2026年1月7日(水) 府中市美術館
今年はじめての美術展。この展覧会は大阪の中之島美術館で開催されていて、巡回で府中にまわってきたものです。それを待っていました。去年までなら勤めがあって、正月休み明け早々に美術館に出向くなどということはできなかったが、リタイアした身分になってそういう贅沢を満喫しています。武蔵小金井駅でバスに乗り込むと、平日の午後というのに、ほぼ満員状態。これは、美術館に行く人が多いのかと思っていたら、停留所のたびに降りていく。結局、美術館の最寄の一本木の停留所で降りたのは私一人だけだった。停留所でバスを降りると、進行方向に歩き、信号のある交差点の向こうが美術館のある公園の入り口。府中市美術館へは京王線の東府中駅から公園を散歩がてら歩いていくことが多いのですが、今日は風が冷たく、寒いので、バスで行くことにしました。館内は暖房が利いていて暖かく、コートをロッカーに預けて、エスカレーターを2階に上がると展示室。来館者は数えるほど。落ち着いてゆっくりと見ることができました。後で、気がついたら、昼過ぎに出かけて、美術館の閉館時間ギリギリまでいました。展示されている作品に惹かれたのはもちろんですが、のんびりとした気持ちで、館内を回ることができたのも大きいと思います。
小出楢重については、この展覧会の主催者あいさつを引用するのがいいと思います。
“西洋由来の油絵を日本人としていかに描くか─。小出楢重が活躍した1920年代の日本では、多くの洋画家がこの課題に直面しました。「新しき日本へ新しき花を発祥させるには根のない木を植えてはいけない」(「油絵技法」)と述べる楢重は、西洋の模倣ではない、日本に根差した油絵を追求し続けた画家であり、その作品は近代日本洋画の一つの到達点を示すものとして高く評価されています。
1887(明治20)年、大阪に生まれた小出楢重は、東京美術学校(現、東京藝術大学)を卒業後、1919(大正8)年の二科展に初出展した「Nの家族」で樗牛賞を受賞。32歳で画壇へのデビューを果たします。1921年から翌年にかけての欧州への短い旅で、西洋美術の根底にある歴史や伝統を目の当たりにし、日本人としての油彩画の創作を強く意識するようになりました。帰国後はより洗練された作風によって二科展を中心に活躍し、関西の洋画壇を代表する画家として存在感を示します。1926年の芦屋への転居後は一層充実した創作活動を展開し、1931(昭和6)年に43歳で急逝するまで、静物画や裸婦像を中心に比類のない個性を持つ傑作を数多く生みだしました。
本展では、楢重の初期から絶筆にいたるまでの画業を各時代の代表作とともにたどり、創作の軌跡を展観します。特に、日本人女性の裸身を魅力的に表現し、楢重芸術の真骨頂とされる裸婦像については、晩年の傑作を選りすぐり一堂にご紹介します。また、楢重が芸術性を高めたガラス絵をはじめ、日本画、挿絵、装飾、随筆など、多岐にわたる分野で発揮された才能にも光を当てるとともに、1924年に大阪で開設され、関西の洋画教育をけん引した信濃橋洋画研究所の活動を特集します。
本展が改めて楢重のめざした「新しき油絵」の魅力を発見するとともに、その人柄や交友関係、画家が生まれた時代などにも思いを馳せる機会となれば幸いです。”
展覧会チラシを見るかぎりではデフォルメのきいたゴッホなんかの系統なのかと先入観をもっていましたが、この展覧会で、その偏見を見事に打ち壊されました。この人は、ゴッホのような天然ではなく、計算ずくで、このような作品を描いていた。それでは、個々の作品を見ていこうと思います。
第1章 画家になるまで 1887〜1916
東京美術学校の日本画科に入学し、途中で西洋画科に転科します。同校を卒業後、画家をめざすも芽の出ない時代が続きます。いわゆる修業時代の作品です。
「三泊旅行スケッチ」は1906年の水彩画。小出の出身は商家で芸術的な環境とは言い難いなかで、好きで絵を描いていたのでしょう。水彩画として、形をしっかり捉えられた、ちゃんとした水彩画で、風情さえ感じられるものとなっていると思います。当時はみづゑ(水彩画)による絵葉書流行の時代で、描写にも一つの型が生まれてきているということですが、ここにはその影響が見られる。これでは、東京美術学校の西洋画科に入れるような体系的な勉強を重ねていたわけではないということです。それで、小出は入試倍率の高い西洋画科には入ることができず、志願者の少なかった日本画科に何とか滑り込むことができたということでしょうか。

「羅漢図(李龍眠模写)」(左側)は1908年の作品。東京美術学校在学時の日本画作品です。李龍眠は北宋時代の人で羅漢図といえばこの人という評価の高い人で、日本でもそれを真似た李龍眠様の龍がさかんに描かれたということです。並べてあげているのは、室町時代に日本で描かれた李龍眠様(右側)です。小出の模写は、素直で、のびのびとした感じですが、古色を模さず明るく描かれています。このあたりにも、小出の志向が抑えきれずに出てしまっていると言えるのではないかと思います。小出の言葉が展示のキャプションで添えられていました“東洋画を天国とすると西洋画はこの世である。あるいは極楽と地獄の差があるかもしれない。ところでわれわれ近代の人間にとっては極楽の蓮華の上の昼寝よりは目のあたりに見る処の地獄の責苦の方により多くの興味を覚えるのである。その事が如何にも私を油絵に誘惑した最大の原因でもある如く思える。”現実をリアルに描きたいということでしょう。小出は、日本画の素材では到底自分の要求を満たすことができなかったのでしょう。友人に群青と緑青を桝一杯浸かって描いてみたいと語っていたとのことで、小出には色彩を充満させた豪華な装飾画の制作を意図するところがあったらしい。さらにいっそう小出を魅了したのは、油絵の具独自の張りのある色沢や密度や、強靭さであり油絵特有の写実的表現であり、重厚で艶のある油絵の具の色沢は、小出にとってもともと子供の頃からの嗜好と深い結びつきをもっていたのではないか、と。

そして素描は1911年というから東京美術学校在学中のものでしょうか。西洋画の素描を習得しようと懸命に努力したものということです。形態はきっちり捉えられているし、女性の肌の柔らかな質感まで表現されている。しかも、情感までも漂っている。このまま写実的な方向に行ってもいいのではないかと思わせるほどです。
「自画像」は1913年の作品で東京美術学校の卒業制作となりました。当時の東京美術学校西洋画科は黒田清輝をはじめとして外光派といわれる人たちが教師の主流であったそうで、その教育も印象派の影響をうけた外光派の手法を指導していたそうです。しかし、小出の作品は、外光派でもなく、かといって外光派の教育に反発した生徒が拠り所とした後期印象派でもなく、写実的で、古典的な表情を示しています。レンブラントや岸田劉生を想わせるような、この「自画像」は、暗い室内に左右から射し込んだ光によって、人物の首から上だけが、ポッカリと暗い画面に明るく浮かび上がっています。青黒色の暗い色調の中で、顔と、背景のもやもやした浮世絵人物に、僅かに赤系統の色が施されて、にじむような美しさを見せ、左右の光線によって円みや立体感を出そうとしている。素直な写実描写で、後の小出の特徴はまだでていません。
「銀扇」も卒業制作の作品です。暗い室内に人物を立たせ、顔や身体の一部に光を当てて対象を明るく浮かび上がらせいますが、小出の大正初期の油絵には、こうした明暗処理の古典的効果を好んで描いた作品がいくつかあります。少女の着物は濃い紫色で、暗い背景とともに明暗の
効果を強めるために、色彩は抑えられ、色数が少ない。とはいえ画面下部の、敷物のさまざまな色模様の、画面への装飾的な働きかけは、裸婦の周囲をゆたかにしきさいで飾り立てる後年の作品につながっていく要素が現われていると思います。
「山の初夏」は1915年の作品です。小出は東京美術学校卒業後、故郷の大阪に戻ります。彼の実家は老舗の薬屋で、油絵という芸術とは無縁の商人町にあります。そこに、小出楢重が収入のあてもなく家族や親類、そして近所に気を遣いながら、絵を制作する生活に入る。肩身が狭いでしょうね。でも、現代で言え
ばプータローで生活できるのですから、経済的には恵まれていたと思います。周囲から見れば、自分勝手な放蕩息子です。それゆえ、というわけではありませんが、小出は展覧会で入選するという権威を得(これは画家として認められることでもあります)ようとするわけです。しかし、もっとも権威があるとされた文展には、落選を続けます。この作品は第2回院展で入選を果たします。とはいえ、官展である文展とは大阪での知名度は届かないものでした。この作品は、奈良の風景を描いたもので、近景は平坦な草地で、中景右寄りに土坡があり、その背後に赤松の大木があります。遠景は若草山を想わせるなだらかな小山で、中景の起伏には緑濃い樹木の茂みが描かれています。近景は明るい緑、中景から遠景にかけては濃い緑で、その中に赤松や地肌の明るい褐色が画面の色彩に変化を与え、アクセントになっています。外光派とも後期印象派ともつかず、自然に直面しながら彼なりの素直な写生画です。とくに筆の流れがマチエールとなって、生命力を感じさせる。また、その絵の具の色の塗りを生かすために風景の形態が円くデフォルメされている。
「道頓堀の夕陽」は同じ年の制作。赤い夕陽の空が明るく川面に映えるほんのひとときの風景で、橋上には白い浴衣の子供や夕涼みの人々が佇み、川向うには中座がみえ
る芝居茶屋の灯がともっています。光の使い方は印象派風のところがあり、色彩も筆触も柔らかく、絵の具も薄く塗られている。これらの風景画は、東京美術学校の卒業制作の暗闇の中からスポットライトが当てられて人物が浮かび上がるという明暗の対比から、明るく柔らかい画面に作風が変わっていきました。
第2章 大阪での創作と欧州への旅 1917〜1925
小出は東京美術学校を卒業し、故郷の大阪に帰りますが、文展に落選を続けます。1919年の二科展で賞をうけ、画家として認められ、短期間でありますが欧州に出かけます。いわば、画家として認められ、独り立ちしていく時期です。
「N夫人像」は1918年の作品です。それまで描いていた風景画に比べると作風が少し異なるように見えます。例えば夫人の着ている着物も、肩掛け、背後の布も、また、椅子や書物にしても、すべて厚みのあるどっしりとしたもので、色彩も強く、十分な厚みをもってつけられ、風景画にはない重厚さがあることです。人物画といっても人物より、その周囲を飾り立て、画面全体をさまざまな色彩で溢れさせるという方向性は学生時代の「自画像」や「銀扇」にも見られましたが潜在的で、この作品では前面に表われてきたと思います。人物と周囲のものとは、ほとんど同じくらいの重点を置いて描かれています。背後の布は左3分の1が濃い青、右3分の2が赤みを帯びた朱色でそこに夫人の頭髪の黒があります。また肩掛は所々、赤紫を帯びた黒、着物は緑の地に赤みのある黄色の模様、肘掛の厚い布地は今まで述べてきた色が混ざり合った暗色です。寒色のなかには暖色、暖色の中には寒色の模様というように、寒色と暖色の配置、組み合わせによって独自の色彩効果をあげようとしている。全体に重量感があって、これだけ色彩に溢れているのに落ち着きがあります。洋風の室内空間に日本人がいてもギャップが感じられない。ここに日本人の油絵での人物表現の新しい形が見えてきている。
前年の「婦人像」では「N婦人像」の意識的な画面構成はされていなくて、写生に近く、より地味な印象です。
「Nの家族」(左側)は1919年の作品で二科展の入選となり、これで画家として広く認められたということです。同じ年に「芸術家の家族」(右側)という作品も制作していますが、おそらく「Nの家族」に先行して試行的に制作したのではないかと思います。ほとんど同じ構成の作品ですが、両者を見比べると「Nの家族」の方が、人物の描かれたかたちがハマッたようだし、静物や背後の配置も構成的で、画面の緊密の度が高くなっている。この作品あたりから、対象を写実的に描くということから演劇の場面のように画面を構成するという方向に変わってきて、小出の個性が形をとり始めたといえると思います。そのために描写も写実的なものからデフォルメを施すことが必然的なものとなっていく。例えば、「Nの家族」では手前の卓上に北方ルネサンスの画家ホルバインの画集が描かれていますが、人物の配置や描き方、あるいは重厚な色遣いは、そのホ
ルバインを取り入れているし、卓上左の果物の描き方はセザンヌを想わせる。北方ルネサンスと近代の新しい絵画が違和感なく同居している。そのためにか、例えば手前の卓上の物と人物とのバランスが合っていないで、卓上の白いテーブルクロスがゴワゴワというか布の柔らかささがなく、人物の存在感を食おうとしている。のように、画面の各部分をあえてチグハグにしている。そこに、小出の計算が働いていると思います。これだけチグハグにして画面が成立させているのは、裏で緻密な計算がされていなければならないと思います。そこで感じられるわざとらしさ。それは、まるで演劇の舞台といっているようです。それには、画面の演劇的構成のために必要なツールとして採られている。
「少女お梅の像」も翌年の二科展で入選し、会友に推挙されることになり、小出の画家としての地歩が固まったということです。この作品あたりから、絵の具を塗るということから置いてマチエールとして盛り上げ、すこし点描的なやり方に変わっていきます。そして、「Nの家族」に比べると、色遣いが重厚ではあるものの次第に明るくなっていく。そして、写実から演劇的という方向をさらに進めていきます。例えば、手がバランスを欠くほどに大きく、顔は子どもではなく大人で深刻な感じがします。それは、人物の姿勢の緊張感が画面全体に漲っていることについて効果的です。どこか、岸田劉生の「麗子像」の写実を通り越して、化け物のように見えてくるのに似ているようにも思えます。
「裸女立像」は1921年の制作で、小出が初めて制作した、渡欧以前では唯一の裸婦像。手先・足先を含む全身を正面から描くのは後年の作品にはなさそう。“1914年3月に東京美術学校西洋画科を卒業して以来、7年もの間油彩の裸婦を発表しなかったのは、制作環境が大きく影響したためであろう。楢重が待望のアトリエを手に入れるのは1919年2月のこと、それ以前は間借り状態で、裸婦モデルを使った制作は難しかったと想像できる。”(図録P.211)つまり、小出は裸婦を描きたくても描くことができる環境にいなかったということになるでしょうか。絵画としては、前年の「少女お梅の像」の延長線上にあると言っていいでしょうか。青い壁の室内に、配置こそ違いますが箪笥や赤い布、白い花瓶などがあり、中央に1人の人物がやや左を向いて描かれているところが共通しています。背景(室内)の描写は緻密かつ重厚で、これもそうです。また、粘り気のある絵具を細かく塗り重ねてく濃密な描き方は「お梅の像」よりさらに進んでいて、その濃厚さはヴァン・ゴッホを想わせるところがあります。
「静物」は1919年の制作。「Nの家族」の左手前の卓上の皿に盛った果物が、さらに極端に描かれているような作品です。極端なほどの遠近法でテーブルが描かれているように見えますが、その実奥行のパースペクティブがとられていないで、平面で、しかも手前のテーブル上の果物と奥のテーブルの生花との大きさのバランスがおかしい。背景は壁なのか、たんに色が塗ってあるだけなのか判然としません。果物の価値の歪みはどこかセザンヌを想わせます。
「秋の風景」は1920年の作品。前に見た「山の初夏」と比べると、はたして同じ人が描いたのか分からないほど違います。「山の初夏」では流れるような筆遣いだったのが、この作品では、粘り気のある絵具を細かく塗り重ねて、マチエールのように積み上げ、盛り上がるようにしています。ゴッホやセザンヌのようです。それが、「山の初夏」にはない重量感、そこからの存在感が感じられます。これらの作品で、小出は、自身の作風を確立したように見えます。そして、このあと渡欧します。
5か月という限られた期間とはいえ、現在とは違い、ヨーロッパに行くのは船旅であり、費用は多額になるでしょう。それを給費留学でもなく、自費で、画壇に認知されたとしても駆け出しの画家に賄えるものではなく、小出が裕福な商家の出身であるからこそ可能だったのではないか。そういう点で、この人は深刻な生活の悩みというのはなかったのではないか。そこに、小出の底辺には楽天的にものが流れていたように思えます。それは、作品のも底流していて、貧乏くささがない。渡欧のあと、作品中の室内の背景を西洋的にしてしまうのですが、そんなことができてしまうのも、そもそもそんな発想がでてくるのも、そういうことがあるのではないかと思います。たしかに、肩身は狭かったのかもしれませんが。
「喇叭のある静物」は1924年、欧州から帰ってきた後の作品です。一見しただけで、以前の静物画とは違います。例えば黒いテーブルの表面の艶。テーブル上に置かれた白い壺の姿が鏡のように反射して映っています。以前の、絵の具を厚く積み上げるのではなく、薄く溶いて塗り重ねるような描き方で、透明感が出ています。全体として、以前のゴテゴテしたものから洗練された印象に変わりました。フォルムは、以前とは変わらないのに、全体の印象は別物です。
「貝殻草」は1923年の作品。ヤン・ブリューゲルをおもわせるような花の絵です。そんなにデフォルメされているようには見えず、装飾的なものへの好みを、小出は持っていると思います。裸婦の背景の装飾的な模様だったり、と同じように、生花も装飾的なものとして細かく丁寧に描かれている。
「ラッパを持てる少年」(右側)は1924年の作品。展覧会チラシにも使われていた作品で、欧州帰りの代表作ということでしょうか。ラッパは「喇叭のある静物」で描かれていたものと同じでしょう。ラッパはこれらの作品以外にも、「帽子をかぶった自画像」など、いくつかの作品の中で描かれているので、小出のお気に入りのアイテムだったのでしょう。画面は、中央に赤い服を着た少年が配されており、赤、黒、肌色のコントラストが非常に印象的です。当時の日本の油絵において、これほど鮮明な色彩と明確な輪郭線で子供の純粋さを表現した作品は目を引くものだったといいます。しかも、少年の着ている赤い上下の服には縦縞がつけられており、少年の頭髪はまっすぐ縦の毛並が黒髪のなかに縦に赤や白が引かれ、背景の青い壁は縦に筆がスクロールされていて、画面が全体に縦の線が流れている。それに対して画面下方の床のところは渦巻き模様がほどこされ、縦の線を受け留めるようになっていて、単純な構成ながら、画面に流動性を生んでいます。それが、少年が少し硬直したような表情を際立たせている。

「帽子をかぶった自画像」(左側)は1925年の作品で、「ラッパを持てる少年」と並んで展示されていました。両作品をセットとして見るのがいいかもしれません。渡欧前の人物画は、ゴテゴテした印象があって、画面にたくさんのものを詰め込むようなところがありましたが、「ラッパを持てる少年」やこの作品は、画面が整理されてすっきりとしたものに変わりました。また、「ラッパを持てる少年」が画面に動きがある作品だったのに対して、こちらは静的で、モノクロームっぽい色調で、落ち着いた、より洗練された印象を受けます。それまでの黒っぽい重い色彩から離れ、明るく透明感のある色調が特徴です。また、帽子や服の質感が巧みに表現されており、質感描写への執着が伺えます。この作品では、画家制作中のカンヴァスの前に立ち、鏡に映る自身の姿をじっと見つめる姿は、「ラス・メニーナス」の片隅に描かれているベラスケスの姿を彷彿とさせるところがあります。おそらく、ベラスケスと同じように画家としての自負が表われていると思います。“もし時代の如何なる影響があるにもかかわらず、油絵というものに一生をゆだねる覚悟をもつ以上は、先ず画家として勉強の最も初めにおいて西洋の伝統と古格とその起る処の生活に触れなければいけないと思う。そして絵画の組織を極め基礎を固めなければならぬ。”という小出の言葉がキャプションされていましたが、この言葉の通り欧州からの帰国後、生活スタイルを洋式に改めたといいます。それで、この作品でも室内の様子が洋式に統一されていて、それが洗練された印象を強めていると思います。
1925年の油絵の「裸婦」(アーティゾン美術館)です。この展覧会では裸婦の作品が多く展示されています。小出は裸婦を沢山描いているようです。“私は絵の基礎工事となり、肥料ともなるべき充分の科学的な素描の仕事をする事を勧めるのである。即ち絵画芸術の奥儀にまで飛ぶ事をしばらく断念して、出来得るかぎりの正確さにおいて、石膏あるいは人体の実在をよく写実する事である。そして自然の構造とあらゆる条件を認識すべきものである。”という小出の言葉がキャプションされていましたが、小出は西洋美術を描く上で裸婦は重要だから、描くべきと考えて、裸婦に挑戦したということになりそうです。たしかに、小出という人はクソがつくほど真面目で、その真面目ゆえに滑稽に映る。そういうところがあって、それが自画像のデフォルメされた形に表われているように見える。そこで、真面目に裸婦に挑んだ、というというわけです。たしかに、この作品もそうですが、描かれた裸婦にエロチシズムを感じられません。女性の人体の肉付きと、それをいかに特徴的に描くかということばかり考えて描かれているように見えます。この場合、描かれている裸婦は、思い入れとか情緒的なものはなく、石膏像と変わらぬ単に観察の対象という感じです。顔を描くのが等閑にされているのは、個人としての人格ではなく、肉体の標本のように捉えているからかもしれないと思ってしまいます。そして描かれている裸婦は、「帽子をかぶった自画像」のようなスマートな人物描写とは異なる肉体の凸凹を強調し、それを筆触と色彩で大胆に描くという、マティスとかピカソのような近代絵画っぽい作品になっています。
同じ1925年の「裸女立像」(三重県立美術館)。小出楢重は、美術雑誌『みづゑ』四月号に「裸婦漫談」という一文を載せているのですが、そこで、日本人である画家が、油彩によって日本人のモデルを用いて裸婦を描く場合、躊躇せざるを得ない二つの点を指摘しています。一つは、西洋の美の規範で理想化しかねる形体と色彩の処理。あと一つは裸婦を置く背景の問題です。日本女性の体は確かに西洋人とは異なった比例を有するが、小出楢重はそれは充分美しいと主張します。しかし水浴図などのなどの伝統をもたず、浮世絵の中の遊郭や浴場に裸婦を見てきた日本人の目に、いかにして新しい裸婦を馴染ませるのかに画家は苦心するといいます。この作品では、日本髪の女を洋室の小部屋に据えることで、一つの均衡を保とうと試みています。構図の中心に背面で立つ裸婦の重心は、うなじから背中を通り脚に抜けるS字曲線と、左右の小道具、左の脇机とその上の香水瓶、右の後向きの椅子によって安定していると言えます。女性の背中のS字曲線と左手のテーブルのS字脚、右手の椅子の背もたれから脚にかけての曲線が、画面にリズムをつくりだし、グレーや濃い茶色の暗い背景に対して裸婦の白い肌がコントラストで映えています。
また、同じ年の「裸女」(兵庫県立美術館)。小出は日本では現実味に乏しい裸婦というテーマに必然性を与えるために、西洋や中国のおしゃれな家具や小物をアトリエに設え、裸婦が生活している自然な空間」を作り、そこに横たわる姿をモダンに表現しました。この翌年、楢重は当時流行していた洋風建築に転居しますが、この作品はそれ以前にアトリエとして使っていた和室に外国製の敷物を敷いて描いたものだということです。画面を見ると、裸婦は顔を背け、腰を大きくひねった姿で横たわっていますが、身体を大胆にデフォルメして画面に構成しつつ、豊満な肉のあたたかみやヴォリュームを際立たせるというこの手法は、マティスの裸婦像に影響を受けたものと思われます。楢重独特のねっとりとしてつやのあるマチエールにより、日本女性の肌の色や質感がよく表現されています。それが小出の日本の裸婦の試みとしてある、というわけです。
第3章 多彩な活動 ガラス絵、日本画、挿絵、装幀、随筆 1917〜1925
ここの展示作品数が一番多かったのですが、とくに述べることはありません。
第4章 芦屋での円熟期 1926〜1931
1926年、小出は芦屋の洋館にアトリエを構え、そこで洋風の生活スタイルをしながら制作をしました。それが彼の晩年の充実した豊饒の時代となった。
1928年の「卓上静物」(京都国立博物館)。小出は、裸婦とならんで静物画も数多く制作しました。ここでの裸婦ほどではありませんが多数の作品が展示されています。“静物は裸婦と並んで楢重が好んで手がけたテーマで、残された油彩画の数は、実は裸婦像よりも多い。健康体ではない画家がアトリエで自由にアレンジできる題材であったことも、多作の理由の一つであろう。なかでも独創的なのが、黒光りする台の上に野菜や果物を所狭しと並べた蔬菜静物のシリーズである。代表作の「卓上静物」(本作品)では、丸皿に置かれた二尾の魚を、玉ねぎ、にんじん、かぼちゃ、きゅうりなどのなじみのある野菜がひしめきあう。…楢重は「静物にあっては、例えば卓上菜果の図を作るに、それらの題材は自由に画家の希望通りに並べかえ取りかえることが出来る。その代わり、なまじっか、自由が利くところにかえって構図上のむずかしさが起こってくる」とし、細工をしすぎて不自然にならないよう注意を払った。「卓上静物」も、暗い背景に映える鮮やかな色彩によって蔬菜そのものの魅力が引き立つとともに、雑然と見えつつも一定の秩序をもって構図がまとられており、楢重の卓越した手腕が発揮されている。”(図録P.168)と説明されていました。この説明からは、計算された画面構成ということですが、私にはクネクネとした筆の流れが黒いテーブルをキャンバスのようにして線が流れている。抽象画的なものを感じます。
同じ1928年の「帽子を冠れる自画像」。小出の自画像は、東京美術学校の卒業制作を別にしてパターン化されていると思います。細長い顔立ちの強調、斜め横を向いた顔の角度、こちらを見据えるまなざし、丸い帽子などが、「Nの家族」から共通しています。そして、「帽子をかぶった自画像」からは、このパターンに口もとの3本線が加わりました。この「帽子を冠れる自画像」が最後の自画像になるということです。この作品は、白いカーテンや窓から屋外の風景が見えているのが、他の自画像にはない特徴といえます。
同じ年の「周秋蘭立像」。チャイナドレスの女性の立像ですが、モダンでスマートに見えます。1925年の「帽子をかぶった自画像」と同じようなテイストでこの女性を描いたという作品になっています。同じ年の自画像は、これらとは違って、明るさとスマートさがあまりなくて、何か暗い感じがします。翳があるというか。作品を並べて見ていると、それが分かります。
この円熟期に裸婦像が多数描かれ、何点もの裸婦像が展示されていましたが、『ハイライト 楢重の裸婦像』としてコーナーを分けて、代表的な裸婦像がまとめて展示されていましたので、併せて見ていきたいと思います。
先ずは1927年の「裸婦」です。“人間にとって他の何物よりも強き美しさを示すものは人間の裸身であろう。従って永く描きつづけて興味の続くものも裸身である。それから、人間がよく了解するが故になおさら他の万物よりもごま化しの利きにくい処のものであり、その色彩の複雑にして微妙である処、一ヶ所として一様な平面や線を持たない処、あらゆるデリケートな凸凹において、線において、その立体において、そのかたさ、滑かさ、その軟かさ、その構成の整頓せる事において、さようなあらゆる点において、一般裸身を描く事がわれわれ画家にとっては最もよき終生のモチーフであり、画家の喜びであり、またその困難さにおいては初学者にとって最も興味ある手本
としてこれらが多く描かれ用いられる訳であろうと考えられる。”という小出自身の言葉にあるように、彼は裸婦の肉体をモチーフとして描くことを重視していた。例えば、基礎的な修業では裸体デッサンは必須で、西洋絵画の伝統において裸婦は重要なのだから、真面目な小出は追究していってしまった、という感じがします。
『ハイライト 楢重の裸婦像』のコーナーは、以下のような裸婦の作品ばかりが並んた一画で、閉館時間が近づいて人影がなくなり、コーナーに私と女性の係員と二人だけとなると、何か気詰まりな雰囲気でした。私の気の持ち方でしょうか。とにかく見ていきましょう。
「裸女結髪」(左側)は1927年の作品。女性の後ろ姿をとらえた裸婦像で、上半身と下半身、そして両腕が生み出す空間という四つの三角形、そして後頭部は円形、中央に髪の束が垂直な直線を組み合わせた幾何学的な構図が用いられています。マティスの「髪結い」(右側)の構図によ
く似ていますが、胴体の長さや腰から太ももにかけてのラインは西洋人的でなく、日本人的です。ほっそりと華奢な身体、真っすぐと伸びた後ろ髪、そして肌の微妙な色合い。描かれた女性は顔が描かれていません。小出は日本人女性の肌について、“黄色に淡い紅色、淡い緑が混ざった肌の色合いに西洋の裸体にはない温かみと肉感を感じる”と述べているそうですが、彼は試行錯誤を繰り返し、絵具を塗り重ね、ついに艶を帯びた日本人特有の肌をつくり上げたと言えます。まっすぐに伸びた背中の形や縮尺も、実際の女性の体からはかけ離れているほどデフォルメされている。これは、例えばルノワールのようにふくよかで柔らかく、女性らしさ全開という雰囲気とは正反対で、日本的な裸体表現として工夫されている。その背中を真っ黒な髪の毛が縦断している。その黒は濃厚で、むしろ、髪の毛自体の存在感の強さが魅力的です。