2026年3月6日(金) 目黒区美術館
夜にサントリー・ホールの演奏会を聴きに行くので、少し早めに自宅を出て、この展覧会に寄っていくことにした。目黒の駅に着いたのは午後3時過ぎ。権の助坂を下って目黒川を渡って、美術館まで歩く。目黒川沿いの桜は枝が着られていて、未だ桜の芽が見えない。花の数を抑えているのだろうか。目黒川沿いの公園の中に美術館はある。
美術館に着いたのは3時半過ぎで、人影はパラパラ。平日の午後であり、そんなものか。来館者は一人で来ている人がほとんど。だから静かな雰囲気。
岡田健三という人については何も知らないので、その紹介を兼ねて主催者の挨拶を引用します。
“目黒区美術館では、戦前に欧米で学んだ画家や、戦後から現在まで国際的に活躍した画家、さらに地域と深くかかわる作家や、制作を支える素材や技法の特質をよく示す作品などを収集し、展覧会等を通じて紹介してきました。今回は、1920年代のパリと1950年代以降のニューヨークという二つの都市で創作活動を展開し、1935年には目黒区自由が丘にアトリエを構えて活動した画家・岡田謙三(1902〜1982)を取り上げます。
岡田は、東京美術学校(現
東京藝術大学)入学から約2年後の1924年にパリへ渡りました。一足先に同地でその才能を開花させた藤田嗣治と出会い、以後、生涯にわたって親交を結びます。また、同時期に諸外国からパリに留学していた若き芸術家との社交の場で、絵画の枠にとどまらない多様な意見に耳を傾けながら自身の表現を模索しました。1927年の帰国後は、二科会を中心に継続的に作品を発表し、中堅作家としての地歩を築きます。しかし、やがて大きな時代のうねりが、岡田に、これまで培ってきた技巧や様式を手放し、再度異国の地で実験と挑戦の日々を重ねる決意を促します。戦後早々に見据えていた渡米を1950年に果たすと、今度はニューヨークを中心に席巻していた抽象表現主義の画家と交流を持ち、苦悩の末に、淡い色面を組み合わせた独自の作風を確立させました。自身の根源的な感性への回帰の中に築き上げた静謐で力強い表現は、パリとニューヨーク、そして目黒のアトリエでの模索の日々を抜きに語ることはできないでしょう。この三つの都市での経験に影響を受けながらダイナミックに変遷した岡田の作風を、初期から晩年までの代表的な作品や、その制作を支えた画材や素材、エスキース等の資料とともに、検証いたします。”
それほど期待もしていなかった展覧会ですが、たいへん魅力的な作品が並び、とても充実した時間を過ごすことができました。展覧会のサブタイトルや主催者あいさつにある三つの都市とかそこでの交流とかいったことが前面にでると社交家が趣味的に絵を描いたと誤解してしまいそうですので、もっとこの画家の作品の魅力を前面に打ち出してもいいのではないかと思いました。例えば「幽玄な抽象」とか、もっともこれでは岡田の一面を言い表しているにすぎませんが。
展示は階段を上がって2階の展示室です。
1.パリから目黒のアトリエへ
岡田は、東京美術学校(現
東京藝術大学)入学から約2年後の1924年にパリへ渡ります。第一次世界大戦終結により、世界各国から芸術家が集い、活気に満ちたパリでの日々は、若き日の岡田にとって全てが新しく、視野の広がる経験となりました。モンパルナスのカフェなどに集まって議論していた芸術家たちの仲間に加わり、後に確立する抽象的な作風の基礎となる考え方にも触れ、さながら「心の訓練のようだった」と振り返っています。1927年の帰国後は、戦前から戦後にかけての時代のうねりの中で、これまで培ってきた技巧や様式から離れ、新たに実験の日々を積み重ねていきます。

展示室への入り口がロビーのようになっていて、そこに大作「高原」(左側)が展示されていました。これは1939年の作品で、岡田がフランスから帰国して、国内で試行錯誤の末に制作されたと言えます。1.9m×2.5mという大きな画面に多数の裸の人々(主に女性)が音楽に興じている様子です。描かれている光景はフランス象徴主義の画家ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの「諸芸術とミューズたちの集う聖なる森」(右側)を想わせる。画面上に十数人の人たちがひしめき合うようにいて、中には楽器を弾いたり、踊り出す人もいる。それなのに、画面全体としては静謐な感じがします。人々の配置とポーズを綿密に計算したのだろうと思います。それと、全体の色調が落ち着いたものとなっている。人々の描き方は、裸体を強調して、人の肌を輝かしく描くような人はせず、地味でくすんだ色を使っています。この人々は石像に見えないこともない。ペンティングナイフで細かく色を塗り重ねて、複雑な色彩や質感を表わす特有の画肌をつくった表われと言えます。これは、パリで藤田嗣治が「グラン・フォン・ブラン(素晴らしき白)」という独自の画肌で注目されたことを追いかけるようにして、この画家が作り出したもののように思います。それは、この作品より以前の作品を見ていくことで、分かると思います。
「静物bP」は1922年、つまり東京美術学校で学んでいたころの作品です。茶色い棚の上に果物や食器が並ぶ、シンプルな構図の地味な印象の作品ですが、よく見ると実にたくさんの色が使われていることに気づきます。光や陰影の部分には、現実の色とは異なるピンクや黄色、水色などが用いられています。さまざまな色が重なり合うことで、暖色からは温かみが、寒色からは透き通るような透明感や涼やかな印象が生まれ、見るたびに異なる感情が呼び起こされます。それだけ豊かに色彩が用いられているにもかかわらず、画面全体の印象は色鮮やかで多彩というのではなくて、地味で落ち着いたものとなっています。それは、色を点のように短いストロークで散りばめ重ねていく、印象派とは違う筆触分割のような描き方のためだと思います。そのせいか、輪郭が曖昧になっているように見えます。最初に見た「高原」のような画肌は、習作時代のこの作品から、その萌芽が見られる。

「花売り」(右側)は1936年の作品。おそらく、岡田はパリから帰国後、このような女性を描いた小品を何枚も描いて中堅作家として認められていったのでしょう。それにしても、背景の壁には、どれだけ多くの色が塗られていのだろうか。その複雑な色合いがさりげなくある。とはいえ、人物には立体感とか肌の柔らかさの質感とか、あるいは空間のパースペクティブといったことは、あまり感じられず、この人は写生とか形にはそれほど重きを置かない人であることが想像できます。「静物bP」から14年後の作品ですが、その間、たとえばフランス留学時や帰国したころの作品が見られないのが残念です。
「幕間」(左側)は1938年の作品です。この作品では、「高原」でのペンティングナイフで細かく色を塗り重ねて、複雑な色彩や質感を表わす特有の画肌が現われています。例えば肌の色の中にグレーが混じっていたりする。「静物bP」や「花売り」でもあった多彩な色を点のように細かく画面に置いていく点描のような描き方。それは、ここでは幕間の休憩時、客席の女性たち劇場の薄暗い照明の下でぼんやりと映しているようです。

このような描き方は、風景画では同じ年の「巴里風景」(右側)では、ユトリロの描くバリの風景(左側)と似たような画肌に見えます。岡田の描き方は、このようなユトリロや藤田嗣治のようなパリの画家たちの影響があるのではないか
2.戦時中 中国大陸や疎開先の風物
1940年代前半の日本は日中戦争から太平洋戦争に入っていきます。岡田は当時は植民地であった満州を訪れて、作品も残しています。その後、戦争記録画も描きました。
「満人の家族」は1942年の作品。この作品は、岡田が1941年から翌年にかけて旅行した、満州での体験をもとに描かれたものたせということです。多くの日本人が、朝鮮半島や中国大陸に足を踏み入れるようになった時代、朝鮮や台湾、中国に取材した絵画作品が急増したそうです。その中でも岡田の描いた満州の人々の群像は、スラリとした体形、人物のポーズと配置、色使いに、どことなく洗練されたおしゃれな雰囲気さえ漂わせているのが特徴的だということです。つまり、パリ帰りの洗練された都会的なテイストで描いている。例えば、画面の透けて見えるような薄塗りの重なりは、藤田嗣治のようです。「高原」とは違う画肌のつくりをしています。これは、モチーフが違うので使い分けをしているのでしょう。そのような技法の使い方の成熟が見られる。

「群像習作」(左側)は1943年の作品。とにかく圧倒されました。この作品だけ、展示された作品の中では異質で、突出していました。藤田嗣治の「アッツ島玉砕」(右側)の無数の人物が折り重なるように配置された群像表現との共通点が見られると説明されていましたが、藤田の「アッツ島玉砕」は戦争の狂気が恐ろしいほど迫ってくるのに対して、この作品は大きな運命に翻弄される人々の悲劇を伝えているように見えます。ここで描かれているのは戦場から逃れようとする人々の群れでしょうか。人々は折り重なり、それぞれに動き、それらが緻密に構成されています。それぞれの人の顔は描き込まれておらず、表情などは定かではないのですか、身体の動きによって、ひとかたまりの群衆というマスではなく、個々の人が個々に描かれているように見えます。それが、合わさって、全体として見る者に迫ってくる。また、複雑な色遣いが、色調のトーンをずっしりと重いものにして、臨場感のある作品になっていると思います。
「農婦」は1945年、空襲を逃れて宮城に疎開していたころの作品です。疎開先の農家の婦人を描いたのでしょう。とはいえ、田舎の農家の女性にはどうしても見えない。西洋人か満州の女性のようなエキゾチックな雰囲気があります。
3.目黒のアトリエでの再出発
終戦後、岡田は目黒のアトリエに戻り、戦前から試みていた女性像や群像などの人物表現に取り組んだそうです。戦後の混乱は、価値観の大きな変化と新しい文化を促し、それに応じるように岡田の作風は変化し始める、という展示内容です。
「シルク」は1947年の作品。2×3.2という大画面です。戦時中の息苦しいほどの迫真性と重厚さから大きく変化しています。「シルク」とはフランス語でサーカスのことで、題材が戦争とは異なるので、画面の感じも変わるのでしょうか。しかし、ここには「群像習作」のような人々が折り重なるようなところはなく、画面にサーカスの道化師や踊り子は並列しています。画面全体には奥行感がなく平面的です。岡田によれば、地ぬりしたカンヴァスに、まず中間色より少し明るい色の面を、調子を変えながら配置するのだと言います。こうしてできた色の面から発想して、テーマをかためていったということです。そのためでしょうか、使われて色が限られた単色の色面があります。しかし、作品に近づいて、よく見ると単色に見える色面はけっして単色ではなく、その面には複雑に多様な色が塗られています。それが独特のくすんだような色調を作り出していて、それが「群像習作」の切迫さとは異なる非現実的な画面をつくっていると思います。それぞれの道化師や踊り子たち形が単純化されているのは、色の面から画面が発想されているからでしょうか。デザイン的な感じがします。それを生かすように、それぞれの画面上の配置が工夫されているのでしょう。このような動きのあるデザインされた群像が平面的に工夫されて配置されているというのは、「鳥獣戯画」を想起させる。
「アトリエ」は1949年の作品。人物の形態は、さらに単純化され、この作品では、線で輪郭を描くだけのようになっています。例えば、画面右手のモデルと思しき立っている人物は、白地の背景に黒く輪郭が線で引かれていますが、その中身、つまり身体には、背景の白と同系統の彩色がされていて、一見では線でしか人物の存在が分からないような感じです。あるいは、画面中央のテーブルとその上の食器は単純化されて、図案のデザインのようです。それが黒い衝立を背後にして、白が浮き上がるように目立ちます。画面は、この黒を除いて、全体が白か淡い色調のグラデーションが基調となっており、そこにテーブルのようにデザインっぽい線描が描かれていると、全体として洗練されたおしゃれな雰囲気を感じさせます。こういうお洒落なところは、岡田の持って生まれたセンスのようなところで、この人の作品に共通してあると思います。
「五人」も同じ1949年の作品です。五人の人物が思い思いのポーズで画面に並んでいます。単純化された形態は、ただ人物が、どのようなポーズをとっているかしか分からず、その人物が若いか年をとっているか、どんな服を着ているか、といったことは分かりません。そういった要素は描かれていません。そういった要素が切り捨てられ、単純化されて、線で輪郭のみが描かれた人物は、抽象画やピカソなどのキュビズムの絵画のようにも見えます。しかし、それらとは違う。それは、抽象とか具象というのではなく、岡田の想うイメージを描いているとしか言いようのないものなのだろうと思います。そして、人物は形の輪郭を線で描かれ、その輪郭の内側を色面として塗り絵のように色が置かれるかというと、そうでもない。この作品では、輪郭と色面が分離して、別々になってきている。例えば、画面下部の三角形や四角形の色面が並んでいるのは、何か意味があるのか、何かを描いているのか。私には分かりませんが。そういうのが画面にある。
4.ニューヨークへの挑戦
岡田は、1950年、ニューヨークに渡ります。当時のニューヨークは抽象表現主義の中心地。“荒く大きな筆触や、にじむように広がる色面、全身を使って滴らせた絵の具が大規模なキャンバスを一様に覆う”ような作品は、岡田には、当初、理解しがたいものだった説明されています。そこでの試行錯誤が展示されている作品です。

「竹」(右側)は1952年の作品。これまでの作品は形体を単純化し、抽象的と言えるほどに要素を切り落としていましたが、それでも、その描かれているのが人であったり何らかの物であることは分かりました。しかし、この作品では、それが分からない。作品タイトルが「竹」ということなのですが、描かれているのが竹であるということは、そう言われても分からない。そういう何かわかる形ということを捨て去った作品と言えると思います。これは抽象表現主義の影響ということなのでしょうか。岡田の作品には珍しいほど筆触が大きく残っています。“画面右上では、初めに大まかな構図を決める線を引いて絵の具を重ねている。次いで、先端の尖った物で引っ掻いた細かな線を付け、茶色で白でこの時期特有の揺らぎのある形を描いている。また、流動性のある絵の具が上下左右方向に垂れており、キャンバスを回転させながら制作したと見られる。全体に光沢がなく、粒状のものが混入したような複雑な層がつくられている。(図録P.83)”岡田の画面は全体として落ち着いた静かな雰囲気がありますが、この作品では動感があると思います。
「花」(左側)は1954年の作品。「竹」の色面によって画面が構成されてつくられている方向性の作品です。この作品では、そのような画面に、花や草のようなものが散らされている。たとえば、和服の花柄模様のような感じです。この作品では、その散らされているのは写実的な花ではなく、抽象化された花のようなものです。ここで感じたのは、日本画の伝統的な花鳥画を、当時の現代絵画風にアレンジしたということです。

「雨」(左側)は1959年の作品。例えば、江戸時代の浮世絵、歌川広重の「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」(右側)のような雨の描写を抽象絵画のように描き直した、そんなふうに見える作品です。作品タイトルの「雨」は、何本も引かれた斜線が雨を連想させるからだと思います。しかも、絵の具の厚みや質感の異なる色面がコラージュのように配置されている。このような画面は、当時のアメリカ人から見れば日本的なのでしょう。これらの作品について、当時のニューヨークでは、“一杯に描き込まれた絵と数個の形が描かれているだけの解放的な絵、ほとんど抽象に近い完全な単純化”とリアリストと呼んでもよいほど細部まで正確な描写という両極端な要素を、一つの作品の中で組み合わせしようとし始めている”と評したということです。
5.ニューヨークで花開いた「幽玄」の世界
展示室が階段左の部屋に移ります。
岡田は、1953年のニューヨークでのはじめての個展を機に自分なりの抽象表現を見いだし、彼の作品は「ユーゲニズム」と評されたといいます。その個展の招待状の中で、“岡田の作品は空想や詩的な瞑想を含むイメージを、線から成る簡潔な形として画面に固定するという、日本人に際立った能力を想起させる”と紹介され、その展覧会評では、岡田の“作品が暗示的で、哀愁があり、深く感じられ、静かに説得力がある点が東洋の感性と結び付けられる”と評されています。「ユーゲニズム」は幽玄から作られた造語ですが、これらの評にある、静けさや瞑想的と受け取られたことの表われです。

「銀」(右側)は1954年の作品。具体的な形体もなく、幾何学的な図形もなく、色面が画面上に配置されているというだけ。ペインティングナイフやローラーなどを使って生み出した繊細な画面と、淡い色彩塗り重ねた色面で構成されている。岡田の、このような抽象的な作品はどうして生まれたのでしょうか。岡田自身は、自分の作品を抽象画とは言っていないとのことです。もともと、彼の絵画は色面で画面を構成していた、人物や静物を題材にした具象的な作品でもそうだった。つまり、もともとの色面による構成は具象でも抽象でも変わりはない。抽象画を描くために色面で画面をつくるのではなくて、色面で画面をつくっていたもののなかに抽象的なものもあるということ。おそらく、抽象画家とは、順番が違うのだろうと思います。それゆえ、岡田には色面というのは理念とか理論とかいったもののための手段として生まれたのではなく、もともとそういう見方をしている実体的な感覚によるものなのだろうと思います。
「黒と象牙色」(左側)は1955年の作品。このあたりの作品は色がタイトルになっているようです。色で作品を構想していたということがタイトルに現われている、というか、おそらくこの人は目指すべき形をあらかじめ決めて描くのではなく、制作のとっかかりとしてキャンバスに色を置いて始めていく。最終的なイメージ、そのプロセスのなかで見えてくる、そんな感じではないでしょうか。この作品では、幾何学的な図形による構成と見えながらも、モンドリアンのような計算された画面設計にあるキッチリとしてところがありません。明解さではなく曖昧さ。画面の四角形は境界がぼやけていて、形が正確でない感じがします。それが情感だったり詩的に見えてくるのでしょうか。
「間隔」は1957年の作品。縦2メートルを超える大画面には、多様なモチーフが絶妙な距離感で配置され、静けさと緊張感が共存するさざ波のような感覚を呼び起こします。特筆すべきは画面を占める白の表現。同じ白でも、麻のキャンバス地の天然の色を残したり下層に塗った別の色を絶妙に透かしたり。よく見ると、大胆さと緻密さが共存した質感は重層的で複雑です。

「黒と白」(右側)は1958年の作品。大胆に配された形象は真黒というよりも緑がかったニュアンスのある色合いで、背景との境に見える手書きによるわずかな線のブレやかすれとも相まって、印象的だが落ち着いた雰囲気です。白一色の背景は、薄塗りのなかにも微妙に塗り方に変化を持たせ、奥行きある画面となっています。ここでの形体そのものには意味がありません。その形体の揺らぎだったり、色面の塗りの感触に、見る者が感じる、あるいは想う。そういうところは、同時代に、同じニューヨークで活躍したマーク・ロスコの作品(左側)に通じるところがあると思います。ただし、ロスコは大きなサイズの作品による迫力で見る者を圧倒するようなところがあり、強引に見る者を瞑想的な雰囲気に連れ出すよう押し付けがましさがありますが、この岡田の作品は、そういうところがなく、静かに、そこにある。
「垂直」(右側)は1962年の作品。岡田は1958年に、一時帰国します。そこで、あらためて自身の身の回り小さなものの美しさに気づいた、自身のルーツへの回帰を経験したといいます。彼は、ニューヨークにもどり、千代紙や包装紙などの子供の頃に夢中になったものをアトリエの壁にコラージュするようになったそうです。この作品は、垂直な線がモチーフとなっていますが、色面の重なりと、それらが接する線に幾重もの色彩が見られ、また絵の具だまりなどもコラージュのように見えます。とくに、画面の中央を垂直な白く太い線が両断しているところなどは、その明確な断ち切りの感じがそうなのですが、では、断ち切られた画面を見ると、左右があっているところもあれば、そうでないところもある。それぞれの面において色の境界が曖昧だったりといった、一種の“あそび”があって、それが見る者の多様な解釈というか、自由さに開け放たれている。それは、並ん
で展示されている「《垂直》のためのエスキース」(左側)を見ると分かります。

「梅」(左側)は1965年の作品。白い色面が梅の花の形に見えるような気がする。その白はぼんやりとしていて、あえて言えば、朧夜にほの白く浮かび、漂うその香りまでも含めた梅のイメージ、その香るような感じが、ぼんやりとした白。それに対して背景はフラットで対照的。この「梅」と並んで展示されていたのが同じ1965年の「重」(右側)という作品。白の背景に黄色の入った白い太い斜めの線が浮き上がっている。色面の広がりと平面性が強調され、形象も極めて簡潔に表されている。色面の平面的な広がりと同時に、幾層かの色面を重ねていくことによって、画面奥方面へ深まり、広がっていく空間が感じられる。 その色面は、一見すると色紙を貼り付けたような、単純な色彩で構成されているかのように見えるが、その一つ一つに微妙な色調とマチエールがあることに気づく。この二つの作品は並んでいると対照的で、互いを引き立てているように見えます。
「雲と子供」は1966年の作品。油絵なのに紙のコラージュに見える、抽象の中に具象を溶け込ませた作品です。この頃、
岡田は紙を貼って構図を練る手法を好み、色面の重なりや紙をちぎった跡を思わせる白い輪郭線には、千代紙を破って遊んだ思い出がうかがえます。
「アッサンブラージュ」は1973年の作品。
“重ねられた色紙のような構図や視覚的効果を重視した表現が見られる。一見抽象的な画面も、その色彩によって、紙が破られたときに現われる有機的な線や、折ったときに現われる直線、重ね合わされたときに見えてくる影などの描写を指摘できることがある。そま一方で、同時にさまざまな手法に取り組んでおり、岡田の抽象的と形容さ
れる作品の中には、具象画を描くのと同じ視点と方法に基づいている場合があると言えよう。(図録P.8)”と説明されています。大和絵の雲の重なりを見ているような作品です。
この展示室の抽象的な作品を見ているうちに、だんだんと言葉で説明することができなくなっていきました。ただ、黙って見ていて、あまり考えずに呆としているうちに時間が経ってしまう。
「ダブルランドスケープ」は1974年の作品。2m×4.5mという大規模な作品です。1970年代になって、「梅」や「帆掛船」といった具象的なイメージが再び画面に現れるようになった岡田謙三の画風は、晩年になるにつれ、日本の古典的な装飾美を思わせる画面へと変化する。この作品では、題名にも表れているとおり、左右で作風の異なる二重の風景が展開し、作者の中の具象と抽象とのせめぎ合いのようにも見て取れる。とりわけ左側の画面には、日本の伝統的な「八橋」のモチーフや草花が認められ、作品全体に配された色面は金雲のようでもある。左右に分かれるカンヴァス、それぞれの画面に記されたサインなどから考えて、本作が分割可能な作品として描かれた可能性もあるが、2面で連続する構図からは、日本の障壁画や屏風を連想させるようです。
「春風」は1979年の作品。抽象的な作品なのでしょうが、まるで大和絵の絵巻物を見ているような、画面中の白が日本画の花鳥画の白のグラデーションのように見えてきます。
時間を忘れてしまうようで、気がついたら閉館時間が迫っていました。