生賴範義 展

 

2018年1月12日(金)上野の森美術館

今年最初の美術展見物です。上野の森美術館は上野公園の中にありながら、国立博物館や西洋美術館といったビッグネームの影になってしまって地味な存在。常設展のようなものはあまりなくて貸会場のような箱物なのでしょうか。時折企画展が話題になったり(最近では「怖い絵展」とか)していますが。そんなことや、開館時刻が午後5時までで金曜も5時にしまってしまうといったこともあって、私にとっては近くの美術館などには行くけれど、ほとんど足を伸ばすことのないところです。今回で2回目くらいか、前回の記憶がなく、ただ場所がどこにあるかくらいしか覚えていません。

それで今回は、イラストレーターで、映画のポスターや本の装丁、挿絵などで中でもSFやファンタジー関係の作品が多い人で、それと知らずに作品に触れてきたようなので、少し無理して寄って見ました。閉館1時間前の午後4時に受付して、入場者は多少多いと思うくらいで、鑑賞に支障をきたすほどではないが、少しざわついているねという程度でした。全体としての展覧会の印象は、私が美術館などでいつも見ている美術展とは違う、そういうものとは別物だったというのが正直なところでした。例えば、展示目録が用意されていない。したがって、地図を持たないで山に登るようなもので、会場で展示を見ていても、自分が展示の中のどのあたりにいるのか全体像を把握できない状態だったので、ずっと迷子になっているような感じに捉われていました。それはまた、展示されているものについて、タイトル等の最低限の情報はあったのですが、この人の画業の中でどのあたりなのか、といったことはなくて(私が今まで見てきた展覧会では展示目録に展示番号が附されていて、その番号が作品タイトルの掲示にも添付されていたので、全体の展示の中で何番目程度の目安はあった)、おそらく、この人のイラストを見に来るひとたちにはニーズがないと主催者は判断したのかもしれません。また、主催者からのメッセージの掲示もなくて、展示する側は、この人の業績をどのように捉えていて、それをどのように見せようとしているのか、そういう姿勢がまったくわからないままでした。これも、おそらく、入場者は来場して好きな作品を見ればいいと考えてのことかもしれません。しかし、私のようにこの人がどのように作品を制作するようになったのかというようなトスーリーを想像するような見方をする人間にとっては、かなり戸惑うこととなった展示でした。おそらく、生賴当人もそうなのでしょうし、彼のファンの人々も、この人の作品は基本的に注文仕事であって、生賴本人の意志とは別に頼まれた仕事を誠実に仕上げた、彼の技量の成果として作品を見るというものなのでしょうか。展示についても、注文者別というか、映画会社からの注文、出版社からの、時代小説、SF雑誌、ゴルフ雑誌、戦記雑誌などに小分けされての展示となっていました。つまり、生賴の作家性に中心を置いたという展示ではなかったということです。おそらく、生賴という人も、アーティストというよりアルチザンという意識をもっていたのかもしれないし、とくに作家性ということが絶対的に必要であるとは思いませんが、私の場合、そういう見方をするので、そうでない展示に最後まで戸惑い続けたという展覧会でした。美術展というと、どうしてもファインアートという感覚で見てしまうのですが、生賴の作品は商業ポスターとか挿絵のようなもので、ファインアートとしてみてしまうのは適切ではないと言われそうですが、たしかにここで書いているのを読まれた方は、私がファインアートとして生賴の作品を見ているかのような誤解を招いたとしても無理はないと思います。

ここで、いつもなら個々の作品を取り上げて展覧会の内容に対する感想を述べていくのですが、今回は、アトランダムに感想を述べていくことにします。それだけ、とりとめのないものになると思いますが。

映画「スターウォーズ」のポスターです。何枚ものポスターの原画が並べて展示されているを見ていると、実は同じパターンで人物キャラやメカといったパーツをとっかえひっかえして目先を変えてバリエーションをつくっていたことが分かります。だから、一枚だけを取り出して見ている分にはいいのですが、まとめて見ると飽きる。とはいっても、制作するのは、それぞれのシリーズの作品の公開するときで、まとめて見せることなど想定していないわけですから、それをもってどうだというのは変かもしれません。映画のポスターという制約もあったのかもしれませんが、「スターウォーズ」のポスターに限らず展示されている生賴の作品のほとんどが、一人または数人の中心となるキャラを画面の真ん中において、その周辺キャラやメカをその周囲にピラミッド状に配置する構図をとっているということです。画面に描かれるパーツの数が増えてくるとピラミッドの枠に収まりきれなくなる場合がありますが、そのときでもシンメトリーの構図を基本にしています。この構図を崩す場合でも、崩すので、あくまでも、この構図に基づいている作品がほとんどです(右上の画像は複雑ですが画面の左上から右下の対角線をハン・ソロの宇宙船が分けて、2分された画面のそれぞれでピラミッドが作られています。)。広く人々に見てもらう、見易さが重要な要素だったせいもあるでしょうし、生賴本人が構図を考えて主張を籠めるということをしなかったか、そういう発想で描くタイプではなかったか、ということでしょうか。もう一点は、画像で見ると精緻な感じがしますが、印刷されて、街角に掲示されることを計算しているのか、割と粗かったり、色も薄くさっと塗ってあったりと、筆の勢いとかいったことを重視しているということです。この作品では、背景の星は絵の具を吹き飛ばした点々のようだったし、宇宙船の表面の凹凸は目立つところを強調してはっきり描いて、その他は色塗りでごまかしているといった描き方です。塗りについても油絵のような絵の具を塗り重ねていくというよりは、日本画とか塗り絵のようなその色の部分をさっと塗るといった感じです。それゆえに、この作品であれば放射状に伸びていく流れ星の光跡を筆で一気に引く筆勢といったことが重要に要素を占めていると思います。その筆の勢いとか、線の入り、止め、払いといった勢いや力の込めるところなどで画面に生命感を作り出している。そういうところが、単にそれらしく巧みに描くだけにとどまらないで、生賴にポスター制作の依頼があった理由なのではないかと思ったりします。

映画「ゴジラ」のシリーズのポスターですが、構図はスターウォーズと同じで、重なって見えます。ゴジラを描くときも、その皮膚の凸凹になっている丸い瘤のようなものを強調して描くようにして、他の部分はサラッと流すように描いて、ゴジラのゴツゴツしたところを細密に描き込んでいるように見せている。その瘤の部分は、けっこう粗いタッチで筆触が分かるくらいなのですが、印刷されたときの像の精度では細密に描かれているように映ってしまうことを計算していると考えられます。しかし、その粗さが、むしろ国会議事堂を焼く尽くす灼熱の感じとか、ゴジラの力感を生み出している。そういうところが、単に精密に描写している以上の画面にしていると思います。生賴という人は、そういうパターンを見つけ出して、それを自家薬篭中のものとして、そこにスターウォーズやらゴジラやらといったものを当てはめて、それらが作品として成り立った。そういう画家だったように思います。すくなくとも、この展示を見ていて、そう思いました。そして、おそらく生賴の作品の魅力のベースは、このパターンにあるのではないかと思われてくるのです。

ゴジラの瘤は、生賴の描く人物にも同じようなことが言えます。生賴の「自画像」をみると、顔の筋肉が目立って隆起していて、まるで瘤のように強調されて描かれています。生賴の描く男性の顔は、ほとんどがこのような描き方で、それによって顔の特長が際立ってくるのと同時に、表情があるように見えてきます。しかも、男性の場合には、多少マッチョに見栄えするような見え方をしてくるようになっていると思います。

一方、女性を描く場合には、SFアドベンチャーという雑誌の表紙イラストに典型ですが、乳房といったパーツを強調して女性らしさの記号のあつまりのようなパターンを着せ替え人形のようなバリエーションで描いていたみたいです。おそらく、映画ポスターやメカ物の場合と違って対象が特定されて、描くものが縛られることが少ないので、ここに生賴の志向するところが端的にあらわれていると思うのですが、この人は正確さとか、写実といったことよりも、説得力、つまり見る人が、そうだと受け取ることができる、ということを主眼としていたということです。ここで描かれている女性たちは架空の神話やファンタジーでの存在ですが、当時の男性の願望する女性のステロタイプに添うものを描いていて、リアルな女性からはかけ離れていた。しかし、実は生賴の描く男性も、よく言えば理想化されたもので、たとえモデルがあった肖像画でも、実際にモデルを忠実に写した正確性を追求したものではなかったと思わせるのが、この一連の女性像に端的に表われていると思います。生賴の技量ゆえに巧みにファンタジーのキャラのようにまとめられていますが、いわゆるエロマンガの記号的な女性像あるいは少年マンガのエッチキャラと共通性があると思います。

そして、おそらく、生賴の作品でも支持が多いだろうと思われる、メカ、例えば宇宙船、あるいは第二次世界大戦の軍艦や航空機といった兵器等の描写について、ちゃんと調べて描いているだろうけれど、おそらく、いわゆるオタク系のファンが多いらしいので、この人たちが注目する細部について、知識のない人は見逃してしまうところを詳細に描きこんでいたりしているところが受けている理由のひとつでしょう。その一方で、パース、全体のプロポーションが、「あれっ?」と思うところがあったり、一部の細部を強調しすぎて、バランスがとれなくなっていたり、と思われる点もあると思います。例えば、この戦艦大和を描いた作品では艦の舳先とブリッジの向きが食い違っているように見えます。それは、女性像で乳房を強調して、わざとらしく露出させるのと同じことだろうと思います。そういう、見る者の願望に添って作品をまとめているところ、とくに生賴の描く兵器は重量感やマッチョ的な性格が強調されていると思います。ジャンルは違いますが松本零二の描く兵器の繊細さは、生賴の作品には感じられません。メカの虚飾を極限まで切り捨てたスッキリしたプロポーションというよりは、ゴツゴツした武器の塊のような描き方をするのが生賴の特徴ではないかと思います。ディテール強調というところがあると思います。その結果、ゴテゴテした感じになっている。しかも、戦闘の場面を描くのではなくて、兵器を人物キャラに模して画面を構成している。ゴジラのポスターのゴジラのところに兵器を置いたという画面になっています。

とりとめもなく書いてきましたが、会場で作品を感心しながら眺めている人がほとんどなので、個々の作品は興味深いし、それはそれでいい展示だったと思います。生賴範義という人は、そのようにしてファンから愛されるのだな、とは思いました。しかし、私のような人間は、生賴範義の表現者として(というような言い方は大仰ですが)、このような描き方をするようになったのは、もちろん注文主からの求めに応えているのでしょうが、その応え方というのか、ここで散発的にのべたことについて、その根っこを僅かでも垣間見たかった。それができなかったのが残念でした。

 

 
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