小林徳三郎 詩のような日常、宇宙
 

 

2025年12月25日(木) 東京ステーションギャラリー

今年、勤めをリタイアしてから、いくつの展覧会を見てきただろうか。とくに、時間ができたことで、東京以外の地域の美術館を訪れることができた。そこで、気がついたのは、これらの美術館は総じて、都心の美術館に比べて、静かで落ち着いているということ。それで、あらためて上野などの都心の美術館の混雑ぶりを再認識させられた。そのことに気がついてしまうと、そういう混雑を疎ましく感じるようになった。その結果、都心の美術館を避けるような気持が強くなった。そんな中で、都心の東京ステーションギャラリーに行こうとして、いかに混雑を避けるかを考えた。年末の押し詰った時期は忙しい人が多いので、美術館を訪れる暇はないだろう。さらに、今日は天気が悪いので、仕事がない人は外出が億劫になるだろう。そんな読みで、実際に訪れると、思った通りに入館者は少なく、静かな時を過ごすことができた。

小林徳三郎という画家のことは知らないので、その紹介を兼ねて主催者のあいさつを引用します。

“小林徳三郎(1884〜1949)は、日本近代洋画の改革期に活躍した画家です。1909年に東京美術学校を卒業、若者による先駆的な絵画表現で注目を浴びたフュウザン会に参加し、雑誌『奇蹟』の準同人となり、出版の仕事や劇団「芸術座」の舞台装飾に携わりました。また、洋画家として院展や円鳥会展に出品、1923年からは春陽展を中心に発表を続け、鰯や鯵といった魚を主題とした作品を数多く描き、周囲に強い印象を与えました。

40代半ば頃より、自分の子供たちをモデルに何げない日常を表現した作品が増え、時にはマティスを連想させる明るい色や筆遣いの静物なども描いていくようになります。晩年は、江の浦(沼津市)をはじめ自然風景に興味をもち、海景や渓流など同じ主題に取り組み、死の直前まで精力的に筆を握り、春陽展への出品を続けました。徳三郎の死後、美術界での扱いの低さに対して、画家の硲伊之助は「もっと評価されるべき画家」と憤慨したと逸話が残っています。

本展は、小林徳三郎の初の大回顧展であり、約300点の作品と資料により、その画業の展開を追うものです。写真家、洋画家、文学者、演劇関係者、美術評論家ら大勢から愛された画家による、どこか心惹かれる日常的な光景をお楽しみください。”

徳三郎の死後、美術界での扱いの低さに対して、画家の硲伊之助は「もっと評価されるべき画家」と憤慨したと逸話が残っているということです。いわば、埋もれていた画家ということで、はじめての本格的な回顧展ということです。そういえば、端的には、あまり“華”が見られない、パッと見では凡庸な作品だから、埋もれてしまうのは、分かる気がします。正直に言うと、他の画家の作品とならんで展示されていれば、その作品の前を素通りして、記憶に残らないと思います。良くも悪くも、そういう作品だと思います。ただし、それは小林の作品については貶すことにはならないと思います。展示作品数は300点と多く、展示リストは8ページもあるのでびっくりです。しかし、実際の展示では、そんなに多いという印象は受けませんでした。会場で過ごす時間についても、気がついたら2時間近く経っていました。時間が経つのを忘れるほど熱中したという認識はなく、気がついたら時間が経っていたという不思議な感じでした。そのあたりを、個々の作品を見ながら、考えていきたいと思います。

 

第1章 洋画家を目指して

@初期の作

小林徳三郎が東京美術学校で学ぶ、いわば習作期の作品です。

「自画像」は1909年、小林25歳時の作品で、東京美術学校の卒業制作ということです。“徳三郎の作品といえば、上手いというよりどこか抜けた、稚拙味・蕪雑さが特徴だというイメージがある。”(図録P.10)ということで、たしかに後年の作品を見ると、“下手うま”とでも言いたくなる風情が感じられるのですが、この作品を見ると、東京美術学校というエリート校で、ちゃんと学んだ人なのだということが分かります。稚拙なんて言えなません。また、後年の稚拙な味わいと評されたような作品は、作風が変わったのかとうとそうでもない。むしろ、この作品から、この人は作風を変えることなく、終生一貫していたという方が適切だと思います。例えば、最初の展覧会チラシで使われている作品の子供の顔と、この作品の顔は、よく似ています。親子だから顔は似ているのは当たり前かもしれませんが、描かれた顔が似ているのは、基本的な描く視点が変わっていないからだと言えます。それと、小林は東京美術学校で黒田清輝らの外光派の大家たちの薫陶を受けたということで、この作品も外光派っぽい、印象派ばりの筆触分割で明るく軽快な画面になっているのですが、黒田清輝のような明るい華のようなところがなくて、どちらかというと地味で落ち着いた印象です。

小林の妻となる政子をモデルに描いた水彩画(左側)で、1911年の作品です。こちらの方が筆触分割が顕著に分かります。形態がしっかり捉えられながらも、即興的な筆の動きが、モネを想わせるところがあります。この作品と比べると、黒田清輝のかたちには几帳面なところは古臭くなっていたのかもしれません。

これらの翌年、1912年に描かれた「政子像」(右側)ですが、彼女の写真と見比べると、たしかに似ています。あまり美化したりせずに、そのままを描いている。しかし、写真のように写実的にリアルに描くというのとは違う。展示では“ほんとに色や形のことを考へて貰いたいと思って居ます。日本人の油絵が中々努力されて、中々うまい処まで漕ぎつけるられて来た事は確かに見えます。それだのに何かしらの一点で西洋人のとは大へん違ふやうです。それは人格的に真実を欠いている事だと思ひます。”という小林が雑誌の記事に書いた文章が添えられていました。それについて、“彼にとって大切なことは、人格的に真実のある油彩画を描くこと、ものの本質をどう表現するかというところにあり、そのために色や形を考慮すべきだと考えていた。”(図録P.17)と説明されていました。しかし、それはリアルな写実とか違うというのは分かりますが、具体的にどのように描けば人格的な真実があるのか何も説明されていません。この作品を見るかぎり、形態を精緻に描写する人ではないようです。筆触分割による微妙な色合と軽み、その一方で形の輪郭がぼやけてしまう。それによって、例えば岸田劉生の作品に見られる鈍重さが避けられ、親近感といえるものが感じられる。それは、藝術などという高尚であると、敬して距離を置いてしまいがちな庶民(中間層)の人々にも、近寄り易い感じがします。とはいうものの通俗に堕してしまわないという一線を残している。そのために、人格的な真実ということを言っている。つまり、彼の言葉は自分の作品に人格的真実があるということを言っていることでしかない…。

同じ頃の「風景」という作品は、筆触分割によって描かれていて、モネ、あるいはピサロの点描を想わせるところがありますが、画面全体の印象は、日本的で素朴、あるいは田舎っぽい味わいという印象です。それが、小林の作品のウリというのは、この後も変わりません。

Aフュウザン会とその周辺

“フュウザン会は、文展や白馬会の保守的な外光派の表現に反発し、「個性」を表出する芸術を強く求めた若い画家たちが集まり、1912年に結成された。”(図録P.241)と説明されていました。ここでの小林の作品を見ると、“上手いというよりどこか抜けた、稚拙味・蕪雑さが特徴だというイメージ”にピッタリとあてはまると思います。

この時期、小林は「軽業」という題名の作品やスケッチをいくつも制作していますが、これもそのうちの一つです。「軽業習作」とのことですが、いわばスケッチのようなもので、見世物小屋で軽業師とそれを見ている観客を描いています。走り書きのような作品で、軽業師の肉体の動きを瞬時に捉えたなど説明されているかもしれませんが、写実とはほど遠い、軽業をしているのか分かればいいという程度にサッサと描かれた、ちょっと現在のギャグマンガの一コマのような、よくいえばデフォルメにも見えます。フュウザン会ではドガの影響とか言われているようですが、そんな動感があるようには見えません。形態を写実的に描けない言い訳にしか思えない。それに色が汚い感じ。これは、この後の「観客席」の方がより当てはまると思いますが、ロートレックのムーランルージュのポスターを想わせるところがあります。

「観客席」という水彩画の作品。見世物小屋で双眼鏡を手にしてはしゃぐ女性たちの姿。「軽業」もそうでしたが、デッサンは大雑把で、それらしく外形を把握している程度で、小林は形を精確に追求する人ではないことが分かります。本人も、そのことは自覚していたのかもしれません。大雑把に描いた人物などは、結果的にデフォルメされたようなものになり、ユーモラスな味わいが生まれている。それは意図したものというよりは、そうなってしまったという方が合っているのかもしれない。おそらく、小林は、そのことに気がついて、この後、こういう描き方を活かす方向に向かっていくことになると思います。展覧会では、後期印象派などの影響と説明されていますが、このような人物は、江戸末期の浮世絵、例えば安藤広重の東海道五十三次のなかのユーモラスな人物描写の味わいに近いような気がします。

 

第2章 大正の大衆文化のなかで

@雑誌『奇蹟』とその周辺

フュウザン会は1年足らずで解散してしまい、小林は文芸雑誌『奇蹟』の準同人となって、寄稿するだけでなく出版物の装丁やデザインに関わったといいます。学校を卒業しても、画家では食べていけず、今でいえばデザイナーのような仕事で食いつないでいた。そのことが、小林にハイカルチャーしての芸術から大衆文化へ道をつくった、ということでしょうか。もっとも、小林自身にも、前のコーナーで見た「軽業」や「観客席」のような作品から、そういう傾向はあったわけです。

小林が装幀やデザインした雑誌や本が展示されていましたが、正直に言ってあか抜けていない印象です。イモ臭い。そんな小林が、どうしてデザインを担当できたのか不思議です。文芸雑誌の関係者にはデザインが分かる人がいなかったのか、あるいは東京美術学校の出身者といえは芸術家ですから、そんな人が装幀デザインをするなどということはなかったのか。いずれにせよ、小林は、そういう点では目端が利いていた。おそらく、小林の画家としての最大の美点は、技巧がどう色彩がどうというよりは、このような目端の利くところにあったのではないかと思います。

A芸術座や舞台関連

芸術座は松井須磨子の「カチューシャの歌」で有名な『復活』などを上演した、日本の演劇史の残る劇団でしょう。そんなところで経験もない小林が舞台背景やパンフレット、衣装デザインを担当していたといいます。背景の下絵なども展示されていました。明確ということからはほど遠い。下絵ですから大雑把なのは仕方ないのですが、正確さよりもあえて単純化、陳腐化させているように見えます。それは、後年の小林の作品につながっていると思えば、思える。

B各種図案と『文章世界』

C婦人のための世界

D子供向け印刷物の仕事

小林は『文章世界』『婦人評論』『婦人画報』などといった雑誌の表紙や子供向け印刷物のデザインなどを担当していた。当時の女子供というのは一段低い文化と見なされていたと思います。そこで小林はウケるようなデザインを追求することになった。それは、女子供でも親しみ易いデフォルメを試行錯誤する足跡を追うことができます。その経験は、後の作品に活かされるということになるでしょう。

 

第3章 画壇での活躍

ここで、フロアが変わります。裏口のような階段を下りて、下のフロアに移ります。

@野島邸での個展と日本画への接近

大正時代の半ば、院展で「鰯」が入選したのをキッカケにはじめての個展を開くことができ、ようやく画家として認知されるようになった。

「風景」は1920年頃の作品。筆触分割しているようなので、印象派的なのでしょうが、地味で鈍い色が基調になっているので、全体として暗い印象です。日本の風景に適しているというべきか、よく言えば、落ち着いている印象。とはいえ地味です。私には惹かれるところがありません。

A春陽会での活躍と画風の展開

萬鐡五郎に招かれて春陽会の会員となった小林は、「鰯の徳さん」と呼ばれるほど鰯の絵を多数制作する。そこから身近な生活の風景を題材にするようになったといいます。

「鰯」の作品は何点か展示されていましたが、これはそのなかの一点で1925年の作品。鰯の形は正確とはいえず(笊に入れられた鰯は、この角度から見たら、こんな見え方をするはずがなく、あきらかに笊を描く視点の位置と鰯を描く視点の位置が異なっています。)、かなりヘタウマ風にデフォルメされているのに、なぜか鰯に見えてしまう。青み魚の青々として感じや、油っぽいギトギトした感じがなんとなく伝わってくる。その一方で、どこか固い感じで、干物でない鰯の柔らかさはない。右側の折れ曲がった感じは鯵や鯖にはない、紛れもなく鰯です。全体の色調が鈍いというか地味で、これは、当時の日本の木造家屋の木や漆喰の壁に調和するような色が考慮されているのではないか、と思います。絵画のサイズも小さいもので、その点も同じような考慮ではないかと思います。つまり、当時の日本では富裕な邸宅でもないかぎり室内に絵画を飾るということがなかったのに対して、都市部で中産階級が勃興しつつあり、そういう人々の家で飾る絵という新しいマーケットに適した絵を、小林は題材や描き方を総合的に考えていた。その試みだったのではないか。その土台には雑誌や図案のデザインの経験があった。ここでの展示から、そんな気がします。

ここから展示は子どもを題材にした作品が並びます。1927年のスケッチを見ると、写実的に素描されていて、意外に思います。このことは伊達に東京美術学校を卒業していない。

同じ1928年制作で、構図も同じの「裸体(裸の子)」(右側)と「裸児」(左側)です。「裸体(裸の子)」はスケッチを基にしていますが、真っ黒で太い輪郭線で子供が描かれています。顔は目鼻が太い線で一筆書のように描かれていて、ちょっと日本画的です。塗はサッと即興的に筆が走ったような塗り方で色がつけられています。印象派の筆触を残すやり方が、筆触分割ではなく、日本画の筆の勢いで味わいを出すような方向に変わっている。もうひとつの「裸児」では、「裸体(裸の子)」がパターン化した感じになって太い輪郭線は少し引っ込み気味になった一方で、その形は滑らかになり、より見やすくするためにデフォルメがより加えられています。また、筆触による味わいが前面に出てきている。油絵というよりにじみのない水彩画という感じ。

1928年の「金魚を見る子供」(右側)は展覧会チラシにも使われた作品。これまでに見てきた子供の形態の単純化、そして画面の平面化は、まるで前に見た子供向け印刷物でのマンガ化のプロセスを経たようなパターン化が見られます。「裸体」や「裸児」のような太い輪郭線は見られなくなっていますが、形のパターン化は進んでいます。それでも、不思議なことは、子供の顔には個性が感じられます。つまり、子供一般とか、かわいい子どもといった普遍的あるいは抽象的な顔ではなく、具体的な誰かという風情がある。そこが、マンガやイラストとは一線を画す。それゆえ、家で飾る絵画としての価値(芸術とみなされるような価値の体裁)を保っている。これは、自身の作風を自覚して、意識的に描いている。自作のパロディといってもいい。

1年後の同じ題名の「金魚を見る子供」(左側)には、写実的なところが戻ってきています。その分、滑らかさが後退しています。意識的に描く緊張に耐えられなくなって、少し自由に描こうとしたようにも見えます。この作品では、1年前では描かれなかった目の瞳が描かれています。これは写実性の現われであるように思います。多くの作品で、小林の描く子供には瞳か描き込まれていません。多分、瞳は単純化、パターン化にはそぐわないと考えたのでしょう。瞳はそれ自体に表情とか生命感が出てしまう。それを避けようとした。単純化したパターンの中で浮いてしまうからです。1931年の「花と少年」も瞳を描いています。この作品を見ていると、小林の描く瞳は単純化されてはいるが、何となく画面から浮いている。卓上の黄色いレモン、薄紫の花、深い群青の壺、テーブルクロスの緑とオレンジなどの明るい色彩の配置が折角しつらえてあるのに、この瞳によって見る者は視線をそこから逸らされてしまいます。小林の描く瞳は、何かを語るということがない。そんなことから、チグハグな印象を受けました。

「鏡」は1931年の作品。「花と少年」と同じように瞳が描かれていますが、こちらは鏡に写った顔です。もちろん、この女性は鏡に写った自分の顔を見ているので、視線はこちらに向けられてはいない。「花と少年」もそうですが、瞳を描いても、その瞳はこちら、つまり作者を見ていない。そこに作者は対象と距離を置いている。日常の風景を描いているようで、作者は日常の方にいない。むしろ突き放している。

 

第4章 彼の日常、彼の日本

1933年、肺結核により千葉で療養生活を送ります。それをきっかけに作風が変化していきます。いわゆる晩年の作風です。

@療養を経て、洋画家が描く日本的世界

小林の作風が変わったというのは、全体として、アングルが引きのロングショット気味になったのと、色遣いが明るめになったという印象です。以前の作品にくらべて軽い気がします。そのため、印象が薄くなります。

「読書」は1936年の作品。単純化とデフォルメがいっそう進んでいて、しかも、明るい色が印象的ですが、その色の平面が印象的に配置されていて、その配置のために形があるような、塗り絵のような作品です。単純化は色面の構成のためにあるような印象です。

「江の浦」(左側)は1940年の作品。風景画ですが、グリーンが印象的で、画面きそのグリーン色のバリエーションとその配置構成が考えられていて、風景は、そのための題材のように見えます。奥行や空間の広がりなく平面的なのは、そのせいでしょうか。

A強羅に疎開の頃

小林は、戦争による空襲を逃れて箱根の強羅に疎開します。そんなときに描くことはできたのでしょうか。

「渓流」(右側)という作品は何点も展示されていました。これは、その中の一点。サラッと描いたような印象です。水彩画みたい。画家自身の体力や気力も衰えていたのでしょうか。

B終焉の地、豊島

1949年に亡くなるまで絵筆を握っていたということですが、そのころの作品は印象に残っていません。

 
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