韓国の抽象─単色のリズム
 

 

2017年11月21日(火)東京オペラシティ・ギャラリー

未だ11月中旬だというのに、まるで寒中のころのような寒さに、身体が慣れていないので、なおさら見に堪える。年末の慌しい時期が近くなって、久しぶりに都心に出張する機会を得た。ここに感想をまとめることが習慣になって、美術館を訪れることが多くなったと思う。当初は、何気なく寄った展覧会の印象をメモしていたのが、感想をまとめているうちに、展覧会への接し方が意識的になって、最近は、求めて展覧会を探すようになってきた。ところで、10月〜11月というのは芸術の秋ということで美術展についてもひとつのピークの時期のはずだけれど、私にとって興味をそそられるような、面白そうなものが見つからず、今回は外出しても寄り道しないでおこうと思っていた。それでも折角だからと、時間つぶしでもいいからと、あまり期待しないで、寄ってみた。これが良かった。私の見方としては、一人の作家をじっくり見たいので、この展覧会のような、様々な作家を集めて、各々の作家の作品を摘み食いするような展示は、散漫に感じられて、好きではない。しかし、この展覧会は、展示されている作品によく似たところがあって、それをベースにそれぞれの作家を比べて、その差異から、それぞれの作家の作品の個性を認識することができるように展示されていました。全体的な傾向として、モノトーンの大きな画面(「単色画(ダンセッファ)」という1970年代の芸術運動とのこと)で、しかもその色遣いがモノクロだったりグレーの濃淡だったりと、水墨画の抽象版といえばいいのでしょうか、表面的には、そういう傾向の作品が多かったと思います。そのせいもあって、展示されている空間はギャリーというお洒落な言葉の響きとは少し違う、禅寺の居間にいるような静かで瞑想的な雰囲気を感じました。平日の5時過ぎという時間のせいもあるのか(このギャラリーは午後7時までやっているので、私のような勤め人にはたいへんありがたい)、鑑賞者もまばらで、その人たちも、思い思いに作品の前に佇んだり、室内の椅子に腰かけてぼんやりしていたりと、他の美術展でよく見かけるあわただしく作品を通覧するような人はいませんでした。東京オペラシティ・ギャラリーは初台という場所が、私にとっては意外と中途半端な位置になっているのと、展覧会の企画が私の好みといまいち合わないので、なかなか寄る機会がなかったのですが、今回も、今日のような無理をしなければ、おそらく寄ることはなかったと思います。しかし、今回の展覧会はよかった。しかも、同じ入場券で常設展も見られるのですが、難波田龍起の作品がズラッと展示されていて、戦後日本の代表的な抽象画家と企画展の作品を、あらためて比べることができるというサービスを受けることもできました。ついでに、三瓶玲奈という新人作家の作品も展示されていて、これも抽象的な作品で、抽象が好きな人には、絶対楽しめる展示です。限られた時間で、次の予定もあったので、残念ながら、全部をゆっくりと見ることができず、それでも予定の時間を超過してしまいました。できれば、機会をつくって、もういちどゆっくりみたいと思う展覧会でした。なお、展覧会場で配られる作品リストですが、この展覧会では小冊子になっていて、代表的な作品の画像と各作家の紹介が載せられていて、さながら展覧会カタログの簡易版のようになっていました。展示には余計な説明書がなくて、すっきりしているし、展示者の配慮がたいへん行き届いた展覧会で、こういうのを、他の展覧会でもしてほしいと思いました。

展示には、主催者のあいさつも掲示されていませんでしたが、概要すら全く分からないため、チラシの紹介文から引用します。“韓国の抽象絵画は、欧米の同時代美術を受容する過程で東洋的な精神性をたたえた韓国固有の表現として確立し、ことに1970年代に生まれた「単色画(ダンセッファ)」は、極限までそぎ落とされたミニマルな美しさと繊細な息づかいを特徴として豊かな発展をみせました。この動向を担った作家たちは、本国の韓国と並んで日本でもさかんに紹介され、70年代から90年代にかけて両国アートシーンの活発な交流をもたらしました。その後、2015年にヴェネチアで単色画の大規模な展覧会が開催されたことなどがきっかけとなり、急速に再評価が進んでいます。

(中略)欧米文化の受容から韓国独自のアイデンティティを探求するなかで獲得された静謐さと洗練をあわせ持つ作品からは、表現とはなにか、というシンプルで奥深い問いが投げかけられているようです。単色の画面に静かに響く呼吸は、私たちの感覚を研ぎ澄まさせ、豊かな視覚体験へと誘ってくれるでしょう。”

では、全部は無理なので、何人かの作家をピックアップして見ていきたいと思います。

 

■郭仁植(QUAC Iin-Sik)

和紙に墨で繭玉のような楕円形の斑点を無数に描いた作品が展示されていました。WORK−86−KK」という大きな画面の作品、和紙に墨で無数の斑点を描いています。一種の水墨画といっていいのでしょうか。白と黒のコントラストというよりは、和紙の表面は漂泊されたようなホワイトではなくクリーム色か薄く黄色がかった感じで、墨は薄墨なのか、滲んだり、かすれたりしているところがグレーのグラデーションを生み出していて、全体に淡い白黒の中間のグラデーションが基調になっています。その色調の淡い印象が第一。その色調に落ち着きとか、静けさが感じられます。ただ、墨を使ったモノクロの画面といっても水墨画とは違う感じで、水墨画のような一気に描いたというのとはちょっと違う感じです。この作品には水墨画にはない重量感があります。それは単に黒い部分が多いということではありません。この黒い部分にしても、実に画面の8割くらいが黒一色ですが、それは単一ではないわけです。画像ではなかなか分かり難いかもしれませんが。この黒い部分は、繭のような斑点が無数に描かれて、その斑点が稠密に重なった結果、隙間が埋められて黒い部分なってしまったものです。したがって、この黒い部分には無数の斑点が存在しています。それが数えきれないほど重なり合っているわけです。現物の画面に近寄って見ると、その斑点ひとつひとつが見えてきます。それを少し距離とって眺めると、小さな画面上凹凸、あるいは乾いた墨の上から墨をぬった微妙な色合いの違い、あるいは陰影などの差異によって不思議な模様、そこには規則性や計画性などはありませんが、それにもかかわらず秩序の印象を受ける。さらに画面の下方は斑点が蝶密になっていなくて隙間が余白のようになって現れています。それによって、ここでの画像でみても、この作品が斑点の無数の集まりであることが分かるわけです。それは、もしかしたら、まだ斑点で埋まりきっていない状態なのかもしれず、その点で、この作品が制作中なのかもしれないという過渡期の宙ぶらりんの印象、そこに動きの予感を秘めているWORKという1985年の作品は、上記の作品と同じシリーズなのでしょう。こちらは薄墨のようなので、繭玉のような楕円形の斑点が重なり合っても、淡い色で透けているので、「WORK−86−KK」のように埋め尽くすことにはなりません。しかし、下地の紙は「WORK−86−KK」以上に斑点で埋め尽くされています。しかも、薄いだけに斑点が重なることで生まれる濃淡のグラデーションが印象的に表われています。「WORK−86−KK」よりも、立体的とでもいうのでしょうか、奥行きあるいは深さを作り出している。つまり、動きの方向性が、こちらは多様に広がります。

■李世得(LEE Se-Duk)

「心象」という作品。この作家の展示は、この作品だけですが、他の画家たちの作品に比べて色の鮮やかさが際立っているので、この展覧会ではインパクトがあります。会場はパーティーションで区切りをいれて、会場全体を見渡すことができないようになって、各画家たちの作品がコーナーごとに展示されているようになっているので、この作品のコーナーに入って、突然、目の前に現れたという出会い頭のようだったので尚更でした。また、他の画家たちの作品がミニマリズムとでも言えるような繰り返しのパターンのような場合が多いのに対して、この作品は奔放な筆遣いで渾沌としているように見えるものでした。しかし、赤や青で原色に近い鮮やかな色を使っているので、カラフルではあるのですが、激しさとか荒々しさを感じさせることはなくて、基調はシロやグレーなので、落ち着いているのです。それが不思議でした。他の作品とは傾向が違う感じなので、ちょっとした気分転換のような見方をしてしまいました。

■権寧禹(KWON Young-Woo)

絵画というより貼り絵になるのか、韓紙(というのはどのような紙か、よく知りませんが、そう説明されていたので)をやぶいたり、丸めたり、貼ったりした作品。「無題」(とはいっても、この人の展示されていた作品は、すべて「無題」という作品名です)は、紙を丸めて円筒状にしたものを、その円形が正面になるように貼り付けて作られた作品。その不揃いの円筒が並んでいる。郭仁植の繭状の斑点を描いていく作品にも、そのような性格があるのだろうと思いますが。おそらく、権寧禹は最初に画面構成を計算して、設計図通りに画面に円筒を貼り付けていったのではなく、大雑把にこうしようというプランはあったのかもしれませんが、ひとつずつ円筒をつくり画面に貼り付けて、その都度、次はこうしようとか、ああしようとか感じたり考えたりしながら、結果として。このようになっている、という作品ではないかと思います。ゴールがはっきり見えていて、そのゴールに達したので終わり、つまり完成という作品ではなくて、どこへ行くか定めないで走ることをはじめて、どこかで本人が、この辺りにしましょうと思って走るのを止めたという作品ではないかと思います。したがって、走っている途中が続いているという、過程の状態にあると言えるのでしょうか。しかし、郭仁植の作品では、会場に展示されたところで、そこで作家が描くという作品の変化は起こりえません。静止した状態です。これに対して、この権寧禹の作品では、作家が作業を加えるということはないかもしれませんが、別の作用、偶然の作用、例えば、画面に貼ってある円筒は展示されている照明によって生じる影が変化します(ただし、このような凸凹にした陰影の変化の効果という点では、それほどのものなのか、見る人それぞれなのかもしれませんが)。また、この紙のごわごわしているような質感は微妙に変化する可能性を内包しているでしょう。それが、この作品であれば、円筒状の紙が画面にたくさん貼られていて、不恰好な模様のような様相となっているのが、何となく、落ち着かないところを感じるのです。ここで述べたようなストーリーを想像しなくても、完了していない感じ、宙ぶらりんな感じを受けるのです。郭仁植の「WORK」のシリーズには一応の区切りの感じがあるのですが、この人の作品には、そういう感じが稀薄なのです。それが、作品が開いた感じではなくて、落ち着きがよくない印象を受けます。それは、作者が意図しているのかどうかは分かりませんが。

別の「無題」という作品です。画面に紙を貼って破いたり、切れ目を入れたりしたという作品だと思います。これもそうです。権寧禹の作品では、そのような点で他の作家の作品とし異質なものを感じました。というのも、例えば展覧会で配布された小冊子にあった“極限までそぎ落とされたミニマルな美しさ”というのに対して、これらの作品の円筒状の紙や破られた紙は、どちらかという装飾に見えるのです。どう見るかは見る人の勝手なので、捉え方の違いでしかないのですが、それがどことないおさまりの悪さの感じなのかもしれません。

■丁冒燮(CHUNG Chang-Sup)

「楮 bW7015」という作品です。韓紙を水につけて溶かし、繊維を分解し、それをキャンバスの上に広げて定着させるという方法で制作された作品だそうです。一面に、薄い黄色ないしは黄土色とも取れる色面が広がります。目を凝らすと、紙が繊維状に分解し、キャンバス上に接着していることが分かります。一部は盛り上がり、また別の部分は薄く伸ばされ、さらに溶けてなくなっていました。それがキャンバスの上で凸凹とそれに伴う色面の濃淡をつくりだしています。偶然の変化をキャンバスに定着させたものといえるでしょうか。その結果として、その色面に表われている濃淡がつくりだしているものが、ダイナミックさを感じさせます。しかし、具体的に何か動く物体が描かれているわけではないので、見る者が、そこに動きを感じるかは想像力、イメージなのでしょうが。どこか、禅寺の枯山水の庭が水が流れている動きをイメージさせることに似ているかもしれません。それは砂に描かれて模様が水の流れシンボルのようになっているのではなくて、流れている動きの感じを直感的にイメージさせるからという点でです。したがって、枯山水の庭に似て、表面的には静かです。

「黙考 bX81001」も同じようにキャンバスに韓紙を定着された作品。この作品では韓紙は白く染められています。この作品は、サイズが182×227cmという大画面で、しかも隣に「黙考 bX81002」という同じように黒一色の作品が並んでいたこともあって、マーク・ロスコの作品を連想しました。そう思っていたら、この後の展示作品にロスコを想わせる作品が結構あって、通じるところがあるのかもしれないと思ったのですが。この作品に戻ると、ロスコの作品に感じられる重量感というのか、見る者にのしかかってくるような切迫感は、あまりない、というところが違いでしょうか。重量感がないのは、紙という素材の質感のせいかもしれません。そのために、落ち着いて作品との距離感を保つことができます。見る者に迫ってこないで、見る者の前で静かに佇んでいるというのでしょうか。それは、白とか黒一色である画面が、地味という印象で光を反射しないでいて、それは紙の表面のザラザラした質感によるのでしょう。それと、紙の小さな凸凹が微妙な陰影で白や黒の濃淡を作り出していて、それが光を拡散させているのでしょう。それゆえに、その白や黒の柔らかい色面に深さが感じられて、視線が吸い込まれていくような感覚を味わうことができます。それは、ロスコの作品とは正反対の方向性ではないかと思います。

■尹亨根(YUN Hyong-Keun)

「Umber−Blue 337−75 ♯203」という作品もマーク・ロスコを想わせるところがあります。タイトルはブルーですが、深い茶色が画面に真ん中に両側から滲みながら広がっていく、そのグラデーションに視線を誘われます。画面としては、シンプルで茶色と深い青が混ざったような画面の真ん中に太いストロークが入っているというものです。画面全体を見るのもいいのですが、私にはこのストロークの際のところが滲みためにぼんやりとしていて、そこに茶色のグラデーションが広がっているところ。境界があいまいになっている様子。これはロスコの雲形のぼんやりしたところにも似ているところです。しかし、尹亨根の方が、ずっとグラデーションの幅がひろく、その段階もずっと豊かです。私の主観ですが、ロスコと比べて、尹亨根の特徴というのは、ロスコは雲形のほうに描く重心があるのに対して、むしろ境目に重心があって、太いストロークは、その境目を設けるためにあるように思えてくるという点です。

「Burnt Umber & Ultramarine Blue 97− ♯19」という作品です。この作品では境目が曖昧でなく、形態が比較的ハッキリしています。展示は、「Umber−Blue337−75 ♯203」のとなりで、しかもこの作品はサイズが大きくなかったので、好対照でした。それで、隣り合わせていて、境目のあり方が全く違っているということで見較べていると、この尹亨根という人の興味は、やはり境界にあるのではないかと思えてきました。曖昧にしてみたり、画然とさせてみたりしていて、私の場合、視線はどうしても境界に行ってしまいます。この作品でも、2本の太いストライプそのものには、ロスコの雲形のような、それ自体に変化があって雲形をみているだけで時間を忘れてしまう、というところがなくて、ストライプ自体には、それほど視線を惹かれるところがなかったのです。余計なことですが、境界を気にするということについては、絵画を離れて、いくらでも物語をつくることはできます。そんなことは考えるつもりは全くありません。

■朴栖甫(PARK Seo-Bo)

「描法 bQ7−77」という作品です。画像では分かり難いかもしれませんが、キャンバス一面に白い絵の具を塗った後、それが乾ききる前に鉛筆でひっかくように線を走らせた作品です。その細い線が単純なストロークの繰り返しのようにひたすら上下に引かれている。195×260cmという大きな画面で、これだけの数の細かい線を絵の具を削ぎ落とすように、しかも絵の具が乾くまでの短い時間の間に引くというのは、気の遠くなるような集中力の持続を強いられるものだったことは容易に想像がつきます。一方、どこかで解説されていて知ったことですが、作者は、息子さんが習字の練習をしている後景からヒントを得て、子どもの習字の際に線をはらったり、点を打つ訓練を繰り返した原点に立ち返ってのものだそうです。この作品を見ていて、あまり厳しい修行とか、これだけ執拗に線をひいた迫力とか、「どうだ!」と、こちらを圧倒しようと迫ってくるものは感じられないのです。むしろ、言葉にはできないのですが、見るとそうだというような、線と線の間とか線の揺らぎといった微妙なものから感じられる洗練があるのです。結果として、見ていて心が静かに落ち着くような不思議な浮遊感に捉われる作品です。

「描法 bO00508」という作品も同じようにキャンバスの一面に絵の具を塗って、へらか何かで盛り上がった絵の具を塗り固めるようにして縞模様をつくっていったもののようです。左官の職人がへらやこてで土壁を塗り固めていくのと似ている作業ではないかと想像します。それも修業という鍛錬の成果ともいえるものでしょう。このシャープさと規則的なところから揺らいでいるところに身体のリズムと直結した肉体性を間接的に感じるところもあります。しかし、それはあくまでも間接的であって、それはシャープであるということは、余計なものを削ぎ落としているがゆえの最低限の簡素さの中ではじめて剥き出しにされてくる根源的な肉体の微かな揺らぎといったもののように感じられます。

■鄭相和(CHUNG Sang-Hwa)

「無題 91−3−9」と「無題 91−1−12」は並んで展示されていました。一見では、キャンバスに白とか黒のアクリル絵の具を一様に塗った作品のようですが。近寄って見ると景色が変わります。画面いっぱいに小さな絵の具の升目が入っていて、その途方もない反復に圧倒されます。これは説明によれば、絵の具で全面を塗ったキャンバスを絵の具の乾燥したところで木枠から外して、キャンバスの裏側に引いた縦横の鉛筆の線に従って折りたたんで絵の具に亀裂をつくる。それを再び広げて木枠に張って、亀裂の部分の絵の具は乾燥して硬くなっているので剥がれるので、そこに絵の具を埋めていく。その作業を何度も繰り返すと、このようになるといいます。これは、朴栖甫の細部を繰り返しの作業で積み上げていくのは、方向性が逆で全体にわたる作業を繰り返していくと細部ができていくというものです。しかし、方向性は逆かもしれませんが、単純な反復を気の遠くなるほど繰り返し、その間、余計なものは何も挿入せずに、単純さを積み重ねた結果は、一見何の変哲もない画面だったりするのが、実は途方もない複雑さを秘めたものとなっていて、そこに作者の身体性も内包されているという深みをもっている。朴栖甫の場合には、細部がある程度見えているという明晰さがあるのに対して、この鄭相和の作品では、細部の升目が近寄ってよく見ないと分からないので、表面上の何気なさ、静けさと、近寄って見た時のギャップが大きくて、そのギャップが見る者にとっては驚きと、それを隠すようにしている繊細なセンスを感じることができると思います。そのギャップがわかったところで、再び全体をみると、この黒一色あるいは白一色の画面にどれほどの深みを感じることができることか。

■河錘賢(HA Chong-Hyum)

「接合 84−2」という作品で、展示は画像のように一見モノトーンのような大きな画面の作品が並んでいるもので、この作品も、近づいてみると景色が変わります。それは展示風景の画像の右端で作品をほぼ真横から写している姿をみると画面の表面が凸凹しているのが分かると思います。この人もまた、また手間のかかる手法で制作しているようです。説明によれば、粗く織られた麻布の裏側に強い圧力で油絵の具を押し付け、そうすると絵の具は織り目をとおって向こう側に押し出され、表面には漉された絵の具が表出する。つまりは料理で用いる裏ごしのような作業。その押し出された絵の具を部分的にならして出来上がった作品ということです。だから、近寄ると、麻布の繊維がそのまま表出しているところもあれば、絵の具がギュッと押し出て波のようになっているところもある。朴栖甫や鄭相和には規則性がありましたが、ここでは、偶然に委ねられていて、不規則で行き当たりばったりの奔放さがあります。この人の作品もマーク・ロスコを想わせるところがあると思います。

■徐承元(SUH Seung-Won)

「同時性 99−828」という作品です。形態は不明瞭で、あくまでも色のみが、何らの輪郭線を伴わず、画面の中で広がっています。まるで画面から淡い光が滲み出しているように見えます。しかし、全体としては穏やかな雰囲気です。

■李禹煥(LEE U-Fan)

「線より」という作品。展覧会チラシやポスターで使われている作品です。作者は日本でも、比較的知られているひとらしいので、この展覧会の中でも中心的な作家らしいです。まず、ここで使われている青のきれいさは画像では分からないと思います。その青を1本の線として縦に一筆で引いて、それを何本も引いて、つまり繰り返して作品としています。この1本の線は、絵の具のかすれを含む筆跡は書や席画にも通じる一回性に支えられていると言えます。ここには、これ見よがしの作為を排して、作者の身体の奥底から起こるような自然の呼吸を内包しています。それは、おそらく作者自身も、日頃は意識していない、気づいていない自身の発見を伴うようなものではないか、と想像できます。

「風と共に」という作品では、単純な繰り返しではなくて筆の方向は奔放な方向に向いていますが、本当に風が吹いているような絶妙な配置と間、そして筆跡の乱れ。単に修業するような繰り返しを続けるだけではなく、そこにはセンスがベースとしてある。それが、展示されている作家たちのなかで明瞭に分からせてくるのは、この人かもしれません。

 

ここにあげたのは、印象に残った作家たちですが、個々の作家の個々の作品の展示というより、この展覧会全体としての雰囲気がとてもよかったと思います。ここで紹介した作家たちについても、この展示の雰囲気の中で見たということも印象に影響していると思います。

また、同時に開催されていた常設展で、階段を上がって、難波田龍起や三瓶玲奈といった画家たちの作品を次いで見ました。例えば難波田龍起の作品をみると、階段を上がる前のモノトーンで禁欲的な世界から、一気に世界が色づいて明るく開けたような感じがしました。例えば「メルヘンの世界」という作品のように、鮮やかな色をむき出しで配色することはなく、色遣いとしては淡い感じなのですが、感覚的なよろこびが自然と表われている、心情の軽やかさというものが、ここにきてはじめて感じられました。ここで、それに気づいたということは、今まで見てきた作品たちには、そういう悦びのようなものは要素として存在していなかった、あるいは、見ていた私が感じ取ることはできなかったことに気づきました。

また、三瓶玲奈の作品から感じられる溢れんばかりの明るさは、それだけでもよろこびを見る者に与える作品で、例えば「光の距離」という作品は、パッと眺めるだけで幸せな気分にしてくれるような作品でした。入場した時間が遅かったので、常設展を見る時間がほとんどなくなってしまったのは、とても残念でした。この人たちの作品は、今度、再び見たいと思いました。

 

 
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