「自画像」
 

日本語/English

 

松井冬子の学生時代の制作だそうです。実に丁寧にデッサンされ、手間をかけて描かれた自画像であることは、分かります。展覧会では、「世界の子と友達になれる」の直前に展示されていました。そのためか、私は、この自画像を単独で独立させて見ることができなくて、松井冬子の一連の作品として、しかも、「世界の子と友達になれる」とつながりを考えながら見てしまうことになりました。

そこで感じられるのは、「世界の子と友達になれる」にある、傷つくような痛々しさの画面の演出というものです。この自画像、デッサンと完成したものが並んで展示されていました。自らを傷つける演出という点で、デッサンに比べて完成作では色々な操作が為されています。例えば背景です。それから、髪の毛の部分が一面白く塗られ、フードを被ったようにも見えるようになってことです。ここで私が着目したのは、手を加えられ、何らかの操作がなされている処ではなく、手を加えられていないところです。その代表的な所は顔です。顔は丁寧なデッサンが、そのまま活かされ、美人といっていい顔がそのまま作品になっています。別に心理学的なバターン分析の真似事をするつもりはありませんが。顔には手をつけられていない。実は、他の松井冬子の作品でもそうですが、顔には一切手をつけられていない。身体の各部分は切れ刻まれていますが。その原点が、この自画像にあるように思えてなりません。

別に心理学的なバターン分析の真似事をするつもりはありませんが。顔には手をつけられていない。それは、自らのアイデンテティは確固としていて。決して崩れているわけでもなく、不安でいるわけでもないということです。つまり、作品には傷ついたりするところがありますが、それは自傷という側面で、やむに已まれず為されたのではなくて、画面上の演出して意図的、戦略的に加えられたのではないかということです。

これは、画家本人が様々な衣装に身を包んでメディアに露出し、自らがモデルになって装った写真を撮られたりというような、自画像でいえば頭髪の色を変えるというような外面を装うという志向の現われではないかとおもうのです。別の作品で、松井冬子の画面は外形的であると述べました。そのような捉え方が、松井冬子の視線の本質的な部分あるのではないか、それがみずからを見る視線にもあるように思えたのです

 
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