北欧の神秘─
ノルウェー・スウェーデン・フィンランドの絵画 |
2024年5月5日 SOMPO美術館 SOMPO美術館には、コロナ・ウィルスの流行がおさまって以来初めてで、以前とは様相が大きく変わっていました。まず、新宿駅西口から歩いてゆくとビルの横手で分かりにくかったのが、正面に移ってすぐ分かるようになった。受付が1階のロビーになって、並びやすくなった。そして、以前は展示がワンフロアだったのが、3フロアに分かれて、それだけ展示スペースが広くなったように思えます。この展覧会は北欧美術という、ルネサンスとか印象派のようなメジャーにものではないと思っていたのですが、ゴールデンウィークなのでしょうか、来場者は思ったよりも多く、後から後から人が来るという。また、最初のフロアでは撮影不可で、第2、第3のフロアは撮影可となっていて、最初のフロアでは係員が撮影不可の表示を街角のサンドイッチマンのように掲げて歩くという不思議な光景を見た。撮影可のフロアでは客のほとんどがスマートフォンを掲げて、作品を見るよりも撮影に忙しいようでした。例えば、絵の具が盛ってあるとか、筆触のような直接、作品を見ることで分かる画家の息づかいのようなものは、撮影した画像ではのっぺりしてしまって分からなくなってしまう。情報量が格段に違うのに、劣った情報の撮影にいそしむは勿体ないように思えます。だいたい、後でじっくり見ようと撮影しても、顧みられることなく放っておかれるのが関の山だろうと思います。撮影をしたことのない私の僻みでしょうか。 北欧の画家のことはよく知らないので、紹介もかねて主催者のあいさつを引用します。“本展覧会は、北欧の中でもノルウェー、スウェーデン、フィンランドの3か国に焦点を定め、19世紀から20世紀初頭の国民的な画家たち、ノルウェーの画家エドヴァルド・ムンクやフィンランドの画家アクセリ・ガッレン=カッレラらによる絵画をご紹介します。北欧は洗練されたデザインのテキスタイルや陶磁器、機能性に優れた家具の制作地として知られていますが、同時に優れた芸術作品を生み出す土壌でもあります。19世紀、ナショナリズムの興隆を背景に、それまでヨーロッパ大陸諸国の美術に範をとっていた北欧の画家たちは、母国の自然や歴史、文化に高い関心を寄せるようになりました。各地の自然風景、北欧神話や民間伝承の物語が、画家たちの手によって絵画や書籍の挿絵に表されました。ヨーロッパの北部をおおまかに表す北欧という区分は、一般的にノルウェー、スウェーデン、フィンランド、デンマーク、アイスランドの5か国を含みます。このうち最初に挙げた3か国はヨーロッパ大陸と地続きにありながらも、北方の気候風土のもとで独特の文化を育みました。このたび、ノルウェー国立美術館、スウェーデン国立美術館、フィンランド国立アテネウム美術館という3つの国立美術館のご協力を得て、各館の貴重なコレクションから選び抜かれた約70点の作品が集結します。本展で北欧の知られざる魅力に触れていただければ幸いです。” 展示はテーマ別にはなっていましたが、その区別が明確ではなく、それぞれのテーマでも、ノルウェー、スウェーデン、フィンランドの3か国のそれぞれで違いがあるという感じでした。私でも名を知っているムンクの作品も2作ありました。 序章 自然の力─北欧美術の形成 19世紀、ナショナリズムの高まりを背景に、音楽では、グリーグやドヴォルザークのように国民学派の作曲家が現われたようなのが、絵画においても、起こったということでしょうか。国民学派が民謡を取り入れたのと同じように、故郷の風景や伝説を題材に作品が制作されたということでしょうか。 会場に入って最初の作品がトマス・ファーンライの「旅人のいる風景」です。ドイツ・ロマン派のフリードリヒの影響が強く感じられる作品です。遠景に厳めしく荘厳な山岳が聳えていて、手前に枝を屈曲された巨木が厳しい風雪に耐え忍ぶ姿を現わす巨人のように屹立している。フリードリヒの作品のシチュエーションそのものです。例えば、「孤独の木」という作品が典型です。フリードリヒの場合、これはまるで何かしらの象徴と捉えられ、例えば、イギリス、フランス、ロシアという大国に囲まれたドイツを、枝を無理してでも広げている姿に擬しているとか、困難に立ち向かう人間に擬しているといった解釈ができるのです。この巨木に孤独な旅人が後ろ姿で描かれているというのもフリードリヒがよくやるパターンです。ファーンライと同じノルウェーの作曲家グリーグの作曲したピアノ協奏曲がドイツ・ロマン派の作曲家シューマンのピアノ協奏曲とよく似ている。多分、お手本として念頭において制作しているうちに、結果としてなぞるようなものが出来上がってしまったのでしょうか。私はノルウェーに行ったことがないので、何とも言えませんが、この作品は北欧の風景というよりは、ドイツ・ロマン派の風景に見えてしまいます。明治大正の日本の洋画家が、芸術の都パリに留学して、帰国するとヨーロッパの明るくカラッとした陽光と日本の湿潤な光との違いから、パリで学んだとおりに描くことができないことに悩んだといいます。おそらく、この北欧の画家も、イタリアやフランスの絵画を追いかけて南欧の絵画では北欧の光を捉えられないことに気がつき、南欧の陽光的でない北方風のドイツ・ロマン派を知り「これだ!」と飛びついたというところではないかと想像します。 そのとなりで、より大きな作品が、マルクス・ラーションの「滝のある岩場の景観」という作品です。ゴツゴツした岩稜の描き方などはフリードリヒの影響を見てしまいたくなりますが、滝を落としている切り立った崖が壁のように続いているのは北欧特有のフィヨルド地形ではないか思います。それよりも、この画家の特徴はダイナミックな滝の奔流の描き方だろうと思います。ラーションという画家は、もともと海景画を得意とし、荒れ狂う海で波にもまれる船舶や沿岸の風景を描いたと説明されているので、要領で滝を描いたのでしょうか。奔流や高く上がった水しぶきがこの作品の中心であることは間違いなく、全体に暗い画面の中で滝に光がさして明るく映えているところからもわかります。このスポットライトはバロック絵画の光と影をドラマティックに描いたのを思い起こさせます。バロック絵画では光が当たるのはキリストや聖母マリアだったりするのですが、この作品では滝です。そのことに北欧土着の自然信仰を想像するのは考えすぎでしょうか。フリードリヒの「山上の十字架」を連想してしまいます。 ヨーハン・クリスティアン・ダールの「山岳風景、ノルウェー」です。山岳風景というより山間の鄙びた村の風景といたところでしょうか。村に迫ってくるような背景の垂直の岩稜は明らかにフィヨルド地形でしょう。高い山に陽光を遮られて日陰になってしまっている谷間(背景の山の高いところは日向になっている)で光がさして照らし出されたようになっているのが村人が何かの作業をしているところです。「滝のある岩場の景観」では滝に光がさしていましたが、ここでは人々の営みに光がさしています。これは、山間の厳しい環境の中での人々の営みに、文字通り光を当てる、と考えると、ここには郷土愛のような心情のメッセージを読むことができるかもしれません。作者のダールという人は、ドイツに渡ってフリードリヒの友人になった人なので、ドイツ・ロマン派の持つナショナリスティックな心情をよく知っているでしょうから、このような読みは、あながち的外れとも言えないかもしれません。また、この作品の滝の描き方は「滝のある岩場の景観」の滝とは全く違います。このあたりに画家の個性もあるのでしょうね。今までの3作を較べてみると、それぞれイタリアやフランスの風景と違って、明るい陽光や開けた空間というのはない点で共通していますが、明るくない光の空間の暗さの描き方がそれぞれ違います。それが画家の個性によるものなのか、それぞれの国の風景の違いなのかは、私には分かりません。厳しい山岳風景といっても、セガンティーニの描くアルプスと麓の風景とは全く違いますね。 アウグスト・マルムストゥルムの「踊る妖精たち」という作品。山岳風景から妖精のいる幻想にかわります。月明かりに照らされた風景の中で、水の上で踊る妖精たちが描かれています。そのうちの1人は水面にかがみ込み、自分の姿を垣間見ています。ここでは、手つかずの自然の精霊のように、朝霧が妖精に変わる様子を描いています。妖精は、繊細で、優しく、敏感であると同時に、気まぐれで、すぐに感情を傷つけ、よく扱われないと腹を立てる傾向があると考えられていた、北欧神話の隠れた人々に登場する妖精は、地元の民間伝承の中で美しい若い女性として生き残っており、丘や森、石の山などに自然の中で生きていることがよくあるというとです。この画面では妖精たちが半透明に、白い霧のように見えるような見えないような微妙な感じに描かれていて、しかも、それぞれの妖精の顔が分かる。こういうのって、何となく北欧っぽいと思うのですが。ちなみに、現在でも、例えば映画「ハリー・ポッター」などのようなファンタジーでゴーストをこのように表わしていますよね。 第1章 自然の力 19世紀後半、ヨーロッパで興隆した象徴主義が浸透し、北欧独自の絵画を探求する画家たちは、母国の地理的、気象的特徴に注目した。雄大な山岳や森、湖といった自然風景、そして特徴的な夏季の白夜、太陽が昇らない冬の極夜、そしてオーロラが多くの作品の題材となり、特に冬の光景は北欧を特徴づけるものとして好んで取り上げられた。ということですが、象徴主義を感じさせられることはありませんでした。また。自然の風景は序章と重なるので、どう区別するのだろうか、疑問に思いました。時期が違うのでしょうか。序章が19世紀中ごろで、こちらは19世紀から20世紀にかけてということですかね。 アンナ・ボーバリ「羊飼い小屋のある風景、ノルウェー北部での習作」という作品です。これまで見てきた作品とは毛色が変わった。写実をベースにした描き方から、自由度が増したというか、この作品は習作かもしれませんが、塗りが平面的で、しかも色を混ぜないで、画面上で並べるように塗るのはゴッホなどを思わせるところがあります。それだけでなく、画面を見る者に何かしらの物語を想像させるように誘うところもそうです。鄙びた村の風景でも、ダールの「山岳風景、ノルウェー」とはずいぶん違います。時代の違いでしょうか。 ニルス・クレーゲルの「春の夜」は、象徴主義を感じさせてくれる作品でした。くねくねと曲がり、いくつも枝分かれしながらひろがっていく木の枝の様子は「春」の陽気なイメージとは反対の陰気で不吉な雰囲気です。単に樹という以上に、何か心情とか雰囲気というものを隠喩的に描いているのではないかと、表現主義的な見方をしたくなります。これまで見てきた作品は、誰々風というように他の画家を思ってしまうのですが、この作品は他の画家を想像することがありませんでした。同じ一本の樹を描いたものでも、序章で見たトマス・ファーンライの「旅人のいる風景」と比べて見ると、その違いというか、この「春の夜」の個性的なことがよく分かります。 ニコライ・アストルプの「ジギタリス」という作品です。チラシなどでは、同じ人の「ユルステルの春の夜」が出ていますが、私は、こちらの方が好きです。ジギタリスとは、画面向かって左前面の真っ直ぐ立ってピンク色の小さな花を何個も咲かせている草のことです。毒草、薬草として広く知られているのですが、このことはこの作品で意味があるのでしょうか。白樺の幹が画面全体に密に分布している中で、数本の木が伐採され、中地への開口部が生じ、そこで二人の少女がベリーを摘んでいます。この二人は対称的に配置されており、木の幹と相まって、構図に静的で図式的な印象を生んでいます。画面奥から右下へと、勢いよく水が流れる小さな小川が画面を区切って、前景には白樺の幹と苔むした石の間に緑豊かなジギタリスが塔のように立っています。全体に、平面的で、図式的で、ゴチャゴチャしていているのに整理された感じで、そういうところは、アンリ・ルソーなどを連想させられます。この画家はムンクに感化され、独特の鮮やかな色彩を用いたと説明されていますが、平面的なところはムンクに通ずるところがあるかもしれません。しかし、この人は素朴というか、あっけらかんとした、それゆえに暗さは感じられません。ちなみに、近くにムンクの「フィヨルドの冬」が展示されていて、わりと有名な作品らしいのですが、私には雑だとしか思えませんでした。 ヴァイノ・ブロムステットの「初雪」という作品です。白夜だか極夜だかの薄暗く、雪が積もって音が失われたような静けさが漂い、港とか街とか本来は喧噪しているはずが静かという幻想的な風景。こういう雰囲気は北欧のイメージにぴたりとはまります。おそらく写実的に描写しているのでしょうが、一面グレーに彩色された幻想的世界に見える。何となく輪郭がぼんやりして、一面霧がかかったようなベルギー象徴主義のクノップフの幻想的な風景画を連想させます。 第1章の途中から階段を下りてフロアが変わり、そこから撮影可となり、鑑賞者は一様にスマートフォンを取り出して、カチャカチャと撮影にいそしみ始めました。 第2章 魔力の宿る森─北欧美術における英雄と妖精 北欧の芸術家たちは、国際的な芸術的動向に目を向けると同時に、母国の文化的伝統に強い関心を抱き、土地に伝わる民話や伝承から着想を得た。序章も第1章も同じですね。やっぱり区別がつきません。あまり、こだわらない方がいいようです。北欧神話や民間伝承の世界を描いた作品が中心ということです。 アウグスト・マルムストゥルムの「フリチョフの誘惑」という作品です。この人の作品は序章のところで「踊る妖精たち」を見ました。あの半透明の妖精たちが流れてくる作品です。この作品では、前の白い半透明のファンタジーが黒一色の濃淡だけに限られた空間で、目を凝らして見ないと何が描かれているか判然としないような、それゆえに現実か幻想かはっきりしないような光景ができています。これは『フリチョフ物語』の一場面で、深い森の木立の中でフリティオフとのリング王が座って休んでいて、王は眠りに落ち、フリティオフは王の命を奪うべきか否か、激しい誘惑に駆られている場面ということです。鬱蒼と茂って、あたりを暗くしている針葉樹とその枝が何かを語っているようにも見えます。ドイツ・ロマン派は黒い森のおどろおどろしたのとは違った北欧の森は暗いく危険だけど、ひんやりとした雰囲気で透明感がある。 エーリク・ヴァーレンショルの「森の中の逃避」という作品です。これも暗い森の場面です。『オーラヴ・トリュッグヴァソン王のサガ』の一場面を描いたものです。オーラヴ・トリュッグヴァソンの母親が邪悪な女王グンヒルドから逃れるために、生まれたばかりの子供を連れて暗い森の中を逃げる場面ということです。人物の足元でたき火をしているのか、背中を向けている人物がカンテラを持っているのか分かりませんが、その灯りによって3人の人物とその周囲がぼんやりと浮かび上がる。これも幻想的に見えます。この第2章の展示コーナーのタイトルが「魔力の宿る森」であるそのもののように、ここで描かれている森は「異界」であり、人ではない超自然的な存在が支配する領域というような、おどろおどろしさが感じられます。夜の暗さの中で、灯火によりほんやりと照らされ、針葉樹の一部だったり、川の水面に反射してみえるのが雰囲気をさらに強調します。この画面の中心は逃避する人物たちより、周囲の森のおどろおどろしさのようにも思えてきます。 ここから、階段を下りて、フロアが変わります。ここからは、また撮影禁止になるので、落ち着いて見ることができます。J.A.G.アッケの「金属の街の夏至祭」という作品。、都市を描いてもいるので、どちらにも当てはまるとも言えます。フロアが変わって、第3章の展示となるので間違えそうですが、リストを見ると第2章になっています。ただし、この作品で描かれている都市は現実なのか幻想なのか曖昧です。スウェーデンの伝統行事である夏至祭の様子が、ビルのような建築物と並列して描かれ、その彩色と画面前方の水に映った虚像によって儚く強調される。その風景が淡い色彩で、モネの「印象の日の出」のようにぼんやりと描かれる。しかし、夏至祭に参加している人々ははっきり描かれるが赤く彩色され、現実感がない。裸のようにも薄いローブをまとっているようにも、音楽を奏でたり、踊っているようなポーズをとっているように見えますが、動きが感じられず止まっているかのようです。人というより人形のように見えます。全体が蜃気楼のような、儚い夢のようなのです。 この他は絵本の挿絵のような作品が並んで熱心に撮影する人が多かったようですが、スルーでした。最初の序章のところが一番面白くて、だんだんと尻すぼみの印象です。 第3章 都市─現実世界を描く 画家たちが自然の風景や伝説の物語から現実の世界に目を向けたということでしょうか。 アウグスト・ストリンドバリの「街」という作品です。ストリンドバリは有名な劇作家。日本でも、イプセンと並んで評価されていた。彼は、絵は素人で、主に執筆が困難になった危機の時期に描いたといいます。この作品は「街」といいながら、画面の7割方が雲で、キャンバス上に絵の具の厚い層が置かれています。パレットナイフで描かれているそうです。遠くに町があり、その一番高い建物が水面に映っている風景画です。この絵は高い空と雲の暗い色が大半を占め、ここだけを離れたところから眺めてみれば水墨画にも見えてきます。そして、白、黒、グレーの配色で、明るく照らされた街の木々が緑で描かれています。この雲はリアルというより表現主義的で、何らかの心情を象徴しているようにも見えます。例えば、同じような、画面中央に町が上下の境界線のようにあって上半分は曇りの空、下半分は海という構成の作品、17世紀オランダの風景画家ロイスダールの「北西から見たデフェンデルの眺望」と比べて見てください。画面の大部分は雲が湧いている空と手前の海ですが、あくまでも背景で、中心は町の風景です。町は精緻に詳しく描かれているのに対して、空の描き方は少し粗く控えめです。また、空と海は明確に区分けされています。それに対して、この「街」は街の夜警は遠景でぼんやりして、灯火や木々が黄や緑の点のように見えます。むしろ雲が前景のようになっていて、雲の方が絵の具の塗が厚いし、ダイナミックな動感があります。そして、画面下部の海は暗く波打っている様子は、上半分のダイナミックな雲と同じように描かれていて、海と雲は繋がっているようにも見えます。作品の中心は雲、そして海であることは明白です。画面の大部分を占める雲と海は暗く不安定で、心の不安とか動揺が全体で激しく渦巻いている。そのはるか奥の方にほっとするような街の灯りや木々の緑が、ぼんやりとかすんでいるのです。 ムンクの「ベランダにて」は、「フィヨルドの冬」よりは面白かったが、今日はムンクもありました、でよいと思います。 あとは定番のゴッホの「ひまわり」で、結局、尻すぼみだったか。ずっと以前、東京ステイションギャラリーでの「北欧の風景」でダールを何枚も見た時の印象がまだ残っていて、それを覆すところまではいかなかったようです。 |