ますむらひろしの銀河鉄道の夜─前編
 

  

2023年3月7日()八王子市夢美術館

毎年受診している人間ドック。以前は、ゆっくり1日かけてやっていたのが、このところのコロナ感染対策で受診方法が変わって昼前に終わってしまった。それで、時間が空いたので、寄ってみた。一昨年から、外出自粛の関係で、ましてや都心まで遠出することもしなくなり、美術館を訪れることもなかった。時間が空いたから、久しぶりに美術館へ行こうかと思って、何か美術展やっていないかとネットで検索してみたら、予約が必要とのことで、今日、思いついて行くのは難しいようで、予約の必要のなかったのが、今回訪れた展覧会。訪れたのが、平日の昼過ぎで、場所が場所だけに閑散としているかと思ったら、入場者数はそこそこ。30〜40代の人が多いのかな。「銀河鉄道の夜」のアニメ版を見た世代なのかな。ますむらひろしという作家は、メジャーとは言えないが。まんが好きのコアなファンが少なくない人なので、そういう人なんだろうと思った。

いつもの通り、主催者のあいさつを引用します。

『銀河鉄道の夜』。宮沢賢治の数々の作品の中でもひときわ輝く謎めいた孤高の名作に、漫画界の異才ますむらひろしが挑み、大作『銀河鉄道の夜・四次稿編』(原作・宮沢賢治、作画・ますむらひろし)が生まれました。信仰と大地と共に生きた宮沢賢治と独特のファンタジーと猫のキャラクターで知られる漫画家ますむらひろし、それぞれの世界観が交錯し、昇華された美しくも切ない物語が読者の心に降り注がれます。

ますむらひろし最新作の『銀河鉄道の夜・四次稿編』は、全4巻・約600頁からなり、本展覧会では、そのうち既刊の第1巻・第2巻の漫画生原稿と創作資料、メモ、ラフスケッチなどを展示し、ますむらひろしによる「銀河鉄道の夜」の世界を紹介します。

このあいさつ文では、ますむらひろしが、どのような作家であるかは何も触れられていません。そういうあいさつは珍しいと思います。また、展示目録もないし、いつもの展覧会とは趣が違うようです。そもそも、マンガは、ハイ・アートではないし、あいさつ文では“漫画”と書かれていましたが、ハイ・アートの立場からは、漫画、まんが、マンガと区別するという発想はないかもしれません。そういうところから、マンガをハイ・アートの側から見るとこういうようになる、今さらながらですが、一つの例かもしれないと思いました。展示は、生原稿をストーリー順に壁に並べてあって。壁に囲まれた、真ん中のテーブルに下書きや資料が置いてあるというものでした。ただし、生原稿といってもセリフはすべて消されてあって(展示された原稿と印刷されたページを比べてみて下さい)、原稿と原稿の間に、原作の宮沢賢治の文章からの引用が、それだけで展示されていました。マンガは画として見られている、という姿勢でしょうか。それゆえに、マンガを見ているというよりは、挿絵を見ているような感じがしました。たしかに、ますむらひろしの画風には、そういうところがある。ひとつひとつのコマの中の画が完成している、というか完結している度合いが高い。画の部分だけで語っているというか、独立性が高い。

例えば、この小学校の教室を描いたコマ。明らかに遠近法で、空間が描かれています。とはいっても、天井の板目が平行に設定されず、焦点がずれています。また、教室の奥の縮まり具合に比しても、奥の机と人の大きさは釣り合っていない。そして、明らかに、手前で背を向けて立っているジョバンニが全体のバランスを破るほど大きい。しかし、これは意図的であることは、下絵と資料から分かりました。ますむらは、この1枚のコマのために、わざわざ教室の配置の図面をつくっていました。つまり、空間が緻密に設計されていたのです。そこまで緻密につくった空間を、わざと崩している。そこで感じられてくる、ちょっとした違和感、ズレの感覚はマグリットなどのシュルレアリスムのティストに似たイメージすら感じさせます。もっとも、この場合は、主人公のジョバンニと彼に向けられた教師の視線を強調しているのでしょう。別の、ジョバンニが道を、こちらに向けて走ってくるコマでは典型的というか、わざとらしいほど図式的なほどの遠近法の画面になっています。

ここで、より目立つのは、ペンで精緻に描かれていることと、その線です。ベンヤミンの複製芸術論ではありませんが、印刷ではオーラが失われてしまう、線の勢いや伸びやかさが、この生原稿では肉体感覚として迫ってくるのです。このコマで沢山引かれている線が一気に引かれているのが分かります。なぞったりすれば、こんなに一本の線がつながるはずはありません。曲線も滑らかです。その線を追いかけるのは、官能的な体験とも言えるほどでした。これだけ細かく引かれた線も無機的な感じがなく、息づいているのです。しかも、線の使い分け。例えば、登場人物たちの猫の体毛を極細の線が一本一本と、そのすぐ脇の身体の影を描いた掛け網の極細の線は違う線で、それぞれが明確に見分けられていて、混同されることは全くないのです。なんと細かい仕事だろうか。おそらく、アシスタントの手は、あまり入っていないのではないか。それは、違う線が見られないからで、そうなると、これだけの線のコマを多数、ほとんど一人で描いた、と考えられる、その膨大さは、驚異的手で、その仕事量には、頭が下がります。しかも、原稿だけでなく、下書きも下準備も細かいのです。展覧会のホームページで見ることができるのは多くが着色された原稿なのですが、絵の具が塗られると線が隠れてしまうので、私は、ペン書きの原稿をもっとページに出してほしいと思っています。

他方、着色原稿については、展示資料の中で、色をどのように使うかを事前設定された色見本が、びっくりするほど細かく行われている。例えば、夜の風景の黒の使い分けで広がる世界を見て下さい。

全600頁の前半だから300頁分の原稿と資料が展示されていたわけで、この量の膨大さには、今回の展示でも全部見切れなかった。途中で疲れてしまって、途中から流すように見たのだった。私には、マンガの、このような見方は、不慣れだし、マンガを見ているような気がしないのは確かだ。その大きな要因は、セリフや説明などの文字をコマから取り去ってしまっていることで、マンガには文字情報も含まれるので、例えば、こういうセリフをコマのなかのどこに置いて読者の視線を導くか、それによりセリフの位置づけが変わってくる。それが画との相乗効果をあげることになったりするのだが、それがストーリーにダイナミズムを与えるし、画もストーリーと切り離せない。そういうものだと思っている。リテラシーが違うということは、このような展示をみていて思った。

 
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