においては原色に近い鮮やかな色遣いですが、明確に形を作ろうとしないところは、恩地の作品に共通していて、控えめな印象です。それは、通常であれば、アピールするところがないということになってしまうのですが、恩地は、それをあえて行なっている。そこに、この作品の特徴があると思います。

ここでは、とくに取り上げていませんが、展示されている絵画作品は少なくて、版画や本の挿絵やブックデザインがたくさんありました。このようなことから、とくに挿絵の場合には絵は傍役で過度な自己主張はできないと思いますし、ブックデザインにも同じことが言えるでしょうから、そのような姿勢が、恩地の絵画作品にも間接的に影響を与えているのかもしれません。というより、むしろ、もともとの恩地の作品に、そのような性格があったために、挿絵やブックデザインをすることも出来た、と言えるかもしれません。そのような商業デザインのようなところは、恩地の作品がスタイルとしては抽象画なのかもしれませんが、姿勢はポップアートの方に近しいのではないのか、と展示を見ていて思いました。もっとも、恩地には、ポップアートにある商業主義に対する批評性はないと思いますが。 

 

V.抽象への方途1945〜1955年

時期としては、数年間の戦争による統制から開放されて、制作に精を出し、占領軍の評価を受けて、積極的に作品を生み出して行った時期ということでしょうか。しかし、それで作風が劇的に転換したとは見えません。そこで、恩地の、この時期の作品を見ていて興味深く思われるのは、技巧的な成熟への志向が見られないということです。「あるヴァイオリニストの印象(諏訪根自子像)」(右図)という作品に描かれているバイオリニストは具象的な肖像ですが、初期の自画像と比べても下手です。かといって、抽象化したデザインにしているわけでもありません。これは、恩地が意識的にそうしているのか、そのような志向がないのか、私には分かりません。話は変わりますが、日本のコメディアンは年齢が若いころはドタバタのギャグをかまして笑いをとろうとするのに、一定の年齢に達すると、芝居の分野で渋い傍役に転換してしまう人が多いようです。若い頃は無茶にことを散々やったというようなことを言って(最近は、若い頃にロックミュージックのバンドにいた人にも、そういう例が見られます)、それをいい経験として渋い風貌を作ってみせるという傾向で、それは成熟とか洗練という評価を受けることが多いです。これは、他の分野でもそうですが、恩地の作品の変遷を見ていると、そういう傾向とは無縁で、若い頃のドタバタをマイペースでコツコツと飽くことなく続けていると思われるふしがあります。それがゆえに、決して悪いことではありませんが、ひとつひとつの作品は軽味の作品と思われるのですが、展示を通して見ていくと、ボディーブローを細かく喰らって、次第に足が止まってしまうような、身体がジワジワ重くなってくるような疲れを覚えさせられるのです。端的に言えば、退屈してきたとも言えるのですが。

この「あるヴァイオリニストの印象(諏訪根自子像)」という作品をみても、今までの作品であげてきた特徴がそのまま当てはまり、それが整理されているわけでもなく、相変わらずといった中途半端さがあります。

「リリック No.6 孤独」(左図)という作品です。マルチブロックという葉や紐、木片などを用いる手法を駆使したということですが、正直に言って、だからどうしたです。恩地の作品を愛でるということは、あまり目立った効果が分からないような試みを面白く見ていくということではないか、と思いました。恩地の作品の愛好者には、見当はずれとの誹りを受けるかもしれませんが。

 

 

 



 

 
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